終末論の宗教 (2)
話が前後してしまったが、「終末論」とは何かについて私は前回定義しなかった。これについては、拙著『心でつくる世界』の中では「世界の終末への信仰」のことだと書き、次のように補足説明している:
「ここで言う“終末”とは単なる“世界の終り”ではなく、多くの場合、“最後の審判”と“因果応報”の考え方を伴っている。つまり、やがてこの世界は終末を迎えるが、この世の終りには、神あるいは救世主が再び現われて、これまで放置されてきた世の中の“悪”や“罪”のすべてを裁き、(時には壮絶な戦いの末に)それを滅ぼすことによって、新しい理想的な“善なる世界”(神の国、天国、浄土など)が到来する--こういう考え方である」(pp.124-125)
私はこのとき、キリスト教について「このような終末論を教義全体の中心的位置に据えている」と表現した。このことと、前回本欄で書いたこと--「キリスト教は終末論である」という理解は、控え目に言っても不十分なのである--とは矛盾しているかもしれない。が、この違いは、キリスト教に対する私の認識の変化を表している。また、宗教の教えを“中心部分”と“周縁部分”に分けて捉えた場合、終末論は前者に属さないという私の考えにもとづいている。が、これらの点については、今回はこれ以上触れない。
さて、講習会での質問者の問いは、「終末論を唱えている宗教は万教帰一に入るのか?」だった。この問いは、しかし何かが欠けている。つまり、質問の意味が今一つ明確でない。世界の宗教は、「万教帰一」という概念に含まれるか含まれないかというような、二者択一的な分類はすべきではない。が、質問者はそういう考え方をしているようにも受け取れる。万教帰一の意味は、「あらゆる宗教の教えの神髄は共通している」というものだから、終末論を唱えていても、共通した神髄を説いている教えはあり得るし、その逆に、終末論など唱えていなくても、共通した神髄を説いていない教えも(万教帰一の対象から外れるが)あり得る。だから私は、この問いを読み変えて、「宗教における終末論の考え方は、宗教共通の神髄(中心部分)の中に入るのか?」という意味に受け取った。前回の「ノー」という答えは、そうではない--終末論は宗教共通の教えの神髄ではない--という意味である。
前掲の拙著とその後に出した『ちょっと私的に考える』(1999年刊)で、私は終末論が宗教共通の教えの神髄とは言えない理由を詳しく書いているから、興味のある読者はそちらを読んでほしい。が、生長の家の立場から終末論の不合理性を簡単に述べれば、こうなる--完全なる神が創造された世界は、完全である。完全なものは時間的経過を経ても不完全になることはない。しかるに、終末論の前提は、世界には悪があり、このためしだいに世界が不完全さを増してくるから、神が“最後の審判”を通して悪を滅ぼさねばならない--というものである。これでは事実上、神の完全性を否定しているから不合理である。
神と(実相)世界との関係はこうなるが、我々の目の前の現象を説明するに際しては、終末論は案外説得力がある。例えば、今日の人類が直面している核拡散や人口爆発、地球温暖化の問題を“悪”と見立てれば、これらの問題がしだいに深刻化していくのは人類の“罪”のためだと考え、そういう罪をなくすために、“最後の審判”として、やがて核戦争や海面上昇による都市や国の消滅が起こらなければならない--こんな教義を掲げた宗教を信じる人がいても、私は驚かないのである。
谷口 雅宣
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コメント
合掌ありがとうございます。
1と2続けて読ませていただきました。
自分は質問者では無いのですが、なんかとてもスッキリしました。
ありがとうございます。
再拝
投稿: 齋藤翠 | 2009年10月20日 00:32
斎藤さん、
この文章はコムズカシイと自分では思ったのですが、お役に立てたようで、うれしいです。
投稿: 谷口 | 2009年10月20日 14:53
ものみの塔と言う団体がこの様な終末論を説いていますがラッセルにしてもラザフォードにしましても何回もこの世の終わりの予言をして当然ですが全部外れています、大本教でもありました、sinple、、is、、bestという言葉がありますが、物事をあまり複雑に考え過ぎると迷路に陥るのではないでしょうか、、、原点に帰れ!と言う言葉通りイエスの一生の行動、教え(言葉)、釈尊の一生の行動、教え(言葉)、に立ち返ってみる必要があるのではないでしょうか、、、イエスや釈尊が当時、今日の様な複雑な教えをして伝道されたとはとても思えないのです(泣)。
投稿: 尾窪勝磨 | 2009年10月20日 21:09