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2009年12月11日

絵封筒とグラフィティ

 この2つの間に何か関係があるだろうか? 絵封筒とは、もちろん封筒の表面に大きな絵を描いて出す手紙のことだ。グラフィティとは、工事中の壁や街の塀などに描くメッセージや絵のことだ。前回の本欄に実物を何点か掲載した。普通、この2つは何の関係もない。一方は、手紙の受取り人を驚かせてやろうという茶目っ気と、少しの絵心があれば誰にもできる。

 が、もう一方は、街に出て、人目を気にしながら、別の用途に造られた平面に、勝手に自分のメッセージを描く。結果的に、他人や公共の財産を汚すことが多く、この場合は不法行為である。が、“グラフィティ作家”があえてそれをする理由は、それがどこに描かれるかということも、彼らの表現の重要な一部だからだろう。ある街の風景の“調和した一部”として、自分の痕跡を残すのはまだいい。が、思いがけない隠れた場所に……息を呑む高所に……自分が反対する企業の建物の壁に、軍事基地の塀にグラフィティが描かれる場合、そのこと自体がメッセージである。そして、メッセージの発信の仕方は“ゲリラ的”だ。

 考えてみれば、絵封筒にも“ゲリラ性”がある。まず第一に、郵便局が定めた「封筒の書き方」をほとんど無視している。郵便番号を書かない。差出人を省略する。宛先人の住所や名前を、決まりどおりの位置には書かない。切手の位置もめちゃくちゃである……等々。もちろん、郵便局の定めどおりに書くべきものを書いた絵封筒もありえる。が、私の経験から言わせてもらえば、そういう絵封筒は自由度が少ないから、堅苦しくて、デザイン上限定され、したがって受取人への訴求力が小さい。「封筒」という狭い空間に、自分のメッセージを思い切って描こうとすると、いろいろの「決まり」や「規格」は障害になるのだ。だから、そういうものを破って表現される点で、ゲリラ的である。

 グラフィティは“ゲリラ芸術”と呼ばれるものに含まれているが、イラストレターのケリー・スミス氏(Keri Smith)は、その概念を通常より少しひろげて、こう定義している--「創造的、または刺激的な方法で世界に影響を与えるため、公共の空間に導入され、演じられ、あるいは付加された無名の作品」。この定義は、絵封筒には大げさすぎる。しかし、よく考えると、結構あてはまる部分が多い。なぜなら、絵封筒は、創造的、または刺激的な方法で宛先人に影響を与えるため、郵便配達システムという“公共の空間”を利用した(一見)無名の作品であるからだ。

 もう一つ、“ゲリラ芸術”についてスミス氏が指摘するのは、それが「無常」である点だ。こんなところに仏教の概念が出てくると奇異に感じるかもしれないが、英語では「impermanence」という語が使ってある。つまり、“ゲリラ芸術”の作品はすぐに消えてしまうのである。グラフィティは、「落書き」としてすぐに消される運命にある。路上パーフォーマンスも、終わってしまえば何も残らない。それらが消えてしまわないように、写真やビデオなどの記録に残そうとする人がいるかもしれないが、そうではなく「なくなっていい」「変わっていい」と考えて制作する。そこから、制作の「結果」よりも「過程」に注目した新しい展開が始まる。作品そのものに執着しないから、常に新しい発想で次なる作品を創出する可能性が生まれる。

 絵封筒や絵手紙には「手元に残らない」という性質がある。相手に届いても、もしかしたら捨てられるかもしれない。だから、制作の過程に価値を置くようになる。そんな点も“ゲリラ芸術”に近いことがわかる。そんなエキサイティングな制作の“旅”に、読者も参加してはいかが? (PostingJoy.com の「絵手紙・絵封筒グループ」より)

谷口 雅宣

【参考文献】
○Keri Smith,The Guerilla Art Kit: Everything You Need to Put Your Message Out Into The World,(New York: Princeton Architechtural Press, 2007)

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