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2010年3月29日

宗教と潜在意識

 前回の本欄の最後で、私は無意識(潜在意識)の特徴についてのマテ=ブランコの考えを紹介した。それは、「全ての無意識の特徴は、思考とは対照的に、意識的な思考にとっては互いに異なり完全に区別される事物を、結合させ融合させる傾向を持っている」というものだった。これに対して、私たちが目覚めているときの意識の働きについては、「我々の思考は世界から2つの概念(集合)を切り出して、それらの関係性を組み立てることで行われる」という彼の考えがおおむね正しいことを確認してきた。ということは、私たちの意識と無意識は、私たちの前に拡がる世界に対して互いに“反対方向”の働きをするということだ。つまり意識は、思考を通じて、世界の一部を切り取って別々のものとして捉え、それらの部分間の関係を組み立てるのに対し、無意識は、切り取られた部分を同一のものと見なす傾向を示すのである。この働きは、「世界から切り取られた部分を元へもどす」と言い直すことができるかもしれない。
 
 このことが、宗教とどう関係するのだろうか? 実は、宗教の語源をめぐるいくつもの説の中には、この語に「分かれたものを再び結びつける」という意味を与えるものがあるのだ。それは、3~4世紀のキリスト教護教論者、ラクタンティウス(Lactantius)が最初に唱えたとされ、英語で宗教を意味する「religion」は「re-ligare」から来たという説だ。「ligare」は「結ぶ、縛る」という意味で、接頭語の「re」は、「regain」(再び得る)「reproduce」(再生産する)「reform」(再形成する)などにも使われるように「再び~する」という意味だ。すると、「re-ligare」は「再び結びつく」とか「再び結びつける」という意味になる。もっと神学的な表現を使えば、神の命令に背いて“エデンの園”から追放された人間が、イエスによって再び神と結ばれるのが「religion」だということになる。が、これはあくまでもキリスト教的解釈で、アウグスティヌス(Augustinus)の主張そのものでもあり、言語学にもとづくものではない。
 
 しかし、たとい言語学的な根拠がなくても、宗教には上述した「分かれたものを再び結びつける」働きがあることが永年、世界の多くの人々に信じられ、また体験されてきたことは事実である。だから、宗教には実際、そういう働きがあると認めるべきだろう。となると、宗教は無意識と一部似た働きをもつと言うことができる。特に、私たちの心が描く「聖なるもの」との関係では、それとの「合一」が、キリスト教だけでなく、イスラームや仏教など他の宗教でも、究極的あるいは中心的課題となってきたことは誰も否定することはできないだろう。これはいわゆる「悟り」とか「救い」とか「回心」とか「超越体験」などと呼ばれているもので、それが心の中で起こることは確かであるが、言葉による説明を超えているから現在意識で起こるのではなく、したがって潜在意識で起こる大きな出来事ということができる。
 
 ただし、その出来事の評価については、潜在意識や無意識の研究者たちの間にも見解の相違がある。ウイリアム・ジェームズは、回心とは潜在意識の内部で成熟した観念が意識の上に表出したものとして捉えるのに対し、“精神分析学の祖”と言われるフロイトは、宗教とは潜在意識中にある幼児的願望が外界に投影された幻想の体系だと考えた。また、フロイトの弟子、カール・ユングは、宗教の教えやイメージには、人類の集合的無意識の内容を構成する“元型”(Archetypus)が象徴的に表現されていると考えた。フロイトは宗教を否定的にとらえたのに対し、ジェームズとユングはそれを肯定的に評価したのである。
 
 この中で、ユングの考え方は、宗教と潜在意識との関係に最も詳しく関与していると思うので、今後おりに触れて本欄でも扱っていこうと思う。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○小口偉一他監修『宗教学辞典』(東京大学出版会、1973年)

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