古い記録 (12)
本シリーズの前回でも触れたが、私は青山学院大学に在学していた頃、『理想世界』誌に不定期で文章を寄せていた。正確に何回書いたかは定かでないが、現在、私の手元に残っているのは、昭和47(1972)年からの2年間に書いた6本のエッセイである。これらを今読み返してみると、何でこんなに七面倒くさい表現をするのかと辟易した気持になる一方で、私の現在の考えと共通するもの、あるいは現在の考えの“芽生え”のようなものが見出されて興味深い。人間の思想にはある程度一貫性があるのだから、これは当り前のことかもしれない。が、“芽生え”はあっても、当時の私は何か“壁”に突き当たっていたようで、生長の家の“教え”とピッタリとつながっていない印象もある。自分で努力して考えているのは分かるが、考えている方向に迷いがあるのか、あるいは五里霧中なのか、35年以上たった今の自分としては、「もっとこう考えればいいのに……」と助言したくなるのである。
それらのエッセイの中に、「闘争の観点」というのがある。これは前掲誌の1972年12月号に掲載されているもので、人間の心に「争い」や「不信」が起こる原因について考え、それは客観的な条件によるよりは、互いの「ものの見方」によるとし、人間社会に闘争状態が起こらないためには、どのようなものの見方が必要であるかについて結論を出そうとしている。文章の最後で、『生命の實相』倫理篇から引用しているが、それがいかにも取って付けたような印象を与えている。だから、自分でしっかり納得した引用とは思えないのである。また、文章の中には「ホッブス」とか「自然法」とか「実定法上の権利概念」などという言葉が出てくるから、当時、大学で学んでいた政治学や法学のテーマと、生長の家の教えとの接点を見つけ出そうとしていたことが窺える。これは、必ずしもうまくいっていない。短いエッセーだから、仕方がないかもしれない。
このエッセイの中に見出される“現在の考えの芽生え”とは、人間の「ものの見方」には、対象の意味をとらえる見方と、見たままをとらえる仕方があるという点だ。私が『日時計主義とは何か?』などで述べている「意味優先」対「感覚優先」のものの見方の“萌芽”がそこにある。ただし、このような二分法で対照させるには至っておらず、また、それを言うのに評論家の小林秀雄氏の言葉に頼っているきらいがある。とすると、現在の私の考え方には、小林氏の影響があるということかもしれない。以下に引用する文章から、読者にはそれが分かると思う。
「我々をとり囲む世界を見てみると、このような人間的意味(人間にとって手段に供しうる)で埋め尽されている。朝起きて眺める鏡も、水道の蛇口も、石鹸も、背広、靴、自動車、吊革、歩道、ビル、階段……これらすべては自然から造り出された人間の道具ないしは道具の延長である。
我々は自分の肉体以外は無一物の状態でこの世に生まれる。そして乳児が母親の乳房を独占して喜ぶように、我々は着々と自分の外部からものを得て成長する。と言うよりは成長するにあたってものを獲得するのである。それらのものは自己の手段、道具であるから、用途に供しえなくなったもの、役に立たなくなったものは捨てられる。
つまり我々はものを道具として、自己の手段として見ているわけである。(中略)我々のこうしたものを見る態度は、恐らく日常生活の必要から生まれたものであろうが、それは何か味気のない、乾いた感じがする。自己の道具、手段としてものを見るということは、裏を返せば用途に供しえないもの、自己の利益にならないものは無視するという態度に外ならない。環境を構成する一つ一つのものと契約関係を結び、自分の与えた分だけは必ず相手から取り戻そう、相手と関係を結ぶのは自己にとって利益となる場合に限るという態度。之は何も道具として人間が造り出したもののみにあてはまる事ではない。
小林秀雄は「美を求める心」の中で菫の花を例にとって、我々のものの見方に疑問を投げかける--
「例へば、諸君が野原を歩いてゐて一輪の美しい花の咲いてゐるのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、とおもつた瞬間に諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでせう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花といふ言葉が諸君の心のうちに這入つて来れば、諸君は、もう眼を閉ぢるのです」
これは恐ろしいことだ。我々は自然物に対してすら、名前によってしかそれを見ず、そのものの本質的なものを見ようとしないのだ。これはある種の不遜な態度であり、毎年春になると桜の木の下に空瓶や芥が山をなし、夏には海山が空カンや紙屑や西瓜の皮で溢れる現象と無関係ではあるまい。つまり我々は、愛すべき自然さえ自己の享楽の手段として汚して顧みないのだ。だから公害問題を企業の悪意ある怠慢として攻撃しても何にもならない。公害は我々がガムや煙草を道端に捨てるように、少々傷んだ衣服を捨てるように、最新型の自動車に飛びつくように、毎日何とはなしにやっている事を組織化し機械化した結果なのだ。
問題の核心はどうも我々一人一人の“ものの見方”にあるように思える。それは自己の外側にあるもの全てを自己の利害打算の眼鏡を通して見、それに叶ったものを自己の手段として利用できるだけ利用する、という態度の由来するものであろう。」(引用終り)
谷口 雅宣
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コメント
私も青年時代にそのように考えた時に、自分で獲得するのではなく与えられるのだから全ての物と事に感謝をする心を生長の家で教えられて心安らかになり、一人でも多くの人にお伝えしょうと人類光明化運動に邁進致しました。今もその気持ちを持っています。生長の家の教えの素晴らしさでした。
投稿: 山本健太郎 | 2009年12月28日 01:14