動物への愛
人間が動物を愛することは普通、あまり問題視されない。そして一般には“善いこと”だと思われることが多い。「動物を愛する人」などというと、私も「ドリトル先生」とか「アンリ・ファーブル」とか「ジェーン・グッドオール」などの名前を思い出す。つまり、いわゆる“動物愛護”の精神は善いものであり、時には尊敬に値すべきものと考えられてきたのではないだろうか。が、それが極端に走ったときどうなるのか? それを今日の新聞記事から教えられた。
本欄では、あまり暗い話を取り上げないことにしているが、今回は読者に例外を許していただきたい。その話とは、昨年11月半ばにさいたま市と東京・中野区で起こった連続殺人事件のことだ。この実行容疑者として逮捕されたK被告(47)の初公判が昨日行われ、K被告が起訴事実を認めた上で犯行の理由を述べたことが、今日付の『産経新聞』に載っている。それによると、K被告の言い分は「私が殺したのは人ではなく、心が邪悪な魔物だ」からだという。
K被告の弁護側は、「事実関係は基本的に争わない」としているから、検察側の犯行動機をそのまま認めたらしい。『産経』によると、その動機とは次のようなものだ:
「子供のころに飼い犬が行方不明になったのは保健所の野犬狩りに遭ったせいだと信じ込み、“保健所を所管するのは厚生省”と思ったことから、一方的に厚生省を恨むようになった…(中略)…その上で、“組織に対する恨みを晴らすためにトップの次官経験者を狙うことにした。経験者ならば誰でもよかった”と述べた。」
さらにこの記事は、もう一つの動機を次のように記している:
「検察側は冒頭陳述で、動機について飼い犬のあだ討ちのほかに、“動物の命を粗末にすれば、そのまま自分に返ってくることを思い知らせてやるための犯行だった”と指摘。(…中略…)また、K被告が飼い犬の毛が入ったお守りを身につけていたとし、“命より大事なもの”と知人に話していたことを明らかにした。」
これらの描写が真実ならば、K被告が自分の飼っていた犬を愛していたことは否定できない。が、この場合の「愛」とはいったい何だろう、と私は思う。それは「執愛」(執着の愛)以外の何ものでもないのではないか。K被告は、自分と昔の飼い犬とを余りにも強く同一視してしまったために、その犬の命を奪った(と本人が信じる)人間とその家族の命を奪うことに、罪の意識を少しも感じていないようなのだ。実際、法廷では被告自ら大声でこう言ったそうだ:
「“人を殺していいのか”というが、だったら犬を殺していいのか。あだ討ちを批判する前に説明しなさい」
また、同じ日の『日本経済新聞』の記事では、K被告は「50歳になったらできるだけ多くの厚生次官経験者を殺害し、死刑になりたい」と考えていたという。が、自分の預金が減って生活の見通しが立たなくなったので、決行の時期を早めたらしい。
これらの言葉は、明らかにK被告の性格の異常さを示している。彼には、自分の考えや主張の中にある偏執的な不合理さがまったく見えていない。まず「あだ討ち」というのは、現在の法律では許されていない。それに、普通のあだ討ちは、個人が自分と深い関係にある別の人を殺された場合、その仕返しに殺した本人に対して仕返しをすることを言う。が、K被告は、人間ではなく「犬」を殺されたと信じ、その仕返しを“下手人”とはほとんど無関係である、後の時代の複数の厚生省高官に対して行った。それに、自分が子供の頃に飼っていた犬は、検察側によると行方不明になったのであり、殺されたという証拠はないし、ましてや「野犬狩り」が殺したという証拠もない。単に交通事故に遭ったのか、あるいは逃げ出しただけかもしれないのである。が、どんなに理を尽くして説明しても、恐らく彼は自分がいったん信じたことを絶対に曲げないに違いない。そういうところが異常である。
が、K被告の「異常さ」が例外的であることを認めたとしても、この残虐な犯行の動機が「執愛」であることを見逃してはいけない。彼の場合、性格の異常さが目立って動機が見えにくくなっているが、「動物への愛」も極端に走れば、同類である人間への自己同一感を否定するほどイビツな形で表現されることがあるのだ。そういう稀なケースが、この事件ではないかと私は感じた。仏教が「愛」を煩悩の1つとして捉えていることは、こういう視点から見れば極めて合理的である。動物を愛する読者諸賢にはこのような可能性がないことを、私は信じる。
谷口 雅宣
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
初めてコメントさせていただきます。
私はクリスチャンですが、数年前からほぼ毎日、先生のブログを拝見しています。
今回の記事は、先生の記事の中では、少し異色なものでしたね。
今回は、「動物への愛」がテーマでしたが、この「愛」という言葉が、さまざまな誤解を生んでいるようにも思えます。
「愛」はもともと仏教用語で、「渇愛」、「性愛」、「執愛」のように、煩悩のあらわれ、否定すべきもの、というイメージで使われていました。
それが、明治期にキリスト教が再び日本に入ってから、「愛」は、「神の愛」というように、崇高なものにも使われるようになりました。
それから現代になると、「愛」は、今回の記事の「執愛」の意味や、単に性的な欲望を満たすのも「愛」と呼ばれています。これでは、「神の愛」の「愛」も、同質なものとイメージされかねません。
宗教界では、そろそろ、絶対的な存在(神仏)からの恵み、慈しみを表す別な用語を使い始めたほうがいいようにも思えます。「愛」を本来の、マイナスな意味に使った方がいいのかもしれませんね。
投稿: てんしちゃん | 2009年11月28日 22:00
てんし様:
コメント、ありがとうございます。
>>宗教界では、そろそろ、絶対的な存在(神仏)からの恵み、慈しみを表す別な用語を使い始めたほうがいいようにも思えます。<<
すでにご存じと思いますが、仏教では四無量心を表す「慈・悲・喜・捨」という用語がありますから、これをもっと強調するのがいいと思います。キリスト教では、そういう面はどうなのでしょうか? 日本語の聖書は、英語の聖書からの影響が強いと聞いていますが、英語の「love」は、日本語では「愛」と訳す以外に仕方がないようにも思えます。そして、英語の「love」は性愛も神の愛(アガペー)も意味するので、この辺にも混乱の原因があるのではないでしょうか。お考えを聞かせてください。
投稿: 谷口 | 2009年11月29日 22:45
合掌 ありがとうございます
昨年5月より、パソコンを始めました大阪教区の地方講師でございます。「お役」を降りまして早速`一念発起`致しました。宜しくお願い申し上げます。
総裁先生のブログを拝読させて戴けます事を、とても楽しく嬉しく思っておりますー又コメントを開くのも楽しみの一つであります。
11月22日 「自然を愛する」とはどうすることか?を拝読させて戴き「四無量心」にてお説き下さいまして、正しく愛する事の大切さを痛感致しました。又、生長の家は、環境運動ではありません 宗教運動であり信仰者の生き方を広める運動ですーと。このお言葉に勇気と力を戴きましたーありがとうございました。 再拝 西田 淳子拝
投稿: 輝也&淳子 | 2009年11月30日 23:07
西田さん、
コメント、ありがとうございます。
“一念発起”してパソコンに挑戦、ですか? 素晴らしいですね。私の知っているケースでは、90歳を超えてパソコンをマスターされ、本欄を読んでくださっている講師の人もいます。本当にありがたいことです。
今後とも、よろしくお願いいたします。
投稿: 谷口 | 2009年11月30日 23:28
コメントに対するコメントをいただき大変恐縮です。
仏教における四無量心を表す、「慈・悲・喜・捨」は、用語は違えどそのままキリスト教においても大切なものです。
ご質問の件ですが、人口に膾炙したこの「愛」という語が、あまりにも多様に、しかも安易に使われているための混乱だと思います。
そこで、私なりの考えですが、絶対者・超越者(神仏)からの絶対的な恵みを表すのに、3つの案をあげてみました。
①従来からある、仏教用語の「慈悲」を使う。
(ただ、「慈悲」という言葉は、上から下という、垂直な動きを想起させます。「神からの愛」、「神への愛」の「愛」を「慈悲」と置き換えた場合、前者はいいですが、後者は、ありえない表現になるので、また別な用語が必要になります。)
②「神の愛」という場合の「愛」については、必ず、プラスのイメージかつ無償・無条件・永遠性を示す漢字と合わせた熟語とする。たとえば、「慈愛」や、新用語として、「御愛」(おんあい・みあい・ごあい)などを使う。「神への愛」という場合は、そのまま従来通り、単独で「愛」を使う。
③とりあえず、現状維持・・・
(あまりうまく回答することができず、お恥ずかしい限りです。)
大変示唆に富むコメントに感謝いたします。
これからも、先生のブログを愛読していく所存です。
投稿: てんしちゃん | 2009年12月 1日 01:26
合掌
総裁先生!ありがとうございます!
昨夜は、総裁先生から、コメントに対するお言葉を思いもかけず、頂戴いたしまして どんなに嬉しかったことでしょう! とてもことばにあらわすことが出来ません。心より感謝申し上げます ありがとうございました。
これからも ブログをずーっと拝読させて戴きます。そして「生長の家」のみ教えを、明るく正しく伝えて参ります。ご指導を宜しくお願い申し上げます。再拝 西田 淳子拝
投稿: 輝也&淳子 | 2009年12月 1日 21:03