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2009年10月18日

終末論の宗教

 今日は、山梨県韮崎市にある東京エレクトロン韮崎文化ホールで山梨教区の生長の家講習会があった。受講者数は前回を約1割上回る931人となり、古川忠男・教化部長を初めとした同教区幹部の方々とともに、喜びを噛みしめたよい一日となった。その様子は、生長の家が運営するWeb版『日時計日記』に妻が書いているので、ここでは繰り返さない。が、一つだけ付け加えれば、教区全体が早期から一丸となって1つの目的に向かって協力し合ったことが、総合的に大きな力を生みだしたのではないかと思った。山梨教区の皆さん、どうも有難うございました。
 
 ところで、私はこの講習会で1つ“積み残し”をしてしまった。それは、受講者からの質問に回答する際、答えるつもりで紹介した質問に、1つだけ答えるのを忘れてしまったのだ。そこで、この場を借りて回答を書くことにする。質問の主が本欄を読んでくださっていることを願う。その質問というのは、埼玉県八潮市(町名や番地は不明)から参加した16歳の男子学生からのもので、次のような内容だった--
 
「とても分かりやすいご講話をありがとうございます。午前のご講話の中で万教帰一という生長の家の教えを話されていましたが、終末論を唱えている宗教は万教帰一に入るのでしょうか。もしよければ教えて下さい。ありがとうございます」

 この質問にひと言で答えるのは難しいが、敢えてそうするならば「ノー」ということになる。が、ひと口に「終末論」と言っても、その「終末」が何を意味するかによって、信仰全体の内容が大きく変わってしまうから、十把一絡げの答えでは不十分である。例えば、キリスト教はその教義の中に終末論を含む、と言っていいだろう。その大きな理由は、聖書の中に『ダニエル書』や『ヨハネの黙示録』を初めとした「終末」の記述が数多く見出されるからだ。しかし、その記述を読み手がどう解釈するかによって、教えの意味が違ってくる。ちなみに、同書の出だしには、こうある--
 
「イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起こるべきことをその僕(しもべ)たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。ヨハネは、神の言(ことば)とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。」(第1章1~3節)

 読者は、ここにある「すぐにも起こるべきこと」とか「時が近づいている」という表現に注目してほしい。聖書が編纂されてから千年以上たっている現在、これらを文字通りの「真理」として受け取った場合、途方に暮れてしまう人が多いに違いない。
 
 同書にはこのあと、ヨハネが「見た」という世界の終末の光景が詳しく描写されるのである。その描写は、聖書の記述の中で最も残酷で恐怖すべきものとも言われ、それが何を意味するかが昔から論争の種となってきた。この書の表面の意味だけをたどれば、同書ではサタンと天使の軍勢が怪物の姿となって大闘争を繰り広げる。そして、最後には、すべての死者が呼び出されてキリストによる審判を受け、罪ありとされた者は“火の池”に投げ込まれ、罪なしとされた者は“夜のない”、神の光に満たされた世界で永遠に生きるのである。
 
 聖書の最後には、このようなストーリーをもった『ヨハネの黙示録』があることは紛れもない事実である。しかし、これによってキリスト教全体を単純に「終末論の宗教」あるいは「終末論を唱える宗教」と呼ぶことはできないと思う。なぜなら、聖書には終末論だけでなく、天地創造からモーセの十戒、出エジプト、バビロン捕囚、数々の旧約の預言者の活動、イエスの誕生、イエスの受難、イエスの復活、使徒の伝道活動などのストーリーと、それらのストーリーに内包された数々の教えが説かれているからだ。アルファベットの中には「A」から「Z」までの26文字が含まれているにもかかわらず、「アルファベットとはZのことである」と言えば、明らかな間違いである。また、「アルファベットとはZに至るために作られた」と考えることも不合理である。だから、「キリスト教は終末論である」という理解は、控え目に言っても「不十分」なのである。

 しかし、そうであったとしても、キリスト教の内部には(仏教やイスラームと同様に)実に多様な考え方が存在しているから、その一部の宗派の人々が、『ダニエル書』や『ヨハネの黙示録』を“最重要の真理の書”として取り上げ、間もなく現実に“世界の終末”が来ると説く指導者の下に、終末論を前面に掲げて運動することがある。こうなると、その宗派は「終末論の宗教」と言っていいだろう。そういう宗教は、過去にいくつも出現しており、ほとんどの場合、自らが信じた通り悲惨な結末を迎えている。私は、その具体例を『心でつくる世界』(1997年刊)の第4章に「終末を召(よ)ぶ教義」と題して詳しく書いたので、興味ある読者は参照されたい。
 
 谷口 雅宣

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コメント

合掌、ありがとうございます。
山梨教区の講習会で万教帰一について質問した者です。
谷口雅宣先生のご講話、とても楽しく大変勉強になりました!
ブログでお答え下さったことを、大変嬉しく感激しております!
これから、『心でつくる世界』を拝読してみます。
これからも青年会活動、生高連活動を精一杯頑張ります。
ありがとうございました。
再拝


投稿: T | 2009年10月20日 16:18

Tさん、

 あなたが質問者だったのですね! あなたに読んでもらい、私の目的は達成しました。ありがとうございます。宗教における終末論は難解な部分ですが、あなたのような若い人が興味をもっていることを知って、心強く思います。いろいろなことに興味をもって挑戦してください。 

投稿: 谷口 | 2009年10月20日 22:56

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