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2009年10月30日

ハローウィン・カボチャ

Jackolan2  暇をみて作っていたハローウィン・カボチャを完成させた。とは言っても、本物のカボチャをくり抜いたのではなく、粘土をカボチャ型に成形したものに、色を塗って仕上げたのだ。何を物好きな……と思われるかもしれないが、この工作は子供が家にいたころからやっているし、何となく愉快な気分になれるので、この時期が来るとやりたくなる。昔は、大きなカボチャを買ってきたくり抜いたが、今回は“腐らないカボチャ”を作ろうと思ったのだ。ハローウィンの由来等についてはよく知られるようになったし、私も本欄で2005年昨年に書いたので、今日は粘土細工の方法を述べよう。

Jackolan1  粘土は、乾燥後に固まるものなら何を使ってもいいのかもしれない。が、私は手が汚れないし、細かい成形がしやすい樹脂粘土を使った。新日本造形の「ハイクレイ」という製品だ。10月15日に箱根に行った話を書いたが、実はその時に、半分作りかけのカボチャを持参して、夜中に形を完成させた。この粘土は真っ白な色をしていて、彩色するには、生地の中に絵具を塗り込んでおくのと、乾燥後に着色する方法の2つがある。私は後者を用いたわけだ。
 
 絵具は、ホルベイン社のアクリラ・ガッシュを使った。絵を描くときに使うので慣れているからだ。小さい方のカボチャは、粘土を丸めただけのものだ。これは中身が詰まっているので、表面に目鼻を描いた。2つを組み合わせると、親子のようで愉快である。
 
 ところで、ハローウィンの習慣は古代ケルト文化からアメリカへ渡ったものというが、2007年のピュー・リーサーチセンターの調査によると、アメリカ人の68%は、天使や悪魔はハローウィンの時に限らず日常的に活動していると考えているそうだ。そんなことはあり得ないと考える人は、14%にすぎないのだそうだ。その内訳を見ると、モルモン教徒の88%、福音派のキリスト教徒の87%、黒人教会信者の87%が、天使や悪魔の存在を信じているのに対し、ユダヤ教徒の73%、仏教徒の56%、ヒンズー教徒の55%、特定の宗派に属さない人の54%は、そういう考えに反対するそうだ。日本ではどんな数字になるのか、興味深い。

 谷口 雅宣

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2009年10月29日

映画『私の中のあなた』

 水曜日の夕方、久しぶりに映画を見た。生命倫理を扱う真面目な映画だと子供から聞かされたからだ。キャメロン・ディアス扮する母親が、自分の娘(アビゲイル・ブレスリン)の骨髄性白血病を治すために、遺伝子操作の技術を使って骨髄型が一致する妹を産む--という想定だ。つまり、姉の病気治療のために妹を生み育て、妹の肉体が医療に利用されるという状況の中で、家族はどうあるべきか? こういう重い問いかけが背後にある、と私は思いながらこの映画を見た。しかし、この生命倫理の問題は「背後にある」ままで物語は終ってしまう。正面に出てくるのは、3人の子供のうち、死にかけている1人だけに全力集中して愛を注ぎ込む母親と、その周囲の家族の“愛の葛藤”である。こう書くと、この映画は“暗い作品”との印象が生まれるかもしれないが、驚くほど明るい。それは多分、家族全員が、白血病の姉娘(ソフィア・ヴァジリーヴァ)を愛し、彼女のために尽くす気持を共通してもっているからだろう。
 
 原作は、大ベストセラーになったジョディ・ピコー(Jodi Picoult)の小説『私の中のあなた』(My Sister's Keeper)ということだが、私はその小説を知らなかった。また、映画は原作と重要な点でいくつか違うらしい。だから、もしかしたら原作は生命倫理の問題にもっと突っ込んだ考察をしているかもしれない。が、映画を見たかぎりでは、これは親子の愛、家族の愛の物語である。そういう作品になった理由を、ニック・アサヴェテス監督(Nick Cassavetes)は、インタビューの中でこう語っている--
 
「映画のもとになった小説を読んだらとても感動的だったけど、スタジオが映画化したいと言った時はまだ迷いがあったんだ。でも、家族が子供の死とどう向き合うかというシンプルなストーリーなんだと考え始めて、これなら出来ると思ったんだよ」。

 つまり、監督自身が、この作品を生命倫理の問題として描かなかったのだ。その理由について、同監督は詳しく話していない。が、アメリカでの幹細胞の研究について同監督が考えを述べているのを読むと、人間の判断力に相当の信頼をおいているのが分かる--
 
「これはあくまでもぼくの個人的な意見だけど、幹細胞のリサーチは進めるべきだと思う。ホルモンと幹細胞は医療の未来だよ。すごく多くの倫理的問題や道徳的問題を生み出すことになるだろうけどね。人間として自分たちが正しい選択をする能力があると信じるべきだよ。もし文明が進んで、人がもっと長く生きることになり、今の人類が変化していくことになってもそれを怖れるべきじゃない。それは子供たちの、孫たちの世界であって、ぼくたちは少なくともよりよいところにしようとするべきだよ」。

 この人間への信頼と楽観主義とが、重い主題をもったこの映画を、明るく、救いのある作品に仕上げているのだろう。その点で、私は読者にこの作品をお薦めする。ただし、私の不満を言わせてもらえば、これはきっと“理想的な家族像”だということだ。自分自身が生きるためにではなく、兄弟の生命維持のために生まれたと知った子供が皆、この物語のように素直に、愛深く生きるかどうか……それは近い将来、小説ではなく、現実が語ることになるに違いない。

 谷口 雅宣

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2009年10月28日

谷口清超大聖師一年祭が行われる

 今日は秋晴れの空の下、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールにおいて「谷口清超大聖師一年祭」が厳かに執り行われた。御祭には谷口恵美子・前白鳩会総裁も出席され、玉串拝礼と聖経読誦をされたうえ、挨拶の言葉を述べられた。その後に私も挨拶に立ち、大略以下のような言葉を述べた:

 皆さま、本日は谷口清超大聖師の一年祭に大勢お集まりいただきまして、誠にありがとうございました。
 
 谷口清超先生がお亡くなりになってから、ちょうど一年がたったわけですが、長いようで短い期間でありました。私はその間、この本部会館の2階にいたのが、一番上の階へ移りまして、清超先生が使っておられたお部屋で執務することになりました。部屋だけではなくて、デスクも椅子も応接セットも調度品も……、いろいろな“お下がり”をありがたく頂戴して、今でも使わせていただいています。そうして、谷口清超先生がものを大切にして生きてこられたことを改めて実感しているしだいであります。このことは、すでに機関誌の7月号に書いたので、詳しい話は省略いたします。
 
 今度、私のブログを集めた単行本の『小閑雑感』シリーズの第14巻目が発行されました。発行日は11月1日になっていますが、本部の販売部にはすでに入庫しています。その本には、ちょうど昨年の今日、10月28日付で書いたブログの記事が含まれています。その中で私は、谷口清超先生のご業績について短くまとめているので、特に私たちの運動と直接関係する部分について、その記事から引用したいと思います。同書の終りの方ですが、272ページの下から4行目から朗読します:
 
「谷口清超先生は、1985(昭和60)年に生長の家創始者、谷口雅春先生のご逝去にともなって2代目の生長の家総裁を襲任され、以後23年間、全世界の生長の家の中心者として、世界では20世紀末から21世紀にかけて、日本では昭和から平成へ移る激動の時代に、不変の真理を説き続けられた。特に、1948(昭和23)年9月から1994(平成6)年3月まで46年間続けられた生長の家講習会では、毎年日本の全教区を回られるなどして、大勢の人々に真理を宣布され、数多くの救いを成就された。海外にも1956(昭和31)年にハワイ・北米・南米へ、1970(昭和45)年にブラジルへ、1977(昭和52)年には南北アメリカ大陸へご巡錫されるなど、万教帰一の教えを世界に述べ伝えられるとともに、海外の信徒に多くの救いと励ましをもたらされた。
 
 また清超先生は、国内の組織運動を改革されることで、女性信徒の組織である生長の家白鳩会が飛躍的に伸びる体制を作られた。これは、かつての単位組織だった誌友相愛会が、男性が女性を使う形で運営されてきたことで、女性の個性を生かした運動が生まれにくかった点を改革されたもの。これによって女性信徒が自立し、主体性をもって真理宣布の運動に取り組むことが可能となり、教勢は大いに拡大した。また、地方講師会を“組織の血液”として位置づけられることにより、相愛会、白鳩会、青年会の三者協力体制と“教え”との関係を明確化された。さらに先生は、政治活動に偏っていた1970年代の運動の弊害に気づかれ、1983(昭和58)年、政治団体であった生長の家政治連合の活動停止を決意されたことで、今日の生長の家の“信仰運動”としての基盤を確立された。」

 このように、日本国内の運動では、①谷口清超先生は女性の宗教運動としての白鳩会の自立を達成され、また②運動における講師の役割を、人体の機能になぞらえて“組織の血液”として明確に位置づけられ、さらに③生長の家の運動を政治と分離して純粋な信仰運動とされた点で、私たちに大きな、ありがたい遺産を遺してくださったのであります。私たちはこれらをしっかりと継承し、その上に立って運動をさらに発展させていきたいと思うのであります。

 幸いにも、その発展の“芽”は今、伸びつつあります。その1つは、11月1日号の『聖使命』新聞にも報じられていますが、来年4月から発行される新しい3種類の普及誌の見本誌ができたことです。『いのちの環』『白鳩』『日時計24』の3つです。会員の皆さんの手元に届くのは11月上旬ぐらいだそうです。これによって、地球温暖化抑制と運動の発展を両立させようとする“自然とともに伸びる運動”のための有力な媒体が誕生したことになります。この見本誌には、新しい運動の考え方がよく表れていますから、皆さまも内容をよく読んで、普及誌の継続や購読者拡大の運動にどんどん利用していただきたいのであります。

 さて、谷口清超先生は、私たちの伝道活動についても、各方面にわたって丁寧なご指導をしてくださいました。先生が総本山で倒れられるひと月前の1月の新年祝賀式でも、貴重なお言葉をいただいているので、次にそれを紹介いたします。これは、機関誌の今年の1月号に載っているので、あとでしっかり読んでくださるとありがたいです。ここでは「伝道をする相手をどう選べばよいか」という問題について、先生は「あまり焦らずに、幅広い心をもって、幅広い人々を対象にして伝道しなさい」とおっしゃっています。

(『生長の家白鳩会』平成21年1月号、pp.20-22 を朗読)

 人と人との間には「機縁」というものがありますから、家族であっても嫌がっている相手には、いくら伝道しても真理は伝わらないことが多いのです。その逆に、まったく初対面の人であっても、真理を求めている人に対しては教えがすぐに伝わり、私たちの運動の強力な仲間になってくれることもあります。だから、「今、あの人に伝えなければ意味がない」などと伝道の相手に執着して限定せずに、すべての人々はすでに本性においては神の子であり、仏であるという実相を観じながら、また、人間の生命は不死であるから、今生で伝わらなくても次生があると信じて、できるだけ広範囲の人々に、焦らず、緊張せず、気軽に、明るく、御教を伝える活動を展開していってください。

 谷口清超先生の一年祭に当り、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。

 谷口 雅宣

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2009年10月27日

本欄が書籍に (9)

Part14_m  本欄の4ヵ月分を集めた単行本『小閑雑感 Part14』(=写真)が、11月1日付で世界聖典普及協会から発売された。カバーしている期間は昨年の7月から10月で、296ページある。前巻の『Part 13』が268ページだから、28ページ多い。写真やスケッチ画などの“色もの”も28点入っている。今回の巻の特徴は、宗教・哲学に関係する文章が多いことで、全部で50篇ある。その中にあるイスラームに関する9篇の文章は、すでに『衝撃から理解へ--イスラームとの接点をさぐる』(2008年)という単行本に吸収されているが、残りはこの本が書籍としては最初だ。未収録のものは、互いに内容が関連しているものが多いから、いずれ加筆修正等をして1冊の本にまとめられればいいと思っている。

 私は最近の本欄で、グーグルのブック検索やアマゾンの電子ブック端末「キンドル」について書きながら、発祥以来、文書伝道を“軸”として運動を展開してきた生長の家であっても、今後はそれだけでは足りず、「雑誌」や「書籍」という形態とは異なる文書--インターネット上の電子情報を駆使した運動を開発する必要性を強く感じてきた。幸いにも、「インターネット講師」の制度が発足し、来年4月からの新しい普及誌と連動した新サイト「PostingJoy」も動き出しているが、やるべきことはまだ多く残っている。

 運動の仕方においても、ひと昔前には月刊誌を「百部一括」したり「千部一括」することが称揚されていたのとは打って変わって、森林伐採を抑えるため、新しい普及誌では、相手を吟味した「手渡し」や「郵送」が主体になる。その際、かつて「百部一括」や「千部一括」によって生れていた普及誌読者や信徒を、全く失ってしまうのではいけないのである。雑誌や本とは異なった媒体で、また異なる場所で、できるだけ多くの人々が真理と接するための工夫や努力は、今後ますます必要になるのである。そういう“新分野”の1つが、インターネット上の電子空間であることは明白だろう。
 
 この本の最後には、10月31日の日付で「本は電子化する」という題の文章が収められていて、私がそういう方向性を当時から考えていたことが分かる。

 谷口 雅宣

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2009年10月26日

終末論の宗教 (4)

 この題で本欄を書くきっかけとなった高校生の質問に対して、私の答えをひと言で表現すれば、「終末論の宗教は本物ではない」ということだった。なぜそう言えるかということは、「唯神実相」と「唯心所現」という生長の家の教義から本欄ですでに説明した。生長の家創始者、谷口雅春先生は、ありがたいことに心霊学的立場からもこれを明快に説明されているので、今回はそれを紹介しよう。

「終末論」は「預言」や「予言」と密接に関係している。キリスト教の教典で終末論を扱った代表的なものは、『ヨハネの黙示録』である。この書は英語では「The Revelation of St. John the Divine」とか「The Revelation to John」などと表記され、略称は「Revelation」である。「revelation」は動詞の「reveal」(啓示する)の名詞形で、日本語の「啓示」の意味だ。「黙示」という日本語は、「黙ったままで相手に意思を表明する」という意味だが、宗教的な文脈では「啓示」と同じである。神は人間に対して、普通は誰にでも聞こえるような声によって“お告げ”をしないから、黙示すると考えられるのだ。

 この『ヨハネの黙示録』には、英語では「The Apocalypse」という別称がある。この語は、ギリシャ語の「apokalupsis」から来ていて、「~から離れる」という意味の接頭語「apo-」と「包み」の意味の「kluptein」からなっている。つまり、「包みから離れる」→「包み隠されていたものが現れる」という意味から、「秘密を暴露する」とか宗教的な「啓示」の意味に使われてきた。特にキリスト教の文脈では、再臨のキリストによる“最後の審判”と、“御国の到来”を説く秘密の書の内容が開示されることが「Apocalypse」であった。この「秘密の書」とは『ヨハネの黙示録』や『ダニエル書』などのことだ。

 このように、“最後の審判”によって世界や歴史の終末が来ることを預言者が語り、また予言が行われることで、ユダヤ=キリスト教信者の間で終末論が時間をかけて形成されてきた。この過程で、何人もの預言者が“世界の終り”についての啓示を受け、それを発表し、ユダヤ民族や世界に対して警鐘を鳴らしてきた。だから、ここで扱う「啓示」には2つの意味があるのである。1つは、代々の預言者が受ける啓示であり、もう1つは、すでに記された“秘密の書”の意味内容の啓示(開示)である。谷口雅春先生は、このうちの前者について、ユダヤ=キリストの文脈を超えた一般論として、私たちがどう判断すべきかを『新版 生活と人間の再建』(2007年)の中に明記されている。(pp.301-302)
 
 先生はここで預言者の質を問題にされている。なぜなら、宗教の開祖らの中には、「我は神の自己実現なり」という高度な霊的自覚に達していないにもかかわらず、憑依霊が「お前は神の子だ」とか「お前は○○神だ」と囁く声を聞いてその気になり、予言や預言をして人々を迷わす者があるからだ。このような質のよくない預言者は、次の4点から判別できるという:
 
 ①「世の終り」を宣言して人心を恐怖に陥れる者は、おおむね憑依による。
 ②動物霊など人間以外の自然霊が憑依した預言者は、人間らしくない奇行を伴う。
 ③憑依現象による預言は、論理的な一貫性がなく、猥雑な語句が交錯する。
 ④憑依による預言は偏執的で、他者に対して強圧的である。

 この4項目の最初に、「終末の預言はおおむね危険である」と示されていることに私たちは注意しなければならない。また、一部の宗教指導者の中に奇行癖があったり、性的な異常行動があったり、他者への旺盛な支配欲があったりする理由が、これによって分かるのである。

 谷口 雅宣

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2009年10月24日

絵封筒展、開きます

 10月13日の本欄で私の絵封筒について触れたとき、11月に長崎県西海市の生長の家総本山で行われる秋季大祭を機に、これまで描いた作品を集めて絵封筒展を開くことを検討中だと書いた。おかげさまで、総本山と世界聖典普及協会のご協力により、同本山の練成道場第2研修室で「谷口雅宣絵封筒展」を開催することがこのほど決まった。期間は、11月20日の午後から22日の午後3時半までで、約70点の絵封筒が展示即売される予定。昨年夏に宇治別格本山で展覧会を行ったときの絵封筒の出品数は34点だったので、その倍ほどの数がお楽しみいただける。主催者の世界聖典普及協会では、この展覧会に合わせ、私の絵封筒の絵柄をあしらった来年用卓上カレンダーも頒布するという。

 さて、今日は生長の家講習会で群馬県の太田市藪塚町というところに来ている。ここは桐生市の隣町で、講習会は山を一つ越えた桐生市の市民文化会館で行われる。その前日のひと時を、この鄙びた温泉町で過ごすことができた。温泉町とはいうが、温泉宿は私たちが止まったホテルを含めて、3軒ぐらいしかない。かつては栄えた町だったであろうが、今は訪れる人の数が多くないことは、町のあちこちに掲げられた店の看板の古さや、旅館の壁の傷み方、温泉宿近くの神社の庭の荒れ具合などから想像できる。それでも私たちが泊まったホテルには、日帰りで温泉を楽しむ地元の人々が多く集まってきていて、広い駐車場もほぼ満杯状態だった。私たちは夕食前、そんなホテル界隈を散策して、町の様子をゆっくりと味わった。
 
 寂れた町にもいいところはある。特に、“旅人の目”で見る静かな夕暮れ時の田舎道は、Ginnan_gum なぜか心を落ち着かせてくれる。住む人が少なくなっても、その逆に自然の力が諸所に豊かに発揮されているのが分かるからだ。私はそれを地元の産土神社近くにあった廃屋の屋根の上に見た。廃屋の隣には、幹の太さが二抱えもあるイチョウの雌木が立っていて、錆びたトタン屋根の上にびっしりと銀杏の実が落ちていたのである。私はその時、講習会で福岡へ行った際、博多の街のイチョウ並木の下に落ちた銀杏の実を、地元のおばさん達が目を皿のようにして拾っていた姿を思い出した。都会での“貴重品”も、この地では拾う者は誰もいない。その代り、それらは自然の循環の中で、しっかりと役割を果たしながら息づいているのだった。
 
 銀杏を敷きつめてありトタン屋根
 
 谷口 雅宣

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2009年10月23日

キンドルを使う

 10月9日の本欄で、米ネット通販最大手のアマゾン・ドット・コムの電子ブック端末「キンドル」が、日本でも(英語のみで)使えるようになることを書いた。その際、私が注文した同製品が昨日届いたので、さっそく使い始めた。
 
 まず外観からいうと、縦20㎝、横13㎝、厚さ9㎜のサイズは、私の想像より小さかった。送られてきた包みは、アマゾンが使ういつもの濃い茶色の段ボールケースだった。それを見てキンドルに違いないとは思ったが、あまりに小さくて軽量だったので、ひょっとしたら別物かと思った。例えば、「注文が多いので発送が遅れる」などと書いた手紙を添えて、簡単な景品を入れてあるだけのものかもしれい……などという思いが一瞬、頭をよぎった。が、中身はキンドルそのものだった。新聞発表の数字では、重さは「約290g」ということになっているが、実際に測ってみると「275g」である。この軽さが、まず気に入った。これなら気軽に持ち運べる。
 
 しかし、画面の大きさが予想より小さかった。正確にいうと「90mm×122mm」だ。このサイズは、文庫本1ページ分の版面と大体同じである。ここに表示される英文はKindle_disp標準で「47文字×20行」だが、文字の大きさは6段階に変えられるから、自分の視力に合った文字の 大きさを設定すればいい。私の場合、標準の設定でまだ大丈夫のようだ。画面は見やすい。艶消しの灰白色の地に黒い文字で明確に表示される。パソコンのように画面の向こう側からバックライトで照らされる方式ではなく、紙に印刷してあるのに近い見え方である。私がよく読む『ヘラルド朝日』の紙面と、キンドル上に表示された『Foreign Affairs』の記事を比べた写真を、ここに掲げる。
 
 さて、問題は文字の入力である。キンドルには、縦長の表示画面の下に超小型のキーボードがついている。これは、携帯端末のブラックベリーに付属したキーボードに似ていて、左右の親指の先でキーを押す。慣れるまでには少し練習が必要だろう。読書用端末機になぜ文字の入力が必要かと、不思議に思う人がいるかもしれない。が、キンドルには通信機能が内蔵されていて、インターネットが使える。これによってアマゾンのサイトに接続し、ほしい書籍等を探し、その場でダウンロードできるのである。このために、キーワード等を打ち込む必要があり、キーボードが役に立つ。また、機能を限定されたウェブブラウザーもついているから、キーボードからサイトのURLを入力し、携帯電話で見るようにサイトを見ることもできる。恐らく、サイトからの書き込みもできるだろうが、まだそこまでやっていない。
 
 アマゾンのサイトから本のサンプルと雑誌をダウンロードした。どちらも、ものの数秒でキンドルの中に収まる。それをワイヤレスで無言で行うので、不思議な印象だ。どこからともなく文書が湧き出てくる感じだ。画面に表題が出て、それにカーソルを合わせてクリックすると、本は表紙から、雑誌は最初のページから表示される。キンドルの表面の両脇に「NEXT PAGE」(次頁)と「PREV PAGE」(前頁)のボタンがついているから、それを押してページを前後にめくる。読書を途中でやめるときは、そのページに「BOOK MARK」(栞)をつければ、次回に読む時はそこから表示される。本や雑誌の記事をキーワードで検索したり、不明の言葉を辞書で調べることも簡単にできる。このために『The New Oxford American Dictionary』(オックスフォード米語辞典)が最初から同梱されていた。このほか同梱されていたのは『Kindle User's Guide, 1st Ed.』(キンドル・ユーザーガイド第1版)である。

 書き忘れていたが、電源は充電池から供給される。これに充電するためには、通常の電灯線、あるいはパソコンのUSB端子から採る。そのためのケーブルがもちろん付属している。充電時間は、未使用の新品の場合は「3時間」と説明書にはあったが、私の場合は2時間ちょっとでフル充電された。ゆっくり使いながら、使い心地や変わった使い方などについて、今後も本欄で紹介していくつもりである。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月22日

キノコ採りと柴刈り

Jigobo09f  休日を利用して大泉町の山荘へ妻と行った。好天のおかげで紅葉はすばらしかったが、逆に山は乾燥していて、キノコは期待していたほど採れなかった。それでもハナイグチ(=写真)とチャナメツムタケを2人で2食分ほど収穫できた。妻はさっそく酢の物と佃煮にしてくれた。

 10月初めに生長の家講習会で小樽へ行ったとき、寿司に添えられてこのハナイグチに似たキノコの酢の物が出てきたのを思い出す。それを見て、2人で驚いたのだった。この種類のキノコは栽培できないと思っていたからだ。そこでキノコの名前を店の人に聞いてみると、「ラクヨウ(落葉)」だという。聞いたことのない名前だった。その店は、キノコを八百屋さんで買ったというが、その八百屋さんは山から採ってくる人から仕入れるそうだ。別のキノコかとも思ったが、後で調べてみると、北海道ではハナイグチをそう呼ぶらしい。我々はもっぱら、山梨風に「ジゴボー」と呼ぶ。何となく親しみが湧く発音だからだ。
 
Jigobo09f2  わが家では、ジゴボーはもっぱら味噌汁に入れて食べていたが、今回は小樽風に酢の物を所望した。独特の香りが引き立つが、これには好き嫌いがあるかもしれない。さらに大根おろしで食べると、香りも柔らかになって美味しかった。チャナメツムタケの方は、佃煮がいい。私はナメコより美味しいと思っている。今回のキノコ採りは、特にジゴボーの収穫は妻の手柄だ。私の方は、ジゴボーをさっぱり見つけられず、古くなりかかったチャナメの“巣”を見つけただけだった。それでも、食べられるのが5~6本あったから嬉しい。

 キノコ採りのほかに、山荘の建つ土地の南側斜面の柴刈りと剪定をやった。山荘はできてから9年目になるから、建った当時にそこにあった木々の中には、8年間で3メートル以上に伸びたものもある。それらが、南の空に見える南アルプスの山影を隠しそうになっていた。直径が10~15センチの立木2本を伐り倒し、枝をはらって片づけた。これが案外の大仕事だった。その他の灌木も、不要なものは伐ってスッキリさせた。普段あまりしない力仕事で、快い汗をいっぱいかいた。妻は、『理想世界』用の原稿を書き上げたのち、山荘北側の林の中で、未生からいつの間にか伸びたクリの木を何本も伐ったという。

 谷口 雅宣

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2009年10月20日

終末論の宗教 (3)

 2日前の本欄のコメント欄をご覧になった方はお分かりだが、山梨教区での生長の家講習会で本件について質問してくれた16歳の高校生本人から、私のここでの回答を読んでくれたとのコメントがあった。私としてはこれで“約束”が守れたので、ひと安心の思いである。
 
 ところで、この高校生のような質問が出ることにはもっともな理由がある。それは、終末論は多くの宗教の教えや考え方の中に含まれているからだ。このことを私は、『心でつくる世界』の中で次のように書いた:
 
「この思想は、キリスト教ばかりでなく、その“兄弟分”とも言えるユダヤ教を初め、イスラム教、仏教、ゾロアスター教にも表われている。また、アメリカ・インディアンやエスキモーの神話や伝説の中にも、メラネシア、ポリネシア、アフリカ民族の間にも、同様の考え方が古くから伝わっている」(p.125)
 
 講習会では、私は「万教帰一」の意味を「あらゆる宗教の教えの神髄は共通している」と表現した。この表現を表面的にとらえて、「あらゆる宗教に共通した部分は、宗教の神髄である」と理解すると、「終末論も真理である」という誤った結論にいたる可能性がある。私は前回、そのことを指摘したのだった。

 宗教の「神髄」とは、表現された言葉のうわべの意味のことではない。むしろ、うわべの意味からは必ずしも理解されず、したがって次の表現に向かわせる力をもっているが、その表現においてもうわべの意味からは必ずしも理解されず、したがってさらに次の表現に向かわせるが、その表現においてもうわべの意味からは必ずしも理解されず……というように、言葉での表現は(不可能でなければ)かなりむずかしいものである。このことは、仏教では禅宗の考案の中によく表れている。「仏とは何か?」「○○に仏性ありや?」という類の問いに対する答えは、必ずしも一定していないし、「不立文字」という言い方もある。また、聖書に記されたイエスの教えでは、「神の国」とか「御国」を説明するのに、言葉の表面の意味からはなかなか解らない比喩が数多く使われている。

 これに対して終末論は、言葉の表面の意味からもすぐに分かる考え方である。だから、私も前回、その意味を表した文章を既刊の拙著から引用し、読者もそれを読んで意味が分かったはずである。そして、現代の人類が抱える核拡散や地球温暖化の問題を深刻に考えたとき、人は終末論的な見方に引き寄せられる可能性があると述べたのだった。
 
 しかし、生長の家の教えは終末論ではない。人間の能力を超えた巨大な“悪”の力や、神や天使と互角の戦いをするサタン、そして、天使とサタンとの恐怖に満ちた闘争が来るなどとは考えない。そうではなく、もし我々人類の前に今、核テロリストや気候変動による大災害、あるいは資源枯渇から来る戦争勃発の危険があるとしたならば、それらは人類自らの“迷い”の産物だから、人類自らの“覚醒”によってその危険を取り除くことができる、と生長の家では考えるのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月19日

終末論の宗教 (2)

 話が前後してしまったが、「終末論」とは何かについて私は前回定義しなかった。これについては、拙著『心でつくる世界』の中では「世界の終末への信仰」のことだと書き、次のように補足説明している:
 
「ここで言う“終末”とは単なる“世界の終り”ではなく、多くの場合、“最後の審判”と“因果応報”の考え方を伴っている。つまり、やがてこの世界は終末を迎えるが、この世の終りには、神あるいは救世主が再び現われて、これまで放置されてきた世の中の“悪”や“罪”のすべてを裁き、(時には壮絶な戦いの末に)それを滅ぼすことによって、新しい理想的な“善なる世界”(神の国、天国、浄土など)が到来する--こういう考え方である」(pp.124-125)

 私はこのとき、キリスト教について「このような終末論を教義全体の中心的位置に据えている」と表現した。このことと、前回本欄で書いたこと--「キリスト教は終末論である」という理解は、控え目に言っても不十分なのである--とは矛盾しているかもしれない。が、この違いは、キリスト教に対する私の認識の変化を表している。また、宗教の教えを“中心部分”と“周縁部分”に分けて捉えた場合、終末論は前者に属さないという私の考えにもとづいている。が、これらの点については、今回はこれ以上触れない。

 さて、講習会での質問者の問いは、「終末論を唱えている宗教は万教帰一に入るのか?」だった。この問いは、しかし何かが欠けている。つまり、質問の意味が今一つ明確でない。世界の宗教は、「万教帰一」という概念に含まれるか含まれないかというような、二者択一的な分類はすべきではない。が、質問者はそういう考え方をしているようにも受け取れる。万教帰一の意味は、「あらゆる宗教の教えの神髄は共通している」というものだから、終末論を唱えていても、共通した神髄を説いている教えはあり得るし、その逆に、終末論など唱えていなくても、共通した神髄を説いていない教えも(万教帰一の対象から外れるが)あり得る。だから私は、この問いを読み変えて、「宗教における終末論の考え方は、宗教共通の神髄(中心部分)の中に入るのか?」という意味に受け取った。前回の「ノー」という答えは、そうではない--終末論は宗教共通の教えの神髄ではない--という意味である。
 
 前掲の拙著とその後に出した『ちょっと私的に考える』(1999年刊)で、私は終末論が宗教共通の教えの神髄とは言えない理由を詳しく書いているから、興味のある読者はそちらを読んでほしい。が、生長の家の立場から終末論の不合理性を簡単に述べれば、こうなる--完全なる神が創造された世界は、完全である。完全なものは時間的経過を経ても不完全になることはない。しかるに、終末論の前提は、世界には悪があり、このためしだいに世界が不完全さを増してくるから、神が“最後の審判”を通して悪を滅ぼさねばならない--というものである。これでは事実上、神の完全性を否定しているから不合理である。

 神と(実相)世界との関係はこうなるが、我々の目の前の現象を説明するに際しては、終末論は案外説得力がある。例えば、今日の人類が直面している核拡散や人口爆発、地球温暖化の問題を“悪”と見立てれば、これらの問題がしだいに深刻化していくのは人類の“罪”のためだと考え、そういう罪をなくすために、“最後の審判”として、やがて核戦争や海面上昇による都市や国の消滅が起こらなければならない--こんな教義を掲げた宗教を信じる人がいても、私は驚かないのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月18日

終末論の宗教

 今日は、山梨県韮崎市にある東京エレクトロン韮崎文化ホールで山梨教区の生長の家講習会があった。受講者数は前回を約1割上回る931人となり、古川忠男・教化部長を初めとした同教区幹部の方々とともに、喜びを噛みしめたよい一日となった。その様子は、生長の家が運営するWeb版『日時計日記』に妻が書いているので、ここでは繰り返さない。が、一つだけ付け加えれば、教区全体が早期から一丸となって1つの目的に向かって協力し合ったことが、総合的に大きな力を生みだしたのではないかと思った。山梨教区の皆さん、どうも有難うございました。
 
 ところで、私はこの講習会で1つ“積み残し”をしてしまった。それは、受講者からの質問に回答する際、答えるつもりで紹介した質問に、1つだけ答えるのを忘れてしまったのだ。そこで、この場を借りて回答を書くことにする。質問の主が本欄を読んでくださっていることを願う。その質問というのは、埼玉県八潮市(町名や番地は不明)から参加した16歳の男子学生からのもので、次のような内容だった--
 
「とても分かりやすいご講話をありがとうございます。午前のご講話の中で万教帰一という生長の家の教えを話されていましたが、終末論を唱えている宗教は万教帰一に入るのでしょうか。もしよければ教えて下さい。ありがとうございます」

 この質問にひと言で答えるのは難しいが、敢えてそうするならば「ノー」ということになる。が、ひと口に「終末論」と言っても、その「終末」が何を意味するかによって、信仰全体の内容が大きく変わってしまうから、十把一絡げの答えでは不十分である。例えば、キリスト教はその教義の中に終末論を含む、と言っていいだろう。その大きな理由は、聖書の中に『ダニエル書』や『ヨハネの黙示録』を初めとした「終末」の記述が数多く見出されるからだ。しかし、その記述を読み手がどう解釈するかによって、教えの意味が違ってくる。ちなみに、同書の出だしには、こうある--
 
「イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起こるべきことをその僕(しもべ)たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。ヨハネは、神の言(ことば)とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。」(第1章1~3節)

 読者は、ここにある「すぐにも起こるべきこと」とか「時が近づいている」という表現に注目してほしい。聖書が編纂されてから千年以上たっている現在、これらを文字通りの「真理」として受け取った場合、途方に暮れてしまう人が多いに違いない。
 
 同書にはこのあと、ヨハネが「見た」という世界の終末の光景が詳しく描写されるのである。その描写は、聖書の記述の中で最も残酷で恐怖すべきものとも言われ、それが何を意味するかが昔から論争の種となってきた。この書の表面の意味だけをたどれば、同書ではサタンと天使の軍勢が怪物の姿となって大闘争を繰り広げる。そして、最後には、すべての死者が呼び出されてキリストによる審判を受け、罪ありとされた者は“火の池”に投げ込まれ、罪なしとされた者は“夜のない”、神の光に満たされた世界で永遠に生きるのである。
 
 聖書の最後には、このようなストーリーをもった『ヨハネの黙示録』があることは紛れもない事実である。しかし、これによってキリスト教全体を単純に「終末論の宗教」あるいは「終末論を唱える宗教」と呼ぶことはできないと思う。なぜなら、聖書には終末論だけでなく、天地創造からモーセの十戒、出エジプト、バビロン捕囚、数々の旧約の預言者の活動、イエスの誕生、イエスの受難、イエスの復活、使徒の伝道活動などのストーリーと、それらのストーリーに内包された数々の教えが説かれているからだ。アルファベットの中には「A」から「Z」までの26文字が含まれているにもかかわらず、「アルファベットとはZのことである」と言えば、明らかな間違いである。また、「アルファベットとはZに至るために作られた」と考えることも不合理である。だから、「キリスト教は終末論である」という理解は、控え目に言っても「不十分」なのである。

 しかし、そうであったとしても、キリスト教の内部には(仏教やイスラームと同様に)実に多様な考え方が存在しているから、その一部の宗派の人々が、『ダニエル書』や『ヨハネの黙示録』を“最重要の真理の書”として取り上げ、間もなく現実に“世界の終末”が来ると説く指導者の下に、終末論を前面に掲げて運動することがある。こうなると、その宗派は「終末論の宗教」と言っていいだろう。そういう宗教は、過去にいくつも出現しており、ほとんどの場合、自らが信じた通り悲惨な結末を迎えている。私は、その具体例を『心でつくる世界』(1997年刊)の第4章に「終末を召(よ)ぶ教義」と題して詳しく書いたので、興味ある読者は参照されたい。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月16日

シイタケを収穫

Shiitake101609 「秋にはキノコが出る」というのは言わば当り前である。が、わが家の庭に寝かせておいたホダ木からは、もう出ないものと思っていた。なぜなら、古い木だし、朽ちて崩れてしまったものもあったからだ。が、今朝、様子を見たらシイタケが出ているではないか。小躍りしたい気分になった。実は、箱根に行く前に、小さな白っぽい“芽”が2~3粒出ているのに気づいていた。が、こんな速く成長するとは予想していなかった。多分、雨と雷のおかげだろう。
 
 雷のことを書くと、「迷信くさい」と思う読者がいるかもしれない。私も最初、そう思った。この話を最初にしてくれたのが、大泉町の山荘にホダ木を収めに来た業者の人だった。いわゆる“刺激法”で芽を出させる話を聞かせてくれて、「雷が鳴っても出る」と言ったのだ。口にこそ出さなかったが、私は「ご冗談を…」と思ったものだ。ところが、何年もホダ木とつき合っていると、雷鳴と“発芽”との関係を思わせることが確かにあった。「偶然の一致」の可能性はもちろんある。が、菌類の習性について全く無知な私だから、「雷鳴と発芽は無関係」と断定するわけにもいかない。それに、「関係がある」と思っている方が何となくロマンチックな気分である。

 過去の記録を調べてみると、2005年の10月5日の本欄に、ホダ木からシイタケの芽が出たとある。その年の春に“種”を撃ち込んだホダ木を7本買ったらしい。ということは、もう5年目のホダ木なのだ。中身の栄養をほとんど吸い取られているから、購入時よりずっと軽い。そして、うち3本ほどはもう崩れてしまった。だから、その木は疑いもなく「老木」であり、朽ち果てる前に“花”を咲かせてくれたのだ。「よくぞ頑張った」という気がする。傘が適度に開いていた4個を収穫し、あと数個は翌朝に回すことにした。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月15日

箱根で一泊

 すでに妻がブログに書いているが、誕生日祝いに母を箱根一泊旅行に招待した。写真好きの母だが、最近出した写真集『木の声がきこえますか』(生長の家刊)の中で「東京に住み、公園や御苑を散歩するだけですので、大自然の感動を味わえないのが残念です」と書いている。それではどこかへ……と思ったが、大泉町の私たちの山荘では足元がキツイし、自然は厳しい。というわけで、妻が「箱根行き」のアイディアを出してくれた。伝統のある観光地で、道路も諸設備も整っているということで、いわゆる“クラシック・ホテル”の1つへ案内した。一泊して明けた今日は幸いにも好天で、大涌谷から仙石原、湿生花園というコースでゆっくりと回った。意外にも母は、大涌谷が初めてだった。険しい山腹から何本も硫黄臭い蒸気が吹き上げる雄大な光景がいたく気に入ったらしく、何回も立ち止まってカメラを構えていた。また、湿生花園では、歩き疲れてへたり気味の私たちを尻目に、山野草やその花たち、花に来る虫たちを熱心に撮影していた。
 
 ところで、こういう環境に置かれた私は、動物との“出逢い”について考えた。「当り前のことを大袈裟に言っている」と思ってくれていい。私もデジカメで写真を撮ったが、花にとまるチョウやハチたちは、人間がすぐそばでカメラを構えていても、あまり反応しない。近づき過ぎれば、もちろん飛び立っていくが、それは条件反射的で“感情”を示さない。これに比べて、ホテルの池にいたコイたちは、私が近づくと向こうから寄ってきて、カメラを構えると、ますます寄って来て、水面から顔を突き出して大口をパクパク開ける。これには“感情”のようなものを感じ、人間の方も何となくうれしくなる。エサを持っていれば、きっとあげてしまうだろう。コイは、人間の動きに明らかに反応し、自分の意思を伝えることができるのだ。コイだけでなく、湿生花園の池にいたアブラハヤという小魚も、人間の足音に反応して集まってきた。
 
 これらの動物は、自分の生存に直接関係する相手を認識し、それに反応するのだ。その反応の仕方に“感情”のようなものを感じるのは、人間の側の独断かもしれない。が、その一方で、動物のもつ脳の大きさや複雑さが原因で、反応の仕方にも複雑さが生じ、それとともに本当に“感情”が彼らの脳内で起こっている可能性もある。魚類までは、その程度の理解でいいような気がする。が、哺乳類となると、“感情”の存在は疑うのが難しい。
 
 泊まったホテルの庭を散歩していたら、近くで小さい子供の鳴き声のようなものがした。私はすぐそばの灌木の茂みの向こう側を見ていたが、突然、私の足元で柔らかい感触がした。子ネコが1匹、体を擦りつけているのだ。相手が望んでいることは、はっきり分かる。で、少し遊んでやった。が、どうせ“行きずり”の関係であることが分かっているから、深入りしないようにお別れする。子ネコも、何となくそれを察知して行ってしまった……と私は思っていた。ところが、庭を一周して同じところへ戻ってきたところ、同じ子ネコが、今度はフルスピードで駆け寄ってきたのだった。私はその時、何か“罪の意識”のようなものを感じたのだった。それには、理由があった。
 
Catme  この子ネコと一度別れて庭を巡っているときに、別の子ネコが死んでいるのを見つけた。それは、ホテルの従業員宿舎に近い砂利敷きの道路の上だった。白い小さな体が横たわっていて、鮮血が滲んでいるのが見えた。近くに寄って見ると、轢死のようだった。さらに庭を歩いていると、作業服に竹かごをかついだ中年女性と会った。庭の世話をしている人だと思い、「上の方で子ネコが死んでいますよ」と声をかけた。するとその女性は、「ああ、野良ネコの子でねぇ、何匹かいて……」と答えた。それで私は、彼らの厳しい状況を理解したのだった。親から離れた何匹かの子ネコたちは、この広いホテルの庭で独力で生きていかねばならない。自然界では当然のことだ。他の動物は皆、そうして生きている。が、ネコは、人間との関係の中で生存を維持してきた動物である。飼いネコになれば、生存は保証される。が、野良ネコでは保証されない。時には轢死することもある。それを知っている子ネコは、必死の思いで人間に取り入ろうとするのだ。そんなネコの真剣な“気持”を、私は玩びはしなかったろうか……。
 
 動物と出逢うことは普通、「一期一会」とは言わない。が、そういう関係が成り立つ出逢いもきっとある、と私は思った。都会の雑踏の中ですれ違う人と、箱根の山中ですれ違う子ネコを比べてみると、どちらも無視できない関係を秘めていると言えないだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月13日

生光展へ行く

 東京・銀座の「東京銀座画廊・美術館」で始まった第31回生光展(生長の家芸術家連盟美術展)を夕方、妻といっしょに見に行った。洋画、日本画、水彩画、木版画などの多くの作品とともに、絵手紙と絵封筒も展示され、ますます多彩・多様となり、見ていて楽しかった。今年の生光展は、全国で「技能や芸術的感覚を生かした誌友会」が開催されていることの影響か、絵手紙が136人から177点、絵封筒が23人から78点と多く、しかも全体としてクオリティーが一段と上がっているように感じられ、頼もしく思った。開催は18日まで。
 
 私は大きな絵を描く時間的余裕がないので、今回も絵封筒の出品で勘弁していただいた。点数は24点で、昨年と同数だ。小関隆氏が運営する「光のギャラリー ~アトリエTK」に、生長の家講習会の旅先から投稿したものがほとんどだ。どこで描いたものかは今、24点すべてを憶えていない。が、絵柄から思い出しつつ都市名を挙げれば…新潟市、福岡市、秋田市、米子市、山形市、函館市、伊勢市、橿原市、和歌山市、小樽市、室蘭市、岡山市、松本市、熊本市、大津市、広島市、静岡市、高松市、松山市、別府市などだ。最近は、講習会でも何点かをご披露することにしているが、映像ではなく、実物を、数を揃えて見ていただくことができるのは、ありがたい。
 
 ところで私の絵封筒だが、昨年8月半ばに京都府の生長の家宇治別格本山で「スケッチ原画展」というのをやらせていただいた際、34点をご披露した。このときのものと今回の展示品を含めた私の絵封筒展を、11月の秋の大祭を機会に、長崎県西海市の生長の家総本山で開催できないか検討している。今回は展示即売をさせていただき、収益金を地球温暖化抑制のための森林の育成に役立てることができれば……などと思案している。宇治の大祭や生光展を「見逃した」と思われる方は、ぜひ総本山へお越しあれ。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月12日

グーグルのブック検索 (2)

 グーグル自身は、著作(権)者のこういう心配を意識していて、そうならない方法をいろいろ工夫しているようではある。例えば、現在の日本語のグーグル「ブック検索」では、スキャンした本の全部ではなく、一部が表示される。また、著作(権)者が同意しない本については、検索してもまったく表示されないか、あるいは表示される箇所がきわめて限定的だ。そして、検索ページには、次のような説明文も出る--
 
「図書館プロジェクトでブック検索に登録された書籍の場合は、著作権の状況によって閲覧できる範囲が決められています。Google では、著作権法および著者の多大な努力を尊重しています。著作権が失効しており、著作権保護の対象とならない場合は、書籍全体をブラウズしたり、ダウンロードして読んだりすることができます。著作権で保護されており、出版社または著者がパートナー プログラムに参加していない場合は、図書カード カタログのように、書籍の基本情報と、場合によっては書籍の抜粋、つまり検索キーワードの前後の文章が表示されます。」

 それは確かにその通りなのだが、これは前回の本欄で触れたアメリカでの“和解”が成立する前の、旧バージョンでのサービスのことだ。今後、日本も含めて世界的に実施される新バージョンの「ブック検索」では、1冊の本の全文検索が基本となるだろう。この場合、著作(権)者は、グーグルの新サービスに「登録しない」ことも選べる。が、現在のようにインターネット検索サービスがグーグルによって寡占状態にある場合、そこに登録しないことは、著作物や著作者が世界的に認知されないことになる。だから、著作(権)者は、自分の著作物が事実上、世界的に葬り去られるか、それともグーグルを信頼して全内容の同一性や権利保全の完全性を任せるか、の二者択一を迫られることになるのではないか。
 
 こういうサービスが、国際機関のような公的な機関がやるのであれば、それはむしろ望ましいことだ。が、ご存じのように、グーグルはアメリカの一私企業であり、現に自ら手掛けた検索サービスから莫大な広告収入を得ている。そして、広告の値段は、検索の結果、パソコンの画面に表示される該当書籍の順位と関連させて決まるのである。そういう私企業1社に、全世界の書籍の全文検索と表示順位の決定を任せてしまうリスクは、相当大きいと思う。ここのところが、私にとって最もひっかかる点だ。
 
 グーグルの共同設立者の1人であるセルゲイ・ブリン氏(Sergey Brin)は、10~11日付の『ヘラルド朝日』紙に論説を寄せて、同社のブック検索の目的について述べている。それによると、このサービスの最大の目的は、図書館や古本屋の本棚に埋もれてしまっている絶版本などの古い書籍を、全世界の読書人の前に提供するとともに、それらの書籍の権利者に対して相応の対価を支払うことだという。私は、この目的については異議を差し挟まない。私の心配は、上にも書いたように、この業界で事実上、独占的力をもつ一私企業が、世界中の全書籍の内容を入手し、それを全世界に提供する際に、公平中立の立場からできるとは考えられないという点である。
 
 ブリン氏は、グーグルがこの分野で成功すれば、他社が市場に参入して競争が行われること、また、著作(権)者はグーグルへの書籍の登録をいつでも取り消すことができることなどを挙げて、自らの目的の正当性を訴えている。が、これらの主張は、本質的には「競争によって市場が選択するものが残る」という自由競争の論理であり、公平性への疑問に対する反論になっていない。インターネット検索の市場がグーグルにきわめて有利な方向に“歪んでいる”現状にあっては、公平性を保証するための説得力ある方策を提示してほしい。

 谷口 雅宣

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2009年10月11日

グーグルのブック検索

 インターネット検索最大手のグーグル社(Google)は、その莫大な資金力と斬新な発想を後ろ盾にして次々と“常識”や“前例”を書き換えているが、その業務の中で私が気になっているものがある。それは「グーグル・ブック検索」(Google Books Search)というサービスだ。これは、書籍をスキャンして内容を電子情報化し、それをパソコンレベルで検索/閲覧可能にしようというものである。その規模は“世界的”である。つまり、これまで全世界で出版されたすべての本を対象としてるように見える。「見える」と書いたのは、グーグル自身はそれをハッキリ言わないからだ。が、グーグル・アースやグーグル・ストリートビューなど、これまで彼らが開発してきた新サービスを見ていると、やりだしたことは全世界で徹底してやる会社だから、きっとそれが目標だと思う。
 
 このサービスが実現すれば、昔の絶版本や再販未定本がいつでも手軽に読めるから、利用者にとっては、大変便利になる。が、本の著作者にとってはショッキングな計画だ。私のようなもの書きにとって不安なのは、彼らが著作者や著作権をあまり重視しないように思える点だ。

 言うまでもなく、本には著作権がある。これは、1冊の本を書くのに費やされた著作者の労力や工夫、金銭的負担、学芸的価値などを認め、それを保護するためのものだ。これが保護されず、ある本の一部が、著作者に無断で別の本の一部を構成していたり、小説の主人公の名前が違うだけで、その他の登場人物やプロット、文章表現などのすべてが別の小説と同一であったりしたら、これは著作物の“盗作”であり、盗作者は、著作者よりはるかに楽に、また安価に“著作物”(と言うべきかどうか疑わしいもの)が書ける。盗作者は努力をせずに、著作者の創意や工夫を自分のものとすることができ、本来ならば著作者に行くべき本の印税も、盗作者に行くことになる。これでは、努力して著作物をつくることがバカらしくなるから、優れた著作物をつくろうとする人はいなくなり、つまらないモノマネや、インチキ研究ばかりが社会に氾濫する。文化や学問は衰退するばかりだ。
 
 だから、米国出版社協会(AAP)と米国著作者協会(AG)は2005年、「著作権で保護されている書籍をスキャンしてデータベース化する行為は著作権侵害に当たる」として集団訴訟を起こした。そして昨年、①アメリカにおいて著作権が保護されている書籍、②著作権が失効している書籍、③著作権は保護されているが絶版となり、著作権保有者が見つからない書籍、の3分類に入る書籍を対象に、グーグルの業務を容認する代りに、売り上げを分配するという和解条件(PDF)で合意した。ただし、裁判所でのこの和解内容の審理はまだ終っていない。この和解は、アメリカ国内だけのように見えるが、国外の本も事実上の対象となる。なぜなら、日本やヨーロッパで出版された書籍も、アメリカの図書館などに大量に所蔵されていて、万国著作権条約によって上記3分類のいずれかに含まれると考えられるからだ。

 著作物の盗作の問題は、もちろんグーグル発足以前からある。が、電子情報時代の盗作は、個人のパソコンを使って簡単にできる。昔のように本を見ながら一文字一文字を書き写す必要はなく、数回のキー操作によって何十ページもの複製が数秒でできる場合もある。だから、そういう方法で新聞記事や文学作品が書かれた著作権法違反事件が、日本でも近年増えつつある。グーグルのブック検索が、そういう方向に世界を牽引していかないかどうか、が私の心配である。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月 9日

紙を使わない出版 (3)

Kindle  本格的な電子ブックが、いよいよ日本でも使えるようになる。米ネット通販最大手のアマゾン・ドット・コムが、アメリカで成功している電子ブック端末「キンドル」(=写真)を日本を含む100カ国以上で発売する、と発表したからだ。いわゆる“電子ブック”は、日本でもかなり前からパソコン用として流通しているが、本の読み方としてはまだまだ一般的でない。それに、持ち運びが不便である。また最近では、携帯電話で読む“ケータイ小説”が若者の間ではずいぶん人気のようだが、それを単行本化して売っているのだから、“本命”は紙の本なのだろう。また、私のような中高年には、ケータイの画面は小さすぎる。そこへ、縦20㎝、横13㎝、厚さ9㎜で、重さ約290gの「キンドル」(約25,000円)が参入することで、日本の電子本環境は大きく変わる、と私は思う。
 
 実は、ソニーも「リーダー」という電子ブック端末を欧米では出していて、2006年以来、累計で40万台を売っている。日本では2004年に販売を開始したがうまくいかず、3年後に撤退した。「キンドル」は2007年の発売から2年間で50万台を売ったとされる。10月8日の『朝日新聞』によると、ソニーは「キンドル」の上陸を機会に「リーダー」の日本での再発売を検討しているそうだ。
 
 今回の「キンドル」では、しかし日本語の本は読めない。8日の『日本経済新聞』によると、アマゾンCEO、ジェフ・ベゾス氏は、「キンドルで日本語を読むための技術開発にも取り組んでいる。端末を各国で普及させることで、現地でのコンテンツ配信が展開しやすくなる」と言っているが、「日本語の電子書籍の配信開始時期などは現時点では言えない」としている。
 
 私にとっては、それでもキンドルは利用価値が充分あると感じる。というのは、私は毎日、『ニューヨークタイムズ』の国際版である『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(『ヘラルド朝日』)を読み、英語の雑誌や書籍も読むからだ。これらが紙の本や雑誌より安く、早く手に入るだけでなく、すべて1台のキンドルの中に納まってしまうということになると、無関心ではいられない。蔵書スペースの節約と、持ち運びの便利さは紙の「書籍」の比ではない。ちなみに、キンドル1台の中に収納できる情報は、普通の単行本1500冊分という。
 
 本欄には過去2回(2008年1月28日本年3月10日)、「紙を使わない出版」という題で本の電子化の動きについて書いたが、これは“文書伝道”を旗印にしてきた生長の家の布教活動とも大いに関係がある。来年から登場する新しい普及誌では、紙の雑誌の上だけでなく、インターネット上の電子情報と連動した編集と出版が行われる。これによって読者は、紙の雑誌より多くの情報を得られるだけでなく、情報の流れが「一方通行」から「双方向」に変わる。つまり、「読者参加」の編集範囲が拡大するのである。しかしこの場合、読者はパソコンを使えることが大前提だった。キンドルのような電子ブック端末の使い勝手がよく、また日本語に対応すれば、パソコンなしに本や雑誌が手軽に読めることになり、運動の展開にも大きな影響が出るだろう。
 
 電子ブックの最大の特長は、従来のような「送本」や「配本」の必要がなくなることである。これは「電子情報の移動」に置き換わるから、ケータイでメールを受け取るのと同等の速度と気軽さで、各個人に対して情報が移動する。だから、原理的には従来の印刷・製本・流通・在庫管理の手間がすべて省ける。ということは、そういう業務をしてきた会社や団体は不要になってしまう。運動面で言えば、普及誌の配本にともなう繁雑な諸業務がなくなるのはいいとしても、その過程で行われてきた会員同士の密接なコミュニケーションや、運動組織内部の情報伝達のルートが失われるのである。もちろん、今後すぐそうなるのではない。日本ではどのような機種が、どのような形で受け入れられるかによって、変化の速度と方向性は違ってくるだろう。しかし、“文書伝道”の新しいルートが今後、急速に広がっていくことは確実だろうから、そのための準備は「今」から必要である。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月 8日

エコカーへの転換を急ごう

 24日から千葉市の幕張メッセで開催される東京モーターショーでは、次世代エコカーの展示が“目玉”になるらしい。今日の新聞各紙が報じている。私はかねてから本欄などで、自分の乗る車として「ハイブリッド式小型SUV」の登場を希望していたが、それはなかなか出なかった。が、今回、やっと希望の車種に近いもの、さらにはその上を行くらしい車種が登場する。地球温暖化は数年前の予想以上に進行しているから、今では、ハイブリッドよりさらにCO2排出が少ない車種に切り替えたいところだ。
 
 民主党政権の減税政策等により、ガソリン・エンジンと電気モーターを兼用するハイブリッド車(HV)は、どんどん売れているらしい。特に、トヨタ自動車のプリウスは今年度の上半期(4~9月)で約11万6300台を売り、軽自動車を含む国内新車販売ランキングで初めて首位に躍り出た(7日付『朝日』)。これはきわめて喜ばしいことだが、すでに公用で何年もプリウスに乗っている私としては、この程度の燃費効率では実質的な“排出削減”にはならないのである。さらに燃費を向上させるためには、新世代のHVであるプラグイン・ハイブリッド車(PHV)か電気自動車(EV)でなければならない。

 6月5日の本欄に書いたが、HVで先行するトヨタはEVの開発に難色を示していたようだが、時代の変化を察知したのか、今度のモーターショーには「FT-EVⅡ」という超小型電気自動車を出品するという。また、同時に展示されるプリウスのPHV版は、リットル当り55キロという驚異的な燃費効率だという。トヨタとは異なる方式のHV「インサイト」を出していたホンダは、来年2月発売予定の「CR-Z」というスポーツHVを出品するという。
 
 これに対して、今年7月に「アイミーブ」を出して電気自動車で先行していた三菱自動車は、長距離走行が可能なPHVのSUV車「PXミーブ」を出すという。これは、電気だけで50km走行でき、それ以上は発電用の補助エンジンを使って走るらしい。また、EVの「プラグイン ステラ」を7月から販売開始した富士重工も、「スバル ハイブリッド ツアラー」というコンセプトHVを出すという。その一方で、EVに力を入れてきた日産自動車については、新聞記事は詳しくない。超小型EVの「ランドグライダー」が展示されるそうだが、市販は未定。2010年後半に「リーフ」というEVを発売するらしいが、これは1回の充電で160kmまでしか走れない。

 私のかねてからの希望の車種にいちばん近いのは、ホンダの「CR-Z」ではないかと思うが、三菱の「PXミーブ」も魅力的である。ただし、双方とも実物を見ていないし、詳しいデータも知らないから、それ以上は何とも言えない。私はモーターショーへは恐らく行けないから、人々の評価を聞いてから買い替えを考えるつもりである。
 
 このように、国内の自動車メーカーがこぞって「燃費重視」の新型車を開発していることは、温暖化抑制が人類的合意になったことの表れだろう。特に、政権交替した日本政府が「1990年比25%削減」という大きな目標を掲げたことで、「待ったなし!」の認識が生まれつつあることが大きい。この方向へどんどん進むことが、さらなる技術革新と新産業育成につながるのだから、国益にもなる。我々もユーザーとして大いに協力したい。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月 6日

絵封筒、どうもありがとう!

F_ko100209  ある教区の教化部長さんから、絵封筒をいただいた。同封された手紙には「私自身絵を描くことはありませんでした」と書いてあり、私が最近、生長の家の講習会で自分の絵封筒を披露することがあることなどから、「この度の総裁先生の絵封筒に触発されまして初めて絵封筒を書いてみました」というのである。「岐阜県白川郷の絵葉書の写真を見て、合掌造り家屋風景を描きました」とある。なかなか味のある出来上がりだと思う。

 私は、この絵封筒を受け取ったとき、「なかなかいいなぁ~」と感心し、初めて絵を描いた人のものだとは全く思わなかった。人間には、自分でも知らない隠れた才能があるとの思いを深くしたのである。ご本人の許可を得ていないので名前は伏せたが、読者諸賢にも“隠れた才能”を生かしてもらいたいと思い、ここに掲載することにした。
 
 私は昨年の本欄にも、幹部・信徒の皆さんからときどき送っていただく絵封筒などを何点か掲載した。そこで今年も、今日の絵封筒以外にも、これまでにいただいた絵封筒の一部を紹介させていただこう。
 
F_yt011209  これは、1月半ばにいただいたもので、バウムクーヘンのようなお菓子が描いてある。同封の手紙には「水性の色えんぴつと水彩絵の具を使って描いてみました」とある。お菓子の柔らかさが、よく出ていると思う。
 
F_mk033109  次は、3月末にアメリカから届いたもの。奥さんに贈ったチューリップを描いたという。花の重たげな様子が、よく分かる。
 
 その次は、5月下旬にいただいたもの。「私は絵封筒は初めての経験で、また絵筆の使い方、絵の具のぬり方まで初心者ですが、とても楽しく描くことができました」と手紙にある。市販のカシューナッツの袋を描いたものだが、素朴さがいい。描き手は、モノクロの絵手紙を描いていた人だが、これをきっかけに皮が一枚むけたのではないかと思う。
 
F_so071109_2   最後は、7月半ばにいただいたもの。岡崎市に住む男性信徒の方で、ロウケツ染めをした紙で、封筒を作ってある。白い輪郭の線がなかなかソフトな効果を絵全体に与えていて、水彩とは違う温かさが出ている。面識がないのに、わざわざ送ってくださったのには驚くと共に、ありがたかった。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月 4日

小樽、火点し頃

Beforedark  今日は、北海道の小樽市で生長の家の講習会があった。好天の中、年季が入った小樽市民会館には、前回を40人近く上回る1,464人の受講者が集まってくださり、半日、和やかな雰囲気のもとに会がもてたことは、誠にありがたかった。「年季が入る」という表現は、一つの仕事に長年従事している「人」を表す言葉で、建物に使うことは邪道かもしれない。が、この町には、相当数の歴史的建造物がよく保存されているから、こういう擬人法が何となくしっくり合うのである。

Evening  前日に宿泊したホテルは、中高年の観光客を中心にほぼ満室だった。妻と連れ立って夕暮れの町を歩いたが、風があって「寒い」と思った。10月の北国だから当然だが、今年の夏以降では初めてで、もうそこまで来ている冬の気配を感じた。小樽港には、大型客船の「飛鳥」が停泊中で、その白い船影が町に華やかさを添えていた。しかし、私たちはそういう港や運河近くのダウンタウンではなく、もっと高台にある駅周辺を散歩した。そこは観光地とは趣がやや違い、庶Barbourshop民の生活が感じられる小路がある。そこを通ると、ネパール人が経営するカフェなど、予期しない小さな店が現れ、興味がつきない。本当は、 そういう店に入りたいところだが、限られた時間では“印象”を写真に記録するしかなかった。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月 3日

五輪のブラジル開催を祝福する

 2016年の夏季オリンピックの開催地が、ブラジルのリオデジャネイロ市に決まった。私は、2006年8月31日の本欄以来、東京での五輪開催に何回も反対してきたから、安堵の思いでこのニュースに接した。

 はっきり言ってしまえば、人類が真剣に地球環境問題を解決しなければならない21世紀には、重厚長大で1点集中型のスポーツイベントは本当は不要なのである。そんな手段によって国威発揚や経済の活性化、そしてインフラ整備をするという考え方自体が、時代遅れである。が、人類全体の“業”の力はとても強いから、この大規模スポーツイベントはこれからも地球のどこかで開催されることになるだろう。その場合、まだ開催されていない国や地域でそれを行い、開催経験のある国や地域は、それに対して人類の“過去の過ち”を繰り返させないようにできるだけ支援を行うというのが、どうにか容認できる妥協点ではないだろうか。とりわけブラジルは、地球生命全体にとって重要なアマゾンやセラードなどの貴重な生態系と資源を有する。それらをこれ以上破壊しないで五輪開催ができれば、人類は21世紀以降に希望を見出すことができるのではないか。そんな新しい視点を採用してくれることを期待して、“リオ五輪”の決定を祝福する。
 
 石原慎太郎・東京都知事は、「史上最もコンパクトな五輪」などをスローガンに“環境負担の軽減”を正面に出して誘致作戦を展開したが、その論理自体が「五輪開催は環境を傷める」という前提に立っている。そういう場合、普通は「五輪はやめよう」と言うのが正しいはずだ。が、政治家としてはそれは絶対言えないから、「他の開催地よりは環境への害が少ない」という曲がった論理になってしまった。これは、今の世界では通用しない。その証拠に、今日の『朝日新聞』によると、東京のプレゼンに対して海外の記者から「このままでは従来のような五輪が開けなくなるという主張は脅迫ではないか」との質問が出されたという。また、『日経』はIOC評価委員会から「我々は国連ではない。そんな大きな問題を持ち出されても……」との声が聞かれたと報じている。

 五輪は環境保全事業ではなく、スポーツイベントである。また、これから経済発展の“果実”を享受しようとしている新興国に対して、「あなたの国の経済発展は温暖化ガスの排出増加につながるから、その量を最小にできる国に栄誉を与えよ」と言うに等しい。この論法は、「地球温暖化抑制のためには経済発展を控えよ」という、温暖化対策をめぐる国際交渉時の先進国の言い分そのものである。五輪の場にそれを持ち込んだことが、大きな“敗因”の1つと言えるだろう。
 
 また、今回の五輪開催地の選定には、国際関係全体の変化が現れていると思う。アメリカのシカゴが最下位で初戦敗退し、東京は下から2番目で予選落ちした。マドリードを推薦したスペインは、すでにバルセロナ五輪(1992年)があったから不利だった。ブラジルは、「南アメリカ初」を前面に掲げて開催権を獲得したが、これは中国に続く「新興国の出番だ」と言っているように聞こえる。『日経』は、“3度目の正直”を射止めたブラジルについて「世界的な経済危機にもかかわらず堅実な成長を維持、BRICsの一角として存在感が増している」ことを挙げ、「新興経済大国の躍進を象徴したものだ」と分析している。

 ブラジルでは日本人(日系人)の社会的地位が高い。同国の歴史上、農業などで社会の発展に大きく貢献してきたからだ。その信頼にも応えるため、今後は、植林活動や環境技術の分野で同国を大いに支援し、2016年には“炭素ゼロ五輪”を実現するような中期計画を策定できないか、と私は夢想するのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年10月 1日

山のキノコと対面

 休日を利用して、妻と2人で山梨県・大泉町の山荘に来た。前日の雨天とはうって変わって、雲間から青空がのぞく好天なのがうれしい。しかも、キノコの成長には湿気が必要なので、晴天の前の雨天は誠に好都合である。が、キノコはすぐに地中から出るわけではなく、2~3日の成長期間が必要なため、山荘裏の林を初め、近辺ではあまり姿が見られなかった。それでも、玄関の前に灰白色の傘のキノコが6~7株かたまって出ていたUtsukushijg。シロヌメリイグチである。また、山荘近くの砂利道の真ん中には、ニガクリタケが束になって顔を出していた。このキノコは毒入りだから、要注意だ。
 
 天女山と美しの森へも足を延ばしてみたが、ジゴボーが2~3株と、アイシメジが分散して7~8株、それにカワムラフウセンタケとおぼしき種を何株か収穫しただけだった。それ以外は目ぼしいものはほとんどなかった。キノコの季節は、まだこれからということだろう。Efuto0909302

 収穫したキノコは、よい形のものを選んで山荘でスケッチすることが多い。今回は、アイシメジ(緑色のもの)とカワムラフウセンタケ(茶色の3株)を絵封筒にした。採る本数が少なくても、こうして絵にEfuto090930_2 描いていると、それぞれ特徴あるキノコとじっくり対面することになるので、たくさん収穫した時のような充足感を味わえる。食用キノ コでも、食べない味わい方もあるのである。

 谷口 雅宣

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