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2009年9月20日

キノコの神さま

 その石像は、泰二たちの山荘の裏の、カラマツ林の中にあった。

 泰二はそれを「石像」と言わずに、「キノコの神さま」と呼んだ。仏像を「仏さま」と呼んだり、観音像を「観音さま」と呼ぶのが許されるのだから、実際には「神さま」そのものではなく、それを形に表したものを「神さま」と呼ぶことも許されると思った。だいいち「神さま」には一定の形がないのだから、それと似せた像を造ることは困難なのだ。にもかかわらず、人間は太古の昔から、数限りない神像や仏像を造ってきた。これは、目に見えないものを一つの形に固定し、代表させることで、自分たちの心に何がしかの安定を得るためなのだろう。

 それは、財布の中に、愛する人の写真を忍び込ませる心境にも似ている。愛する人は、いろいろな表情や仕草をして心の中に生きているのだが、そのうちの一つを「写真」として固定し、それに愛する人の全体を代表させるのだ。そうすると、その一枚の写真を媒介として、愛する人の全体と交流するような気持になれる。もっとも最近は、財布に替って携帯電話がそういう写真の保管場所にもなっているが、とにかく、多くの恰好や表情をする「Aさん」でも、一枚の写真で代表させることができるのだから、夥しい種類と数のキノコを、一体の「キノコの石像」に代表させることもできる。そして、その像を「キノコの神さま」と呼ぶのに何も不都合はない--泰二はそう思った。

 そのキノコの神さまを拝みに行こう、と彼はふと思ったのである。彼は特に信心深い人間ではなかったから、「拝む」というより「様子を見に行く」といった方が正確かもしれない。

 泰二がその石像を建てたのは、裏山と自分との関係を示す「形」がほしかったからだ。彼が「裏山」と呼ぶ場所は、地図上の位置では「一定の場所」だと言えるが、それ以外のことは、何も一定していなかった。四季の移ろいとともに植生は変わり、姿を表す動物や鳥の種類は変わり、出現するキノコの種類も変わった。同じ一本のカラマツでも、地図上の位置は変わらなくても、枝の高さは変わり、シカに皮をはがされた幹の傷痕の高さも変わった。こういう自然の営みは、まるで川の流れのようだ、と彼は思った。それを遠くから見ていると、揺れず動かず、安定した「一つの流れ」のように見える。しかし、近づいてよく見てみると、そこでは何ひとつとして一定のものはない。水の分子、土の粒子、プランクトン、小石、魚、虫の死骸……そこを通過するすべてのものが刻一刻と変わり続けている。それと同じことが、裏山でも起こっている。去年、おいしいタラノメを提供してくれたタラの木は伸びすぎて、もう先端に手が届かない。美しい木陰を作っていたアカシヤの低木は、シカに皮をむかれて枯れてしまった。その代り、花をつけなかったヤマボウシの木が、今年は花を咲かせ、今は赤い実をいっぱいつけている。春が来てまもなく、林の中の太いカラマツが一本倒れた。外見はとても頑丈に見えた木だったが、幹の根元に空洞ができていて、自分の重さを支え切れなかった。

 こうして、林の中の物事の違いを探せばきりがない。林の中のほとんどすべてのものが、これほど激しく変化していても、「林」と呼ばれる空間の全体は変わらないように見える。いや、人間には林全体を一望することはできないのだから、「見える」のではなく、「林」と呼ばれる空間の全体を、勝手に人間が変わらないと「考えている」にすぎないのだ。

 そういうことに気がついてから、泰二は何か一定の「形」あるものを裏山に建てて、その林全体を代表してもらい、自分の心中の一つの“拠り所”にしたいと考えるようになっていた。

 谷口 雅宣

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コメント

最近、読んだ雑誌の中で気になる記事がありました。

30代前後の働く女性58.8%の方が、お守り・パワーストーンなどの「スピリチュアルアイテム」を、鞄に入れて携帯しているとのことでした。
(日経woman 2009/09月号掲載 公式サイトで6月実施のアンケート 平均32.8歳 1,593人の回答より)

同世代の私の個人的な感想としては、予想外に数値が高いと思いました。意外に、信心深いところがまだまだ残っているんだな・・・と、ホッとするような気持ちになりました。

もちろん、「縁起物」の携帯と信仰心を一概に結びつけることはできませんし、正しい信仰をもつことが大切なのですが、
ちょうど、日本人の信仰心について考えていたときの、先生のご文章でしたので、思わず書き込みさせていただきました。

愛知教区青年会 千崎晶美 拝

投稿: 千崎晶美 | 2009年9月23日 08:55

千崎さん、

 フムフムフム……、なるほど。興味ある情報をありがとうございます。約6割が何かの“拠り所”として縁起物をもっているのですネ。どういう気持でそれらを買ったかによって、それぞれの意味が違ってくると思いますが、何かに頼りたいという気持はあるのでしょうね。

 貴女は、そういう類のものは買わないのですか?

投稿: 谷口 | 2009年9月23日 21:57

感謝合掌

雅宣先生、
コメントに返信までいただきありがとうございます。

私自身は、ランドセルに聖経のお守りを母につけてもらって以来、現在に至るまで様々な聖経(ストラップなど三種類)を“お守り”として常に携帯しています。

ほかにも、伊勢や京都などで参拝した寺社のお守りがあり、無自覚のうちに“縁起物”を携帯していることに気がつきました。

ただ、自分は少数派ではないか……という認識でしたので、雑誌の記事を読んで“意外”と感じたのです。


いつも“今”に、ふさわしいご教示をいただき、ありがとうございます。

来週は地元の青年誌友会があります。ここでは今年から『小閑雑感part12』をテキストに輪読しています。
時事問題をどのように捉えながら、光明生活を実践していくかを学ぶことができ、大変意義深く有り難いです。

千崎晶美 拝

投稿: 千崎晶美 | 2009年9月24日 20:57

私は榊の代わりに庭木の山茶花 要 キンモクセイを神棚に使います。気持ちの問題と思っておったらあるご本に栄える木の意味ありやはり榊の木を使うべきですよね。
反省しました。

投稿: 塚越ゆき | 2009年9月27日 21:34

塚越さん、
 そうですか、サカキの代りにサザンカやキンモクセイですか……。考えてもみなかったです。私は、家の庭にあるネズミモチをサカキだと勘違いしてお供えしたことがありますが、やはり「本物を探してきて、それを使う」という心の態度が、神さまに向かうときは必要ではないでしょうか? 心の姿勢が問題なのだと思います。

投稿: 谷口 | 2009年9月27日 22:51

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