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2010年3月21日

「神とともに生きる」とは

 春分の日の今日は、東京・原宿の生長の家本部会館ホールで布教功労物故者追悼春季慰霊祭が執り行われた。私はこの慰霊祭で奏上の詞を述べ、玉串拝礼をさせていただいた後、概略、次のような挨拶をした:

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 本日は、春のお彼岸の慰霊祭に大勢お集まりくださいまして、誠にありがとうございます。
 
 今回招霊申し上げた御霊の中に、栗林正晴さんがいます。昨年の8月に94歳で亡くなられた人です。すでに昨年10月1日号の『聖使命』新聞でお伝えしていますが、この方は、奥様の千代子さんと共に生長の家の聖歌をたくさん作曲された人で、全部で19曲を作られています。聖歌の作曲数では最も多い人です。最初の聖歌の曲は、昭和26年の谷口雅春先生作詞の『堅信歌』ですが、この年に私が生まれていますから、もう58年前の作曲です。それを、私たちが先ほど歌ったわけです。このように、栗林さんは音楽の方面から私たちの運動に多大な貢献をされています。その他の140人の方々も、それぞれの個性と才能に応じて、光明化運動を大いに展開してくださいました。
 
 今日は、この栗林さんが作曲した聖歌の中の『神と偕に生くる歌(神人合一譜)』から、学んでみたいと思います。これは雅春先生の作詞で、多くの方はよくご存じの聖歌であります。
 
 「おお永遠の父にして
  母にまします わが神よ……」
 
 こういう出だしで始まる聖歌ですね。その2番の歌詞には、神と人間の関係について深い真理が表現されています。引用しましょう:
 
 「われ一人来て われひとり
  生くと見ゆれど ふたりなり
  その今一人は 神にまします。
  神はいのちの 言葉にて
  肉の宮居を 造り成し
  わが魂を 棲まわせたまう。」
 
 人間は生れるときは一人で、死ぬ時も一人だというのが常識的理解であります。ところが、ここでは「一見そう見えるけれども、神とともに生きているのがすべての人間である」と、この聖歌では説かれています。しかし、これだけだと誤解されることがある。それは、「神と2人」なら、他の家族や友人とは離れた存在だと思うことです。「神は最愛の夫を連れて行ってしまった」とか「私の最愛の子を、神は奪っていった」と考えて寂しく思う人も出てくるでしょう。しかし、上の歌詞は、そういうことを言っているのではありません。
 
 生長の家で最も重要視されている神示は、「大調和の神示」と呼ばれているもので、聖経の冒頭にも掲げられていますから、皆さんもよくご存じのものです。その中に、「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は、神の心にかなわぬ」という箇所があります。また、「神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは、天地万物と和解が成立せぬ」という文章もあります。この2つの文章は、生長の家の信仰する「神」というものは、具体的な姿形をもたないけれども、すべての命あるもの、命なきものの背後に存在する“結びの力”であるということを示しています。つまり、神において私たちは皆、結ばれているのです。
 
 この「大調和の神示」には「われかつて神の祭壇の前に供え物を献ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である」とも書いてあります。これは新約聖書の『マタイによる福音書』第5章23節の記述に触れた教えですが、ここにも、神だけを目当てにしているのでは不十分で、神の創造されたすべてのものと和解することが、神に通じる道であるとの教えが説かれているのです。ですから、私たち人間は、肉体的には一人で生まれ、一人で死んでいくように見えていても、神を見出した人は、その神を通じて、すべてのものと調和した関係にあるとの信仰に到達することができるでしょう。
 
 今日、お祀りさせていただいた御霊さまは皆、この生長の家の信仰に入られて、その普及に尽力された方々ですから、生前は毎日のように「大調和の神示」を読まれていたと思います。そして、霊界へ行かれた今も、同じ信仰をもつ兄弟姉妹と手を取り合って、霊界における光明化運動を展開してくださることでしょう。私たちはだから、「肉体は個々バラバラである」という現象的な姿をもって人間の本当の姿だと思うのは間違いです。すべての人は、信仰をもとうがもつまいが、本当は神において一体の存在ですから、孤立して生きているのではない。すべての存在とともに、支え合って生きているのです。そのことがわかると、私たちは、死んだように見えていた世界が、ちょうど今の春の時季のように、命が芽吹き、生長する世界だと観ずることができるようになるでしょう。
 
 私は最近、植木鉢にツバキの種を植えました。この種は、道端の植込みの上に落ちていたのです。長さが2.5㎝ぐらいで、ちょうどカキの種ぐらいの大きさで、土色をしていました。土色のものが土の上に落ちていたのですから、普段は見過ごしてしまうものです。それをなぜ見過ごさなかったかと言えば、その種を落とした元木が生き生きとして育っていて、鮮やかな赤と白のシボリの花をつけていたからです。「ああ、美しいなぁ」と、その花の美しさに誘われて近づいていったので、私は土の上の土色の種を見つけることができたのです。

 私たちの人生にも、これと似た側面があると思います。私たちは、ある人の人柄や仕事の素晴らしさに引きつけられて、結婚したり、同じ会社や団体の一員となったりします。しかし、歳月がたてば家族や会社から離れていく時期が必ず来ます。が、その時には“種”を受け継いでいる人が必ずいるでしょう。親木とまったく同じでなくていいのです。交配の結果、結ばれた種ですから、遺伝子的には同一ではない。しかし、前の世代の形質を確実に受け継いでいる。そういう人たちが、私たちの肉体が活動している間に目の前に現れなくても、“種”を別の地で発芽させる人がいる。また、次の世代で芽を出す種もあるでしょう。そのようにして、私たちの光明化運動も広く海外にまで発展していきました。
 
 今日、お祀りした人の中にもブラジル人の方が25人、いらっしゃいました。皆、講師や幹部として活躍された方です。日本人の方は、釧路や旭川から鹿児島までいらっしゃいました。私たちはこれからも、これら諸先輩と共々に、この真理宣布の運動を魅力あるものに育て上げ、大輪の花を咲かせて多くの人々を誘い、人類光明化と国際平和実現に寄与していこうではありませんか。春のお彼岸のお祀りに当って所感を述べさせていただきました。本日はお参りくださり、誠にありがとうございました。

 谷口 雅宣

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コメント

春の季節、魂が「新生」するような、御文章ありがとうございました。

「堅信歌」と「大調和の神示」から、神と人間の関係について勉強させていただきました。

布教功労物故者の方々が喜ばれているのではないかと思いますし、私たちには、とても勇気づけられるものでございました。

神とともき生き、大輪の花を夢みて、「真理の種まき」に努力してまいります。

投稿: 松尾 | 2010年3月22日 20:22


合掌ありがとうございます
p.joyのTKさんのjoyより
こちらに来させて頂きました。

春の慰霊祭の日に
誕生日を頂いた事を
私は誇りに思っています

p.joyを与えて下さいましてありがとうございます
嬉しい毎日であります

        再合掌

投稿: 村石久子 | 2010年6月 6日 18:22

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