「わかる」ということ (2)
前回に引き続き、特定の「ピンクのバラの花」とそれが「わかる」ということについて、さらに考察を進めよう。その時に登場した「この花がいつどこで収穫され、どこの花屋から買った何という種類のバラで、どれほどの値段のするものかをわかっている人」を、「Aさん」と呼ぶことにする。このAさんは、私たちが今考えている“特定のピンクのバラの花”を最もよく「わかる」人だろうか? 私は、必ずしもそう思わない。Aさんは、このピンクのバラの花について、確かに“外面的情報”を多くもっているかもしれない。しかし、彼が自ら花屋へ行ってバラを買ってきたとしても、植物としてのバラを育てた経験がなかった場合、バラの栽培を仕事としている人に比べると、そのバラを「わかる」度合いが勝っているかどうかは、充分に議論の余地があるだろう。バラ農家の人は、育てる過程でバラの香りの違いもわかり、トゲで刺される痛さも経験し、バラにつく昆虫の種類もわかり、気温や湿度に応じて異なる性質の違いもわかっているに違いない。バラの中には食用に開発されたものもあるようだから、もしかしたら味の違いもわかっているかもしれない。この人を今、仮に「Bさん」としておく。
また、ここにもう1人の「Cさん」を想定してみよう。この人は、バラの絵を得意とする女性の画家だ。彼女は、世界各地のバラ園に行って取材し、スケッチや油絵など数多く描いてきた。この人がもし私の講習会に来ていて、あの特定の「ピンクのバラの花」を会場の画面の中に見たとする。するときっと彼女の脳裡には、これまで描いた「ピンクのバラの花」の記憶が甦ってきて、その香り、花弁の柔らかさ、「ピンク」という1色だけでなく、その花を描くのに使った数多くの「ピンクの色」や「ピンク以外の色」のことなども思い出される。また、花弁の形や、ガクの色と形、葉の色、葉の表面の細かい毛、トゲの形と大きさ……なども思い出すかもしれない。それらは皆、「ピンクのバラの花」という簡単な言葉ではとても表現しつくせないから、彼女はその特定のバラの花について、「まだわからない」と感じるかもしれない。自分でその花の前に行き、スケッチブックを開いて、ペンや鉛筆を走らせて描いてみたい、という衝動に駆られるかもしれない。そうすることによって、彼女はより深くその花と接触し、理解し、その花を自分のものにする。その時、この花をやっと「わかる」ことができたと感じるかもしれない。
このようにして、私たちの思考実験で登場させたA、B、Cの3人を頭の中に並べてみる。そして読者に質問する--この3人のうち、どの人が、私たちが問題にしている特定の「ピンクのバラの花」をいちばん深く「わかる」と言えるだろうか? 繰り返すが、Aさんは、実際にその花を花屋に買いに行った人。Bさんは、バラ栽培を仕事としている人。Cさんは、バラの絵を得意とする画家である。この3人のうち誰が、最も深くそのバラを理解しているだろうか?
読者は、どんな答えを見出しただろうか? 私はこう考える。A、B、Cの三者は、それぞれの仕方でこのバラの花を理解していて、その理解の程度はそれぞれに「深い」。しかし、その深さの程度を互いに比べることはできないか、できたとしてもあまり意味がない。なぜなら、三者の理解は三様であり、質的に違うからだ。Aさんは、バラを愛する「消費者」の立場からその花を理解している。Bさんはバラの「生産者」の立場からの理解であり、Cさんはバラを愛する「表現者」としての立場から、そのバラを理解している。三者の理解には、もちろん共通部分もある。が、それぞれに独特の部分もあり、それらは比較できない。結局のところ、三者は、それぞれ自分の生活や仕事に“引きつけて”バラの花を理解するのである。言い換えれば、自分の立場を“通して”バラを理解する。それによって理解が深まる部分もあれば、逆に、理解が曇らされたり、歪められる場合もあるだろう。だから、何かの対象を私たちが「完全にわかる」とか、「完璧に理解する」ということはない、と考えていい。
私がなぜ、こんな面倒臭い議論をするかを説明しよう。それは、宗教の世界でもこれと似たことがよく起こるからだ。私たち人間は、何かを「わかった」と感じる時、それはまるで天から降った“啓示”のように確信を伴うことがある。それをよく「直感的にわかった」と言う人がいるが、その場合でも、私たちの理解は「完全」でも「完璧」でもないのだ。それは自分の立場を通して得た理解であるから、他の人がその人の立場を通して得た理解とは異なる可能性が残されている。だから、何かをよりよく「わかる」ためには、いろいろの立場、いろいろの角度から理解する努力が必要である。それを怠った場合、その人がどんなに確信をもって「わかった」ことでも、間違いであったり、浅薄な理解であることもあるのである。
谷口 雅宣
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コメント
ありがとうございます。函館教区青年会の奥田健介です。とても「わかる」ことについて考えさせられました。
『生命の実相」には『人はみなじぶんの経験したことのみを本当にするのである。経験しないことは「だろう」に過ぎないのである」とあります。だからどんな人の経験もそれはかちがあるのだと思います。例えば僕は先生の人生体験、本当にはわかれないのですね。残念な気もします。でもだからこそ先生の経験は尊いのだと思います。比較を絶した経験なのだと思います。
投稿: 奥田 健介 | 2010年3月19日 17:44
奥田さん、
>>例えば僕は先生の人生体験、本当にはわかれないのですね。残念な気もします。でもだからこそ先生の経験は尊いのだと思います。比較を絶した経験なのだと思います。<<
その人にとって自分の人生経験は、絶対的な価値があります。なぜなら、それしか知らないからです。それがなくなれば、その人自身も存在しないも同然です。そういう意味では、私の経験とあなたの経験を比較することはできません。あなたの経験も、私の経験と同様に尊いのです。
投稿: 谷口 | 2010年3月19日 18:07
先生コメントのせてくださいまして、またお返事もくださいましてありがとうございます。『人はみな、自分の経験したことのみを本当に知るのである。経験しないことは「だろう」に過ぎないのである。これは本当ですね。僕の人生経験も先生の人生経験と同様に尊い、大変勇気を与えられました。ありがとうございます。ただ先生は使命としてこれからも先生の学ばれたこと、経験されたこと通して多くの方をすくわれることでしょう。僕も先生に救われた一人です。感謝しています。先生のブログや著書はとても面白いし、興味深いです。一生ついていきます!確かにぼくも自分の人生経験しか知らないです。それが多くの方の参考になればと願う日々です。2回大病を経験したし、今、念願かなって仕事しているのも事実です。先生にはずいぶんいろいろ指導していただき、まことにありがとうございます。これからもよろしくおねがいします。奥田 拝
投稿: 奥田 健介 | 2010年3月20日 17:36