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2010年3月13日

古い記録 (14)

 昨年末以来、ひさしぶりでこの題で書く気になったのは、生長の家講習会のために来た名古屋市で今日、愛知教区の木場一廣・教化部長から“小学生の詩”を見せてもらったからだ。この小学生とは、実は私自身のことだ。私が小学6年生の時に書いた詩が、東京生命学園が発行した文集に載っていたというのである。「かべ」と「ビル工事」という題の2作である。別に傑作というわけではないが、私が今「感覚優先のものの見方」と呼んでいるものが、ここにあると感じる。子供の頃、人間はきっとこういうものの見方、感じ方をしているのだ:
 
  か べ

 かべを見つめた
 おやこんな所にあながある
 おやここにはひびがはいってある
 このかべはずいぶん古いな
 このひびは大きい川だ
 このひびは小さい川だ
 このあなは湖だ

  ビル工事

 目をつぶった
 人の声といっしょに
 ガタガタと
 音が聞こえる
 きっと工事の音だろう
 まどから見てみると
 むこうのビルから
 ガタガタと音が
 きこえる
 この暑い日にも
 働いている人が
 いるのか
 
 最初の詩は、単純だから解説の必要はあるまい。2番目のものも同様だが、あえて言うと、感覚が視覚から聴覚へ移ることで、考えも変わることを示している。人間の視覚から入る情報は大量だから、それを処理する「視覚野」と呼ばれる神経細胞群は、脳の中でも大きな領域を占める。そこからの入力を止めるのが「目をつぶる」ことだ。これによって、聴覚に注意が集中される。すると、これまで気がつかなかった小さな音が聞こえてくる。それに伴い、作者の考えが新たに生まれる。その考えにもとづいて行動が起こる。そして「この暑い日にも人が働いている」という驚きとなる。素直な少年の詩ではある。
 
 谷口 雅宣

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