「わかる」ということ (4)
この表題で本欄をここまで書き継いできた理由を、明らかにしよう。私は最終的には「真理がわかる」ということの意味を問いたいのだが、そこまで行きつくためにはきちんとした手続きと一定の順序が必要と思った。だから、まず「~がわかる」という日本語の意味を確かめ、その意味の細部まで検討してみることが必要と考えた。「真理を知る」とか「真理がわかる」という問題は、宗教における「信仰」と「理性」の関係とも深くかかわっている。また、我々が宗教を信ずるのは、信仰によるのか、理性によるのか、あるいはその双方によるのか。科学が正しいと思う場合も、それは一種の“信仰”なのか、それとも“理性”によるのか……という問いかけもしてみたい。このような小欄で、そこまで検討できるかどうか定かでないが、とにかく、本欄とつき合ってくださる読者諸賢に対しては、少なくとも“目標地点”がどこにあるかを予め伝えておくのが礼儀だろう。
前回までの結論は、人間が何かを「わかる」ためには、単に感覚的な体験を得る(知覚する)だけでなく、その体験を論理的に整理し、判断することが必要であるということだった。私は、生長の家講習会でよく「月の満ち欠け」の話をする。それは、我々がこの自然現象を「わかる」場合の心の動きを明らかにするためだ。そして、受講者には、月の満ち欠けが「わかる」のと同様の仕方で、人間の一生も「わかる」道があるということを示すのが目的だ。
ここに掲げた図の上半分が、月の4段階の満ち欠けを示している。図の下半分にあるのは、いわゆる「満月」である。私たちの感覚的な体験(知覚)によると、月は図の上半分のように明らかに「満ち欠け」をする。これは否定しがたい事実である。しかし、私たちは、天空に存在する“本当の月”は満ちたり欠けたりしないと思っている。つまり、自分の感覚的な体験を否定しているのである。なぜそのように判断するかといえば、それは、何回もの月の満ち欠けを体験した結果、「一度欠けたものが元通りになるのは不合理だから、見かけ上、欠けたように見えているだけだ」というような論理的整理が行われるからだ。もちろん、この整理の過程には、小学生のとき、学校の先生に教わったことが大きく関与している。こうして、私たちは「月の満ち欠け」を「わかる」のである。
では、「水は人間の心に感応する」という話はどうだろうか? 読者は、この話が「わかる」だろうか? 「感応する」だけでなく、「人間の心の美醜に応じて結晶の形を変える」といって、キタナイ言葉を書いた紙の隣にキタナイ水の結晶の写真を添え、美しい言葉を書いた紙の隣に美しい水の結晶を並べた写真を見せられたら、読者はそれを「わかる」だろうか? 実は、この話は2007年9月25日の本欄ですでに扱っているから、記憶している読者がいるかもしれない。この種の写真を集めた有名な本がベストセラーになり、それを読んだ(見た)生長の家の講師のうち何人もが、「すわ、これこそ唯心所現の真理の実証だ!」と喜んでその“実験”に飛びつき、講話の中で紹介したという。私はその話を聞いて、「その講師は本当に真理をわかっているのか?」と訝しく思ったものである。
自分が信じる真理の正しさを証明するような現象に接したときに、私たちは無批判でそれを「事実」とか「真実」だと認めがちだ。しかし、「真理がわかる」というのは、そんな単純なことではない。「月が何度も満ち欠けを繰り返す」という現象を「わかる」ためには、少しの想像力と、比較的単純な論理を用いればすむ。しかし、「人間の心が水の分子に直接影響を与え、結晶の仕方を変える」というような物理化学的レベルの“仮説”を「正しい」と認めるためには、相当綿密で、多岐にわたる論理的筋道が必要であり、その証明には厳密な実験が要求される。また、物理化学の実験では再現性が必要だから、誰がいつどこで行っても、同じ結果が出なければならない。この仮説を正しいとするためには、そういう深刻な“左脳的”な問題が山積している。その反面、直感的(右脳的)には実に単純でわかりやすい仮説である。このために、“右脳”が“左脳”を沈黙させ、機能をマヒさせた結果、「わかった」との結論に達した人がいたのである。しかし、それは本当の意味で「わかった」のではなく、「満月」のときに「幸い」と喜び、「新月」になっては「不吉」だと悩むのと大差ないのである。また、こういう判断を「信仰」と呼べるなら、それは「理性をともなわない信仰」と言わなければならないだろう。
谷口 雅宣
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コメント
雅宣先生のブログは「インターネット講習会」ですね。
四回にわたり「わかる」について解説してくださり、感謝いたします。
はじめのほうは「わかる」というあいまいな概念をわかろうとして必死で考えていました。今回、「真理がわかる」と、より具体的に目標地点をお示しくださいましたので、少し考えがまとまりました。
私の中で考えたことは、世の中にまともでないことをいう精神世界の団体が多い中、生長の家は理性をともなう信仰の団体なのだと思いました(団体のすみずみまでその考えを浸透させることは大変なことだと思いますが)。
ただ、私の中では、信仰をする中で、金銭が関わってくる場面での理性的理由付けが、まだまだできていない状況です。
金銭面に関しては、周りの人を見ていると「この献資をすれば、不思議と幸せになれるんだ」と直感的になっている傾向にあるように思います。
いつか、機会がございましたら理性的な理由をご教示いただきたいと思います。
投稿: 松尾 | 2010年3月23日 08:41
雅宣先生のご著書にあったクオリアのお話を思い出しつつ、3まで読み進めました。
「わかる」というのは単純な事ではないのですね。やはり。
私が接する人々には、目の見えない方、耳の聞こえない方もおられますし、脳の機能障害で一部の感覚が失われている方もおられます。私は人に物事を伝える時に、NLPの用語ですが、”VAKOGモデル”を意識しています。外界でおこる物事や情報の整理をするときにも人間には個々人それぞれにクセが非常にあるもので、相手の優先感覚がわからなければ、情報の伝達に齟齬が生じやすいものです。
人に情報を伝えるのは非常に難しい。活字ベースの情報が伝わり難い方もおられますが、そのような方もセミナーの席などで隣席者とともに学習したときに、場の雰囲気などもふくめて、はじめて腑に落ちたと言われる事もあります。それでも、完全に理性的理解(左脳的理解)を皆が得るのは難しいような気がしてなりませ
ん。
雅宣先生が“目標地点”に置かれる概念。それを今後も続けて説明して頂けるのかと思うと非常に興味深くて楽しくなるのですが、それは活字ベースでだけで伝えられるものなのかと、少々心配になります。特別な才能が無くとも、誰にでも到達できるところに真理が存在していれば良いのですが。
だけど、きっと皆に理解できるように上手に伝えてくださると信じています。今後のご説明に期待しています!
投稿: 匿名 | 2010年3月25日 11:44