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2010年3月16日

「わかる」ということ

 私たちは、何かを理解する意味で「わかる」と言う。例えば、「あなたの言うことはわかる」とか「彼らのくやしさがわかる」というように、他人の気持を理解したり、他人の感情を自分の感情のように感じるとき、この「わかる」という言葉を使う。しかし、それだけではない。人間の言うことや感情と関係がないものを「わかる」こともある。例えば、何かの商品に対して「その値段ならわかる」と言う。また、新しく提案された制度に対して、「その仕組みはわかる」と言う。人間と離れたことでも、「その花が美しいとわかる」と言ったり、「車の速度が速いとわかる」というような場合もある。

 こういうことを考慮して、『大辞林』(三省堂)は「わかる」という言葉に次の3つの意味を与えている:①物事の意味・価値などが理解できる。②はっきりしなかった物事が明らかになる。知れる。③世情に通じ、融通のきく考え方をする。このうち、私の今の関心は①と②にある。なぜなら、③は①と②を前提とするからだ。

 ①の定義による「わかる」は、表面的にはまさに“わかりやすい”が、詳しく検討してみると、それほど十分な定義とは言えない。なぜなら、私たちが物事の意味や価値を理解する場合には、「程度」の差があるからだ。例えば、「ほとんどわからない」段階と「少しわかる」段階があるだろうが、その境界線はどう判断するのか? 「わからない」状態から「わかる」状態に移行するのはどの段階なのか? また、「わかっている」つもりの理解が不十分なことはあり得るし、「十分わかった」という人が誤解していて「わかっていない」こともある。そういう場合、「わかる」と「わからない」の違いを判別する基準は、そう思う本人の主観なのか、それとも本人とは別にどこかにいる“客観的判定者”なのか--こういう諸々の問題が出てくる。

 そういう点も含めて、私は生長の家講習会で「そこに花があるとわかる」という話をよくする。これは、私たちが「わかっている」つもりのことでも、本当はよくわかっていないことを指摘するためだ。花にはたいてい色がついているから、「そこに花があるとわかる」という理解は、「そこに赤い花があるのがわかる」とか「ピンクの花があるのがわかる」と言い直してもいい。この場合の「わかる」は、そういう事実があると知覚することだろう。しかし、それによって本当に何が「わかる」のかは、はなはだ心もとないことが多い。 もっと詳しく説明しよう。
 
 講習会で私が話す演壇の脇には、何種類もの花を活けた豪華な生花鉢がよく飾ってある。それは、聴衆の側から向って左の舞台袖の、演壇から数メートル離れた位置に、台に置いてあることが多い。演壇と生花台との間には、50インチほどの映像表示パネルがある。私は講話で複雑なことを説明するときなど、その映像パネルに文字や画像を表示し、指示棒でそれを指し示しながら説明する。だから、演壇に立つ話者や画像に注目している聴衆の目には、その脇にある生花は入りにくい。そんなときに、私が「ここに花がたくさんありますが……」と指摘すると、初めてその生花鉢の存在に気づく人もいる。また、気づいていても、どんな花がそこにあるかを知らない人が多い。単に「花」というものに興味がない人もいれば、普段は興味があってもその日は講話に集中していて、興味が湧かない人もいる。さらに、舞台から遠くの位置にいる人にはよく見えないから、無関心であることもある。そんな時に、私が「ここに花がたくさんありますが……」と言って生花台に近づき、それらの花の一つに指示棒を延ばして「これはピンクのバラの花です」と言うとする。私の講話中は、私の様子は会場の映像表示装置に映されているから、この時、その画面には「ピンクのバラの花」が拡大して表示される。それを見、私の説明を聞いて、多くの聴衆は「わかった」と思うに違いない。
 
 しかし、いったい「何」が、この時わかったのだろう? それは恐らく、私が舞台上で言葉と動作で指摘したことが、舞台の上の現実と一致しているという理解に達したという意味だ。上の「わかる」の定義では、①に当てはまるものだろう。しかし、「ピンクのバラの花」の言葉で示されるものは、この時、私が指示棒で示している“特定の対象”以外にもたくさん存在する。また、「ピンク」という色にも、赤に近い濃いピンクから、白っぽく淡いピンクまでいろいろある。さらに、「バラ」という花には園芸種だけでも1万種以上の多くの種類がある。私が舞台上で示した“特定の対象”が、そのような、ほとんど無限の数がある「ピンクのバラの花」の中のどれに該当するかは、多分、誰にも「わかる」ことはないだろう。別の言い方をすれば、この時、私の示した花が「いつどこで収穫され、どこの花屋から買った何という種類のバラで、どれほどの値段がするか」をわかっている人は、ほとんどいない。また、仮にそのバラが「クイーン・エリザベス」という品種だとわかる人がいても、それが「1953年に戴冠した英国女王の名にちなんで、翌年にアメリカ人のラマーツ氏によって作出された品種」であることを知っている人は、さらに少ない。
 
 さて、ここで考えてみよう。この時、私が指示棒で示した“特定の対象”を「ピンクのバラの花」だとわかった大部分の聴衆を一方に置く。そして、もう一方には、この花が「いつどこで収穫され、どこの花屋から買った何という種類のバラで、どれほどの値段のするものか」をわかっている人を置くとする。前者と後者を比べると、どちらがこの花を「よくわかっている」と言えるだろうか? 答えは自明である。後者の方が、この“特定の対象”のことをよくわかっているのだ。先に挙げた『大辞林』の定義を使って言い直せば、後者の人の方が、この花の「意味・価値などをよりよく理解できている」のである。両者の間にある「わかる」程度の差は、相当大きいと言わねばならない。
 
 谷口 雅宣

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