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2010年1月 1日

四無量心を現すために

 元日の今日は、東京・原宿の生長の家本部会館ホールで午前10時から新年祝賀式が行われた。今年の元旦は日本各地が寒波で覆われたが、幸い関東地方は快晴となり、穏やかな雰囲気の中で式典が執り行われたことは誠にありがたかった。私はこの日、概略以下のような内容の“年頭の言葉”を述べた:」

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 皆さん、新年おめでとうございます。
 今年は寅年ということで、巷には動物の虎の絵や置物、縫いぐるみなどが出回っているようであります。私はこの新しい年は、我々は大いに飛躍する予感がするのであります。諺によりますと、例えば「虎に翼」とか「虎の威を借る狐」、また「虎は千里の藪に棲む」などと言うように、「虎」という動物は優れたもの、勢いの強いものを意味します。今年はそういう意味で、大いなる発展の年にしたいのであります。
 
 私は昨年の秋の記念日の時に、私たち人間が「自然を愛する」という時の愛し方についてお話ししたのであります。それは、産業革命以来の人類の歴史の中では、人間が自然を利用して自らの利益を得ようという考えが強かった。これは、愛の段階では「執着の愛」であり、「自然から奪う愛」だったと申し上げました。そして今、地球温暖化による気候変動が世界的に進行している中では、もはや自然から「奪う愛」では地球生命とともに人類も傷つくことが明らかになってきている。だから、今後の人類は「与える愛」を実行する段階に来ているという話をしました。このことをもっと宗教的に言うと、「神の無限の愛」とも言われる「四無量心」の実践が、21世紀の人類の発展と地球環境との共存のためには欠かせない、ということです。
 
 すでに皆さんの多くは御存じありますが、「四無量心」とは慈・悲・喜・捨はの4つの仏の心のことです。「慈」は「抜苦」といって、人の心から苦しみを除こうとする思い、「悲」は「与楽」といって、他の人に楽しみを与えようという心、「喜徳」は他人の喜びを我が喜びとする心、そして、「捨徳」はすべての執着を放ち、相手を自由に放つ心です。人類は今、人に対するだけでなく、自然界に対しても、このような四無量心の実践が必要になっている--そういう話を秋の記念日に申し上げました。詳しくは、機関誌『生長の家白鳩会』の2月号に載っているので、お家に帰ってからしっかり読んでください。この四無量心は、『維摩経』などの大乗仏教の経典で説かれているのですが、基本的には対人関係における“仏の心”と言えます。ひと言でいえば、高度の自他一体感をもつことで、「神の無限の愛」のことだと表現されています。

 しかし、私たち人間は、人に対してそういう高度の自他一体感をもつことができるだけでなく、自然界の他の生物に対しても、そういう心をもつことができるのです。現に多くの人々は、ペットを飼ったり、家畜や農産物を育てる過程でそのことを経験していると思います。皆さんの中でも、ご家庭でペットを飼っていられる方は、ペットが苦しめばその苦しみを除いてあげたいと思うし、ペットが喜べば自分も嬉しくなるはずです。この想いをもっと拡大し、自然界のあらゆる生物に対して仏の四無量心を現していくことができれば、地球温暖化の問題に根本的な解決の道を示すことができると思うのです。
 
 もちろん、このことは言葉で言うように簡単にできることではありません。どうすれば、そのような心境に達することができるでしょうか。その一つの答えを、今日は『維摩経』から学びたいと考えます。
 
『維摩経』では、文殊師利が維摩詰に対して「菩薩、云何(いかん)が衆生を観ずる」と質問するところがあります。「菩薩というものは、どのような心境で衆生を観ずるべきでしょうか?」と訊いたわけです。そうすると、維摩居士は「譬えば幻師の所幻の人を見るが如く……知者の水中の月を見るが如く、鏡中にその面像を見るがごとく…」などと答えています。「幻師」とは妖術使いのことです。妖術使いが妖術で、本当にはいない人の姿をアリアリと眼前に見せている。目の前の人は、そんな所に、そんな恰好をして居るわけではないが、妖術によってそう見えているということです。「妖術」というのは昔の言葉ですが、「幻覚を見せる術」のようなものです。

 維摩居士の答えは、そういう幻覚の像を見ているように、世間のもろもろの人々を眺めればいいというのです。つまり、実相は神の子であるのに、目の前にいる姿は失敗者や犯罪者のように見えているということです。現象の不完全さに捉われない、迷わされないということです。それは、水面に映った月を見たり、鏡の中の自分の顔を見るのと同じで、“本当の姿”はそこにはないことを知れという意味です。「現象は、実相の不完全な投影である」という意識をもって見ればいいのです。
 
 そういうものの見方が、四無量心の中の「慈」を現わす菩薩行になるということを維摩詰が言うのです。すると文殊菩薩は、「どうしてそれが慈悲の表現か?」と訊きます。そこで維摩が言う言葉の最後に、「無等の慈を行ず、諸愛を断ずるが故に」というのがあります。これの解釈を谷口雅春先生の『維摩経解釈』から引用しましょう--
 
「“諸愛”というのは諸々の煩悩のことであります。『阿含経』には釈尊が悟りを得られたときの状態を“諸愛ことごとく解脱し”という風に書かれております。近代の日本語では慈愛と愛とを混同して使いますから、色々実際人生に於ける道徳行の上に混乱を引き起こしているのですが、“好き”とか、“欲しい”とか、“自分に近づけて置きたい”とか、“離れたら淋しい”とか感ずる愛は、これは我れと等しからんと欲する愛ですから、等慈であって、煩悩であります。無等慈は、我れと等しからんことを欲しない、自分が斯うしたいと思うように相手を縛らない愛であります。相手の肉体は、“幻術師のあらわした幻の肉体”に過ぎないとわかれば、わが如く等しくして異なることなからしめんなどと執着した慈悲を行わない。相手を自分に縛りつけて置こうなどと思わない」(p.293)

 このことを人間が自然界に接する時の心に置き換えてみると、どうなるでしょうか? それは「自然界を人間の意のままに利用しようとは思わない」ということです。つまり、人間が自然界を征服して、自分だけが繁栄しようという心を捨てよということです。これは、近代の産業革命以降の人間の考え方とは大いに異なるものです。しかし反面、私たちはペットや家畜の飼育や農業を通して、そういう自然との自他一体の心を経験している。だから、「できない」のではなく「しない」のです。私たちのような宗教運動は、そういう“心の持ち方”を広めていくところに重要な意味があるのではないでしょうか。
 
 そこで今日は、環境運動ではできない、宗教にしかできない方法で、この高度な自他一体感の醸成と拡大とを行うことを皆さんに提案したい。それは「神想観」を行うということです。ご存じのとおり、生長の家には「四無量心を行ずる神想観」というのがあります。これの“新バージョン”を作りましたので、ここにご紹介いたします。
 
 (神想観の最初の基本部分に続いて、次のように唱えます)

「わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体にして、虚空に広がり宇宙に満ち、一切の衆生をみそなわして、その苦しみを除き、悩みを和らげ、楽を与え、喜びを与えんと欲するのである。

 わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体にして、さらに虚空に広がり宇宙に満ち、地球のすべての生命(せいめい)と鉱物の一切を見そなわして、その苦しみを除き、楽を与え、多様性を護り、喜びを与えんと欲するのである」

 (この2つの言葉を繰り返して念じた後で、次のごとく念じます)

「一切衆生の苦しみは除かれ、悩みは和らげられ楽は与えられ、喜びは与えられたのである。ありがとうございます。ありがとうございます。
 
 すでに、地球のすべての生命(せいめい)の苦しみは除かれ、楽は与えられ、多様性は護られ、喜びは与えられたのである。ありがとうございます。ありがとうございます」

 この神想観を、今年から機会あるごとにしっかり実修して、“炭素ゼロ”を念頭においた真理宣布の運動を、今年も大いに拡大させていきましょう。皆さん、本年もよろしくお願い申し上げます。

 谷口 雅宣

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コメント

合掌ありがとうございます。
新年の御挨拶ありがたく読ませて頂きました。

待ってました!と云わんばかりの喜びであります。私は自然環境問題を毎朝の神想観に取り入れ祈りたいと願っていました。


そして総裁先生は必ずその祈り方を発信して下さると思っていました。私は、世界平和の祈りの中にその言葉が組み込まれるのではないかと予想いたしておりました。

ところが「四無量心を行ずる神想観」に自然との自他一体感を観じ思念する言葉が発表され、まさにこれだと大喜びであります。

あまりに嬉しかったので書き込みさせて頂きました。ありがとうございます。

投稿: 豊田建彦 | 2010年1月 2日 10:07

豊田さん、
 ありがとうございます。
 「世界平和の祈り」への組み込みも十分考えられますが、ズバリ四無量心でいきました。フィードバック、ありがとうございました。

投稿: 谷口 | 2010年1月 2日 17:01

合掌,ありがとうございます。
総裁先生,あけましておめでとうございます。

 「四無量心を観ずる神想観」の“新バージョン”のことが,“posting joy”で話題になっていましたので,ぜひ実修したいと思っておりました。早速ウェブ上に掲載して頂き,ありがとうございます。今夜,必ず実修いたします。
 言葉を読んでいるだけでも感激しましたので,神想観で念じたら,涙が出そうな気がします。
 感謝,再拝

投稿: 佐々木 | 2010年1月 2日 17:36

合掌 あけましておめでとうございます。初めて投稿させていただきます。先の秋季大祭の総裁先生のお言葉を知って以来、『四無量心を行ずる心想観』を毎日行うようになっていました。さらに素晴らしい『心想観』をありがとうございます。いつも、谷口雅春大聖師・谷口清超大聖師の教えを分かりやすく、実行しやすいようにご指導いただいておりますことに、ただ、ただ、感謝です。ありがとうございます。三正行に励み、少しでもお役に立たせていただけますよう精進いたします。再拝

投稿: 石田 盛喜代 | 2010年1月 5日 09:56

新バージョンの「四無量心を行ずる神想観」のご発表、心からうれしく存じます。
自分で毎日実修すると同時にこれから出講の機会等を通して、多くの同志達にこの趣旨の徹底を行いながら、日々実修してもらうようにお勧めして参ります。
ありがとうございます。

投稿: 加藤 忠司 | 2010年1月 5日 11:28

石田さん、
 コメント、ありがとうございます。
 こちらこそ、新年おめでとうございます。本年もよろしく本欄をお引き立てください。
 ところで、漢字の誤変換があります。「心想観」でなく「神想観」です。意味が違ってくるので注意してください。

加藤さん、
 あけましておめでとうございます。
 ご支援に感謝申し上げます。

投稿: 谷口 | 2010年1月 5日 11:41

合掌 ありがとうございます。
総裁先生、あけましておめでとうございます。
「四無量心を観ずる神想観」“新バージョン”にとても感激したのでコメントを書かせて頂きました。このような素晴らしい神想観を発表して下さり、本当にありがとうございます。早速実修させて頂きたいと思います。
再拝

投稿: 丸山貴志 | 2010年1月 5日 20:32

 「四無量心を行ずる神想観」をしっかり覚えて実践する決意です。

 谷口雅春先生著『實相と現象』を何気なく開いてみましたらそこに“四無量心”について書かれてあるところがありました(237頁~)のでその箇所だけ拝読しました。(『實相と現象』を開いたキッカケは「天津祝詞」が読みたいと思ったからでした)
 拝読しまして、自他一体の心を持つこと、實相直視の姿勢を堅持すること等が大切であることをわからせていただきました。

 車を運転している時や職場でのもめ事等がありますとつい現象に囚われてしまいがちですが、心を直ぐにチェンジして實相を直視しなければならないと考えます。
 特に、常に身近に接する職場の上司や同僚・部下等の實相をトコトン拝まなければならいないと思っております。
 今年はまずそのことに徹したいと思います。

 再拝

投稿: 志村 宗春 | 2010年1月 6日 19:49

ゆには練成会が13日から始まりした。
就寝前の神想観で新四無量心を観ずる神想観を
行いました。
生命のところ「いのち」ととなえましたが、
「せいめい」の方がよろしいのでしょうか?
ご教示くださいませ。古谷正拝

投稿: 古谷正 | 2010年1月14日 07:27

古谷さん、

 「生命(せいめい)」と入れておきました。どうぞよろしく。

投稿: 谷口 | 2010年1月15日 15:01

この記事へのコメントは終了しました。

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