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2010年3月30日

宗教と潜在意識 (2)

 前回の本欄で「宗教」という語の意味を考えたが、西洋の言語をベースにした考察しかし なかった。それでは不十分の誹りを免れないので、日本語の「宗教」の意味について付言しておこう。これは、しかし元々は中国語(漢字)の「宗教」から来ているのである。Religionch漢字は象形文字だから、原意を知るためには古い字体を調べることになる。それが、ここに掲げた2文字だ。白川静氏の『字統』によると、「宗」の字は、ウ冠と「示」の字から構成されていて、ウ冠は「廟屋」の形であり、「示」は「神を祭るときの祭卓」の形だという。神道の祭祀では「案」に当たるものだろう。したがって、この2つが組み合わさった「宗」の字は「宗廟=天子の祖先の霊を祀った宮殿」の意味になる。日本では、さしずめ伊勢の皇大神宮に該当するのだろうか。
 
 これに対して「教」の字は、「×」を縦に2つ並べた部分が「屋上に千木のある建物」を表しており、これは「古代のメンズハウスとして、神聖な形式をもつ建物で、ここに一定年齢の師弟を集めて、秘密結社的な生活と教育とを行った」という。「子」の字が「×」2文字の下にあるのが、そのことを示しているのだろう。一方、「教」の字の右半分(ツクリ)は「攴」で、「長老たちの教権を示す」のだという。ということは、古代の中国において、エリート貴族の子弟を一定期間収容して、そこで長老たちが宗教的学問を教える場所--キリスト教的に言えば男子修道院のようなものを意味していることになる。また、そこで教わる宗教儀式や教学(教え)のことを示していると考えられる。
 
 こうなると、日本語の「宗教」は潜在意識と関係がないようである。が、『宗教学辞典』の執筆者の1人、脇本平也氏は、仏教が中国に伝わった際、サンスクリットの「siddhanta」の訳語として「宗」の字が当てられたことに注目して、以下のような興味ある解釈をしている--
 
「このsiddhanta とは siddha (成就され完成されたもの)と anta (終り・極致)との合成語で、仏教によって成就されたものの最終至上の極致という意味である。そこで“宗”とは、仏教の根本真理を把握することによって到達する究極的な至高の境地をさす」。(同書、p. 255)

 この解釈が正しければ、「宗」はもともと「悟り」「救い」「超越体験」に近いものを意味していたことになり、これは言葉によって表現が尽くせないものだから、前回の本欄で使った「潜在意識で起こる大きな出来事」を表していると言えるのである。この「悟り」の境地を宗教がどう表現するかについての脇本氏の説明は、なかなか興味深い--
 
「この境地は、それ自体としては言説文字にはつくせぬ極致であるが、しかもなおこれを言葉によって表現しようとするところに“教”が成立する。すなわち、人びとを導いて“宗”にまで到達させるために、相手に応じてさまざまの角度から述べられた言説が“教”である。したがって、宗教とは“宗と教”もしくは“宗の教”であり、この場合は要するに仏教のことである」。(pp. 255-256)

Religionegg  読者はここで、私が提案している“宗教目玉焼き論”を思い出してほしい。2つの同心円を卵の“目玉焼き”に喩え、黄身を宗教の「中心部分」とし、白身を「周縁部分」として捉える考え方だ。脇本氏はここで、黄身を「宗」とし、白身を「教」として考えているように見えるのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○白川静著『字統 普及版』(平凡社、1994年)

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コメント

ありがとうございます。
教えのもとが“宗”であり、“宗”=“悟り”という解釈でよろしいのでしょうか?

投稿: 国枝基広 | 2010年4月 1日 10:43

国枝さん、

>>教えのもとが“宗”であり、“宗”=“悟り”という解釈でよろしいのでしょうか? <<

 だいたいそう言えると思います。ただし、「悟りとは何か」の解釈によっては、そうならないこともあると思います。悟りにもいろいろな種類がある、と言われていますから……。「教えの神髄」とか「真如」という言葉の方が適当かもしれません。

投稿: 谷口 | 2010年4月 1日 11:58

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