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2009年12月22日

古い記録 (11)

 前回、この題で書いたとき、当時19歳になっていた私が“二重の生き方”をしていることを認め、それを問題にしている発言を紹介した。その頃の私の表現では、「生長の家の生活・運動と僕自身の生活と二刀流で生きている」と、少し文学的かつ抽象的だが、平たく言ってしまえば「教えの通りには生きていない」ということだろう。この発言は一見、日本の青年会員に対して向けているようであるが、よく読むと自分自身のことなのである。それに比べて、初めての海外旅行で見聞したブラジルの青年会員に対しては「見事に一本になっている」と称賛している。

 この評価は、しかし当時の私の正直な感想であったとしても、事実に即していたかどうかは大いに疑問がある。第一、私のブラジル旅行は「2カ月」にすぎない。この短期間に、現地の青年が信仰と生活とを「見事に一本にしている」かどうかというような心の深部の動きを知ることは、18歳の青年には無理だろう。私は滞伯中に、個人的に親しい関係になったブラジル人が特にいたわけではないのである。だから、まるでブラジルの生長の家の青年全員が、信仰と生活とを矛盾なく共存させていたと断じるのは、いかにも過大な評価であり、ナイーブだと言わねばならない。しかし、この理想化がなぜ起こるのかを考えてみることで、当時の私の心境を推し量ることはできるかもしれない。
 
 その推測のカギとなるのが、鼎談の中で「見事に一本になっている」という称賛をした後に、私が発する言葉である。私はそこで「そういうところから、(運動への)本当の情熱が湧いて来ている」と言っているのだ。つまり、「信仰と生活の一体化」(A)が行われると、「本当の情熱」(B)が出てくるという因果関係(A→B)を考えたのである。しかし、当時の私の思考過程は、その逆の「B→A」であったと私は考える。つまり、ブラジルの青年に「本当の情熱」(B)を感じ感動した私は、その原因を考えたすえに、「信仰と生活が一体化しているからだ」(A)という結論を出したのではないか。私はこの結論がまったく間違っているとは思わないが、別の原因もあると考える。それは「文化の違い」である。ブラジルに行ったことがある人はご存じだが、ブラジル人の陽気さと情熱的な表現は、日本人にはマネができない天賦のものである。海外へ出ることが始めてだった私は、そういう人々が1万人も集まった大会に出席し、あるいは熱烈な歓迎を受けたり、巻舌の力強いポルトガル語で体験談を聞いたりした際にカルチャーショックを受けなかったと言えば、きっとウソになる。当時の私は、これこそが「本当の情熱」だと思い、それが出てくる原因の一端が「文化や民族性」によるとは思わず、何か別の信仰上の違い--例えば、信仰の純粋さの違い--だと考えたのではないか。

 私は今、「信仰と生活の一体化は重要でない」と言おうとしているのではない。そうではなく、ブラジルについてほとんど無知だった私が、自分の経験したカルチャーショックを説明するために、なぜ「信仰と生活の一体化」などという考えを出してきたかに注目しているのである。「信仰と生活の一致」は、宗教を信じる者にとって大変重要な問題である。が、この問題の解決は人間が一生をかけて行うものであり、20歳前後の青年が簡単に“解”を見出せるようなものではない。にもかかわらず、若い私は、ブラジル人青年の多くがこれを解決しているかのごとく考えている。この不自然さの背後には、当時の私の心の問題が投影されていると考えるのである。つまり、私自身が「信仰と生活の一体化」について考えをめぐらせていたからである。そして、生長の家の運動をしていても「本当の情熱が湧いて来ない」と悩んでいた。その悩みを言わば“裏返し”にして、ブラジルの青年を称賛しているのである。
 
 ここで取り上げた鼎談が『理想世界』誌の昭和46(1971)年5月号に載っていることは、すでに述べた。その1年後の同誌5月号から、私は2年間に6本のエッセイを同誌に寄せている。そのほか学内に同人誌グループを作り、そこで文章を発表していたことも、すでに書いた。それらの文章を読むと、大学在学中の私の“悩み”の内容が透けて見えてくるのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣先生

 >そして、生長の家の運動をしていても「本当の情熱が湧いて来ない」と悩んでいた。その悩みを言わば“裏返し”にして、ブラジルの青年を称賛しているのである。

 驚きました。先生でもこの様な悩みを抱えておられたのですね。 
 自分を引き合いに出すのは畏れ多いのですが、実は私も青年会時代、ずうっと似た悩みを持っておりました。特にそれを感じたのが青少年練成会の運営に携わった時で他の運営の人を見て「自分はこの人達ほど中高生に自分を捧げきれない」といつも違和感を抱いておりました。

投稿: 堀 浩二 | 2009年12月24日 15:28

堀さん、

 信仰について真面目な人は、若い頃は誰でもそんな悩みをもつと思います。私は当時、「先生」なんかではなかったことを思い出してください。悩み多きティーンエージャーでしたよ。(笑)

投稿: 谷口 | 2009年12月24日 22:24

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