« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

2009年11月29日

長崎で感じたこと

 今日は長崎市の長崎ブリックホールにおいて、長崎南部教区での生長の家講習会が行われた。同教区では2年前の前回の講習会では、長崎市だけでなく西海市の生長の家総本山や島原市、福江市にも会場を設けて、4会場に約6,300人の受講者が集まってくださったが、今回はなぜか長崎市だけに会場を設けたことで、受講者数は約5,200人に激減してしまった。誠に残念なことである。現在、生長の家は、全国を挙げて“炭素ゼロ”運動を推進している中で、長崎県のように離島も含めた広範囲に信徒が生活している地域では、1会場にしぼった講習会の開催はあまり理に適わない。また、大都会はともかく、過疎化・高齢化が急速に進んでいる地方に於いては、1会場にしぼっての開催は長距離の旅行を余儀なくさせるから、高齢者にとって誠に不利である。そういう点から考えても、今回の講習会は開催方法に課題を残したと言える。
 
 その反面、よい点も見出せる。それは、長崎市の中心部に近い広い会場が確保できたことで、同市を中心とした生長の家を知らない人々が来場できる機会が増えたことだ。そういう人たちが実際どれだけ参加したかは分からないが、
教区幹部の方々が各地で熱心に推進してくださったことは確かだから、きっと各所に信仰の“新しい種”が撒かれたに違いない。今後の運動の活性化に大いに期待する。講習会当日は「雨」も予想されていたが、幸い時おり日差しもあるよい天気となり、和やかな雰囲気の中で会がもてたことはありがたく、うれしかった。
 
26martyrs  2年前の前回の講習会では、メイン会場は西海市の生長の家総本山だった。私たちは今回、長崎市に久しぶりに来て、前日には「二十六聖人殉教の地」を見学した。そこの資料館にも行って、初期の日本のクリスチャンがどれほどの苦労と受難のすえに、キリスト教をこの地に定着されたかの一端をかいま見ることができた。「二十六聖人」とは、1597年2月に、豊臣秀吉の命令によって長崎の西坂の丘で十字架に張りつけられて死んだ26人の日本人クリスチャンで、後にカトリック教会から「聖人」の称号を得た人々である。詳しい情報は、日本二十六聖人記念館のサイトにある。当時の日本では、キリスト教が民衆から受け入れられなかったのではなく、受け入れられ過ぎたので為政者が脅威を感じ、弾圧したのである。1549年にフランシスコ・ザビエルによってもたらされたこの教えは、33年後の1582年には信者数が「15万人」にまで拡大したことを示す資料もある。

 その資料館を見学しながら私の脳裏にあったのは、その後の日本におけるキリスト教の信者数のことだった。このことは、今夏のブラジルでの生長の家教修会での講話の時にも触れたが、文部科学省に登録された2006年末の信者数で示せば、日本におけるキリスト教系宗教団体の信者数は、宗教団体全体の登録信者数に対してわずか「1.4%」なのである。これに対して、神道系と仏教系の宗教の信者数は全体の「94%」である。この国ではクリスマスが盛大に祝われ、結婚式が教会で普通に行われ、有名大学を初めとしたキリスト教系の教育施設が数多くある。さらに日本の歴史を振り返ってみても、二十六聖人殉教に見られるように、キリスト教に触れた多くの日本人が、厳しい禁教令にもかかわらず、自らの命と引き替えに教えを守り通してきた事実がある。にもかかわらず、現代日本においては、クリスチャンの割合が「100人に2人」に満たないというのは不思議というほかはない。

 谷口 雅宣

| | コメント (5)

2009年11月27日

動物への愛

 人間が動物を愛することは普通、あまり問題視されない。そして一般には“善いこと”だと思われることが多い。「動物を愛する人」などというと、私も「ドリトル先生」とか「アンリ・ファーブル」とか「ジェーン・グッドオール」などの名前を思い出す。つまり、いわゆる“動物愛護”の精神は善いものであり、時には尊敬に値すべきものと考えられてきたのではないだろうか。が、それが極端に走ったときどうなるのか? それを今日の新聞記事から教えられた。

 本欄では、あまり暗い話を取り上げないことにしているが、今回は読者に例外を許していただきたい。その話とは、昨年11月半ばにさいたま市と東京・中野区で起こった連続殺人事件のことだ。この実行容疑者として逮捕されたK被告(47)の初公判が昨日行われ、K被告が起訴事実を認めた上で犯行の理由を述べたことが、今日付の『産経新聞』に載っている。それによると、K被告の言い分は「私が殺したのは人ではなく、心が邪悪な魔物だ」からだという。

 K被告の弁護側は、「事実関係は基本的に争わない」としているから、検察側の犯行動機をそのまま認めたらしい。『産経』によると、その動機とは次のようなものだ:

「子供のころに飼い犬が行方不明になったのは保健所の野犬狩りに遭ったせいだと信じ込み、“保健所を所管するのは厚生省”と思ったことから、一方的に厚生省を恨むようになった…(中略)…その上で、“組織に対する恨みを晴らすためにトップの次官経験者を狙うことにした。経験者ならば誰でもよかった”と述べた。」

 さらにこの記事は、もう一つの動機を次のように記している:

「検察側は冒頭陳述で、動機について飼い犬のあだ討ちのほかに、“動物の命を粗末にすれば、そのまま自分に返ってくることを思い知らせてやるための犯行だった”と指摘。(…中略…)また、K被告が飼い犬の毛が入ったお守りを身につけていたとし、“命より大事なもの”と知人に話していたことを明らかにした。」

 これらの描写が真実ならば、K被告が自分の飼っていた犬を愛していたことは否定できない。が、この場合の「愛」とはいったい何だろう、と私は思う。それは「執愛」(執着の愛)以外の何ものでもないのではないか。K被告は、自分と昔の飼い犬とを余りにも強く同一視してしまったために、その犬の命を奪った(と本人が信じる)人間とその家族の命を奪うことに、罪の意識を少しも感じていないようなのだ。実際、法廷では被告自ら大声でこう言ったそうだ:
 
「“人を殺していいのか”というが、だったら犬を殺していいのか。あだ討ちを批判する前に説明しなさい」

 また、同じ日の『日本経済新聞』の記事では、K被告は「50歳になったらできるだけ多くの厚生次官経験者を殺害し、死刑になりたい」と考えていたという。が、自分の預金が減って生活の見通しが立たなくなったので、決行の時期を早めたらしい。
 
 これらの言葉は、明らかにK被告の性格の異常さを示している。彼には、自分の考えや主張の中にある偏執的な不合理さがまったく見えていない。まず「あだ討ち」というのは、現在の法律では許されていない。それに、普通のあだ討ちは、個人が自分と深い関係にある別の人を殺された場合、その仕返しに殺した本人に対して仕返しをすることを言う。が、K被告は、人間ではなく「犬」を殺されたと信じ、その仕返しを“下手人”とはほとんど無関係である、後の時代の複数の厚生省高官に対して行った。それに、自分が子供の頃に飼っていた犬は、検察側によると行方不明になったのであり、殺されたという証拠はないし、ましてや「野犬狩り」が殺したという証拠もない。単に交通事故に遭ったのか、あるいは逃げ出しただけかもしれないのである。が、どんなに理を尽くして説明しても、恐らく彼は自分がいったん信じたことを絶対に曲げないに違いない。そういうところが異常である。

 が、K被告の「異常さ」が例外的であることを認めたとしても、この残虐な犯行の動機が「執愛」であることを見逃してはいけない。彼の場合、性格の異常さが目立って動機が見えにくくなっているが、「動物への愛」も極端に走れば、同類である人間への自己同一感を否定するほどイビツな形で表現されることがあるのだ。そういう稀なケースが、この事件ではないかと私は感じた。仏教が「愛」を煩悩の1つとして捉えていることは、こういう視点から見れば極めて合理的である。動物を愛する読者諸賢にはこのような可能性がないことを、私は信じる。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (6)

2009年11月24日

絵封筒展へのご協力に感謝!

 10月24日の本欄で告知させていただいたが、11月20~22日には、秋季大祭を機に生長の家総本山の練成道場第2研修室で「谷口雅宣絵封筒展」が開催された。これには多くの幹部・会員の方に訪れていただき、主催した世界聖典普及協会の報告では、出展された絵封筒全64点は完売されたという。「森林資源再生」という本展の趣旨に賛同し、ご協力くださった読者の皆さんに心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
 
 実は、私も妻と一緒にこの展覧会へ行ったのである。21日の夕方のことで、こっそり行っEfutoten_2009 たつもりなのに、楠本行孝・総務以下多くの方々に玄関で出迎えを受け、会場まで案内していただいた。自分の作品を見るのは気恥ずかしいが、人さまにお金を出していただくのに、仕上がり具合を見ないわけにはいかない。私が絵封筒の中に入れた手紙文も、額装中にきちんと納まっているのを見て安心した。その時どういうわけか、会場で“偶然に”会った方々と記念写真を撮ることになった。今日、その写真を回していただいたので、ここに掲げる。
 
 売れてしまった絵封筒は、その縮小版が小関隆史氏の運営するサイト「光のギャラリー~アトリエTK」上にまだ掲載されている。また、今後描く絵封筒は、新しい普及誌と連動するサイト「PostingJoy」の「絵手紙・絵封筒」のコーナーに登録される予定である。私もメンバーの1人として、このサイトに時々顔を出している。絵手紙・絵封筒ファンの読者の方々は、また、ウェブ版「日時計日記」の常連さんも、このサイトのメンバーになって大いに運動を盛り上げていきましょう。

 谷口 雅宣

| | コメント (4)

2009年11月22日

「自然を愛する」とはどうすることか?

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山に於いて、「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が厳かに執り行われた。この式典は、前日に行われた龍宮住吉霊宮秋季大祭と龍宮住吉本宮秋季大祭という2つの御祭に続くもので、海外代表を含む各地からの生長の家の幹部・代表者が集まって、前年の運動の成果を讃え、今後の運動のさらなる発展を誓う場である。私は本式典において祝詞を奏上し、運動の功労者へ表彰状を授与するなどしたほか、大要以下のような挨拶を行った:
 
--------------------------------------------------------
 皆さん、本日は谷口雅春大聖師御生誕日記念式典に大勢お集まりくださいまして、誠にありがとうございます。
 この11月22日は、昨年までは「谷口雅春大聖師御生誕日記念」に加えて「生長の家総裁法燈継承日記念」という枕詞がついていましたが、今回からは2番目の枕詞は消えました。その理由は説明するまでもありませんが、私が生長の家総裁の法燈を継承させていただいたのが、今年の3月1日の立教記念日だったからです。ですから、今回の秋の記念日は、例年より何かが減ったのではなく、2つの枕詞が春と秋に分かれたということをご了解ください。谷口雅春先生のお誕生日がなくなったのでも、総裁の法燈継承を記念する日がなくなったのでもありません。

 さて、今年は全国的に秋の到来が早いように思います。気象庁に問い合わせたわけでもないので確かなことではありませんが、つい数日前には日本列島は寒気に包まれて、冬の到来を思わせるほどでした。東京地方の気温も最高が「9.4℃」という日がありました。生長の家本部の近くにある明治神宮の外苑のイチョウ並木も、ちょうど黄葉が見ごろで、長崎へ来る前日などは黄金色の絨毯を楽しむことができました。ここ総本山でも、公邸のお庭のカエデが奇麗に色づいてきています。こうして美しい自然に接することができるのは、本当にありがたいことと思います。このように今は紅葉が美しい季節ですから、私はこの秋の記念日には「自然界」の話をよくするのであります。今日は「自然を愛する」とはどういうことかを、皆さんと一緒に考えてみたいのであります。

 生長の家では現在、“自然と共に伸びる運動”をしようというので、私たちは運動方法や日常生活をいろいろ工夫して、できるだけ地球温暖化が進まないように心がけています。皆さんもこのことはよく心得ておられると思います。日本では政権交替が行われて、温暖化抑制により積極的な民主党が今、温暖化問題に取り組み出したところですが、残念ながら、世界全体の動きはまだまだ経済優先で進んでいるようであります。そのおかげで、温暖化の速度はIPCCが予測した“最悪”のシナリオに近い動きを示しているのが現状です。

 私たちは“生活者”としては、できるだけCO2を排出しない生活を心がけることはもちろんです。しかし、特に経済が停滞している現状では、経済復興のためには消費をどんどんしろという人が多いのですから、“信仰者”としては、「なぜ消費によってCO2を排出してはいけないか?」という問いに、宗教の立場から確信をもって答えることができなくてはいけないと思います。それは別の言葉でいえば、「なぜ自然を愛さなかればならないか?」という問いかけでもあります。その答えは、「神の愛を実践する」ためなのであります。仏教的に言えば、仏の「四無量心の実践」です。
 
「自然を愛そう」などと言うと、皆さんの中には「自然を愛することなど昔からやっている」という人がいるかもしれません。しかし、その「愛」とはどんな種類の愛でしょうか? 産業革命以降のこれまでの人類の文明では、「自然を愛する」とはいっても、それはたいてい自然の“全体”を愛するのではなく、自然物の中から人間にとって利用価値の大きい一部のもの--例えば鉄鉱石、石油、ウラン、木材、牛肉……を取り出して、それを愛する。つまり、自分のそばへもってきて、利用する--五感を満足させる手段として消費する--という意味でありました。自然の中でも人間の利用価値がないものは、“邪魔者”と見なされ、破壊されたり、廃棄物として捨てられてきました。これが経済発展とともに地球全体で大規模に進行してきたために、自然破壊が行われ、公害問題が発生して、さらには今日のような地球規模での気候変動が深刻化してきているのであります。

 その理由はなぜなのでしょうか? 人間は「自然を愛する」のをやめたのでしょうか? 私はそうは思いません。なぜなら、今のような紅葉の季節には、大勢の観光客が紅葉狩りに繰り出します。冬にはスキー客が繰り出し、春には山菜採りに繰り出し、花見に繰り出し、夏には海や山に繰り出して自然に接することで幸福感を味わうからです。また、世界中で似たような現象が起こりますから、自然を愛するのは日本人だけではない。それではなぜ、人間は自然を愛しながら自然破壊を続けるのでしょうか? この問題に正しく答えることができなければ、自然保護や温暖化抑制の試みはきっと失敗するでしょう。

 私はこれは、「愛する」という言葉の意味をしっかり理解しないところから来ていると考えます。生長の家では、「愛」というものを皆さんに無条件でお勧めしてはいません。これは、講師の先生方ならばよくご存じのことです。仏教でも、愛は煩悩の一つに分類されています。また、キリスト教でもイスラームでも、愛には低いものから高いものまでいろいろの段階があると教えられています。「自然への愛」についても、私たちは古来からある、こういう宗教の知恵から学ぶことが大切です。

 生長の家創始者の谷口雅春先生のご著書『新版 生活と人間の再建』には、第8章に「愛の諸段階に就いて」という題をつけて、この問題に明確な答えが示されています。この本は今、生長の家講習会のテキストにもなっていますから、皆さんもお持ちの方が多いと思います。お家へ帰ったら、読み返してみてください。
 
 (同書、pp.148-150 を朗読)
 
 ここで谷口雅春先生が説かれているように、人類のこれまでの「自然への愛」とは愛着の愛であり、執着の愛だったのであります。これは煩悩の1つでありますから、愛すれば愛するほど自然から奪い、自然を破壊する結果になってしまいました。私たちは今やその「煩悩の愛」を超えて、自然に対しても仏の四無量心を表す方向へと歩み出さなければなりません。

 では、それは何をすることでしょうか? 四無量心とは「慈・悲・喜・捨」です。すなわち、「慈悲」とは「抜苦与楽」の心です。つまり、人の苦しみを見ては、その苦しみを除いて楽を与えようと思う心です。これを自然界に対して適用すれば、自然が傷つき、多くの生物種が絶滅している現状を見て悲しみ、その自然を回復させ、生物種の保存と繁栄とを実現させようとする心です。また、生物が繁栄している様子を見れば、それを自分の繁栄のように感じて喜ぶ心が「喜」です。別の言葉で言えば、「自然と我とは一体なり」という自他一体の感情を起こし、その通りに生きることです。それが、より高次の「自然への愛」であり、これによって人間は初めて自然を傷つけ、自然から収奪する従来の生き方から離れることができるでしょう。
 
 さて、それでは四無量心の4番目の「捨徳」について考えてみましょう。自然を愛するに「捨」をもってするとはどういうことでしょうか? 谷口雅春先生は次のように説いておられます--
 
 (同書、pp.156-157 朗読)
 
 これを読むとお分かりのように、人間が自然を自分の好みに合わせてつくり変えるのではなく、自然本来の活力を発揮させ、自由に解放してあげることです。それによって、人間の生活に多少不便なことが起こっても、それを「不便」とか「不都合」とか考えないのです。なぜなら、自然と我とは一体なのですから、自然にとって好都合なことは自分にも好都合と感じるからです。人類の多くがこのような心境に到達するのは、まだまだ先のことでしょう。しかし、「神の愛」を実践することの大切さ、仏の四無量心の尊さを知っている信仰者には、こういう生き方に向かって努力することの意義がよく分かるのです。
 
 生長の家は、環境運動ではありません。宗教運動であり、信仰者の生き方を広める運動です。今日、環境問題の重要さは世界的に認知されるようになっていますが、それを宗教上の信仰の問題として捉える人は、残念ながらまだまだ少ないのです。生長の家はそれを行うことによって、今、困難に直面している地球温暖化抑制を精神的・宗教的側面から強力にバックアップしていく使命があると考えます。ですから、私たちは“自然と共に伸びる運動”をぜひ実現させ、その意義を生長の家以外の多くの人々にも伝えて、神の御心を実現していきましょう。
 
 自然の美しいこの秋の記念日にあたって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (8)

2009年11月20日

電子メモ帳を買う

 前から気になっていた製品で、文章作成用の「電子メモ帳」のようなものを買った。移動が多く、ブログのような短い文章を頻繁に作成することが多い私は、移動中の乗り物の中などで文章作成が手軽にできる道具を探していたからだ。もちろん、ノートパソコンでもそれはできる。だが、私のもっている機種は結構重く、しかもウィンドウズの「ビスタ」搭載のものを選んでしまったから、動作が遅いのである。

 最近は「ネットブック」と呼ばれる機種が人気だそうだが、これは私が今持っているノートパソコンよりは軽い。しかし、文章の作成は決して“手軽”というわけではなさそうだ。パソコンを起動し、さらにワープロソフトを立ち上げ……などしているうちに、何分もたってしまうだろう。また、その名前からしてインターネットに接続して使うことが前提となっているから、ブラウザーなど文書作成以外の機能がいろいろついている。それはそれでいいとしても、「手帳」の感覚でどこにでも持って行け、どこででも開いて記入できるような“文房具”を私はほしかったのである。

Pomera1  目をつけていた製品は、文具メーカーのキングジムが開発した「Pomera」である。私はそれを、講習会へ行く途中で、東京駅の地下街にある家電量販店で最初に見た。携帯電話より一回りほど大きく、開くと折り畳まれたキーボードが姿を現す。それをさらに開き、電源を入れ、文章を入力する。終わったら電源を切り、機械を閉じる。ただそれだけの機能だ。しかし、動作が速いという長所がある。スイッチオンから4~5秒で、文字の入力が可能となる。また、電源を落とした後に立ち上げると、前回書きかけの文章がそのまま画面に出るから、すぐに作業が始められる。
 
 私は、パソコンのキーボードの使い心地に案外こだわる。現在使っているノートパソコンはレノボ製だが、この中国のメーカーがIBMからパソコン部門を買い取って「Lenovo」というロゴを貼る前から、IBMのノートパソコンを愛用していた。その理由はキーボードのキータッチが私に合ったからである。適度に柔らかく、キーの沈みが深すぎず、また浅すぎず、Pomera2 しかも打ったときに「打った」という感じがするのである。これに比べて仕事場で使っていたNECのものは、キーの沈み具合がやや深かったから、大げさな感じがし、しかも長い間打っていると指が疲れてきた。だから、Pomeraの場合もキーボードの使い心地が気になった。また、「折り畳み式」というのが心配だった。何か華奢な感じがして、長期間の使用に耐えられるか不安だった。が、店頭で実際に文章を打ってみると、キータッチはレノボのものとあまり変わらないし、「折り畳み」も頑丈とは言えないが、それほど華奢でもなさそうだった。

 そこで思い切って、休日の木曜日に渋谷の量販店で買った。そして使い始めている。まだ十分使いこなしていないが、手軽さが気に入っている。かな漢字変換機能では、ATOKが使えるので使用感は快調である。重要なのはPCとの連携だが、これはUSBケーブルとマイクロSDの2系統があるから、問題があるとは思えない。この文章も、Pomera上で書き始めたものをPCで完成させた。また、何か気づいたことがあったら本欄で報告しよう。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (5)

2009年11月19日

マザーリーフ

 11月の初めに生長の家の講習会で鹿児島へ行った際、「マザーリーフ」という植物を信徒の方からいただいた。長さが14~15センチの何の変哲もない緑色の葉2枚で、屋久島産だ。添付されていた説明書を読むと、この葉を水に浸していると縁から芽が出て成長し、それを切り分けて土に植えると1m近くまで伸びるという。正式な名前はセイロンベンケイソウで、その名のとおり亜熱帯原産の植物だ。生産元として屋久島自然広場という名前が記されている。
 
Motherleaf2  今日の東京地方は雨模様で急に冷え込み、最高気温は9.4℃にしかならなかった。いきなり冬になってしまった感じだから、この亜熱帯植物がどうなってしまうのか気になる。鹿児島から帰ってすぐに水に浸け、それから約3週間たった今の状況は、1枚の葉の周囲の3カ所から高さ1.5㎝ぐらいの芽が伸びていて、もう1枚の葉の周囲からは、6~7箇所に約5㎜の小さい芽が出たところだ。私たちが家にいる間は暖房のある部屋に置いてあるからいいが、寒暖の変化が激しい今、留守中が心配だ。私たちは20日から3日間、東京を離れるからだ。それにしても、植物というものは、太陽光と水さえあれば自分で栄養素を生産し、子孫を殖やせるのだから素晴らしい。人間は逆立ちしてもそんなことはできない。
 
 ところで、今日は休日だったので、妻と渋谷のデパートへ行った。妻が行きつけの洋装店にいる間、私は店先で手もち無沙汰で待っていた。が、その時、店の展示品の中で、アクセサリーだけが数箇所でグルグル回っているのに気がついた。それぞれが10㎝四方ぐらいの大きさのプラスチック台の上に置かれていて、その台がゆっくり回っているのだった。最初は、単三程度の乾電池がその台の動力源かと思った。が、台をよく見ると、四辺に細長い太陽電池のようなものが付いている。そこで私は、台を取り上げて調べてみた。それは軽くて、中に乾電池が入っているようには思えない。また、電池で動く場合は、電源スイッチがあるはずだが、それも見当たらない。そこで、天井から来る照明に対して台の角度を変えてみた。すると、回転は止まってしまった。

 つまり、この小さな回転台は、携帯型の計算機と同じように、店の照明をエネルギー源として太陽電池だけで動いているのだった。だから、この回転台を何台並べても、店の電力消費量に変化はない。それが、この不況時にも、この回転台が使われている理由だと私は思った。太陽電池の性能はここまで良くなっているのだ、と私は感心した。が、考えてみると、マザーリーフは自分の生命維持だけでなく、子孫を殖やすことも「水」と「太陽光」だけでやっているのだから、このアクセサリー台以上のことを楽々とこなしている。それに、この植物に花が咲けば、アクセサリーのような作り物でない“本物”の美と対面できるだろう。人間はまだ、1枚の木の葉以上のものを創造していないのである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年11月18日

肉食の温室効果は51%

 人類が肉食をすることで地球温暖化が進行することは、いろいろな方面から指摘されてきたから、すでに多くの読者はご存じだろう。生長の家でも「肉食を減らす」ことを温暖化抑制の方策の1つとして、信徒や社会に訴え、また自ら実行してきた。具体的には、本部事務所や総本山での重要な会議や集会や、各地で開かれる練成会での食事を“ノーミート化”したり、ノーミートブログなどで、肉を使わない料理の献立や、それを食べさせるレストランを紹介してきた。が、肉食をすることで、実際にどれほどの量の温室効果ガスが大気中に排出されるのかは、詳しくわからなかった。ところが、このほどワールドウォッチ研究所(World Watch Institute)の求めで行われた研究では、食肉産業全体から排出される温室効果ガスは全体の「51%」、という高い数値が出た。17日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。
 
 それによると、この研究をしたのは、かつて世界銀行で環境分野の顧問を務めたロバート・グッドランド氏(Robert Goodland)と、世界銀行系のインターナショナル・ファイナンス社(International Finance Corp.)の環境問題専門家、ジェフ・アンハン氏(Jeff Anhang)。両氏の報告には「家畜と気候変動:もし気候変動の鍵を握るのが牛やブタ、鶏…だったら」(Livestock and Climate Change:What if the key actors in climate change are...cows, pigs and chickens?)という題がつけられている。研究では、生きた家畜から出るメタンなどの温室効果ガス、家畜の飼料を栽培するため、あるいは牧草地を造るための森林伐採など、食肉産業全体から排出される温室効果ガスの量をCO2に換算して算出した結果、上記の数値を得た。特にメタンは、CO2に比べて23倍もの温室効果があるため、深刻な影響がある。国連の食糧農業機関(Food and Agriculture Organization)が2006年に出した報告では、家畜からの排出量は全体の「18%」とされていたが、今回の数値は産業全体を含んだため、大幅に拡大したようだ。
 
 15日付の本欄では、森林伐採による温室効果ガスの排出量は全体の「17%」--という数字を紹介したが、これの3倍の量を食肉産業が排出していることになる。ということは、航空機の使用を減らしたり、自動車をガソリン車から電気自動車へ替えるよりも、また森林を守ったり植林をすることよりも、我々が肉食を減らすことの方が地球温暖化抑制のために効果的だと言えるだろう。この数値には、目を覚まさせられないだろうか。我々は動物を苦しめ、その命を犠牲にして自分の欲望を満たしてきたことで、気候変動を起こし、自ら苦しみ、多くの命を犠牲にしつつあるのである。「因果晦まさず」という言葉は真実である。
 
 地球温暖化以外にも肉食が抱える諸問題を意識して、マクロビオテックなどでは、肉食をせずに「肉の味」を楽しめるテンペ(大豆)、セイタン(小麦)などの食肉代替品が開発されている。が、最近では、先端的な再生医療から得た技術により、個体から分離した家畜の細胞を増殖させて“培養肉”(cultured meat)を製造する研究が行われているらしい。同紙の記事には、それが10年以内に実現するという研究者の談話が載っている。その研究者は、培養肉の製造により、温暖化ガスの発生は9割ほど抑えられるから、自動車をすべて自転車に替えるよりも効果があり、しかも家畜の肉よりも衛生的だとしている。私は、そんな方向に人類が進むと思うと、暗澹たる気持になる。

 谷口 雅宣

| | コメント (2)

2009年11月16日

グーグルのブック検索 (3)

 10月半ばの本欄(11日12日)で触れたグーグル社の書籍デジタル化に関する動きで、新しい展開があった。同社と米国出版社協会(AAP)、米国著作者協会(AG)の和解条件が改定されたからだ。この件についてはすでに報道されているが、大きな改定のポイントは3つある。それは、①英語以外の書籍は基本的にデジタル化から除外、②絶版本の権利処理を行う独立機関の設立、③他社の市場参入の容易化、である。

 つまり、日本語で書かれた書籍は、今回のグーグルのブック検索の計画から除外されるということだ。対象となるのは、アメリカで「著作権当局に登録済みの書籍または米、英、オーストラリア、カナダの4か国で出版された書籍」ということだから、基本的に英語の書籍である。また、私は私企業に世界的な著作権管理をさせることに反対だったから、独立機関の設立は歓迎できる。
 
 この“独立機関”について、14日付の『ニューヨーク・タイムズ』は「independent fiduciary」(独立受託機関)という言葉を使っている。これが、著作権者がわからなくなった絶版本(orphan works)に関する決定に責任をもつという。具体的には、議会の承認のもとに、出版や販売を希望する会社に対してライセンスを発行するとともに、著作物から生まれる果実(金銭)をプールして管理する。こうして陽の目を見た絶版本が、再発行から10年たっても権利者が現れなかった場合、印税等の果実は慈善事業に寄付されるとともに、権利者確定の作業が始められるらしい。

 他社の市場参入の容易化については、上記の記事は詳しくない。が、15日付の時事通信の記事によると、「作家や出版社がグーグル社に不利な契約を同業他社と結ぶことを実質的に禁じた条項を削除、既存小売業などの電子化書籍データ利用や市場参入を容認した」ということらしい。

 しかし、この改定条件に対しても反対意見は残っている。ヤフーやマイクロソフト、アマゾン・ドット・コムなどをメンバーとするオープンブック・アライアンスという団体は、この改定は“小手先の技”(sleight of hand)であって“根本的欠陥”に触れていないと言っている。その根本的欠陥とは、1国や1言語の文化全体を扱う大きな公的な問題に対して、一部の団体と1企業が非公開の場で取り決めをし、それが世界的な影響力をもつ、ということだ。簡単に言えば、1私企業が文化的に独占的な力をもつことは許されない、という意見だ。私も、本件についてはそのような危険性を感じている。日本でも、中小出版社99社からなる出版流通対策協議会や日本ペンクラブが、グーグルのこの計画について疑義を表明しているから、今後の動きを引き続いて注意深く見守りたい。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年11月15日

森の大切さ

 今日は目の覚めるような晴天のもと、千葉市の幕張メッセ・イベントホールで千葉教区の生長の家講習会が開催された。気温も暖かで紅葉・黄葉の美しい休日でもあったから、宗教の話よりも行楽を選ぶ人も多かったろうと思うが、1万人を上回る数(10,109人)の受講者が参加してくださり、和やかな雰囲気の中で講習会がもてたことは誠にありがたかった。

 午後の部の講話で、私は地球温暖化抑制のための人類の努力がいま、どのような困難に差しかかっているかを話した。本欄の読者にもそれを知ってもらいたいので、以下に少し書くことにする。

 パリに本部を置く国際エネルギー機関(International Energy Agency, IEA )はこの10日、『World Energy Outlook 2009』(世界のエネルギー展望)という報告書を発表した。これは同機関の毎年のレポートの最新版だが、698頁もある大部のもの。それによると、世界各国のエネルギー政策が変わらずに、このまま経済発展が続いていくと、人類の化石燃料への依存は今後急速に強まり、気候変動とエネルギーの供給不安がますます深刻になるという。

 12月にはデンマークのコペンハーゲンで190カ国の代表が集まって、京都議定書に続く気候変動抑制のための条約の交渉が行われるが、そこでの合意はかなり難しいとされている。その理由は、化石燃料を基礎とした現在の文明から、風力や太陽光などの再生可能エネルギーを基にした新しい文明へ転換するためのコストを、誰がどう負担するかで、先進国と途上国の間に鋭い意見の対立が続いているからだ。

 途上国側の主張は、今日の温暖化をもたらしたのは先進国だから、原因をつくった先進国がコストを支払うべきで、途上国の経済発展を妨げる権利はないというもの。これに対し、昨年来の経済不況から立ち直れないでないでいる先進国は、高額の資金の提供や、自らのもつ環境技術の提供に消極的だ。京都議定書後の取り組みについては、先進国は中国やインドなどの新興国にも温暖化ガス削減の義務を認めさせようとしているが、それらの国々は上記の理由から、それに反対する姿勢を崩していない。

 その一方で、昨年来の世界的経済不況は、温暖化ガスの排出を大幅に減らすという意味ではよい効果をもたらした。IEAもこのことに触れ、経済の停滞によって、今年の温暖化ガス排出量は世界全体で3%減少すると予測している。これは、この40年間で最大の下げ幅という。しかし、2012年に期限切れとなる京都議定書の後に、温暖化抑制のための国際合意ができない場合、2030年には温暖化ガスの排出量は40%も増えることになるという。この増加分の半分以上は中国によるもので、残りはその他の新興国による。

 今の人類の経済活動が地球規模でどの程度の自然破壊をもたらしているかについては、アメリカの著名な評論家、トーマス・フリードマン氏(Thomas L. Friedman)が、11月12日の『ヘラルド・トリビューン』紙に寄稿した論説が分りやすい。それによると、現在の地球上で使われるすべての交通・運搬手段--列車、自動車、トラック、航空機、船舶--から排出されるCO2の量よりも、森林伐採によって発生するCO2の量の方が多いというのである。森林伐採による温暖化ガス排出量は、人間の活動全体から排出される量の17%を占めているが、これを止めることの方が、化石燃料から再生可能エネルギーへの転換を図るよりも効果的であるという。毎年、地球上から消失する森林の面積は、アメリカのニューヨーク州ほどの広さだという。同州の面積は約12万8400平方kmだが、これを日本の国土に当てはめてみると、北海道、四国、九州を足した広さ(約13万2000平方km)にほぼ匹敵する。現在の“経済成長”というものには、これだけの面積の森林を毎年消失させるという深刻なマイナス面をもっていることを、我々は知るべきである。

 私は今日の講習会で、IEAの報告書の話はしたが、フリードマン氏の論説に触れる時間がなかった。が、ここで考えてみると「森林伐採による温暖化ガスの排出」とは、チェーンソーや木材運搬用のトラックから排出される温暖化ガスのことであるよりも、「伐採によって森林に吸収されなくなるCO2の量」のことなのだ。つまり、人類が現段階以上の森林破壊をやめることができれば、CO2の排出量を「17%」も森林が吸収してくれるのである。植林や育林の重要性を改めて感じる。秋の紅葉は美しくてありがたいが、緑豊かな森の大切さも忘れてはなるまい。

 谷口 雅宣
 

| | コメント (1)

2009年11月11日

フォートフッドが教えるもの

 本欄では、宗教上の信仰と暴力や戦争との関係について機会を見て取り上げ、考えてきた。5月末には「信仰による戦争の道」(29日30日)と題して、イラク戦争遂行のためにアメリカではキリスト教の信仰が利用された例を取り上げ、8月にはクリストファー・ヒッチェンズ(Christopher Hitchens)氏が数々の宗教と暴力事件との結びつきを著書で指摘していることを紹介(/08/3-e6cb.html)し、神への信仰が必ず暴力をもたらすのかどうかを検証した。私の結論は、信仰自体が暴力の原因なのではなく、「神」に対して「悪」を想定すること、善と悪とが対立する世界を信じることが、悪を滅ぼす手段としての暴力や戦争を正当化する、というものだった。
 
 最近、アメリカ軍内部で起こった銃の乱射事件も、この結論の正しさを証明していると私は考える。この事件は11月5日、テキサス州フォートフッドにあるアメリカ最大の陸軍基地で、軍の精神科医、ニダール・マリク・ハサン少佐(Nidal Malik Hasan、39歳)が銃を乱射して13人が死亡、43人が負傷したというもの。ハサン少佐がパレスチナ出身のイスラーム教徒であることはすぐに明らかにされたが、この事件は今のところ、同少佐の個人的な心の問題が原因と考えられ、テロとは無関係とされているようだ。が、その後、ハサン少佐がイスラーム過激派の宗教指導者と結びつきがあっただけでなく、その事実をFBIなどの米情報機関が事前につかんで注意を喚起していたことが判明し、問題になっている。11日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が報じている。

 それによると、ハサン少佐と連絡があったのは、イエメン人を両親にもつアメリカ人でイスラーム指導者、アンワー・アル・アウラキ師(Anwar al-Awlaki)で、彼は、ハサン少佐がヴァージニア州の郊外に住んでいた頃、通っていたモスクの宗教指導者だったという。アウラキ師は、2000年から2001年にかけてアメリカ国内の2つのモスクの指導者をしていて、それらのモスクには9・11事件の実行犯3人が出入りしていたという。しかしアウラキ師は、この同時多発テロについて否定的な見解を示していたため、当初は穏健派と見なされていたようだ。しかし、2002年にイエメンにもどってからは、同師は自分のウェブサイトを通じて、過激な見解を発表するようになっていたという。
 
 ハサン少佐とアウラキ師が米国内で直接接触していたかどうかは明らかでないが、昨年12月以降、ハサン少佐がアウラキ師に宛てた電子メールが米情報機関によって20通ほど、傍受されているという。が、その内容を分析した結果、FBIは「この時点では、ハサン少佐に共犯者がいるとか、テロ計画の一部を担っていることを示す情報は何もなく、また、両者間の連絡の内容はハサン少佐の軍医としての研究の一部だと解釈できるし、それ以外には何も発見されなかった」という理由で、「テロ活動やテロ計画に加わっていない」との結論を出したらしい。が、今回の乱射事件後、アウラキ師はハサン少佐を「英雄」と呼び、「彼こそ、イスラーム教徒であることと、祖国と戦う軍に仕えることとの矛盾に耐えられなくなった良心の人である」と讃え、「イスラームの教えに従いながらアメリカの軍人として生きる唯一の道は、ニダール(・ハサン)のような男の後に続くかどうかである」と記しているという。
 
 私は、アメリカ政府が「テロリズム」というものをどのように定義しているか知らないが、宗教の信仰と暴力のつながりという点で言えば、今回の事件は明らかにそれがあると思う。つまり、これは「信仰による暴力」である。ハサン少佐は犯行の際、祈るように頭を下げてから「アラー・アクバル(神は偉大なり)」と叫び、2丁の拳銃から100発近くを乱射した。その中の1丁は、半自動の殺傷力の大きなもので、8月に前もって自ら購入しているという。また、犯行前日には、隣の人に自分の『コーラン』や家具などを渡しているというから、一時の狂乱で犯行に及んだのではなく、入念な準備をした後の確信的行動に違いない。その行動が、かつて通っていたモスクの指導者の言葉から、まったく影響を受けなかったとは考えにくい。その指導者が、イラクやアフガニスタンにおけるアメリカ軍の行動を「イスラームに対する攻撃」だと捉えているとしたら、ハサン少佐も同じ認識をもつにいたった可能性は大きい。

 その場合、自分の国と自分の信仰のどちらを選ぶか、という深刻な問題が生じる。7~8日付の『ヘラルド・トリビューン』紙は、ハサン少佐が実際に、そのジレンマに悩んでいたことを、同少佐の従兄弟、ネイダー・ハサン氏(Nader Hasan)に取材して書いている。それなら、軍隊をやめればいいとも思うが、貧しい移民の子である彼は、高校卒業後、親の反対を押し切ってただちに陸軍に志願し、そのため軍の費用で大学へ行き、医者としての訓練を受けることができたのである。だから、簡単にやめることはできなかったようだ。

 アメリカ軍の中には、彼のような立場のイスラーム教徒が少なくないに違いない。10日付の同紙は、9・11事件後、アメリカ軍は、中東方面の言語や文化を理解する人を重点的に雇ったと書いており、その結果、140万人の現役軍人のうち約3千5百人は、自らを「モスレム」だと表記しているという。が、この表記は任意なので、実際にはこれよりずっと多くのイスラーム教徒が軍人として世界各地で任務についているだろう。だから今回の事件は、長期にわたって中東に派兵しているアメリカにとって、大変重い問題の存在を示しているのである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2009年11月 9日

よろこびを表現しよう

 最近マスメディアから流れてくるニュースは、暗いものばかり。特に、凄惨な事件の詳細を繰り返して聞かせる報道姿勢には、「いいかげんにやめてくれ!」と言いたくなる。世の中にはそんなヒドイ人ばかりがいるのではない。何万分の一、何十万分の一の確率で起こることを毎日繰り返し、これでもか、これでもかと報道することで、世の中が良くなると考えるほど、浅はかで愚かなことはない。が、残念ながら、マスメディアはこの壮大な愚行の習慣から抜け出せないでいる。だから、「人生の光明面を見る」生長の家の日時計主義の生き方は、もっともっと多くの人に知られ、実践される必要があると思う。

 というわけで、生長の家ではインターネット上でも光のメッセージを発信しようとウェブ版「日時計日記」を運営してきた。それに加え、このほど喜びを表現するSNS(ソーシャルネットワーキング・サービス)「ポスティングジョイ( PostingJoy=喜びの投稿サイト)」が立ち上がった。SNSとは、共通の興味や関心事、趣味をもつ人たちが、ネット上で集まって意見交換や作品発表をする場だ。誰でも参加できるから、生長の家の会員もそうでない人も、共に集まって“人生の喜び”を共有できる。今のところメンバーは約150人だが、この数がどんどん増えていくことで、ネットを通じた光明化運動が拡大していくことになる。
 
 現在、このSNSに設けられたグループは13ある--①よろこび日記、②絵手紙・絵封筒、③ノーミート料理、④植樹・植林、⑤エコ生活、⑥俳句、⑦短歌、⑧写真、⑨イラスト、⑩書、⑪生花・ガーデニング、⑫動画、⑬PostingJoyを楽しく便利にしよう。私はさっそく、②のグループに入って絵封筒などの発表を始めた。本欄の読者も、それぞれの興味あるグループに参加して、この新しいサイトを盛り上げ、知人にも勧めて、ネット時代の新しい研鑽と、布教活動に参加していただければ有り難い。関心のあるグループがない場合でも、ジョイ(Joy=喜び)の投稿はできるので、『日時計日記』をつけるつもりで本サイトを利用することもできる。

 このサイトのもう1つの特徴は、来年4月号からスタートする生長の家の新しい普及誌と連動していることである。簡単に言えば、このサイトに投稿することで、新しい雑誌にも投稿できるのだ。もちろん雑誌のページ数には限りがあるから、すべての投稿が印刷物になるわけではない。が、ケータイからの投稿もできるから、雑誌と読者との距離は一気に短くなる。その新しい普及誌の“見本誌”も、今はこのサイトで読むことができる。編集部では、読者の感想やご意見を募集しているから、よりよい雑誌にするための助言等もいただけると有り難い。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (7)

2009年11月 6日

レヴィ=ストロース氏、逝く

 すでに報じられていることだが、文化人類学者で偉大な思想家としても知られるレヴィ=ストロース氏(Claude Levi-Strauss)が、100歳で亡くなった。ユダヤ系フランス人で日本文化にも造詣をもち、何度も来日して講演録も出版されている。ブラジルの先住民の文化をフィールドワークによって研究して書いた『悲しき熱帯』(1955年)や『野生の思考(パンセ・ソバージュ)』(1962年)などで、人類が混沌とした秩序のない“未開社会”から、しだいに洗練された文化をもつ社会へと発展してきたという西洋中心主義の考え方を否定し、“未開”と見える社会にも一定の秩序と構造が見出せると主張して、当時の西洋社会にセンセーションを巻き起こした。神話学の分野でも大きな貢献をしている。日本とブラジルの双方に関係があり、神話にも詳しい思想家だから、生長の家とも直接的な接点があってよさそうだが、その形跡は見つかっていない。
 
 私はしかし、生長の家の万教帰一論を深く理解するためには、この人の研究から学ぶことは数多くあると思う。その1つは構造主義的なものの見方である。構造主義とは、物事の表面からは隠された(潜在的な)構造を見出して、その構造によって現象を理解し、ひいては現象に働きかけようとする立場である。宗教とも関係が深い精神分析学の分野では、「エディプス・コンプレックス」とか「元型」などの概念がそこから生まれている。谷口雅春先生の諸著作の中では「男性原理」に対する「女性原理」という考え方や、「東洋文化」と「西洋文明」を対比させる方法は、きわめて構造主義的である。神話の分野にも、そういう隠された構造があると考えるのが神話学の立場である。そのことを、レヴィ=ストロース氏は『神話と意味』の中で次のように語っている:
 
「神話の物語は気まぐれで無意味で不条理です。とにかく見たところはそうです。にもかかわらず神話の物語は、世界的に反復して現われるように思われます。ある地点の人が頭の中でこしらえ上げた“奇想天外”の作り話ならば、1つしかないのがあたりまえ--つまり、まったく別の場所に同じ作り話が見出されるのはおかしいはずです。私の問題は、この外見上の無秩序の背後に、ある種の秩序があるのではないかと探ってみること、ただそれだけでした」
(同書、p.15)

 神話は、宗教の出発点であると言える。日本古来の神道は、『古事記』『日本書紀』などの神話を含む書物を基本としている。聖書の『創世記』は、神話との共通点が多いだけでなく、その一部に神話を含むと言っていいだろう。この教典は、ユダヤ教、キリスト教、イスラームという3大一神教の基礎である。初期仏教の教典やヒンズー教の教典にも、神話が含まれている。そしてこれらの様々な神話は、登場人物の名前や行動などの細部は皆、まちまちで個性的であっても、物語の基本構造は共通しているというのが、神話学が見出したことなのだ。これと同じ考え方が万教帰一論の背後にはある。
 
 こういう研究を続けてきた氏が、同じ本の中で宇宙の秩序について興味あることを言っている:
 
「人類の知的業績を見わたすと、世界中どこでも、記録に残る限り、その共通点は決まってなんらかの秩序を導入することです。もしこれが人間の心には秩序への基本的欲求があることを表わしているとすれば、結局のところ人間の心は宇宙の一部にすぎないのですから、その欲求が存在するのは、多分、宇宙に何か秩序があり、宇宙が混沌ではないからでありましょう。」(同書、p.16)

 レヴィ=ストロース氏は学者であるから、「神」という言葉は使っていない。が、人間の心が求めてやまないものが宇宙にあるという考えが、ここに表明されている。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○レヴィ=ストロース著/大橋保夫訳『神話と意味』(みすず書房、1996年)

| | コメント (5)

2009年11月 5日

ミカンを採る

 今日は休日を利用して、自宅の庭のミカンを収穫した。今年はミカンの実のつきが良く、その重みで枝が垂れ下がっているのが何か可哀そうだし、そろそろ鳥につつかれるようになってきたので、黄色に色づいてきたものから採ることにした。大小さまざまな大きさがあるのを、まず園芸用の鋏で伐る。低い位置のものから採っていったが、高い位置にあるもMikan2009 のの方が色づきがよいのである。アルミ製の梯子を出してきてそれらを採ることは採ったが、ミカンの樹は斜面に生えていて、しかもきちんと剪定していないので、梯子でも採れないものが多く残った。すると妻が、「高枝伐りを使えば採れる」と言ってそれを持ってきてくれた。これはなかなか便利な道具で、3mぐらいの高さにあるものも採ることができた。こうして採ったミカンを数えると、150個くらいあった。そして樹上には、黄緑色の状態のものや、高くて採れないものなどが、同じ数ほど残った。なかなかの豊作である。

 今年は、ミカンの隣にあるユズもいっぱい実をつけているし、粒が例年より大きい。しかし、冷夏の影響もあってブルーベリーは少なく、ビワも数えるほどで、イチジクときたらほとんど実をつけなかった。同じ環境にあっても、果樹の種類によってこれだけ結果が違うから、不思議である。多様な種があることで、何かが不作でも別のものが不足を補ってくれるのが「自然」の状態なのである。このことは、安定的な組織運動の発展にも必要な、重要な要素だろう。

 谷口 雅宣

| | コメント (4)

2009年11月 4日

キンドルを使う (2)

 10月23日の本欄で、この電子ブック端末の外観と基本的機能について少し書いた。それから約2週間がたったが、私に分かったことは次の3つである:
 
 ①英文を男女の声で読み上げる。
 ②個人用ファイルを保存できる。
 ③購入した電子ブックのコピーが提供される。
 
 この英文の「読み上げ」の機能には驚かされた。画面に表示されている文章を、結構まともな英語で読み上げてくれる。しかも、男性と女性の2種類の声を選ぶことができ、読み上げる速度も3段階ある。何のためにこれがあるのか定かでないが、想像するところ、自動車の運転中とか、目が疲れた時などに利用できるし、目が不自由な人の役に立つかもしれない。キンドルにはイヤフォン・ジャックもついているから、パソコンにつなげば音声ファイルの作成も可能だろう。ただし“完璧な英語”とは言えないから、発音練習には不向きかもしれない。また、アマゾンが提供する電子ブックや雑誌記事には音声による読み上げができるものと、そうでないものがある点、注意が必要だろう。
 
 次に、ここで言う「個人用ファイル」とは、個人がワープロや画像編集ソフトで作ったファイルのことである。だから、自分で書いた文書やインターネット上の情報、お絵描きソフトで作った画像、デジカメの写真などもキンドルの中に収納できる。ただし白黒画面だから、カラー画像はモノクロ表示になる。使えるファイル形式は、ワードの文書ファイル(DOC, DOCX)のほか、 PDF、 HTML、 TXT、 RTF、 JPEG、 GIF、 PNG、 BMP、 PRC、MOBI、などである。ただし、これらの個人用ファイルはキンドルに直接転送できない。使うときには、電子メールに添付して自分のキンドル用のアドレスに送ると、アマゾン側でファイル変換を行ったものを無線で送り返してくる。これには多少、時間の経過を要する。が、数ページ分のワード文書なら、数分でキンドルに収められる。
 
 最後に書いた「電子ブックのコピー」とは、キンドルで注文した電子ブックや電子記事のコピーが、自分のアマゾンのアカウントに残るということだ。 これがなぜ必要かというと、キンドルでは電子ブックを簡単に削除できるからだ。これは便利な機能だが、操作が簡単なため誤って削除する場合も出てくる。すると、通常の方法では(例えば、ウィンドウズ付属の「ごみ箱」機能のような)現状回復は不可能なのだ。これでは安心して使えないから、コピーをアマゾン側で取っておいてくれる。私も実際、買ったばかりの電子ブックを誤って1冊まるごと削ってしまったことがある。しかし、アマゾンが設けた自分のキンドル用のウェブページにアクセスすれば、そこにコピーがあるのでダウンロードして現状回復できた。これはうれしい機能である。
 
 このようにして、キンドルは電子ブックの購入と読書のための端末としては必要な機能をもっているが、なにせ日本語のファイルを表示しない点が、現在ではボトルネックだ。が、アマゾンでは近々世界各国の言語に対応すると言っているので、そうなれば音楽CDの販売減と似たような現象が、出版業界にも起こる可能性は充分あると言えるだろう。

 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年11月 3日

右脳しびれて

 快晴ながら寒波に包まれた文化の日だったが、私は妻と恒例の生長の家聖歌隊チャリティーコンサートへ行ってきた。今年は27回目で、京王井の頭線の駒場東大前駅の近くにある「こまばエミナース」のホールで午後1時45分から行われた。第1部の前半は、谷口清超先生の曲を中心とした聖歌が合唱され、後半はホームソングメドレー、そして観客も共に立ち上がって「紅葉」を合唱した。休憩をはさんだ第2部では、前半が特別ゲストによるフルート演奏、後半は聖歌隊による「心の四季」の合唱だった。
 
 想像していたよりも立派な会場で、音響効果もよかった。私たちは最近、コンサートへ行く機会などなかったから、じっくりと音楽の中に浸かって過ごす時間は、格別にありがたかった。音楽は、言葉を使わなくても感情や思想を伝えてくれる。そういう意味で、右脳から入る強力な情報だ。聖歌は、それに「歌詞」という言葉が加わって左脳の共鳴を呼ぶという点で、幅広く、また深い感動が味わえる。私は今回の聖歌の中では「無限を称える歌」に特に心を動かされた。この歌は、神に対して歌い手が二人称で語りかける形をとっている点で、祈りに似ている。そして、転調の後に、神が応える言葉が続くから、オペラのような構造でもある。しかし、その神の言葉は、あくまでも短く、重く、圧倒的だ。その言葉に対して、歌い手は感動に震え、神性の自覚を深めていく--そういうストーリーが背後にある。歌詞は1番から3番まであるが、それを読むだけでは出てこない感情的な高まりが、音楽に乗せて歌を唄うと心底から湧き出てくるから不思議だ。
 
 オペラと言えば、ズィーチンスキーの「ウィーンわが町」を聴いたとき、ミュージカルのフィナーレを観ているような気分になった。私はウィーンに行ったことはないが、ヨーロッパの明るい町並みを背景に、人々が大勢集まって「人生には喜びも悲しみもあるけれど、すべてよく、みな素晴らしい」と歌っている--そんな光景が私の瞼の裏側で展開しているようだった。分析的な頭でものを考えるクセがついている私のような人間には、分析とは全く別の方向から感情が怒涛のように押し寄せ、どこかへ連れて行かれるようで、しかもそのことが全く不安でなく、まるで心地よい波乗りをしているような気分だった。
 
 このような“右脳しびれる”体験を与えてくださった聖歌隊員の皆さん、また生長の家の音楽愛好家の皆さん、どうもありがとうございました。ちなみに、この日の入場者数は357人で、平成18年以降ではいちばん多かったそうだ。収益金は、例年のようにフジネットワークチャリティーキャンペーン事務局を通して、日本ユニセフ協会へ寄付され、西アフリカのシェラレオーネの子供たちのために使われる。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (2)

2009年11月 1日

桜島の火山灰

 今日は鹿児島市で生長の家講習会が開催された。妻と私は前日から鹿児島入りしていて、その日は晴天で夏を思わせる暖かな気温だった。鹿児島県のシンボルである桜島は、普段より多く噴煙を吹き出している、と出迎えの人が教えてくれた。しかも、南風が吹いているため、鹿児島市内に火山灰が降るのだという。そして、そういう日が2~3日続くと、同市内には雨が降って灰を流してくれるのだそうだ。その時はこの話を「へえー」っと思って半信半疑で聞いていたが、翌日になって本当に雨が降ったから、驚いた。そして、講習会が終る頃には再び晴天となった。
 
Haitohana  桜島の火山灰と雨との関係を聞いたとき、ロシアか中国が大きなイベントのある日を晴天にするために、事前に人工雨を降らせるという話を思い出した。ウィキペディアで調べてみると、雨や雪が生じるためには、雲の中に氷の粒ができる必要があり、その氷晶を作るものは空気中に浮かぶ微小な粒子だと書いてある。そして、この微小な粒子とは、「主に海の波飛沫で吹き上げられた塩の核であり、他に陸上から生じた砂塵などの粒子もある」とあった。だから、桜島から吹き上げられた火山灰が、氷の結晶ができる“核”になる可能性はあるのではないか、などと素人考えで想像する。
 
Sunadashi  桜島の火山灰はとても細かいそうだ。だから、桜島に住む人々の家には樋(とい)がないらしい。火山灰が雨で流れずに、樋を詰まらせてしまうのだ。そう言えば昨日、宿舎のホテルの周りを歩いたとき、道路脇に「克灰袋」を置く場所を指定する標識があるのを見つけた。自宅の敷地内に降った火山灰を集めて回収し、建設資材の一部に利用するのだそうだ。そのための袋を「克灰袋」と呼ぶのが、おもしろい。「灰を克服する」という意味だろう。それほど、火山灰はこの地の人々の生活圏に深く侵入してくるのだろう。黒い自動車が灰白色になっていた。植物の葉や花にも灰が積もって、色が変わっていた。戸外を歩いていると、時々目に何か細かいものが入った。そんな中でもジョギングをする人の姿を見かけたから、健康上の問題は深刻でないのかもしれない。
 
Graycar  活火山とともに生きるというのは、なかなか大変なことだと感じた。が、火山があるために、他の地域では味わえないよいこともあるはずだ。講習会の終了後に、鹿児島市の北方にある「仙巌園(せんがんえん)」という所へ寄った。薩摩藩の第19代藩主、島津光久の別邸跡を一般公開しているところで、約5万平方メートルの庭園と立派な平屋の屋敷とは、桜島を正面にして造られている。説明書には「錦江湾を池に、桜島を築山に借景した雄大な庭園」とあるから、昔の人たちがこの山をいかに愛していたかが分かる。噴煙を出しながら刻一刻と表情を変える山が、いつも目の前にあるのとないのとでは、きっと自然に対する考え方や生き方も変わってくるのだと思う。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (2)

« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »