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2010年3月18日

「わかる」ということ (3)

 前回の本欄で、ある特定の「ピンクのバラの花」について理解しているA、B、Cの3人を想定した。Aさんは、実際にその花を花屋に買いに行った人。Bさんは、バラ栽培を仕事としている人。Cさんは、バラの絵を得意とする画家だった。バラを「わかる」人とは、この3人以外にもいろいろ考えられる。例えば、“青いバラ”の創造を目指して遺伝子研究をしている分子生物学者とか、バラの香りのする香水を開発した人、前回も触れた食用バラの開発者、○○バラ園の園長さん、バラにつく昆虫用のレペラントの研究者など……このほか、「私はバラが大好き!」と思うすべての人々も、それぞれの人なりに「バラがわかる」と思っているに違いない。では「バラがわかる」とはどういう意味なのだろう?
 
 それは恐らく、「バラについての情報を多く、バランスよく得る」ということだろう。バラについての情報は、大別して2種類ある。1つは感覚を通した情報であり、もう1つは言語を通した情報だ。前者は、バラの花や葉の形、色、香り、味、感触など、五官から得られるものであり、後者は、バラについての知識--園芸上、分類学上、生物学上、遺伝学上、経済学上、文化人類学上……の知識である。本欄の読者になじみのある表現を使えば、前者は“右脳的情報”であり、後者は“左脳的情報”である。この2種類の情報をバランスよく得ていない人を、「バラがわかる」とは呼べないだろう。

 例えば、バラを見たこともない人が、この植物が全世界でどのような値段で売られているかという情報にどんなに詳しくても、その人には「バラがわかる」とは言えない。バラは美しく花を咲かせるのに手間がかかり、だから比較的高価な花であり、香りがよく、昔から人々に愛され、愛情表現の手段に使われ……などという知識をどんなにたくさんもっていても、その人がバラを見たことも花の香りをかいだこともないのでは、なぜバラがそういう扱いを受けてきたのかの理由が実感できないだろう。単に「美しいから」では、理由としては足りない。美しいだけでは、美しい花はそれこそ無数にある。バラ独特の美しさと、香り、それからトゲの鋭さ……などの、五官からしか得られない“右脳的情報”と照らし合わせてみて、初めて経済的価値などの“左脳的情報”が納得できる。この「納得できる」という実感が「わかる」の意味だと思う。

 では、右脳的情報だけでは「わかる」という実感は得られないのだろうか? これについては、私の最近の経験を語らせてほしい。

 --ある週末の晩、妻と私は夕食のために銀座のレストランへ行った。その店の窓際の席には、三十代の前半ぐらいの女性のグループがいた。その中の一人だけが2歳ぐらいの男の子を連れていて、他の3人はまだ未婚という感じだった。恐らく大学の同窓生か何かだろう、と私は思った。時間はまだ早いのに、その女性グループは結構ハメをはずして大きな声でしゃべっていた。やがて、ビール瓶とグラスが運ばれてきて、乾杯の時となった。2歳の男の子は、もちろん仲間外れだ。ところが、男の子は自分も仲間だと考えている風情で、テーブル上に置かれた、母親のビールのグラスに、盛んに手を伸ばすのである。それを母親が妨げると、男の子は声を上げて抗議する。他の女たちは、母親が持ってきた哺乳瓶を男の子の前に置いて、それを彼に持たせようとするのだが、子供はいつも見慣れているそんな容器ではなく、グラスの中で小さな泡沫が上がっては消える不思議な金色の液体の方に興味があり、手を伸ばすのをやめない。が、その子は結局、大人の要求に従うほかはなかった。

 こんな場合、男の子にとって「ビールがわかる」とはどんなことを指すのだろう。また、彼に向かって女たちが「あなたはこれが飲めないのよ」と言ったとしたら、その言葉の意味を「わかる」とは、いったいどういう状態を指すのか? 男の子がこの時、初めてビールを見るのだと仮定しよう。彼がそれから右脳的情報を得るには、目で見るだけでなく、グラスに触り(冷たい感触がする)、匂いを嗅ぎ(ホップとアルコールが混ざった香りがする)、口の中に流し込んで(苦さと炭酸の刺激でむせ返るかもしれない)、喉の奥に呑みこむ。まもなくアルコールが効いてきて、彼は酔う。この体験は、男の子にとって大変刺激的だ。そして、彼は恐らく「うまい」とは感じないだろう。では、これで彼は「ビールがわかった」と言えるのだろうか? 私はこれは「ビールを体験した」とは言えても、「わかった」とは言えないと思う。体験は即理解ではない。

 この体験の後、男の子はその少ない言葉と概念を使って、自分の生活の中でのこの体験の位置を確かめようとするだろう--母親が禁止したものを口に入れて、大変なめに遭ったこと。世の中には、母乳や牛乳やジュースなどの美味しいもの以外にも、苦いもの、まずいもの、強烈なものがあると知り、そういう“危険物”のカテゴリーの中に「ビール」が投げ込まれる。そして、目に見てきれいなものでも、口に入れると危険な場合がある、などと知る。そういうように実際の体験を“左脳的”に咀嚼した後に、初めて「ビールがわかった」と言えるのではないだろうか。2歳の男の子場合、この作業は十分にできるとは思えない。体験を整理するための言葉や概念の数が足りないからだ。が、私がここで言いたいのは、人間が何かを「わかる」ためには、単に感覚的な体験を得るだけでなく、その体験を論理的に整理し、判断することが必要だということだ。

 谷口 雅宣

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コメント

私の不勉強で、先生の仰る事がほとんど分かりませんが生長の家は大変高等な事を教えて頂けると言うことは分かります。ぼちぼちとお教え下さいませ。生長の家が昔の精神論から現実生活をお教え頂ける事を喜びと感じます。やはり雅宣先生の今の時代のお教えこそ素晴らしいと感じます。

投稿: 山本 治 | 2010年3月20日 23:57

「わかる」ことに対し、これまで一度も深く考えたことがありませんでした。

私は信仰をする中で、「直感的」な判断を重視する傾向にありました。

しかし、今回、「論理的」に判断することも大事なんだとわかりました。

これまでは、考えることを怠っていましたが、バランスよく考えることで、冷静に判断できそうです。

投稿: 松尾 | 2010年3月21日 09:16

合掌ありがとうございます。「わかるということ」たいへん興味深く読ませていただきました。「わかる」ということをほとんど意識せずに生きてきたように思います。また、世の中にはわからないことも多く、わたしは「愛」がよくわかりません。「愛」を論理的に判断したり説明するとしたら、そうとう難しいだろうなあと、ふと感じました。
タカフジ拝

投稿: タカフジ陽子 | 2010年3月21日 22:04

タカフジさん、
 コメント、どうもありがとうございます。
 ひと言で「愛」といっても様々な種類、段階があります。生長の家ではそれらの大別して「執着の愛」と「与える愛(放つ愛)」の2種にわけ、説明することが多いです。また、「自他一体の感情が愛である」と言ったりします。

松尾さん、
 直感的な判断は、正しいこともあれば、間違いであることもあります。それは、人間の心理に無意識なバイアスがかかることが多いからです。ごく簡単に言えば、「人間は信じたいことを信じる」場合が多いからです。

投稿: 谷口 | 2010年3月24日 14:52

御解説ありがとうございます。

私の勉強不足で完全には理解できていませんが、自分なりに考えたことを書かせていただきます。

先生の御解説により、人間の心理の側面から考えても、直感的な判断は間違うことがあることを知りました。自分の中で考えたことは、直感的判断ではその場しのぎになったり、自分の「我」が混ざることがあるのではないかということです。

そして、直感的判断において行動する場合に一番の問題点は「検証できない」ことではないかと思います。

逆に理性的に考えることで、行動した結果に対し、冷静な「検証」を加えることが可能だと考えます。

それは、判断を下す際に、自らの思考の流れを整理したり、判断に使用した材料が明確になるからです。

そうすることで、だんだんと精度の高い判断をすることが可能になると考えます。

投稿: 松尾 | 2010年3月25日 07:34

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