古い記録 (14)
昨年末以来、ひさしぶりでこの題で書く気になったのは、生長の家講習会のために来た名古屋市で今日、愛知教区の木場一廣・教化部長から“小学生の詩”を見せてもらったからだ。この小学生とは、実は私自身のことだ。私が小学6年生の時に書いた詩が、東京生命学園が発行した文集に載っていたというのである。「かべ」と「ビル工事」という題の2作である。別に傑作というわけではないが、私が今「感覚優先のものの見方」と呼んでいるものが、ここにあると感じる。子供の頃、人間はきっとこういうものの見方、感じ方をしているのだ:
か べ
かべを見つめた
おやこんな所にあながある
おやここにはひびがはいってある
このかべはずいぶん古いな
このひびは大きい川だ
このひびは小さい川だ
このあなは湖だ
ビル工事
目をつぶった
人の声といっしょに
ガタガタと
音が聞こえる
きっと工事の音だろう
まどから見てみると
むこうのビルから
ガタガタと音が
きこえる
この暑い日にも
働いている人が
いるのか
最初の詩は、単純だから解説の必要はあるまい。2番目のものも同様だが、あえて言うと、感覚が視覚から聴覚へ移ることで、考えも変わることを示している。人間の視覚から入る情報は大量だから、それを処理する「視覚野」と呼ばれる神経細胞群は、脳の中でも大きな領域を占める。そこからの入力を止めるのが「目をつぶる」ことだ。これによって、聴覚に注意が集中される。すると、これまで気がつかなかった小さな音が聞こえてくる。それに伴い、作者の考えが新たに生まれる。その考えにもとづいて行動が起こる。そして「この暑い日にも人が働いている」という驚きとなる。素直な少年の詩ではある。
谷口 雅宣
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント