古い記録 (13)
私は大学時代、生長の家の月刊誌『理想世界』に不定期で文を寄稿していただけでなく、「轍の会」という文学サークルを作って同人誌を発行していた。このことは、今年1月19日の本欄で少し触れた。今回は、そこで何を書いていたかを語ろう。簡単に言えば、『理想世界』誌に書くものは生長の家の教えや運動といくらかでも関係していたのに比べ、『轍』に書いた文章は、少なくとも表面的には「まったく無関係」と言っていい。ただし、これは「宗教の教え」というものを狭く解釈した場合のことである。宗教とは、神仏の教えを学んだり実践したり、それを人々に伝えるための営みだと単純に考えれば、芸術や恋愛は宗教とは分けて考えられる。しかし、宗教を人間の心の深奥にある、崇高なるものへの探究だと考えると、芸術や恋愛も含めた人生全般が宗教と関係してくるだろう。そして、当時の私の興味は、前者から離れて後者へと引き寄せられていたのである。それは、20歳前後の若者の心境としては、むしろ自然のことだと思う。
同人誌『轍』の創刊は、1971(昭和46)年の12月である。そこに書かれた“創刊の辞”には、こうある--
「日々、時々、瞬々、我々の心を擦過していく思い、感情、思想のごときものは、それを捕獲しなければ忽ち逃げ去ってしまう蝶のようなものである。我々がそれを原稿用紙の上にとらえ、韻文なり散文なりの形に表現したとき、初めてそれは自分のものと意識され、我々はより明確に我々自身を知ることができる。それが見せるに価しないものであろうとも、我々はかまわない。周囲に色目を使っているうちに、気がついてみると、何もしていない自分を見出すことをこそ我々は恐れる。
青春の日々は短く、淡く、朧である。我々は今すぐ一台の馬車に乗って出発しなければならない。その車輪は、ある時は晴天の大道を行き、或る時はぬかるんだ山道を喘ぎながら登り、あるときは吹雪の平原を悲鳴をあげて進む。人はそれを笑うかもしれない。しかし我々にできるのは精一杯進むことしかない。その車輪のあとに轍が残る。同人誌『轍』は、そのような我々の青春の足跡である。」
前回の本欄で、私は「ものを見る」ときの2つの見方について、この頃の私が気づいていたことを書いた。『轍』創刊号は、それを書いた『理想世界』誌の記事より1年前に出たものだが、私はここに「薔薇」という題の文章を載せ、赤いバラの一輪を見つめることから生じる様々なイメージの連鎖を描いている。ものの見方を「感覚優先」と「意味優先」に分けるとしたら、この文章は、当時の私が前者を実践した実例として読むことができるだろう。また、「薔薇」を使った一種の“ロールシャッハ・テスト”としてこの文章を読めば、若い私の心に隠された様々な情念を感じ取ることもできるかもしれない。
薔薇
薔薇が開いていく。
その長い時間の
連鎖の中で
薔薇が開いていく。
天鵞絨(ビロード)の繊細な綿毛。
朝の光輝の浸透に
はじらいながら
静かに開く
その限りない寛容。
十重 二十重の
柔らな囲いの奥
未だ大気の触れぬ
闇の中
蜜の池
その甘美。
朝の太陽の光の中で、私は薔薇を見つめていた。一輪の大きな紅い薔薇。
「薔薇が咲いた」という瞬間を、私は感じていた。しかし、薔薇はまだ咲いてはいなかった。広い花弁の真赤な絨毯の綿毛の下に、もっと赤い毛細血管がほの見える。そのもとをたどれば、花弁一枚一枚を動かしている真赤な生命に行きつくだろう。重なり合った花弁のやさしい囲いの中には、何か大切なものが隠されているに違いない。
ある光り輝く秋の朝、その宝は一度だけ、この世のものと現われる。しかし、それを見たものは少ない。それは現われたとたんに消える。この世の邪悪な大気が、その存在を許さないからだ。
光と陰に限りなく恵まれた一輪の大きな薔薇は、こうしている間にもなお、その花弁を拡げていた。しかし、まだ咲いてはいなかった。甘美な香気は、久しい以前から私に感じられていた。既に赤い蕾の時代から……
薔薇はたしかに動いている。太陽の仮借なきまでの侵蝕を受けて、薔薇は酔いしいれている。もう、一瞬前の薔薇は存在しなかった。私は薔薇を救ってやりたい。花弁の奥の闇が、光によって次第に侵されていく。あの柔らなひだの奥、小さく佇む赤子の合掌のようなつぼみ。薄い黄色の線が、まだ開かぬ花弁の真中を走っている。あれが最後の蕾だろうか。その尖った先は、もう既にゆるみ、その黒い影の中には…… 私は、その時が来ることを感じた。もうすぐ、今すぐに…… その蕾のかよわい血管が、光の中で苦しんでいる。もがいている。戦っている。
動いた。
確かに、その蕾の中で何かが動いた。かそかなその音は、香気に酔って眠気を催していた私を驚かせた。忍耐の限界を越した光の攻撃は、ついに最後の蕾を、内部からこわそうとしている。箍(たが)がはじけたのだ。蕾はもう蕾ではない。中での戦いは終ったのだ。
真赤な光の中に、おしべの先が垣間見えた。蛹から出たばかりの昆虫のハネのような赤いひだ。つややかな、水気さえ感じさせるその肌。薔薇は咲いてしまったのだ。
薔薇が咲いた
薔薇が咲いた
薔薇が咲いた。
私は小さな虫になって、その灼熱の夕焼の平原を走る。大地は砂でなく、土でなく、石でもない。繊毛の絨毯が地の果てまで続いている。息づまるまでの香気、熱気、そしてまっかな霧。私は息をきらせ、苦しい行手に、真赤な大いなる塔を見る。その塔は先が天を指し、底は丸く球形に拡がり、赤い地面の上に静かにとどまっている。私は走る。その塔にむかって。塔は私の接近とともに、静かに揺らぎ、膨張をはじめる。私はその危険な震動を止めねばならない。私は走る。息のつづくかぎり……
私は塔を救うことができたと思った。しかし、塔の肌に手を触れようとしたせつな、塔の内部に小さな音を聞いた。不吉な、しかし甘美な囁きだった。私はそのとき、塔の崩壊を知ったのだった。
薔薇は咲いた
薔薇は咲いた
薔薇は咲いた。
谷口 雅宣
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コメント
合掌,ありがとうございます。
ご文章を拝読しながら,私も学生時代に経験した,“魂のもがき”を思い出しました。私などととはレベルが違うものの,総裁先生も同じような思索や模索を通過して来られたことを知って,失礼ながらまたまた親近感が深まりました。
人間の実相は神の子ですが,それが顕現していく過程においては,さまざまな遍歴があり,時としてもがき,葛藤,煩悶することを通してさらにホンモノへと近づいていくのですね。
人を理解するということもまた,その言葉や表情,行動等を「感覚優先」で捉えるだけではなく,何がそのような考えや表現,行動に至らせたのかを見取る「意味優先」の捉え方の両面があることを考えさせられました。
再拝
投稿: 佐々木 | 2010年1月 3日 10:34