「ウソも方便」か?
宇宙物理学者でサイエンス・ライターでもある池内了(さとる)氏は、『疑似科学入門』という著書の中で、一見科学的な装いをしていても本質的に科学的でない種類の理論や、それにもとづく商品販売、サービスの提供をしているものを「疑似科学」とし、それを3種類に分類している。池内氏が「第1種」としているのは、「科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの」であり、占いや超能力に関するものだ。「第2種」の疑似科学は、「科学を援用・乱用・誤用・悪用したもの」だが、科学としての「実体がないもの」。これには、永久機関やマイナスイオンなどの各種の健康食品が含まれる。また、「第3種」は「複雑系」の科学に属するが、その複雑さゆえに「科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在を曖昧にする言説で、疑似科学と真正科学のグレーゾーンに属するもの」だという。前回触れた「水からの伝言」の話は「第2種」の疑似科学として扱われている。
池内氏は、特にこの話が一部で学校の道徳教育の中で使われたことについて、「なぜこのようなウソが平気で授業に取り上げられるのだろうか」と不満を示し、次のように書いている:
「誰もが、子どもに常々優しい気持を持って欲しいと望んでいるし、それをなんとか学んで欲しいとも願っている。しかし、子どもの気持と水の結晶形とは無縁のことなのである。子どもが小さな間は信用するかもしれないが、大きくなるにつれ先生に騙されていたことに気づくだろう。そのとき、子どもたちはどのように感じるだろうか。(中略)少なくとも、いったんは先生の言うことは信用しない方がまし、と考えるに違いない。子どもと先生の間の相互信頼が崩れるきっかけになりかねないのだ」。(同書、p. 52)
私は、この本に書かれた池内氏の意見のすべてに同意するわけではないが、この「教育への逆効果」の問題は的確な指摘だと思う。子どもへの道徳教育は必要である。しかし、その“善の目的”のために「ウソをつく」という“悪の手段”を使うのは、明らかな誤りである。その結果、“善の目的”は達成されなくなることが多い。これと同じことは、宗教の教えについても言える。それを伝えたいために、本当でないことを“真理”であるかのように言うことを「方便説法」として正当化する人がいるが、これを濫用するのは間違っている。それはかえって、宗教上の真理を“詐欺”や“詭弁”のレベルに貶めることにつながるからだ。宗教の門を叩く人は、人生の深刻な問題や病気のために悩み、「藁をもつかむ」想いで導師や講師の助けを求める場合が多い。それはちょうど、学校の生徒と教師の関係に似てくる。だから、「方便説法」でも信じやすい心境にある。しかし、事後に冷静さを取り戻して考え直したとき、「だまされた」と思うような指導はすべきでないのである。宗教に対する人々の信頼が崩れる原因をつくってはいけない。
私はそういう意味で、宗教は「奇蹟」という言葉を濫用すべきでないと考える。私は『太陽はいつも輝いている』(2008年)の中で「奇蹟」という言葉の意味について考えた。この文章は、2007年8月28日の本欄にもある。そこにある厳密な意味での「奇蹟」があったと認められる以外は、この言葉を使うことは避けるべきだろう。なぜなら、上記の理由に加えて、生長の家は奇蹟を見せる宗教ではないからである。このことは、昭和8年1月25日に下された「自然流通の神示」にはっきりと書いていある:
「『生長の家』は奇蹟を見せるところではない。奇蹟を無くするところである。人間が健康になるのが何が奇蹟であるか。人間は本来健康なのであるから、健康になるのは自然であって奇蹟ではない。『生長の家』はすべての者に真理を悟らしめ、異常現象を無くし、当り前の人間に人類を帰らしめ、当り前のままで其の儘(まま)で喜べる人間にならしめる処である。あらゆる人間の不幸は、当り前で喜べない為に起るものであることを知れ。当り前で喜べるようになったとき、その人の一切の不幸は拭いとられる」。
谷口 雅宣
【参考文献】
○池内了著『疑似科学入門』(岩波新書、2008年)
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コメント
神様の光がくすぶらないためにも、「誠実な信仰者」でありたいと思います。
投稿: 松尾 | 2010年3月25日 07:39