終末論の宗教 (3)
2日前の本欄のコメント欄をご覧になった方はお分かりだが、山梨教区での生長の家講習会で本件について質問してくれた16歳の高校生本人から、私のここでの回答を読んでくれたとのコメントがあった。私としてはこれで“約束”が守れたので、ひと安心の思いである。
ところで、この高校生のような質問が出ることにはもっともな理由がある。それは、終末論は多くの宗教の教えや考え方の中に含まれているからだ。このことを私は、『心でつくる世界』の中で次のように書いた:
「この思想は、キリスト教ばかりでなく、その“兄弟分”とも言えるユダヤ教を初め、イスラム教、仏教、ゾロアスター教にも表われている。また、アメリカ・インディアンやエスキモーの神話や伝説の中にも、メラネシア、ポリネシア、アフリカ民族の間にも、同様の考え方が古くから伝わっている」(p.125)
講習会では、私は「万教帰一」の意味を「あらゆる宗教の教えの神髄は共通している」と表現した。この表現を表面的にとらえて、「あらゆる宗教に共通した部分は、宗教の神髄である」と理解すると、「終末論も真理である」という誤った結論にいたる可能性がある。私は前回、そのことを指摘したのだった。
宗教の「神髄」とは、表現された言葉のうわべの意味のことではない。むしろ、うわべの意味からは必ずしも理解されず、したがって次の表現に向かわせる力をもっているが、その表現においてもうわべの意味からは必ずしも理解されず、したがってさらに次の表現に向かわせるが、その表現においてもうわべの意味からは必ずしも理解されず……というように、言葉での表現は(不可能でなければ)かなりむずかしいものである。このことは、仏教では禅宗の考案の中によく表れている。「仏とは何か?」「○○に仏性ありや?」という類の問いに対する答えは、必ずしも一定していないし、「不立文字」という言い方もある。また、聖書に記されたイエスの教えでは、「神の国」とか「御国」を説明するのに、言葉の表面の意味からはなかなか解らない比喩が数多く使われている。
これに対して終末論は、言葉の表面の意味からもすぐに分かる考え方である。だから、私も前回、その意味を表した文章を既刊の拙著から引用し、読者もそれを読んで意味が分かったはずである。そして、現代の人類が抱える核拡散や地球温暖化の問題を深刻に考えたとき、人は終末論的な見方に引き寄せられる可能性があると述べたのだった。
しかし、生長の家の教えは終末論ではない。人間の能力を超えた巨大な“悪”の力や、神や天使と互角の戦いをするサタン、そして、天使とサタンとの恐怖に満ちた闘争が来るなどとは考えない。そうではなく、もし我々人類の前に今、核テロリストや気候変動による大災害、あるいは資源枯渇から来る戦争勃発の危険があるとしたならば、それらは人類自らの“迷い”の産物だから、人類自らの“覚醒”によってその危険を取り除くことができる、と生長の家では考えるのである。
谷口 雅宣
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