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2010年3月 1日

自然との共存・共栄を実現しよう

 今日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「立教81年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が行われた。以下は、そこで私が述べた挨拶の概要である:
 
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 本日は、生長の家の立教記念日に多くの方がお集まりくださいまして、誠にありがとうございます。

 今日のこの日は、ご存じのように、今から80年前に谷口雅春先生と輝子先生が『生長の家』誌の創刊号を発行されたときに、その創刊号の奥付の発行日が「昭和5年3月1日」となっていたことから定められたものです。あれからずいぶん歳月がたっていますが、今年の4月号から、再び『生長の家』誌が“復活”しました。これは、生長の家の組織の会員の機関誌として出されていた『生長の家白鳩会』『生長の家相愛会』『生長の家青年会』の三誌が、4月号から一誌に統合されたからです。その理由はいろいろありますが、その1つは、紙を多く消費することは森林伐採につながり、深刻化しつつある地球温暖化をさらに悪化することになるからで、普及誌も四誌あったのが三誌に減りました。
 
 私は昨年の11月に総本山で行われた生長の家の秋季記念日の際、「21世紀の人類は自然に対して四無量心を行じることが必要である」という話をしました。これは、単に「自然を愛する」だけでは、執着の愛によって自然を破壊し、生態系を傷めつけ、生物多様性を失わせる結果になるという、近代以降の人類の歩みを繰り返し、さらに深刻化するだけだからです。だから、これからの我々の自然の愛し方は、“執着の愛”を脱して、仏の四無量心を表していく方向に進む必要がある--そういうことを申し上げました。その秋季記念日の翌月には、デンマークのコペンハーゲンで第15回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP15)が行われました。これは、京都議定書の期限が切れる2012年以降に、人類が地球温暖化対策を一丸となって進めていくための枠組みを検討する非常に重要な会議でしたが、それがほとんど実のある結果を生まずに終りました。

 そうして我々は新しい年を迎えたわけですが、元旦の新年祝賀式で、私は秋季記念日の話を受けて、「四無量心を行じる神想観」の改訂版を発表させていただきました。この神想観は、従来のものが主として「人間」を対象にして四無量心を行じるための祈りであったものを、その対象を地上の「生物全体」とエネルギーや資源を含む「鉱物」にも拡大して、四無量心を行じるためのものであります。この神想観を我々が日々実修していくことによって、我々の中にある“自然への愛”が執着や欲望としてではなく、仏の四無量心--神の無限の愛として表現されていく。そういう“心の方向づけ”が今や人類にとってのみならず、地球生命全体の健全な発展にとって欠くべからざるものになっている、そういう考えによるものです。

 2月になると、生長の家が7年越しで検討してきた“森の中のオフィス”の建設用地が発表されました。それが山梨県北杜市の八ヶ岳南麓の地であることは、皆さんもすでにご存じと思います。これによって、生長の家の国際本部が3年後ぐらいには、東京・原宿の地から“森の中”へ移転し、そこで名実ともに「自然と共に伸びる運動」が展開されていくことになります。また、このための準備として、“炭素ゼロ”運動が開始され、その中で生長の家の運動や行事のあり方がCO2の排出を削減する方向に変わりつつあり、さらには紙資源の節約の意味も込めて、普及誌と機関誌の発行形態と内容の見直しが行われています。つまり、この21世紀においては、人類はどうしても従来のライフスタイルを変えて、自然と共存・共栄する生き方を開発し、実践していかなければならないのですが、それを行う時期は今だということです。「低炭素社会への移行は必要だ」と多くの人は言っていますが、その方向に向かって実際に行動する人はまだまだ少ない。この、あるべき生き方へ転換するための“トップランナー”が、今は圧倒的に不足しているのです。生長の家は、宗教運動としてその大切な役割の一端を担うために動き出しているのであり、さらにその歩みを着実のものとしなければなりません。今回、“森の中のオフィス”の建設用地が決定したことで、私たちは、この重要な生き方の転換に向かって“背水の陣”を敷いたことになります。
 
 さて、最近、私はジェレミー・リフキンというアメリカの文明批評家の本を読む機会がありました。『The Empathic Civilization』という題で、日本語に訳すと「感情共有の文明」とでもなるでしょうか。この本の内容については、私のブログですでに簡単に書きました。この本は英文で600ページ以上ある大部のものなので、全部はまだ読んでいません。が、重要なポイントを1つだけ申し上げると、著者は、今世紀の人類が地球温暖化の危機を乗り越えるためには、「人間観の変革」が必要だというのです。近代以降に作り上げられた、他と分離し、孤立した「個人」の幸福を最優先する人間観と生き方では、地球温暖化による気候変動や、希少資源の奪い合いの問題は解決できないというのです。そして、リフキン氏の提案する人間観は、「エンパシー(empathy)で繋がり合った社会とその中の人間」と表現することができます。そういう人間観にもとづいた新しい文明--それが「The Empathic Civilization」(感情共有の文明)です。

 empathy という語は、sympathy と間違われやすいですが、少し違います。sympathyの語は、他人の不幸に対して可哀そうに思うことですから、日本語では「同情」とか「あわれみ」と訳されています。これに対し「empathy」は、ドイツ語の「einfuhlung」から来ている。この語は、1872年にドイツの美学者、ロベルト・ヴィッシャー(Robert Vischer)が造語したもので、ある対象に向かって自分の感情を移入して、その対象を理解することを指します。その後、ある人が他の人の立場に立って、その人の感情や考えを理解するという心理的過程を意味するようになりました。英語圏で「empathy」が使われるようになったのは、1909年以降で、アメリカの心理学者がドイツ語からこの語を造語して、「他人の感情の中に入る」という意味となり、日本語では「感情移入」などと訳されています。
 
 リフキン氏は、欧米の文化圏では比較的新しい言葉であるこの「empathy」を取り上げて、それにもとづく新しい文明の構築を提言しているのですが、ここで皆さんには、私が今日の話の最初に言ったことを思い出してほしいのです。それは「四無量心」の話です。仏教で説く慈無量・悲無量の心は、自分に対する抜苦与楽のことではなく、喜無量の心も自分の喜びのことではありません。それは、人の苦しみを除き、人に楽を与え、人の喜びを我が喜びとすることですから、リフキン氏のいう「empathy」のことなのであります。その心によって人間社会を構成することが、地球温暖化から来る人類の危機を回避する道だというのならば、人類が四無量心を行ずることが危機回避の道だと言っているのと同じことなのです。仏教を生んだ東洋文化の伝統の中には、「empathy」の考え方と同じものがすでに何千年も昔から厳然と存在しているのであります。だから、これからは仏の四無量心を行じる生活を行うことが、地球温暖化抑制のためにも、世界平和実現のためにも必要なことだと言えるのです。
 
 ところで、皆さんはカナダのバンクーバーで行われていた冬季オリンピックの競技を、テレビなどで観戦されたと思います。そのときに、私たちは「empathy」を体験したのではないでしょうか。つまり、日本人なら日本の選手に感情移入して、自分自身をその人の立場に置いて、競技や演技の成功を祈ったのではないでしょうか? その時は、自分がその選手になったつもりで、感情移入をしているのです。選手を通して、自分がその競技をしているような体験をする。これが「empathy」であります。そして、その選手が、あるいはチーム全体が目的を達すれば、相手の喜びを自分自身も体験することができる。これは「喜無量心」の部分的発現と言えます。また、選手が難しい立場に立たされていれば、その苦しみから解放してあげたいと思う。これは「慈無量心」に通じます。このようにして、私たちは無意識のうちに「empathy」や「四無量心」を一部行じているのです。だから、四無量心を行じるということは、何か大変困難な修行の道に入ることだと考えなくていい。
 
 ただ、これまで無意識に何となく行っていたことを、これからは意識して行い、その範囲を拡大していかなければなりません。相手の立場に立って物事を行う--そのためには「自他一体」の自覚が必要です。それを三正行を通して行うのです。人間の立場からだけでなく、生物の立場からも考え行動するのです。そうすると、これまでとは違った、より豊かで、明るい、調和のある生活を送ることができるようになります。
 
 ここで私のささやかな体験を申し上げれば、ここ数日、東京は雨模様でした。すると、私が住まわせていただいている総裁公邸には、春が来たというわけで、たくさんのヒキガエルが出現します。数えたことはないのですが、30匹はくだらない数です。それが、夕方暗くなった公邸の階段の上に這い出してくる。本部から帰宅した私にとって、それは普通は“邪魔者”と感じられるのです。なぜなら、彼らは動作が鈍くて、人間が近づいても動かない。すると、暗がりで踏みつけてしまう危険がある。あまり気持のいいものではありません。しかし私はこう考えました。耳を澄ませてみると、たくさんのヒキガエルが合唱している声が聞こえるのです。それを虚心になって聴いていると、とても奇麗な音楽のようです。それは「ガアガア」とか「ゲエゲエ」という声ではなく、むしろ「コロコロ」や「クルクル」に近い声で、しかも互いに重なり合って和音を作っている。ここに人間とヒキガエルとを結びつける豊かな接点がある、と私は感じました。彼らは「春が来た」という音楽を演奏してくれている楽団なのです。そう考えると、もう彼らは“邪魔者”ではなく、私の前に出て来てくれた貴重なメッセンジャーだと感じることができる。これが、日時計主義の実践の1例です。四無量心を行じる生き方の1例でもあります。
 
 さて、最後になりますが、このたび生長の家の機関誌を統合して発行された『生長の家』誌の4月号から、谷口雅春先生のご文章を紹介して、私の話を終りたいと思います:
 
 (同誌、pp.2-3 を朗読)
 
 ここにあるように、私たちの周りには、神様の知恵と愛と命があふれているのです。しかしそれらは、人間中心の唯物論的視点から見ていては、少しも見えてこないし、また聞こえてこない。私たちは、人間は神の子であり、「すべては神の下に一体である」という真理をさらに深く自覚し、またそれを多くの人々に伝えて、生活の中では四無量心を行じながら、自然と共に伸びる生活、自然との共存・共栄を実現する生き方を開発し、推し進めていこうではありませんか。
 
 立教記念日のこの佳き日にあたって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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コメント

生長の家の新たなる取り組みのご発展を

お祈りしております。


松尾

投稿: 松尾 | 2010年3月 2日 08:36

合掌、ありがとうございます。

総裁谷口雅宣先生、先生のご文章を日々、拝読させて戴いております。日々、ありがたい大真理実相をお説き下さり、私共の神性をお引き出し下さりますこと、心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

自然を愛するだけでは執着の愛によって、自然を破壊し、生態系を痛めつけ、生物多様性を失わせる、近代以降の歩みの繰り返しになるという事。

これからの私達人類の、自然の愛し方は、相手の立場に立って物事を行う自他一体の自覚を持ち、仏の四無量心神の無限の愛し方が表現されていくこと。そしてこの心の方向づけが地球生命全体の健全な発展に欠かせないということ。感激に涙が止まりませんでした。

自然を破壊する事と、
自然を生かし伸ばす事とでは、全く逆ですね。
前者は肉の人間の都合による唯物的手段であり、後者は、神様のお計らいのように思いました。

対象を地上の生物全体とエネルギーや資源、鉱物にも拡大した仏の四無量心を行じる神想観を日々実践し、人間は神の子であり、全てては神の下に一体であるという真理を多くの方にお伝えして参ります。

ありがとうございます。

投稿: 廿野憲子 | 2010年3月 5日 02:48

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