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2010年1月31日

サイバー戦争は始まっている (3)

 アメリカは、中国のサイバー攻撃に対する“次の手”を打ったようだ。事態の速い展開に驚かされる。前回の本欄の段階では、「台湾に対してミサイル防衛システムを含む高度な防衛機器を輸出する考えを表明した」ところまでだったが、今日は国防総省がその輸出内容を具体的に示した計画を米議会に正式に通告した、と発表した。また、事前(29日朝)に、中国大使館にその意向を伝えるという措置もとった。ナイ教授が言った「攻撃者に対する大きな代償」とは、やはりこの“台湾カード”だったのだ。クリントン国務長官の言葉は、単なる脅しではなかった。
 
 30日の『日本経済新聞』の夕刊が、このことに詳しい。発表されたアメリカの武器売却計画の総額は64億ドル(約5千8百億円)だが、台湾がもともと希望していたリストから新型F16戦闘機と潜水艦が外された。これは中国に対するメッセージだろう。つまり、「この件に要求どおりきちんと対応しない場合は、これらの兵器を追加売却するかもしれない」という含みがあると考えていい。実際、空母を建設中の中国が神経質になっている潜水艦については、政府高官がわざわざ「売却の可能性を排除したわけではない」と言っている。また、これらの兵器は米議会から30日以内に反対がなければ台湾の手に渡る手続きが始まるから、中国の対応には1カ月の猶予が与えられている。
 
 中国側はもちろん大きく反発している。中国外務省はアメリカの駐中国大使に「強烈な憤慨」を伝えて、武器売却の即時停止を要求し、何亜非外務次官は「中米関係を損ない、両国のさまざまな重要分野での交流・協力に重大で否定的な影響を与え、双方が目にしたくない結果を招くことになる」と脅しを含む言葉を伝えたという。『日経』の記事によると、中国が抗議の意思を示す場合、「強烈な不満」という言葉を使うのが普通だが、「強烈な憤慨」はそれより強いから、何らかの報復措置は避けられないかもしれない。また、『朝日新聞』夕刊は、中国の外交上のコメントは普通、報道官が発表するが、外務次官が即座に反応するのは異例で、事態を重視していることを示していると分析している。そして、その数時間後、中国国防省は、米中両国軍が計画していた相互訪問を一時停止することを決め、同外務省は武器売却に関連する米企業への制裁や、近く予定していた安全保障分野の次官級対話の延期も発表した。

 公の声明文や抗議文を使ったこういう外交上の駆け引きは、リスクが大きい。なぜなら、対立する双方の国民が関与してくることになるため、ナショナリズムが燃え上って予測できない結果を生む可能性があるからだ。上記の『日経』は、すでに中国のインターネット上で「米国は意図的に中国を激怒させようとしている」などの批判が相次いで書き込まれていると報じている。そのリスクはあっても、サイバー攻撃をやめさせなければならないという強い意志が感じられる。クリントン国務長官の「自国のネットワークを必ず護る」という言葉を、国防総省が実際の計画で形にしたということだろう。この両者を動かせるのは大統領だけだ。
 
 今回のアメリカの措置は、もちろんサイバー攻撃への報復だけが目的ではない。アメリカと台湾の間には準軍事的同盟があり、最近の中国の急激な軍備増強によって台湾海峡の軍事バランスが崩れる危険性があったため、アメリカは台湾側の要望に応える必要があった。今回の売却リストにある武器は主として防衛的なもので、地対空誘導弾パトリオットは114基だ。これに対し中国は台湾を射程内にするミサイルを1300基以上配備しているから、万全な防衛とはとても言えない。リストに含まれた軍事多用途ヘリコプター「ブラックホーク」は兵員輸送にも使えるが、対戦車攻撃にも使えるという。しかし、これによって台湾が軍事的に有利な立場になることはない。31日付の『朝日新聞』は、軍事専門家の次のような分析を載せている--
 
「台湾の軍事力で中国より優位にあるのは空軍のみ。その差も縮まっている。台湾がF16を獲得できなければ、数年内に中国の優位はほぼ完全に確立されるだろう」。

 このように米中関係が難しい方向に傾きだしている中で、日本の外交政策はまだ定まらずにフラフラしているように見える。日米関係を「外交の基軸」と言っている鳩山首相なのだから、その証拠を言葉ではなく、実際の行動で示すべきときが来ていると思う。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月29日

サイバー戦争は始まっている (2)

 27日付の『ヘラルド朝日』紙に載った解説記事には、「アメリカはサイバー攻撃時代の抑止を探究する」(U.S. seeks deterrents in an era of cyberattacks)という題がついている。副題は、「国防総省による詳細な研究は、敵の特定と反撃が抱える複雑な問題を示す」である。この副題の中に、サイバー攻撃を抑止することの難しさが凝縮して表現されていると思う。読者にはまず、現代のサイバー攻撃で何ができるかを知ってほしい。
 
 この記事には、攻撃対象に考えられるものとして、送電システム、通信システム、金融システムの3つが挙げられている。今年1月11日の朝、米国防総省の指導者たちは、これらに対するサイバー攻撃を受けた際の対応を詳しく検討したらしい。その結果わかったことは、サイバー空間では敵を特定することができないため、報復攻撃をすると脅すことで、敵のさらなる攻撃を効果的に抑止する方法はないということだった。さらに悲観的な結論は、敵が特定できなければ、国防総省は報復攻撃を行う法的権限をもたないということだった。サイバー攻撃は、単なる個人による破壊活動なのか、商業上の秘密を盗むためなのか、あるいは米国社会の機能麻痺をねらった国家やテロ集団による攻撃なのかを判別することができないという。だから、国家防衛を任務とする国防総省は報復攻撃の可否を一元的に決定できないのだ。
 
 インターネットは、今や軍事と民間の境界なく、社会のあらゆる部門で使われているため、攻撃を意図する側は、軍事対象や政府機関のコンピューターにまったく“手”を触れずに--例えば、信用取引市場を機能不全に陥れることで--国家機能を麻痺させることができる。ということは、たとえ国防総省にサイバー攻撃やその抑止のための高度な技術が備わっていても、大統領の命令がなければ、軍は動けないし、攻撃があったと知ることもできない可能性があるのである。事実、今回のグーグルへのサイバー攻撃は、グーグル自身がそれを察知し、米政府に報告したことで初めてそれが認知されたという。それができたのは、グーグルがこの分野でトップクラスの技術をもつ企業だからで、そうでない企業のコンピューターが侵入された場合は、被害は比較にならないかもしれない。また、今回の攻撃では、グーグル以外の30を超える企業のコンピューターが何者かに侵入され、その攻撃の軌跡をたどったグーグルの技術者は、攻撃源が台湾に置かれた7つのサーバーであることを突き止め、さらにそれらのサーバーには、中国本土から操作されていたことを暗示する“足跡”が残されていたという。

 この事件が起こったのが、国防総省のシミュレーションとほぼ同時の11~12日であり、それから約1週間後にクリントン国務長官の先の演説が行われた。この中で同長官は、「国家や、テロリストたち、そしてそれらの周辺で行動する者たちが知らなければならないのは、アメリカは自国のネットワークを必ず護るということだ」と断言した。同長官は、中国が攻撃の背後にあるとは言わなかったが、中国政府が「徹底的な調査」を行い、その過程と結果とが「透明性のあるものである」ことを強く望んだ。この演説に関連して、親日家でもあるハーバード大学のジョセフ・ナイ教授(Joseph S. Nye, Jr.)は、上掲の記事の中で「我々は今や、ソ連が核爆弾を持った1950年代初期と同じ段階にある」として、サイバー攻撃の抑止は、「核抑止と同じ形になることはないが、クリントン長官が言っていることを聞けば、攻撃者に対して大きな代償を作り上げようとしていることが分かるだろう」と言っている。

 さて、これらの事実をどう読むかが重要である。アメリカでは私企業のいくつかのコンピューターにハッカーが侵入したため、国務長官が大げさに反応したという見方もできるかもしれない。私も当初、そんな印象をもっていた。しかし、グーグル以外にハッカーの侵入をうけた企業がどこであるのかは、発表されていない。なぜだろうか? それが大手通信会社であったり、金融機関であったり、電力会社だった場合、どう考えたらいいのだろうか? そういう企業を30社以上も同時に攻撃できる者を、単なる個人的マニアだと考えるべきか。それとも、何か大きな、アメリカにとって好ましくない意図をもった団体や組織だと考えるべきか。今回の事件では、アメリカは後者の可能性が大きいと考え、国務長官の厳しく、明確なメッセージを出すべきだと考えたのだ。これに対して、中国政府は大きく反発し、自分たちが関与していないと否定した。しかし、アメリカが要請した「徹底的調査」や「過程の透明性」については沈黙を守っている。そこで、業を煮やしたオバマ政権は、台湾に対してミサイル防衛システムを含む高度な防衛機器を輸出する考えを表明したのではないか。ナイ教授は、このことを「攻撃者に対して大きな代償を作り上げようとしている」と論評している--そういう見方ができるのだ。

 つまり、我々は今、サイバー戦争の始まりを見ていると考えられるのである。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月28日

サイバー戦争は始まっている

 ネット情報に詳しい読者は、最近、米検索大手のグーグル社が中国と問題を起こしていることをご存じだろう。それに関して、アメリカのクリントン国務長官が21日に、中国に対して厳しい発言をしたことも報道された。それでは、オバマ政権が台湾に対して、ミサイル防衛システムを含む高度な防衛機器を輸出する考えを表明していることは、ご存じだろうか。私は、この3つの事実のうち、最初の2つが密接に関係していることは知っていたが、3番目の事実との関係を深く考えたことはなかった。しかし、27日付の『ヘラルド朝日』紙に載ったデイビッド・サンガー記者ら3人の手による解説記事を読んで、現代の安全保障の最前線が“テロとの戦争”や核拡散だけでなく、インターネットを経由した“サイバー攻撃”とその抑止問題にあることを改めて知った。そして、今回のグーグルの問題が、単に一私企業の経営問題ではなく、「サイバー攻撃の抑止」という軍事・外交の問題でもあることを知った。

 『 ウォール・ストリート・ジャーナル』などによると、グーグルは1月12日、自社が運営するGメール・システムが中国本土からのサイバー攻撃によって被害を受けていることをブログで明らかにし、「発見された攻撃や監視と、ウェブでの自由な発言への制限を強めるここ1年の動きが相まった結果、中国での事業の存続可能性を見直さなくてはならないとの結論に至った」と発表した。また、同社が中国政府との間で合意していた“自主規制”は、もはや実行しないことを宣言した。13日配信のロイター電によると、この“自主規制”とは、グーグルの中国ウェブサイト「Google.cn」での検索結果に対する検閲のことだ。グーグルの発表は、最悪の場合、巨大な中国市場からの撤退もやむを得ないと考えた同社の重要な決断だ。同社がどんな攻撃に晒されたのかというと、中国からGメール・システムを利用している反体制派の活動家のアカウント2件に、何者かが侵入を試みたということらしい。
 
 これに対し、中国政府は14日、外務省報道官が「中国のネットは開放的で、外国企業が中国で法律に基づき事業を展開することを歓迎する」と述べただけだった。ところが、欧米メディアがこの問題を盛んに報道したことで、中国国内の関心が高まり、中国政府の態度はしだいに硬化した。特に21日、クリントン国務長官がインターネットの自由について行った演説の中で中国の検閲を批判したことで、米中の国際問題に発展しつつある。27日付の『産経新聞』は同長官の演説の該当部分を掲載しているが、その内容が、中国政府の国家統治の考えと大きく異なるため、中国の反発が拡大したと思われる。2、3箇所、引用してみよう--
 
「グーグルが関係する最近の状況は、大きな関心を集めた。そしてわれわれは、グーグルの(中国撤退も辞さないとの)発表にまで至ったサイバー空間上の侵入行為について、中国当局が徹底的な調査を行うことを期待する。また、調査とその結果が透明性のあるものであることを望む」。

「中国では現在、たくさんの人々がインターネットにつながっている。しかし、情報への自由なアクセスを制限したり、ネット利用者の基本的な権利を侵害したりする国々は、次の世紀の進歩から自身を遮断する危険をおかすことになる」。

「情報の自由は、世界の進歩の基盤となる平和と安全を支えるものである。歴史的にみると、情報へのアクセスの非対称性は、国家間紛争の主因の一つだ。深刻な見解の相違や物騒な事件に直面したとき、その問題をめぐって対立する立場の人々が、同じひとまとまりの事実と意見を入手する手段を持つのは、決定的に重要なことなのだ」。

 これらの演説の背後にある個人の自由と民主主義尊重の考え方が、中国共産党の一党独裁を国是とする政治哲学と基本的に異なることは、誰の目にも明らかだろう。そんなことをアメリカ政府が知らないはずがない。にもかかわらず、この時期にそれを国務長官の対中演説として発表することの意味は、どこにあるのか。上記の記事を読むまで、私にはそれが分からなかった。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月26日

農林業はエネルギー産業

 25日付の『日本経済新聞』で、丸紅経済研究所の柴田明夫所長が「太陽エネルギーを使い尽くせ」と言っていた。その意味は、太陽光発電だけを考えずに、古くからある太陽熱温水器も太陽熱発電も、はたまた農業も林業もみな、太陽エネルギーによって支えられているという点では同じであり、これからはそれらをすべて動員する「太陽系エネルギー源」へ産業構造の転換を図らねばならないということだ。柴田所長は、現代の社会は「地下系」の資源に依存して成長してきたが、それの限界が見えてきたから、今後は「太陽系」への転換が必要という。この考え方は、私がかつて本欄で紹介した「地下資源文明」から「地上資源文明」への転換という総合研究大学院大学の池内了(さとる)教授と同じだ。

 ただし、農産物や森林を“エネルギー源”として見るという柴田氏の発想は、新鮮に感じられる。「農地は究極のソーラーパネルです。農産物は太陽エネルギーが濃縮されて、私たちにとって有用な形に固定化されたものなのです」と柴田氏は言う。林業については語っていないが、まったく同じことが言えることは本欄の読者ならお分かりだろう。森林は、太陽エネルギーを炭素として固定化した木々の集成なのだ。農産物は、我々人間の肉体を維持し、活動させるためのエネルギー源である。森林は、我々人間の住居や仕事場を維持し、一定の熱を供給するためのエネルギー源である。しかも両者とも、使い方を間違わなければ枯渇しない再生可能エネルギー源である。そういう視点に立てば、21世紀の日本に必要であるだけでなく、「他国から奪わない」という倫理的要請にも合致する“エネルギー産業”は、農業と林業ということになる。
 
 本欄では4回にわたって、生長の家が進めている“森の中のオフィス”構想の概要を書いたが、読者がもし「なぜわざわざ森の中か?」という疑問をまだ抱いているとしたら、この「太陽系エネルギー」という言葉の中にその解答がある。つまり、生長の家は、未利用の太陽系エネルギーが豊富にある地域に国際本部を移すのである。何のためか? それは、それらの太陽系エネルギーが人間の生命源でありながら、現代人はその生命源との接点を失いつつあるからだ。生命源の近くに住み、そこで働くことで、人間本来の神性・仏性の自覚が深まるだけでなく、そこから新たな、他から奪わない、自然と共存する文明を築き上げることが、21世紀における人類の使命である。それを、人さまより少し早く実行するだけなのである。
 
 同じ25日の『日経』は、日本の森林の現状について興味深い記事を掲載している。それによると、日本の森林面積は約2500万ヘクタールで、国土全体に占める割合としては先進国でトップクラスの67%。まさに「森林資源大国」と表現できる。しかも、戦後に植えた大量の人工林が今や育って木材として出荷できる主伐期を迎えている。このことは、森林面積に樹木の成長度をかけた「森林蓄積量」を計算してみるとわかる。その数値は「約44億立方メートル」に上り、40年前の2倍を超えている。この巨大な「太陽系エネルギー源」を再生可能な方法で利用し、持続的に利用していく仕組みを作り上げていくためには、「今」が最良の機会なのである。生長の家は宗教運動だから、そういう第一次産業に直接かかわるわけではない。しかし、建材や燃料としての地元木材を利用し、地元の農産物を食し、そして何よりも自然と共存する“大調和の信仰”と哲学を宣布することで、21世紀の人類の使命遂行に参画できるし、そうしたいと考える。
 
 “森の中のオフィス”との関連でこのことを言えば、新しいオフィスは、地元の木材を使った木造低層建築(2階建て)で、自然の営みをできるだけ乱さない方式での建設が検討されている。予定地の八ヶ岳南麓の日照時間は、日本ではトップクラスだから、この太陽エネルギーをうまく利用すれば、冬場も昼間は暖房があまりいらない快適な執務環境が実現可能と聞く。職員の交通手段には電気自動車などのエコカーを使い、電源は太陽光発電などの「太陽系エネルギー」から得る方法が検討されている。このような方策により、目標としては3年後のスタート時点で“炭素ゼロ”を実現したうえでの国際本部移転が計画されている。
 
 また、15年ほど先にはなるが、JR東海はこの地にリニア中央新幹線を敷設する予定で、その計画は着々と進んでいる。今年1月8日には、同社の葛西敬之会長がこの新幹線の一部区間を先行して開業させる方針を明らかにした、と9日付の『朝日新聞』は報じている。それによると同氏は、「リニアの部分開業は既定路線。可能な区間から開業する。神奈川-山梨が適当だろう」と述べたという。開業時期は明確にしなかったが、東京-名古屋の全体の開業予定が2025年だから、それより早い時期ということだ。これが動き始めれば、東京から甲府までは20分ほどで移動できる。生長の家はそれを当てにして八ヶ岳南麓に移転するわけではないが、リニアの温暖化促進効果が深刻でなければ、先進的な公共交通機関の利用を避ける理由はないだろう。我々は“森の中”に移り住んでも、社会から隔絶するつもりは毛頭ないからである。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月24日

“森の中のオフィス”について (4)

 前回の本欄では、昨年4月に決まった“森の中のオフィス”の7項目の中・長期的ヴィジョンのうち、運動戦略に当たる3項目について大ざっぱに解説した。その3カ月後(7月)には、これらのヴィジョンをどのように実現していくかを示す、より具体的な方策4項目が決まった。それを示すのが「今後の国際平和信仰運動の展開について」という文書である。その中の主なものだけを拾ってみると--

1.教団内の“炭素ゼロ”の推進
 “森の中のオフィス”は2012年までに一部または全部を設置。設置の時点で“炭素ゼロ”とする。その目的で、温室効果ガスの吸収に必要な森林地をブラジルとの協力で確保するなど、具体的方策を講じる。また、2020年までに、その他の世界の主要拠点で“炭素ゼロ”を実現する。

2.グローバルな対社会アプローチ
 温室効果ガスの排出削減を社会全体で進めるために、世界の生長の家拠点および信徒の生活の場において、生長の家の御教えを伝えるとともに低炭素のライフスタイルを推奨し、自治体等とも連携して地域の低炭素化に貢献する。

3.日本での対社会アプローチ
 環境分野の活動としては、トップランナーの役割をさらに推進する。
 (1) 2010年度から2012年までに、生長の家の教化部、道場などの主要施設で電気自動車および急速充電施設を導入し、地域のインフラとして開放するなど、低炭素化に貢献する。
 (2) 2013年度から、組織の会員に対して、家庭での“炭素ゼロ化”を推進する。また、会員の住む各地域では、可能なところから植林等の低炭素化方策の採用を自治体や農家などへ呼びかける。
 
4.国内施設の活用
 2014年度から、“森の中のオフィス”の近隣に後継者養成を目的とした学校を設置し、活用する。この準備のため、養心女子学園の組織とカリキュラムを見直し、また本部職員を教育して必要な資格を得させるなど、人材確保を計画的に進める。
 オフィスへの移転時には、国際本部、原宿跡地、赤坂跡地、本部練成道場、河口湖練成道場、東京第一教化部、東京第二教化部の7拠点を電気自動車のネットワークで結び、活用する態勢を整える。

 この7月の文書に続いて、9月には「“森の中のオフィス”移転後の運動について」という文書が決定し、本部レベルだけでなく、教区レベルにおいても今後、どのような運動を展開するかの概略が決まった。この文書の内容は専門的すぎるので、ここでは詳しく紹介しない。しかし、第一線の活動に関係する次の部分は、引用しておいた方がいいかもしれない--
 
「大自然への畏敬や感謝の心を育て、自然との一体感を深めるため、平成22年(2010)度から、各教区において、従来の行事の中に大自然に学ぶプログラムを積極的に取り入れて、自然の美に触れたり、自然の仕組みの精妙さなどについて学ぶとともに、自然物(野菜、木材、粘土など自然界にあるもの)を使った物づくりなどを体験する。また、各地の練成会などでも、同種の行事を積極的に取り入れて“自然から奪わない”生活実現のための精神的素地を涵養する。これにより、第一線で行われる新しいタイプの誌友会の講師養成も図る」。

 本欄で20日から4回に分けて書いた説明で、生長の家が“森の中のオフィス”へ国際本部を移転する意味と、それにともなう変化について、読者が大体のイメージを理解してくだされば幸甚である。

 谷口 雅宣

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2010年1月22日

“森の中のオフィス”について (3)

 生長の家の国際本部が“森の中”に移転した後、日本全国や海外の諸地域ではどのような運動を展開するかという戦略や運動論が最初に示されたのは、昨年4月に決まった「“森の中のオフィス”の具体的計画」という文書である。そこに掲げられた7項目を20日の本欄で列挙したが、今回はそのうち運動戦略に該当する前半3項目に注目しよう。残りの4項目は、どちらかというと技術的なものだ。
 
 ①“自然と共に伸びる”生き方を推進する宗教的基盤の確立
 ②地球環境、生物多様性、生命倫理等の分野での意見表明の拡充と宗教間協力
 ③国際平和信仰運動の後継者の養成

 第1の項目は、教義と実践の両面で、自然と人間の共存を推進させようというものだ。そのためには、まず教義面で「自然と人間との共存共栄を担保する信仰や思想」の構築が必要である。また実践面では、「自然の恵みへの感謝、自然との一体感等を文化活動として表現」することを掲げている。
 
 教義面においては、神道を伝統とする日本で生まれた生長の家が「万教帰一」の考えを掲げている点を、この文書は「ユニークな位置にある」と評価している。その意味は、世界の多数を占めるキリスト教やイスラームが、過去において「自然を人間に従属させ、支配する考え方」を主流としてきた中で、今後必要となる教義上の“方向転換”を行う場合、「万教帰一」の考え方が有効な思想的枠組み(intellectual framework)になるということだろう。万教帰一的な考え方としては、キリスト教にはジョン・ヒック(John Hick)が掲げる宗教多元主義(religious pluralism)などがすでにある。また、本欄でも何回か触れたように、キリスト教には自然一般を“神の被造物”として尊重する考えがあり、今のローマ教皇、ベネディクト16世も近年、地球温暖化を抑制するためにそれを意識したコメントを多く出している。そういう環境意識の基礎となる教義を明確にし、各宗教共通の基盤として互いに認知することができれば、信仰者の間に温暖化抑制のための共通した運動を盛り上げていく可能性が開ける。また、このための実践としては、自然の恵みを讃え、表現する芸術・文化活動を推進していくということだ。表現芸術の分野では、言語や文化を超えた交流や理解が可能だからだ。
 
 第2の項目は、「意見表明の拡充」と「宗教間協力」という2語にポイントがある。地球環境、生物多様性、生命倫理等の分野での意見表明自体は、私がすでに本欄などを通じて行ってきたことだ。それを「拡充」するという意味は、生長の家総裁だけがこれを行うのではなく、教化・講師部や各本部講師がそれを積極的に頻繁に行い、意見表明の「質を高め」「層を厚くすること」にポイントがある。この動きは、一部講師の間ですでにブログなどを使って開始されている。今後は、より多くの講師の参画によって、これらの分野における知識を深め、得意分野を定め、表現力の向上を目指すことになる。
 
「宗教間協力」については、あまり説明を要しないだろう。その言葉のごとく、生長の家以外の宗教とも対話を深め、上記の分野などで共通の認識に達した場合は、相互に協力する態勢を築くことを目指していく。幸い、1月18日の本欄に書いたように、仏教教団の1つである立正佼成会とは環境マネジメントの分野での協力関係ができつつある。また、2007年に国際教修会をニューヨークで開いた際は、エジプト人のイスラーム法学者から絶大な協力をいただいた。今後も、この種の協力関係をできるところから実現していくことで、幅広い知見を得、認識を深め、社会への影響力を保持していくことを志したい。
 
 3番目の「国際平和信仰運動の後継者の養成」の項目では、グローバル社会における諸問題に対処できるように、「日本国内はもとより、世界各国において運動の担い手となる後継者を養成するために、海外の同信の幹部・信徒、さらには教育機関などとの連携も視野に入れ、“森の中のオフィス”を中心拠点とした幹部候補生の短期または中期にわたる交換留学制度を設け」ることが謳われている。

 谷口 雅宣

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2010年1月21日

“森の中のオフィス”について (2)

 前回の本欄では、“森の中のオフィス”の用地選定までの7年の歩みを概観したが、今回は、この構想の背後にある考え方(思想)について、やや詳しく述べよう。この考え方は、前回も触れた「“森の中のオフィス”構想の基本的考え方」(2004年7月)の中に最初に現れる。全文を引用すると冗長になるので、部分抜粋で要旨を取り出してみよう。
 
 この文書はまず、生長の家が本部事務所や総本山でISO14001を取得したことに始まり、省エネ、太陽光・風力の利用、殺生や資源浪費を促進する肉食の削減など、2004年までの生長の家の温暖化抑制の歩みを概観したうえで、こういう認識を述べている--「しかし、温暖化の進行は社会の変化を上回っており、現行の制度下でそれを食い止める可能性は縮小しつつある」。この危機感に押されて、この構想は生れたといっていいだろう。つまり、生長の家が現行の制度を利用してベストをつくしたとしても、結局は温暖化促進に加担した生活から脱却することができないし、温暖化による気候変動は避けられないということだ。

 ここで「現行の制度」と言っているのは、もちろん2004年時点での世界的認識にもとづいた温暖化対策の制度のことだ。当時は、GMがまだ健在で、エコカーの種類は少なく、炭素税を実施している国はごく少数であり、排出権取引もほとんどなかった。また、元米副大統領のアル・ゴア氏とIPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)によるノーベル平和賞受賞より、3年も前である。では、この“現行の制度”に頼らずに、何をするというか? 「基本的考え方」は次のように宣言する--
 
「生長の家は、“大調和の真理”をさらに広く世界に宣布するとともに、我々自身の生き方の中にそれを実現していくための行動を起こす。すなわち、“現代人が現代の生活を営みながら自然環境と調和した生活をおくる”というモデル社会の構築である。(中略)その具体策が“森の中のオフィス”構想である。この構想は、従来のように森を開発するのではなく、人間が自然の仲間入りをさせてもらい、森の機能を活かしたまま業務を遂行し、“森と人との共存”を実現していこうとするものである」。

 ここにある「現代人が現代の生活を営みながら自然環境と調和した生活をおくる」というのが、この構想が目指す“モデル社会”のイメージである。「森と人との共存」が可能であるというのがこの構想の前提である。しかも、それが実現した暁には、人はそこで「原始生活」をするのではなく、あくまでも「現代の生活」を営むというのである。

 このような構想のもと、本文書は、(1)自然との共生に向けての職員の意識改革、(2)自然との共生を図るオフィスの実現、(3)生物の多様性保全のための地域社会との協力、の3つを活動指針として打ち出している。
 
 この3つは、“森の中”での「人」「建物」「地域」のあり方にそれぞれ対応している。まず、国際本部の職員は“森の中”で「寒くない、暑くない」を良しとし、ロ―エネルギーの生活の中で「森に学び、森で働き、森で遊び、森を守る」ライフスタイルを実現するための意識改革が求められる。2番目の、人間の仕事の場であるオフィスと自然とが共生するための方策としては、①電子空間上のオフィスを活用し、②物理的なオフィスは、自然と共生しやすい場所に置き、③環境に負担をかけない建物を造り、④自然エネルギーを利用してCO2の排出を最小限に抑え、⑤自然水の有効利用と汚染防止を行い、⑥資源の循環を行って廃棄物を出さない工夫をする、ことが掲げられている。
 
 3番目の生物多様性の保全については、地元の自治体や地域住民と一体となって、環境保全に取り組むことが謳われている。具体的には、近隣地域で植林や下刈りを行い、間伐など森林の手入れを行うという。
 
 これらの3つの方策は、移転先での「人」「建物」「地域」のあり方にそれぞれ対応しているが、移転先以外の日本全国や海外の諸地域で、国際本部の移転後にどのような運動を展開するかという戦略や運動論については、何も語っていない。だから、7年前の“構想”はそこまでだったことが分かる。
 
 谷口 雅宣
 

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2010年1月20日

“森の中のオフィス”について

 昨年の最後の本欄(12月30日)で、生長の家が進めている“森の中のオフィス”構想に対して、読者のご支援をお願いした。この構想は、2004年7月に「基本的考え方」が決まってから、もう足かけ7年がたっている。その間、生長の家の内部では様々な研究や検討、そして運動を「基本的考え方」と整合させるための大小様々な調整が行われてきた。それは例えば、環境マネージメントシステムの導入とISO4001の認証取得であり、“炭素ゼロ”運動の提唱であり、また『聖使命』新聞と月刊誌(普及誌と機関誌)の発行形態の変更などである。一般信徒の皆さんには、これらの変化の意味と目的について、教団の関係部課からいろいろな方法でお伝えしてきているだろう。
 
 同構想は、東京都心にある生長の家の国際本部を“森の中”に移転するというものだ。上で触れた「基本的考え方」は、それにともなう職員の意識改革をはじめ、オフィスでの業務内容の変化とその目的、オフィス周辺の自然との共存方法など、主としてオフィスとなる建物の基本思想とエネルギーの利用形態、職員の業務形態について定めた簡単なものだ。A4判用紙で2ページに収まる。これでは、国際本部の移転が、海外を含めた運動全体に及ぼす変化とその影響には対処できない。そこで、昨年4月以降、これらの変化や影響を見越したうえで、それを積極的、建設的に受け止めながら、国際平和信仰運動を新たな段階に引き上げていくための中・長期的な計画が次々に策定されていった。
 
 まず4月に、運動の中・長期的ヴィジョンを描いた「“森の中のオフィス”の具体的計画」が決まった。この計画とは、建物などのハード面のことではなく、「生長の家はそこで何をするか?」というソフト面の計画で、以下の7項目からなる:
 
 ①“自然と共に伸びる”生き方を推進する宗教的基盤の確立
 ②地球環境、生物多様性、生命倫理等の分野での意見表明の拡充と宗教間協力
 ③国際平和信仰運動の後継者の養成
 ④低炭素のライフスタイルの確立
 ⑤自然エネルギーおよび省エネ技術の積極導入
 ⑥IT、通信技術の積極活用による業務の消極的低炭素化
 ⑦森林再生や炭素の土壌固定化などによる積極的低炭素化
 
 各項目の詳しい説明は省略するが、これらはどれ1つ取っても「数年」の時間軸でできるものではないから、7~8年、あるいは10年がかりで実現する「中・長期的計画」なのである。
 
 この計画策定の後、5月末には“オフィス”用地の条件と職員の住環境等についての方針が決まった。それは例えば、交通アクセス、周辺の環境、用地の状況と面積、職員寮や宿泊施設に関する基本的な考え方である。もっと具体的に言えば、オフィスは最寄駅から羽田空港まで3時間以内、用地周辺の道路が地域の生活道路となっていること、用地の広さは2万坪以上……などである。

 夏に入ると、4月に決まった中・長期的ヴィジョンを実現するための運動戦略の検討が始まった。そして、9月にはオフィスの建設予定地が絞り込まれ、10月には設計者の選定が行われ、11月には第一次建築プランが決定したのだった。
 
 このように9カ月の出来事をまとめて書くと、これらの研究や検討が順調に、楽々と進んできたかのような印象を与えるかもしれない。が、ここに至るまでには、9カ月ではなく、6年間の準備期間を要したのである。私自身も2年間に8カ所の候補地へ足を延ばした。その間には、布教企画部や組織・運動部の担当職員の果敢な挑戦と献身的な努力があった。この場を借りて、これらの人々に大いなる感謝と讃辞を贈りたい。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月18日

立正佼成会もISO14001取得へ

『週刊仏教タイムス』の1月14日号で、立正佼成会の渡邊恭位(やすたか)理事長が、同教団本部で環境マネジメントシステム(EMS)を導入していることを述べて、「ISO14001」の認証取得を目指すことを高らかに宣言されている。同教団では、2006年に京都で開催された第8回世界宗教者平和会議(WCRP)世界大会や2008年の「平和のために提言する世界宗教者会議」を踏まえて、平和と環境問題との関係の重要性を研鑽され、今回の決定に至ったという。渡邊理事長は、<今回、「環境マネジメントシステム」を導入することで、私どもは「環境方針」を内外に表明し、取り組みをさらに具体化する道を選択いたしました>と述べておられる。立正佼成会のような大きな仏教教団が、環境問題の解決に本気で取り組むことを自ら宣言されたことは、同じ方向に歩む生長の家にとって“強力な援軍”を得たことであり、大いに心強くありがたい。心から歓迎し感謝申し上げます。

 なお、この記事で同理事長は、この取り組みに関連して、「宗教界で環境問題に先駆的に取り組んでおられる“生長の家”の皆さまの全面的なご協力と温かいご助言がございます。心より御礼を申し上げる次第でございます」と大変ご丁寧に、生長の家の協力を認知してくださっている。我々としては、環境と平和の問題で意識を共有する信仰者同士として、今後も同じ方向にむかって協力関係を進めていきたいと思う。

 ところで、同教団の地球環境保全への取り組みは1年以上前に遡る。同教団が発行している『佼成新聞』(昨年10月4日)によると、教団本部では宗教者として環境問題に取り組むために、2008年12月にEMSの導入とISO14001の認証取得に向けた活動が開始され、昨年の6月には渡邊理事長名による「環境方針」が策定された。同方針には、現在の環境問題の原因は「私たち自身にあると内省し、人と自然が調和を取り戻す契機となるよう、環境への負荷が少ない持続可能な社会の実現に取り組」むことを宣言。「人間のいのちも、山川草木といった地上に存在するすべてのいのちも“永遠のいのち”の一つの現れであると自覚し、その尊いすべてのいのちを敬い、感謝する心を育」むことを基本姿勢の中で謳っている。

 地球温暖化に伴う気候変動が明らかになってくるにつれ、宗教界では“慈悲の心”や“神の被造物”への尊重の立場から、温暖化抑制のための行動を真剣に議論する動きが目立ってきている。例えば、BBCニュースによると、去る1月11日には、ローマ教皇ベネディクト16世がヴァチカン駐在の100人近くの各国大使を集めた場で、温暖化対策で合意ができなかった昨年末のCOP15の結果を批判した。教皇は、環境劣化と戦う力に対して「経済や政治の抵抗」があることに懸念を深めているとし、とりわけ島嶼国やアフリカの貧しい国々に対して同情を示し、「平和を築くためには、被造物を擁護しなければならない」と主張した。
 
 このように、環境保全と平和への危機感から、世界の宗教が同じ方向に向かって協力し合う態勢が生まれてくることを、私は期待している。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月17日

高知の講習会は大成功!

 今日は抜けるような青空のもと、高知市の高知ぢばさんセンターと宿毛市総合社会福祉センターの2会場で高知教区における生長の家講習会が行われ、前回を990人も上回る7,284人の受講者が県下各地から、また近県からも集まってくださった。受講者は相・白・青の3組織とも増加し、増え方は割合にすると15.7%という高率であるなど、講習会の成果としては近年に類を見ない躍進ぶりと言える。平成22年、2010年の最初の講習会が、このように幸先のいいスタートを切ったことで、本年の運動全体にきっとよい影響が出ることと思う。高知教区の幹部・信徒の皆さんに心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
 
 私たちは前日の午後に高知入りしたが、その際、事前の情報で受講者の確認数がずいぶん上がっているを知っていたので、私は空港から市内に向かう車中、同教区の坂江建輔・教化部長に「何か魔法を使ったのですか?」などと理由を聞いてみた。坂江教化部長は、「総裁ご襲任後はじめての高知での講習会ということで皆、がんばりました。増えることは確実です」と自信たっぷりだった。講習会後の幹部の方々との懇談会では、もっと詳しい話を聞くことができた。同教区では、どの組織も第一線の誌友会の開催に注力して、そこで講習会の参加促進を展開したというのだった。それも、3カ月前や半年前からではなく、昨年の4月ごろからすでに始めていたらしい。また、それと並行して、いわゆる“単層伝達”を重視する組織改革を進めていたので、教区連合会の上層部の人々だけでなく、地区総連や地区連での幹部の動きが活発化して、推進活動に厚みができていたことも幸いしたようだ。さらに、地方講師会では、講師の勉強会を教化部1箇所で開催していた従来の方式を改め、地区で分散して開催する方式をとったことで、これまで10年やそれ以上も勉強会に出て来なかったベテランの講師の方々が出席して、自覚が深まり、率先して講習会推進活動に参加してくれるなどの大きな効果があったという。

 講習会の帰途、高知市立の自由民権記念館という所へ立ち寄った。30分ぐらいしか時間がなく、大急ぎで展示物を眺めただけだが、その中で、明治維新に続く自由民権運動の端緒となったとされる「民撰議院設立建白書」の成立過程が興味深かった。この文書は、大蔵省から公費でイギリスに留学していた古沢迂郎という高知の士族が、英語で起草したものを日本語に訳し、それに手を入れて完成させたと書いてあったからだ。この時代に、英文で政治文書を起草するほどの語学力をもっていた人間がいたということは驚きだが、それをもとにして明治政府へ建白を行うことが有効だと考える人が大勢いたということも、興味深かった。つまり、「西洋の標準に合わせろ」という論法が、歩き始めたばかりの明治政府に対して説得力をもっていたのだろう。建白書の日付は「1874年1月17日」(今日!)で、大日本帝国憲法の発布はその15年後である。

 その内容を簡単に言えば、当時の政治権力は天皇にも人民にもなく、ただ「有司専制」(ゆうしせんせい)であることを批判している。「有司」とは官僚のことだから、「官僚支配を排除すべし」と言っているので、前回の総選挙での民主党が訴えた“争点”と変わらない。また、同建白書は、この官僚支配から脱するために「天下ノ公議」を張るために「民撰議院」を設立することを訴えている。「民撰議院」とは、もちろん民によって選ばれる議会のことだ。そして、議会ができれば、民に選ばれた政治家によって官僚支配は排除され、国民は幸福を享受することができるとしている。どこかで聞いたことのある議論、そのものではないだろうか。「日本は民主主義の開始時点からどれだけ進歩したのか……」という思いが、頭をよぎった。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月14日

自爆テロは何のためか?

 現代のイスラーム系テロリストの“共通項”について、イタリアのフィレンツェにあるヨーロッパ大学研究所(European University Institute)のオリビエ・ロイ教授(Olivier Roy)が11日付の『ヘラルド朝日』紙の論説欄に興味ある分析を書いている。それをひと言でいえば、今日のテロリズムの温床は、どこか一定の国や地域ではなく、グローバル化したインターネットによるバーチャルな空間だというのだ。だから、今のアメリカのように、アフガニスタンやパキスタンなどのイスラーム国の辺境地域に潜む“テロリスト”を攻撃するだけでは、“テロとの戦争”は終結しない--はっきりそう書いてはいないが、そういうことを暗示する内容である。同教授の論理を追ってみよう。
 
 ロイ教授はまず、2009年にアメリカ領内を攻撃しようとしたテロリストに共通しているものは何か、と問いかける。彼らの名前を挙げるとともに、簡単な経歴等を添えてみる。また、本欄で既報のものは、その日付を添えた--
 
○旅客機爆破未遂事件を起こしたウマル・ファルーク・アブダルムタラブ容疑者(Umar Farouk Abdulmutallab、1月9日本欄)。

○イエメン人の両親をもつアメリカ人で、コロラド州立大学を卒業した後、宗教指導者となったアンワー・アラウラキ師(Anwar al-Awlaki、昨年11月11日本欄)。

○パレスチナ人の親をもつアメリカ陸軍所属のニダール・マリク・ハサーン医師(Nidal MalikHasan、昨年11月11日本欄)。テキサス州フォートフッドのアメリカ最大の基地内で銃乱射事件を起こした。

○ダニエル・パトリック・ボイド氏(Daniel Patrick Boyd)。白人のアメリカ市民で、ノースカロライナ州で聖戦を宣言したグループの指導者。
 、
○ヒスパニック系アメリカ人で、ニューヨークのロングアイランド出身のブライアント・ニール・ヴィナス氏(Bryant Neal Vinas)は昨年、アルカイダを支援するなどのテロ活動の容疑を自ら認めた。

 これらの人々は皆、中東出身のイスラーム教徒などではなく、戦争で破壊された原理主義の地、アラブの出身者でもない。彼らに共通するものは、自分たちが信奉するイスラーム指導者を想像の中に、あるいはネットの中に見出していること。そして、彼らの人生は3つの国に関わっている--第1の国で生まれ、西洋の先進国に自ら移住したか、あるいは家族が移住した後にそこで生まれた。彼らはこの“西洋社会”で過激化して、彼らなりの“聖戦”を遂行するために第3の国へ入る--こういうパターンがあるという。

 彼らの心が過激化する原因となった社会は、パキスタンでも、イエメンでも、アフガニスタンでもない。それは西洋の先進国か、西洋的な環境にいた時である、そういう場所で過激思想に染まり、その後に紛争のある中東地域に行ってトレーニングを受けるのである。彼らは、リアルの人間が関わる具体的な政治問題によってではなく、孤独な環境で体験するインターネットのバーチャルな世界において過激化したのである。また、バーチャルな宗教指導者に帰依したのである。

 ナイジェリア人のアブダルムタラブは、フランス語圏のトーゴで、英語で授業するインターナショナル・スクールで学んだ後に、イギリスへ渡った。ディーレン・バロット(Dhiren Barot)は、ヒンズー教を信じるアフリカ系家族の一員として、イギリスで勉強をしていた時にイスラームに入信した。英語が、雇用とコミュニケーションのための媒体だった。これらの過激派青年は、どんな国とも永続的な関係をもたない。彼らは過激な活動をしながら住む国を転々と変え、地元の実際の政治には関与しなかった。彼らの怒りは、現実の社会へ向けられたのではなく、バーチャルな社会に向けられたものである。

 アブダルムタラブの行動から分かるように、彼らのほとんどは家族との関係が断絶していたか、希薄化していた。彼らの信仰は、過去から伝えられている教義解釈から来るのではなく、自分の中で再構成されたもの(reconstructed)である。だから彼らは、自分たちの行動を正当化する際、伝統的に認められた宗教指導者の名前を挙げることがない。彼らは基本的には単独で行動し、どんなコミュニティーにもなじめない。彼らは、一定期間の“正常な”生活の後、突然に暴力的になる。彼らは、心理学的には敗北者である。自分の生の拠り所を失い、バーチャルな世界の仮想共同体で“英雄”として認められるために死ぬ--こういう分析にもとづいて、ロイ教授が出す結論は、少し刺激的だ。同教授は、「自爆テロは何かを実現するための手段ではなく、目的そのものだ」というのである。
 
 私は、この分析に“半分くらい”同意する。なぜなら、1人の人間が「まだこれから」という自分の若い人生を全面的に否定し、かつ平穏な環境に生きる大勢の普通の人間を犠牲にする決意をするためには、深い「絶望」と「孤独」、激しい「怨念」がなければできないと思うからである。しかし、この“3条件”の揃った人がすべて自爆テロリストになるわけではない。例えば、東京・秋葉原で無差別殺人を犯した男は、私の知る限りでは「宗教」や「信仰」について何も語っていない。また、どこかへ「トレーニング」を受けに行ったという話も聞いていない。「宗教」や「訓練」を語るためには、それらを提供するコミュニティーがどこかに存在しなければならない。それは想像上でも、バーチャルでもリアルでもいい。このコミュニティーに「帰属する」という意識が、社会からの疎外感を補って余りある程度に達すると、社会を否定する行動を正当化できると感ずるのではないか。そのためには、自分たちの“仲間”が世界のどこかで同じ目的で戦っているという、リアル世界での証拠が必要だろう。
 
 アメリカは、その証拠を消し去ろうとして戦っているように見える。生長の家は「悪はない」という信仰の立場であるから、彼らにとって憎むべき「西洋化した社会」(日本も一部含まれる)にも、本当は真・善・美を反映する真象が満ち溢れているのであり、人々は互いに助け合い、生かし合っているという事実を数多く示して、彼らの心の中の「孤独」と「絶望」を消し去る努力をすべきだと思う。そういう意味で、日時計主義を世界に発信し、実践する運動は、テロ勃発の防止につながると考えるのである。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月12日

神はアッラーではないのか?

 日本では長らくイスラームでの信仰の対象に言及するとき、「アラーの神」とか「アッラーの神」という言葉を使ってきた。しかし、この表現だと、神道に出てくるいろいろな呼称の“神”との混同が生じやすい。つまり、日本神話の神々の多くは「○○の神」または「○○の大神」と呼ぶから、「アラーの神」もそれらと同じように、多くの中の一つの神に過ぎないと誤解しやすいのだ。しかし、本欄の読者はきっとご存じのように、イスラームは徹底した唯一神教で、アッラーのほかに神を認めない。だから、「アッラーの神」というような神の呼び方は、かえってイスラームの信仰を裏切ることになるか、少なくとも「イスラーム的」ではないのである。そこで最近は、「○○の神」とは言わずに、単に「アラー」とか「アッラー」と呼ぶ例が、日本では多くなっている。「アッラー」はアラビア語で「神」の意味だから、その方が正確な表現なのだ。エジプトなどには「コプト教」と呼ばれるキリスト教の信者が多くいて、そこで使われるアラビア語の聖書には、神のことをちゃんと「アッラー」と書いてある。
 
 と、こういう話を私はしばしば生長の家講習会でもしてきた。だから、唯一絶対神のことは、どこの国でも「アッラー」と呼んで何も問題はないと思っていた。それは、日本で神のことを「カミ」と呼ぶだけでなく、「ゴッド(God/god)」という英語読みを使っても問題ないのと同じである。ところが、イスラームを国教とするマレーシアで最近、高等裁判所がカトリック系週刊新聞のマレー語版に対して、神を表すのに「アッラー」の語を使ってもよいとの判断を示したところ、イスラーム教徒が猛反発して暴動が起こったというのだ。12日付の『朝日新聞』が伝えている。

 それによると、暴動は現地時間の8日未明から11日にかけて、首都・クアラルンプールやマラッカなどで発生し、計9カ所の教会とカトリック系の学校が火炎瓶などで襲撃された。この高裁判決は、昨年の1月に同じ新聞に対してマレーシア政府が「アッラー」の語の使用を禁じたことを不服として、同国のカトリック大司教が提訴したために出された。判決は、同国憲法に定めた「信教の自由」を根拠に「アッラー」の語の使用をカトリック教徒にも認めたものだが、同国の人口の6割を占めるイスラーム教徒の中には、「アッラー」はイスラームでしか使えない呼称だと信じている人が多いという。『朝日』はこれに対して、「神を意味するアラーという言葉は中東のエジプトやシリアのほか、インドネシアの聖書でも使われており、異教徒の使用に反発する感情や、政府による禁止はイスラム世界で特異なケースだ」と解説している。
 
 この特異性については、11日付の『ヘラルド朝日』紙の記事の方がもっと詳しく書いている。それによると、今回の衝突の背後には“人種問題”があるという。マレーシアの人口(2800万人)の6割はイスラーム教徒だが、その大半はマレー人である。残りの4割を構成するのは中国人とインド人で、それぞれがキリスト教とヒンズー教に大体対応している。そして、キリスト教徒は人口の9%ほどを占める。マレーシアの政治は、戦後の独立以降、政府の優遇策に支えられた多数派のマレー人と、経済力をもった中国人との間の微妙なバランスの上に成り立っており、現在のナジブ政権は昨年4月に発足した。その際、議会の3分の2の安定多数を占めていた与党連合が議席を大きく減らし、5つの州で野党に敗北した。このため、現政権は支持基盤を固めるために、マレー人以外への接近を図っているという。この国では、伝統的に多数派のマレー人に有利な政策を進めてきたが、これをもっと平等な政策に切り替えつつあるらしい。このことは一方で、マレー人の一部に不安感を生み、それを埋めるために“イスラームの優位”を唱える政治的イスラーム運動が力を増しているらしい。

 こういう複雑な事情があるため、イスラーム教徒以外は神を「アッラー」と呼んではいけないという考え方が生まれているらしい。これは、「アッラー」をイスラームの言わば“ブランド”として見ているわけだ。そうしなければ、クリスチャンもアッラーの信仰者ということになり、自分たちと“彼ら”との境界線がウヤムヤになる。そのことが多くのマレー人には容認できないということだろう。しかし、私は、この考えは宗教と人種とを履き違えていると思う。あるいは、人種的な違いを宗教の違いだと誤解しているのだ。生長の家の立場から見れば、クリスチャンの神が「アッラー」であることは何ら問題がない。それどころか、ユダヤ教、キリスト教、イスラームという3つの一神教の歴史的関係を見れば、「いずれの神も同じ」というのが真実である。マレーシアの人たちが、そういう理解とは反対の方向へ進まないことを私は願う。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月11日

テロリストの“穏健化”

 前回の本欄で、アメリカで起こった米旅客機爆破未遂事件に触れたとき、私は自爆テロ志願者をどうしたら「航空機に乗せないか」ではなく、どうしたら「生み出さないか」を検討すべきだと書いた。が、その意味は、アメリカがそれを全く考えていないというのではない。当然、テロ問題専門の研究者はそれをしている。が、パレスチナ問題などの中東における政治的対立が膠着状態であることが、個人の問題を超えて、この問題の解決を妨げる大きな要因になっている。そんな中で、かつてのテロリストを悔悛させ、社会に復帰させるという点で、大きな成功を収めている国があるらしい。その国とは意外にも、これまで多くのテロリストを生んでいるサウジアラビアなのだ。
 
 テロリズムの研究者であるハーバード大学講師、ジェシカ・スターン氏(Jessica Stern)がアメリカの外交専門誌『Foreign Affairs』の最新号(今年1月~2月号)で、そのことを書いている。「殉教を超える心(Mind Over Martyr)」という題の論文で、副題は「どうやってイスラーム過激派を穏健化するか(How to Deradicalize Islamist Extremists)」というもの。この中で同氏は、サウジアラビアのテロリストの“再犯率”(recidivism)は10~20%で、他の犯罪者のそれに比べて「非常に成功している」と讃えている。もっと具体的に言うと、2009年11月の時点で、サウジ政府のテロリスト穏健化プログラムを終えた者で、再び手配リストに載っている者の数は「11人」という。
 
 この数字が多いか少ないかは、判断する人の国の事情によるだろう。日本人の私は「11人のテロリスト」は多いと感じる。しかし、再犯率が10~20%であるならば、もともとのリストは「50~100人」という計算になる。つまり、それだけの数のテロリストが同国では普通に“お尋ね者”リストに挙げられているのだ。では、同国の穏健化プログラムはどんなものかというと、スターン氏の論文には詳しいことは書かれていない。サウジ政府が外部の研究者に内容を教えないかららしい。書いてあることは、それがきわめて出費がかさむこと、常に改善が行われていること。そして、内容的には、心理カウンセリング、職業訓練、芸術療法、スポーツ、宗教による再教育などから構成されているらしい。米軍のグァンタナモ収容所にいたテロ容疑者は、このプログラムを終えた後に、住む家と車、就職相談、結婚相手探しや結婚費用まで与えられているという。
 
 このような社会復帰プログラムは、先進国内で認められるのは難しいだろう。潤沢なオイルマネーがあるサウジ政府にして、初めて可能な方法かもしれない。が、このプログラムの背後にある考え方には、興味ある点が含まれている。同氏によると、それは「テロリストは悪者ではなく犠牲者であるから、それぞれに合った支援が必要だ」ということらしい。生い立ちや社会的条件によって、やむを得ずテロリストになったということだろうか。とにかく、“悪の権化”としてテロリストを見ないことが“穏健化”の鍵を握るということなら、「相手に悪を認めない」という態度が社会復帰を促進するという意味になるから、興味深い。
 
 また、スターン氏の研究によれば、イスラーム過激派は宗教的動機から暴力に走るという一般的理解は、必ずしも正しくないという。それよりも、彼らは様々な動機から過激派組織に入るのであり、宗教的理由はそのうちの1つに過ぎないらしい。同氏は、興味深い事実として、「宗教的信念から行動していると言うテロリストは、イスラームについてよく知らないことが多い」と書いている。そして、穏健化プログラムの“恩恵”を受けて社会復帰できた者の大半は、ほとんど正式の教育を受けておらず、イスラームについての理解は限定的だという。また、ヨーロッパに住む“二世”“三世”のイスラーム教徒たちは、親たちが信仰する穏健な教えを“軟弱なイスラーム”と批判し、それに対抗するために、西洋社会の影響を受けていない“純粋な信仰”であるとして、ウェブサイト上などで説かれる自称「イスラーム指導者」の教えを信じる--そういう傾向があるという。こういう場合は、過激化の原因は「宗教的理由」ではなく、どこにでもある若者の叛逆という「心理的理由」だと考えるべきだろう。
 
 そういう場合、サウジアラビアのプログラムでは、「ビンラディンのような個人ではなく、国の正統の支配者だけが聖戦を宣言できる」ことを教えるという。そして、他者の信仰をニセモノだと非難したり、暴力を正当化するために聖典の一部をつまみ食いするような信仰を戒めることで、若者を“穏健化”するのに成功しているようだ。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月 9日

“テロとの戦争”の組織的失敗

 アメリカのオバマ大統領が、昨年クリスマスの日に起こった米旅客機爆破未遂事件についての報告書を発表し、事件はアメリカ情報機関の「組織的失敗」(systemic failure)によるとして、「すべての責任は自分にある」という厳しい判断を示した。この発言は勇気を要するものだと思うが、私は、この発言の背後に、アメリカの“テロとの戦争”が必ずしもうまくいっていないという大統領の厳しい認識があるような気がしてならない。私は、本欄で繰り返し“テロとの戦争”という言葉を使わないように進言し、また「テロ」と「戦争」という2語を結びつけることの間違いを指摘してきた。オバマ氏は、大統領就任当初は、イスラームとの対話を打ち出すなど、建設的な方針を表明してきたのだが、最近では「テロとの戦争」という語の呪縛から逃れられないように見える。

 8日付の『日本経済新聞』夕刊によると、今回の報告書が指摘した主な問題点は、①イエメンのテロ組織の詳細な分析をしていなかった、②事件の容疑者の名前のつづりを間違って入力した、③2つの主要情報機関のデータベースの仕組みが統一されていないため、処理が遅れた、④容疑者などに関する情報があっても、上層部の政策決定者に十分報告していなかった、というもの。これらの点を眺めてみると、“唯一の超大国”といわれる実力をもったアメリカが、武力によって2つの国の政権を倒したものの、自国でのテロ対策が、いくつもの初歩的なミスによって進んでいないことが分かる。特に、①と②などは、「お粗末」と言わねばならないだろう。が、その一方で、世界中の人々が地球上を自由に往き来するグローバリズムの時代には、アメリカのような大国が自国を出入りする夥しい数の人を細かくチェックすることが、いかに困難であるかが了解される。
 
Abdulmutallab  私は、今回の事件の容疑者であるナイジェリア人、ウマル・ファルーク・アブドゥルムタラブ氏(=写真、Umar Farouk Abdulmutallab)の顔をテレビなどで見るたびに、こう思う--このあどけない顔の23歳の青年にできることは、女性を含む他の多くのイスラーム信仰者にもできることに違いない、と。つまり、アメリカの情報機関が今回の爆破計画を事前に察知することが仮にできたとしても、次の機会、次の次の機会、そのまた次の機会……というように、自爆テロ志願者が減ることはないのではないか、ということだ。問題は、どうしたら自爆テロ志願者を「航空機に乗せないか」ではなく、どうしたら「自爆テロ志願者をそもそも生み出さないか」ではないのだろうか。が、現在のところ、前者の努力が集中的に行われているため、アメリカから出発する航空便には、大幅な遅れや欠航が続いている。

 8日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えるところでは、昨年のクリスマス以降10日間の、アメリカからの出発便の遅れや欠航が多い主要空港は次の通りである。この中には悪天候の影響もあるだろうが、前年との対比を見れば、乗客の手荷物検査や身体検査の強化の影響は明らかである:
 
 空港名           2009年   2008年
 ------------------------
 ダラス(フォートワース)       70%   27%
 マイアミ             52    23
 ニューヨーク(ラガーディア)   39    18
 ニューヨーク(JFK)       51    32
 シカゴ(オヘア)           55    36
 ニューワーク(リバティ)      48    33
 ボストン(ローガン)          41    27
 ワシントン(ダレス)        36    24
 フィラデルフィア         35    23
 オルランド            34    22
 ロナルド・レーガン      30    19
 ------------------------

 こういう状態が長く続けば、航空機の利用者数全体に影響が出ることは避けられないだろう。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月 8日

ブラジル生長の家がISO14001を取得

 ラテン・アメリカ教化総長の向芳夫氏から、嬉しい知らせがメールで送られてきた。まずは読者に読んでいただきたい:
 
---------------------------------------
     ISO-14001取得の報告

 合掌、ありがとうございます。
 常にブラジル国及び及びラ米諸国の生長の家人類光明化運動・国際平和信仰運動の御指導賜りますことを心より感謝申し上げます。
 去る4日火曜日に2010年度ブラジル伝道本部の仕事始めの朝礼があり、理事長の挨拶で、暮れに電話でブラジル伝道本部、別館、及びイビウーナ南米練成道場にISO14001の認証が与えられたとの通知があったと報告されました。従って今年から職員一同、尚一層ISO取得団体であることを自覚するようにとの言葉がありました。
 午後にはメールで別紙のような「CERTIFICATE」(証書)が送られて来ましたので、先ずはご報告申し上げげます。
近いうちにRINA社から、本証書が授与されることになっております。

 先ずは取り急ぎ報告と致します。
---------------------------------------

Iso14001_snibrazil  メールに添付されてきた証書(画像参照)によると、認証取得の対象となったのは、サンパウロ市にあるブラジル伝道本部の本館と別館、それから同市郊外にあるイビウーナ練成道場での教義研修会、練成会、イベント、宣伝活動、書籍や雑誌の頒布活動である。今後この動きは、日本国土の21倍の大きさをもつブラジル全土に、着実に拡がっていくに違いない。

 これによって、生長の家は日本に続いてブラジルでも、環境経営の国際基準に適合した団体として認定されたことになる。恐らく宗教団体としては、ラテン・アメリカで初の快挙ではないか。ブラジル伝道本部の関係者とブラジル信徒の皆さんのご努力と熱意に心から感謝し、地球の反対側から津波のような拍手の嵐を送りたい。ブラジルの皆さん、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月 7日

アバターもエクボ

 話題の映画『アバター』を見てきた。ハリウッド映画らしく、ジェットコースターに乗るような“山”や“谷”があり、しかも善と悪が明確で、最後に善が勝つという非常にわかりやすい映画だった。少し残念だったのは、見たのが“3D映像版”でなかった点だが、娯楽映画としてはそれでも充分楽しめた。しかし、私がこの映画を本欄で扱おうと思ったのは、娯楽として推薦するためではなく、地球環境問題が背景にあることを読者に知ってほしかったからだ。そんなことは充分ご承知の人も多いかもしれないが、私は知らなかった。私はむしろ、人間の遺伝子組み換えなどを扱ったサイエンス・ホラーかと思っていた。理由は、映画の題名による。
 
「アバター」という言葉は、インターネットの世界ではずいぶん前から使われてきたが、ネットを使わない人、あるいは使ってもメールのやりとり程度の使用者には、説明が必要だろう。

 アバターとは、匿名性を特徴とするインターネットの世界で使われる、利用者の“仮の姿”である。こんな書き方が難解ならば、「利用者の顔写真の代りに使われるマンガ風のキャラクター」と言った方がいいかもしれない。生長の家が運営しているSNS「ポスティングジョイ」でもアバターが使われているから、サンプルは簡単に見られる。ウィキペディアによると、世界で初めてアバターを使うネットサービスが始まったのは1985年で、日本では1990年からという。語源はサンスクリット語のアヴァターラ(avataara)で、インドの神話や仏教の文脈では「(神仏の)化身」という意味らしい。そのヒンディー語形「アヴタール」を英語表記したのがアバター(avatar)である。だから、宗教とも関係がある。
 
 上記のSNSで使われているアバターは、小さな正方形の枠内に収まったマンガ風の顔か、その他の画像だが、他のサービスでは、「顔」だけでなく全身のアバターも珍しくなく、しかも立体感のある3D画像で、画面上で動くものも少なくない。こうなってくると、利用者は「自分がこうなりたい」と願う“夢の姿”や“理想的イメージ”に合わせてアバターを作ったり、選んだりするようになる。ここまでは現在、ネット上で現実に行われていることだ。が、映画では、これを一気にSF的に拡大して「別の肉体をもった人間」として登場している。しかも、地球上の人間ではなく、別の天体に棲む“半人半獣”としてである。
 
 映画のストーリーを明かすのはできるだけ避けるが、ここに書いた「半人半獣」という言葉が生むかもしれない誤解は、正しておきたい。この天体に棲むのは「人類」と呼んでもいい。外見上、地球人と違う点は青い肌をして尾が生えていて、鼻がつぶれた格好で、背丈がやけに高いことぐらいだ。3メートル以上もあるだろうか……。が、彼らの文明は、地球人の観点からは“未開”であり、宗教は“原始的”なシャーマニズム、社会は祭政未分化の狩猟・漁労社会である。その代り、自然界の他の生物と完全に調和した生き方をしている。そこへ、地球人が希少資源の獲得のために大挙してやってくる--そういう想定である。映画の設定では、この時、地球はすでに自然が破壊されて棲めない状態になっている。つまり、地球をダメにした人類が、一種の“植民地”の候補地としてこの天体をねらっているというものだ。

 この映画では、善と悪とが明確だと上に書いたが、“善”とは自然至上主義的考え方であるのに対し、現代人の多くがもつ人間至上主義的な視点が“悪”として扱われている。しかし、このように単純な図式では、映画上の問題は解決できても、21世紀の現実の問題は解決できないだろう。現代人の心の中には、程度の差こそあれ、この2つの考え方のいずれもが共存している。そして、この2つをどう調整して現実生活を生きるか、で悩んでいるのである。にもかかわらず、この映画では、一方が他方を“悪”として駆逐してしまうことで物語を終らせている。だから、心理的にはスッキリとして気持はいいのだが、現実問題としては何も与えてくれない。そういう意味で、この作品は鑑賞者の心のモヤモヤをある程度解消してくれる力はあるが、新しい洞察を与えてくれるものではない。
 
 そうは言ったが、優れた面も多くある。まず、映像の斬新さに驚かされた。『スター・ウォーズ』(Star Wars、1977年)と『ジュラシック・パーク』(Jurassic Park、1993年)を併せたような迫力ある画面や音声だけでなく、CGによる“自然描写”には目を奪われる。ここからは、『もののけ姫』(Princess Mononoke、1997年)に出てくる自然の繊細さも読み取れる。ただし、この場合の「自然」は地球上のものではない。だから、我々が知っている「自然」とは異なっていなければならないのだが、異なりすぎると、鑑賞者は拒絶する。だから、「自然ではないが自然である」と感じるような、きわどいバランスが必要である。ジェームズ・キャメロン監督(James F. Cameron)は、それをうまく実現していると私は思う。“半人半獣”の異星人の姿が、そのよい例だ。彼らが画面に登場してしばらくは、その犬のような風貌が違和感をかもし出す。が、物語が展開するにしたがって、彼らの生活や考え方が自分の中の一側面を表していることが了解されてくる。すると、彼らに親しみを覚え、同情し、憧れに近い感情まで引き出される。そして、映画が終りに近づくと、不思議なことに、彼らの外見上のグロテスクさが気にならなくなるのである。まさに、「アバターもエクボ」となるのである。
 
 谷口 雅宣

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2010年1月 5日

特別な伊勢の旅

 正月休みを妻の実家の伊勢で過ごした。2日に出発し、5日に帰京する3泊4日の小旅行である。年始恒例のこの小旅行は、私にとって特別の意味がある。というのは、年間に各地をめぐる小旅行は数が多いが、それらは生長の家の講習会等の講演旅行がほとんどで、用事がすめば東京へとんぼ返りするのが常である。だから、スケジュールに余裕がほとんどない。それに比べ年始の伊勢旅行は、行った翌日に内宮へ参拝に行く以外は、まるまる2日間、公的にも私的にもスケジュールから解放される。これは実にありがたい。

 誤解を恐れずに言えば、妻からも解放される。私は常日頃、「妻を避けたい」とは決して思わないし、妻も私から解放されたいとは思っていないだろう。が、この期間、妻の実家には5人の姉妹とその家族が大勢集まって、めいめいが思い思いに“旧交”を暖めたり、ゲームに興じたり、買い物へ行ったりするから、私は限りなく“無人称”に近づく。つまり、大勢の中で存在が目立たなくなるのである。もっと具体的に言えば、今年は、わが家の5人に12人を加えた17人が集まったから、17分の1の存在感だ。この“軽さ”が心地いい。

 この期間、もちろん妻は私を放ったらかしにしているのではない。彼女は、いつものように朝食を用意したり、お茶を出してくれる。が、5人姉妹が集まれば、皆が家事のプロだし気心が知れているから、共同作業で効率のよい家事を行い、あとは姉妹が集まって話に花を咲かせる。これは、深夜に及ぶことも珍しくない。ということは、その間、私にはポカッと空いた時間が与えられるのである。

 こういう時間に、私は普段できない手間のかかる作業をしたりする。例えば、自分のウェブサイトの更新や読書、パソコン内のファイルの整理などをする。また、仕事との関連では、年末から継続している“宿題”や新しいプロジェクトの検討などができる。さらに、一人で散歩に出かけ、写真を撮ったりスケッチをしたりする時間もある。今回も、この貴重な時間を満喫させていただいた。

 鳩山首相が、新年から「鳩cafe」というブログを立ち上げ、さらにツイッターを始めたようだ。それを知った当初、私は「まさか本人がやるんじゃないだろう」と考えたが、首相官邸のウェブサイトからリンクされたご本人のブログの文章によると、「自分で書いた文章を担当者にメールで送り、ツイッターで公開する」という手順を踏むらしい。オバマ大統領もツイッターのアカウントをもっているが、その日本版を狙っているのだろうか。しかし、首相や大統領の立場で個人的なメッセージは発信できないだろうから、効果はどれほどあるか疑わしい。公的なメッセージを発信するのであれば、本人がする必要はないし、そんなことに時間を割くことに意味はあまりない。では、私的な発言があるというのか?

 私も首相の“つぶやき”を2~3日フォローしてみたが、万人向けの当たり前のメッセージであるからあまり面白くない。「今日は少し疲れている」とか「昨夜の夢はこんなだった」などというつぶやきが漏れれば、きっと面白い。しかし、この種のものは“政治的”な問題になる可能性があるから、多分発信されないだろう。公的メッセージだけでは、“聴衆”はまもなく離れていくだろう。どれだけ長続きするか、しばらく様子を見ていようと思う。

 谷口 雅宣
 

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2010年1月 2日

QR表示板が設置?

Qrc010210  生長の家本部会館の正面玄関にある神像の下に、QRコードの表示板を掲げました。きちっと読み取れるといいのですが、いかがでしょうか?
 
 谷口 雅宣

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2010年1月 1日

四無量心を現すために

 元日の今日は、東京・原宿の生長の家本部会館ホールで午前10時から新年祝賀式が行われた。今年の元旦は日本各地が寒波で覆われたが、幸い関東地方は快晴となり、穏やかな雰囲気の中で式典が執り行われたことは誠にありがたかった。私はこの日、概略以下のような内容の“年頭の言葉”を述べた:」

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 皆さん、新年おめでとうございます。
 今年は寅年ということで、巷には動物の虎の絵や置物、縫いぐるみなどが出回っているようであります。私はこの新しい年は、我々は大いに飛躍する予感がするのであります。諺によりますと、例えば「虎に翼」とか「虎の威を借る狐」、また「虎は千里の藪に棲む」などと言うように、「虎」という動物は優れたもの、勢いの強いものを意味します。今年はそういう意味で、大いなる発展の年にしたいのであります。
 
 私は昨年の秋の記念日の時に、私たち人間が「自然を愛する」という時の愛し方についてお話ししたのであります。それは、産業革命以来の人類の歴史の中では、人間が自然を利用して自らの利益を得ようという考えが強かった。これは、愛の段階では「執着の愛」であり、「自然から奪う愛」だったと申し上げました。そして今、地球温暖化による気候変動が世界的に進行している中では、もはや自然から「奪う愛」では地球生命とともに人類も傷つくことが明らかになってきている。だから、今後の人類は「与える愛」を実行する段階に来ているという話をしました。このことをもっと宗教的に言うと、「神の無限の愛」とも言われる「四無量心」の実践が、21世紀の人類の発展と地球環境との共存のためには欠かせない、ということです。
 
 すでに皆さんの多くは御存じありますが、「四無量心」とは慈・悲・喜・捨はの4つの仏の心のことです。「慈」は「抜苦」といって、人の心から苦しみを除こうとする思い、「悲」は「与楽」といって、他の人に楽しみを与えようという心、「喜徳」は他人の喜びを我が喜びとする心、そして、「捨徳」はすべての執着を放ち、相手を自由に放つ心です。人類は今、人に対するだけでなく、自然界に対しても、このような四無量心の実践が必要になっている--そういう話を秋の記念日に申し上げました。詳しくは、機関誌『生長の家白鳩会』の2月号に載っているので、お家に帰ってからしっかり読んでください。この四無量心は、『維摩経』などの大乗仏教の経典で説かれているのですが、基本的には対人関係における“仏の心”と言えます。ひと言でいえば、高度の自他一体感をもつことで、「神の無限の愛」のことだと表現されています。

 しかし、私たち人間は、人に対してそういう高度の自他一体感をもつことができるだけでなく、自然界の他の生物に対しても、そういう心をもつことができるのです。現に多くの人々は、ペットを飼ったり、家畜や農産物を育てる過程でそのことを経験していると思います。皆さんの中でも、ご家庭でペットを飼っていられる方は、ペットが苦しめばその苦しみを除いてあげたいと思うし、ペットが喜べば自分も嬉しくなるはずです。この想いをもっと拡大し、自然界のあらゆる生物に対して仏の四無量心を現していくことができれば、地球温暖化の問題に根本的な解決の道を示すことができると思うのです。
 
 もちろん、このことは言葉で言うように簡単にできることではありません。どうすれば、そのような心境に達することができるでしょうか。その一つの答えを、今日は『維摩経』から学びたいと考えます。
 
『維摩経』では、文殊師利が維摩詰に対して「菩薩、云何(いかん)が衆生を観ずる」と質問するところがあります。「菩薩というものは、どのような心境で衆生を観ずるべきでしょうか?」と訊いたわけです。そうすると、維摩居士は「譬えば幻師の所幻の人を見るが如く……知者の水中の月を見るが如く、鏡中にその面像を見るがごとく…」などと答えています。「幻師」とは妖術使いのことです。妖術使いが妖術で、本当にはいない人の姿をアリアリと眼前に見せている。目の前の人は、そんな所に、そんな恰好をして居るわけではないが、妖術によってそう見えているということです。「妖術」というのは昔の言葉ですが、「幻覚を見せる術」のようなものです。

 維摩居士の答えは、そういう幻覚の像を見ているように、世間のもろもろの人々を眺めればいいというのです。つまり、実相は神の子であるのに、目の前にいる姿は失敗者や犯罪者のように見えているということです。現象の不完全さに捉われない、迷わされないということです。それは、水面に映った月を見たり、鏡の中の自分の顔を見るのと同じで、“本当の姿”はそこにはないことを知れという意味です。「現象は、実相の不完全な投影である」という意識をもって見ればいいのです。
 
 そういうものの見方が、四無量心の中の「慈」を現わす菩薩行になるということを維摩詰が言うのです。すると文殊菩薩は、「どうしてそれが慈悲の表現か?」と訊きます。そこで維摩が言う言葉の最後に、「無等の慈を行ず、諸愛を断ずるが故に」というのがあります。これの解釈を谷口雅春先生の『維摩経解釈』から引用しましょう--
 
「“諸愛”というのは諸々の煩悩のことであります。『阿含経』には釈尊が悟りを得られたときの状態を“諸愛ことごとく解脱し”という風に書かれております。近代の日本語では慈愛と愛とを混同して使いますから、色々実際人生に於ける道徳行の上に混乱を引き起こしているのですが、“好き”とか、“欲しい”とか、“自分に近づけて置きたい”とか、“離れたら淋しい”とか感ずる愛は、これは我れと等しからんと欲する愛ですから、等慈であって、煩悩であります。無等慈は、我れと等しからんことを欲しない、自分が斯うしたいと思うように相手を縛らない愛であります。相手の肉体は、“幻術師のあらわした幻の肉体”に過ぎないとわかれば、わが如く等しくして異なることなからしめんなどと執着した慈悲を行わない。相手を自分に縛りつけて置こうなどと思わない」(p.293)

 このことを人間が自然界に接する時の心に置き換えてみると、どうなるでしょうか? それは「自然界を人間の意のままに利用しようとは思わない」ということです。つまり、人間が自然界を征服して、自分だけが繁栄しようという心を捨てよということです。これは、近代の産業革命以降の人間の考え方とは大いに異なるものです。しかし反面、私たちはペットや家畜の飼育や農業を通して、そういう自然との自他一体の心を経験している。だから、「できない」のではなく「しない」のです。私たちのような宗教運動は、そういう“心の持ち方”を広めていくところに重要な意味があるのではないでしょうか。
 
 そこで今日は、環境運動ではできない、宗教にしかできない方法で、この高度な自他一体感の醸成と拡大とを行うことを皆さんに提案したい。それは「神想観」を行うということです。ご存じのとおり、生長の家には「四無量心を行ずる神想観」というのがあります。これの“新バージョン”を作りましたので、ここにご紹介いたします。
 
 (神想観の最初の基本部分に続いて、次のように唱えます)

「わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体にして、虚空に広がり宇宙に満ち、一切の衆生をみそなわして、その苦しみを除き、悩みを和らげ、楽を与え、喜びを与えんと欲するのである。

 わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体にして、さらに虚空に広がり宇宙に満ち、地球のすべての生命(せいめい)と鉱物の一切を見そなわして、その苦しみを除き、楽を与え、多様性を護り、喜びを与えんと欲するのである」

 (この2つの言葉を繰り返して念じた後で、次のごとく念じます)

「一切衆生の苦しみは除かれ、悩みは和らげられ楽は与えられ、喜びは与えられたのである。ありがとうございます。ありがとうございます。
 
 すでに、地球のすべての生命(せいめい)の苦しみは除かれ、楽は与えられ、多様性は護られ、喜びは与えられたのである。ありがとうございます。ありがとうございます」

 この神想観を、今年から機会あるごとにしっかり実修して、“炭素ゼロ”を念頭においた真理宣布の運動を、今年も大いに拡大させていきましょう。皆さん、本年もよろしくお願い申し上げます。

 谷口 雅宣

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新年のごあいさつ

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谷口 雅宣

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