« 生光展へ行く | トップページ | シイタケを収穫 »

2009年10月15日

箱根で一泊

 すでに妻がブログに書いているが、誕生日祝いに母を箱根一泊旅行に招待した。写真好きの母だが、最近出した写真集『木の声がきこえますか』(生長の家刊)の中で「東京に住み、公園や御苑を散歩するだけですので、大自然の感動を味わえないのが残念です」と書いている。それではどこかへ……と思ったが、大泉町の私たちの山荘では足元がキツイし、自然は厳しい。というわけで、妻が「箱根行き」のアイディアを出してくれた。伝統のある観光地で、道路も諸設備も整っているということで、いわゆる“クラシック・ホテル”の1つへ案内した。一泊して明けた今日は幸いにも好天で、大涌谷から仙石原、湿生花園というコースでゆっくりと回った。意外にも母は、大涌谷が初めてだった。険しい山腹から何本も硫黄臭い蒸気が吹き上げる雄大な光景がいたく気に入ったらしく、何回も立ち止まってカメラを構えていた。また、湿生花園では、歩き疲れてへたり気味の私たちを尻目に、山野草やその花たち、花に来る虫たちを熱心に撮影していた。
 
 ところで、こういう環境に置かれた私は、動物との“出逢い”について考えた。「当り前のことを大袈裟に言っている」と思ってくれていい。私もデジカメで写真を撮ったが、花にとまるチョウやハチたちは、人間がすぐそばでカメラを構えていても、あまり反応しない。近づき過ぎれば、もちろん飛び立っていくが、それは条件反射的で“感情”を示さない。これに比べて、ホテルの池にいたコイたちは、私が近づくと向こうから寄ってきて、カメラを構えると、ますます寄って来て、水面から顔を突き出して大口をパクパク開ける。これには“感情”のようなものを感じ、人間の方も何となくうれしくなる。エサを持っていれば、きっとあげてしまうだろう。コイは、人間の動きに明らかに反応し、自分の意思を伝えることができるのだ。コイだけでなく、湿生花園の池にいたアブラハヤという小魚も、人間の足音に反応して集まってきた。
 
 これらの動物は、自分の生存に直接関係する相手を認識し、それに反応するのだ。その反応の仕方に“感情”のようなものを感じるのは、人間の側の独断かもしれない。が、その一方で、動物のもつ脳の大きさや複雑さが原因で、反応の仕方にも複雑さが生じ、それとともに本当に“感情”が彼らの脳内で起こっている可能性もある。魚類までは、その程度の理解でいいような気がする。が、哺乳類となると、“感情”の存在は疑うのが難しい。
 
 泊まったホテルの庭を散歩していたら、近くで小さい子供の鳴き声のようなものがした。私はすぐそばの灌木の茂みの向こう側を見ていたが、突然、私の足元で柔らかい感触がした。子ネコが1匹、体を擦りつけているのだ。相手が望んでいることは、はっきり分かる。で、少し遊んでやった。が、どうせ“行きずり”の関係であることが分かっているから、深入りしないようにお別れする。子ネコも、何となくそれを察知して行ってしまった……と私は思っていた。ところが、庭を一周して同じところへ戻ってきたところ、同じ子ネコが、今度はフルスピードで駆け寄ってきたのだった。私はその時、何か“罪の意識”のようなものを感じたのだった。それには、理由があった。
 
Catme  この子ネコと一度別れて庭を巡っているときに、別の子ネコが死んでいるのを見つけた。それは、ホテルの従業員宿舎に近い砂利敷きの道路の上だった。白い小さな体が横たわっていて、鮮血が滲んでいるのが見えた。近くに寄って見ると、轢死のようだった。さらに庭を歩いていると、作業服に竹かごをかついだ中年女性と会った。庭の世話をしている人だと思い、「上の方で子ネコが死んでいますよ」と声をかけた。するとその女性は、「ああ、野良ネコの子でねぇ、何匹かいて……」と答えた。それで私は、彼らの厳しい状況を理解したのだった。親から離れた何匹かの子ネコたちは、この広いホテルの庭で独力で生きていかねばならない。自然界では当然のことだ。他の動物は皆、そうして生きている。が、ネコは、人間との関係の中で生存を維持してきた動物である。飼いネコになれば、生存は保証される。が、野良ネコでは保証されない。時には轢死することもある。それを知っている子ネコは、必死の思いで人間に取り入ろうとするのだ。そんなネコの真剣な“気持”を、私は玩びはしなかったろうか……。
 
 動物と出逢うことは普通、「一期一会」とは言わない。が、そういう関係が成り立つ出逢いもきっとある、と私は思った。都会の雑踏の中ですれ違う人と、箱根の山中ですれ違う子ネコを比べてみると、どちらも無視できない関係を秘めていると言えないだろうか。
 
 谷口 雅宣

|

« 生光展へ行く | トップページ | シイタケを収穫 »

コメント

合掌ありがとうございます。
数年前に初めて参拝させていただいた長崎総本山の金龍湖のコイ達が、実に見事に整列して、品よく優雅に泳いでいる姿を見て、やっぱり祈りにつつまれているところにいるコイはさすがに違うんだなあと感動したことを思い出しました。(総本山に行く直前に立ち寄ったところの池のコイが、観光客からえさをもらうことに慣れているのか、こちらはえさも持っておらず、ただ近寄っただけなのに、あまりに見苦しく(?)というか、むしろ恐ろしく感じるほど大口を開けて我先に、と押しのけあっていたのを見ていましたので、余計に違いが分かりました。)
それにしても、ネコのお話を伺いまして、私は最近、「すべての人に物に事に行き届くべし」という生き方は実に難しいことだなと感じていましたので、雅宣先生方はいつでも常に行き届いた生活をなさっていらっしゃるのだなあと感動いたしました。先生方のブログを拝見することで、「行き届く」ためのヒントをたくさんいただきますので、できること、気がついたことからやっていきたいと思いました。ありがとうございます。

投稿: 菊池 光珂 | 2009年10月16日 23:28

菊池さん、

 過分なお言葉に感謝します。でも、「いつでも常に行き届く」などという芸当は、私にはできていませんです、ハイ。この野良ネコの子の場合、どういう行動をすることが「行き届く」ことなのか、今考えてもよい回答が見つかりません。実は、子ネコは2匹いたのです。私の写真におさまっているのはそのうち1匹で、私が遊んであげたネコではないのです。やはり人間は外見に影響されるようです。写真のネコよりも、遊んであげたネコの方がカワイイし、キレイでした。

投稿: 谷口 | 2009年10月18日 22:12

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 生光展へ行く | トップページ | シイタケを収穫 »