« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »

2009年9月30日

「生命は不死」は危険な教え? (2)

 私は前回の本欄で、「神は悪を創りたまわず」という唯神実相論に立つ生長の家では、「生命は不死なり」という教えは自爆テロや現世軽視に結びつくことはない、と書いた。しかし、前回取り上げた質問者のように、「来世信仰は危険行為の原因になる」と考える人は案外多いようだ。私は最近、脳機能学者であり認知心理学者である苫米地(とまべち)英人氏の本を読んでいて、驚いたことがある。苫米地氏は、米カーネギーメロン大学で計算言語学の博士号を取り、様々な先進的な仕事に従事しているだけでなく、天台宗ハワイ別院の国際部長もしているから、宗教にも理解が深い人だと考えていた。ところが、オカルティズムや霊感商法を非難するのはいいのだが、「来世がある」という考え方自体を全面否定しているように思える記述があったのだ。そこを引用すると--
 
<私が昔からスピリチュアリズムを批判し、テレビに出演する占い師や霊能力者を厳しく糾弾してきたのは、彼らの言葉が荒唐無稽だというだけではなく、「害毒」を社会にもたらしていると考えるからです。
 彼らは「人間には来世がある」といったデタラメを世の中に撒き散らしました。それを信じた人々の一部が「現世を捨てても来世があるから」と、捨て鉢な犯罪を犯したり、自殺してしまったりといったことが現実に起きています。彼らの本を読んで「来世に行ってきます」といって自殺した人が現に何人もいるのです。
 日本ではここ10年以上連続で、毎年3万人という途方もない数の人たちがみずから命を絶っています。その原因の一つに「死んだら生まれ変わる」「来世は存在する」といったオカルト思想の蔓延があるように思います。>(『テレビは見てはいけない』、p.90)

 これでは、「人間の生命は不死である」と説くすべての宗教は、捨て鉢の犯罪や自殺を増やす原因である、と言っているようなものである。そして、「人間は輪廻転生する」と説く仏教やヒンズー教の教えも「デタラメ」ということにならないだろうか? それとも、最近の天台宗では、「人間の生は一回限り」と教えているのだろうか? また、毎週、生長の家講習会で「人間の生命は不死」と話している私は、社会に害毒を撒き散らしている“オカルト思想家”になってしまうのだろうか? 苫米地氏の見解を、ぜひ聞いてみたい。
 
 私の想像では、苫米地氏はここで、オカルティズムを批判したいあまりに、筆の勢いが余って英語でいう「qualification」を忘れてしまったのではないか。「qualification」とは日本語では「制限」とか「限定」とか「条件づけ」などと訳され、物事を注意深く考える人には欠かせない一種の“修飾語”である。しかし、「文脈から話者の真意を知れ」的な考え方が背後にある日本語では、これが省略されることがある。というよりは、「省略されることが多い」と言った方がいいかもしれない。例えば、「宗教は儲かる」と言えば、世の中には欲深い宗教家ばかりがいて、宗教活動にかかる収益が非課税であることを利用して暴利を貪っているかのような印象を受ける。しかし、実際には、檀家のために身銭をきって奉仕活動をしているため、ちっとも儲からない僧侶も(少ないかもしれないが)存在するだろうから、この言い方は正確とは言えず、正しい文章にするためには「制限」や「限定」が必要である。すなわち、「日本の宗教では、一般に収益率が企業より高い」ぐらいの表現の方が正確であり、妥当である。この場合の「日本の」とか「一般に」とか「企業より」などという言葉が「qualification」に当たる。

 私は、苫米地氏はアメリカで博士号を取った人だから、英語で話したり書いたりするときにはきっと「qualification」を忘れないのだろうが、日本語のときは、(多くの日本人がそうしているように)そんなものは省略してしまうのだと、ここでは解釈したいのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○苫米地英人著『テレビは見てはいけない--脱・奴隷の生き方』(PHP新書、2009年)

| | コメント (4)

2009年9月28日

「生命は不死」は危険な教え?

 9月27日には、福岡教区での生長の家講習会が行われ、光回線を使った4会場同時開催という形式で、合計1万人を超える大勢の受講者が参加してくださった。講習会では午前中の私の講話に対する質問を受け付けているが、今回は小学生から高齢者までのあらゆる年齢層の受講者から、質問用紙18枚が届けられ、とてもバラエティーに富んだ内容だった。が、時間の関係から、すべての質問にはお答えできなかった。そこで、未回答に終った質問の中から重要と思われるものを、本欄で取り上げて回答しよう。

 久留米市に住む52歳の男性の受講者は、「人間の生命は不死」の考え方と「万教帰一」についての説明を聞いて次のような質問を寄せられた--
 
「生長の家の万教帰一というのは非常に感銘を受けるところですが、生き通しの命の教えは、イスラムテロ組織タリバンの“死して来世で幸福となる”という考え方で、死を恐れぬ危険があります。又これは、太平洋戦争の特攻隊の精神にもつながります。もっと命の重さ、人間のすばらしさ(仮の姿の現世でも)を教えるべきと思いますが、いかがでしょうか?」

 上の質問には、この質問者の言いたいことが一部省略されているように思う。それを補うと、恐らくこういうことだ--すべての宗教の神髄は一つであるとする「万教帰一」の考え方には共鳴できるところはあるが、この「一つ」とされる共通の教えの中に「人間の生命は生き通しである」というものを含めるのは、危険だと思う。なぜなら、イスラーム過激派のメンバーは、現世を否定して来世の幸福を成就するために自爆テロを行うのだから、「生命は不死」の教えはそれを正当化してしまう。また、特攻隊の場合も、「生命(魂)の不死」を信じて「靖国神社で会おう!」と誓った若者が、現世を犠牲にして自殺攻撃に突き進んだのである。そういう現世軽視の考え方よりも、現世での生命尊重や、今生の人生のすばらしさを宗教は強調すべきと思うが、どう考えるか?
 
 私は、「生命は不死」の教えが直ちに「自爆テロ」や「現世軽視」につながるとは思えない。それどころか、「生命は不死」という前提からは、いろいろな教えを導き出すことができるのだ。例えば、これに「因果の法則」を組み合わせて、現世で犯した罪は来世にも引き継がれるのだから、罪のない多くの人々を傷つけ、殺した悪業は、来世における幸福ではなく、悪果となって現れる、と説くことができる。また、すべての人々の「生命は不死」なのだから、今、目の前に“敵”として現れている人も、前世においては“味方”であったかもしれず、“恩人”だったかもしれない。だから、殺すなどもってのほかだ、とも説くことができる。さらに、「生命は不死」なのだから、現世においてすべてのものを得ようと焦る必要はない。自分のことだけでなく、他人のために何かすべきである、と諭すこともできるだろう。つまり、「生命は不死」の教えは、「現世軽視」や「他人軽視」の考え方と直接、論理的につながってはいないのである。
 
 それがつながって見えるのは、なぜだろう? その理由は、現世を否定的にとらえるからだ。特に、目の前にいる“敵”が自分をはるかに凌駕する力をもっていると考える場合、現世軽視、現世否定の傾向が強まると思われる。自爆テロリストの場合は、敵が多く、汚辱したこの世界は否定すべきものだと考えて、テロ行為に走るのである。特別攻撃隊の場合も、戦局が日本に不利なことが明確になってから登場した戦法である。つまり、敵の力を思い知ってから、やむを得ないギリギリの戦法として採用された--ということは、現世を否定的にとらえて考えついた手段なのだ。
 
 これに対し、生長の家の教えでは、現世を「現象世界」と呼んではいても、否定的にとらえないのである。それは「日時計主義」の言葉を思い出してもらえば明らかだろう。我々は、現世を「神の子の実相を表現する場」として極めて肯定的にとらえる。また、“悪”や“敵”は実相においては存在しないと考える。だから、現世において“悪”や“敵”が現れたように見えても、それらは「心の影である」として存在を否定してしまう。したがって、「生命は不死」の教えは、生長の家においては「自爆テロ」や「現世軽視」に結びつくことはないのである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (5)

2009年9月26日

キノコの神さま (3)

 泰二が山荘裏の林の中にキノコの神さまを立てたのには、もう1つ理由があった。それは近年、キノコに出会う機会がめっきり少なくなってしまったので、“神頼み”をしたくなったのだ。東京での生活が忙しくなった。だから、以前のようには頻繁に山荘へ来れなくなったことが大きな原因かもしれない。が、それだけでなく、山全体から水気が減ってしまったような気がするのである。山の降水量が減ったかどうかは、詳しく調べていない。これは、地元の気象台に問い合わせても分からないだろう。なぜなら、気象台で記録している降水量は、山荘よりもっと低地の--たぶん甲府か韮崎あたりの町の降水量だからだ。それらの町と山荘との標高差は500メートルほどもあるのだ。

 7年前に山荘ができた当初、付近ではいろいろのキノコが面白いほど採れた。いちばん多く採れたのはハナイグチで、これは別名「ジゴボー」とも「リゴボー」とも言って、カラマツ林によく出るキノコだ。北海道あたりでは「カラマツタケ」と呼ぶらしい。これは、林の奥深くではなく、日が差し込む明るい林中や南向きの斜面で、つややかな赤褐色の頭をもたげた。傘の裏側がスポンジ状で、鮮やかな黄色をしているので分かりやすい。また、匂いにも独特の野趣があるので間違う恐れはない。これを味噌汁に入れると、ナメコのようなヌメリが出て、なかなか美味しいのである。ハナイグチは、イグチ科のキノコの代表格だが、同じ科のものではシロヌメリイグチやアミタケも付近ではよく見られた。そこからさらに北方向に山を上って天女山まで行けば、キノボリイグチやベニハナイグチを見つけることもできた。これらは、しかし食用としてはハナイグチに劣った。

 イグチ科以外の食用キノコでは、タマゴタケとチャナメツムタケが入手できた。前者は秋ではなく、夏に出るキノコだが、その名の通り、ニワトリの卵のような形の白い袋の中から出現する。そこから色鮮やかな朱色か紅色の幼菌が頭を伸ばし、黄色の軸が20~30センチの高さになったところで見事な赤い傘を円形に広げる。この極彩色の傘を緑の林の中に見つけたときの感激は、経験しなければ分からない。バターで炒めて、洋食の付け合わせにするのがいい。これに比べて後者は、秋の終りに出る茶色の地味なキノコだが、香りがよく、ナメコより美味しい、と泰二は思っていた。用途は、ナメコと同様、酢の物、味噌汁、佃煮など、和食によく合うのだった。このほか、稀少種の食用キノコでは、ハナビラタケやマスタケ、クリタケも採ったことがある。
 
 もちろん、食べられないキノコや毒キノコもある。しかし、それらの中にも、見ていて愛らしく、美しいものがあるし、不気味な形のキノコも、出会った時にはそれなりに嬉しいものだ。日本人の多くは“農耕民族”とされているようだが、自分だけは“狩猟民族”の血を引いていると思いたくなるほどだ。こういうキノコ類はすべて、“芽”が出るためにはある程度の期間、土の表面に水分が保たれることが必要だ。雨だけでなく、霧や雲がその役割をはたすのが普通だが、そういう長期にわたる湿り気が、山から失われつつあるように思われた。その代り、夕立ちや豪雨のような激しい雨が降る。これは林地に自然に形成された腐葉土とともに表土を流してしまうから、キノコの菌糸を破壊する。そして、その後に来る、紫外線の強い日照で林地は乾燥し、“消毒”されてしまう。そんなことが原因で、キノコに会えなくなった--と泰二は考えているのだった。

 もしそれが原因でキノコの数が減ったのなら、岩を積み上げてキノコの石像を造ることでキノコがよく出るはずはないのである。そんなことは、泰二の中の“科学者”は充分に心得ていた。が、その一方で、神頼みをしたい迷信家の泰二がいて、「造らないよりは、造るほうがいいゾ」と彼に囁きかけるのだった。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年9月25日

キノコの神さま (2)

 そんな時に、いつものようにキノコを探して林の中を歩いていた泰二は、直径40センチほどの、少し潰れた半球形の岩が足元にあるのに気がついた。角度を変えて見ると、ナポレオンの被っていた帽子のようにも見える。そして、何よりもキノコの傘のように見えるのである。もちろん、そんな巨大なキノコなど地上に存在しないだろう。が、ある程度の大きさがないと「神さま」という感じがしないから、キノコの神さまとして拝むにはもってこいの大きさだ、と彼は思った。

Mushgod01  そう思いついた泰二の目は、その巨大キノコの傘を載せる“軸”になるような岩をもう探していた。するとすぐそばに、角が丸まった台形の岩があり、傘が載りそうである。抱え上げてみると、ちゃんと載った。しかし、キノコというよりは、ナポレオン帽を被った子どものようだ。が、それもいいではないか、と泰二は思った。イグチ科のキノコの中には、軸の太いヤマドリタケとか、アカジコウなどがあるし、フウセンタケやオオツガタケ、それにイタリア料理で有名なポルチーニ茸も軸が太いのが特徴だ。
「よし、これでキノコの神さまになる!」
 と泰二は思った。
 距離をおいてそれを眺めてみると、コミカルでなかなかいい。キノコは、このコミカルな点が魅力の1つなのだ。が、何か片側に傾いているような気がする。バランスをとるためには、“相棒”を脇に添えるのはどうだろうか……。
 
 泰二は、周囲の林の中を歩き回った。すると、ナポレオン帽よりサイズはひと回り小さいが、円盤状の小岩を見つけることができた。八ヶ岳南麓のこの付近の林は、成層火山として形成された地質時代からの岩石が、案外多く表土からも顔を出している。その中には、角張った形のものも多くあるのである。だから、泰二が円盤状の岩を支える“軸”用の岩を見つけ出すのに、そう長くはかからなかった。ただ、持ち上げて運べる大きさではなかったから、林の中の斜面を転がすようにして運ぶのに少し苦労した。
 
 こうして、泰二の山荘の裏山には2体の「キノコの神さま」が立った。たわいのない“大人の遊び”のようであったが、彼の心の中には、自分と山の自然とを結びつける“錘”が1つできたような気がした。そして何となく、10月には周囲にたくさんキノコが出て、収穫できるような感じがしてくるのだった。
「それは迷信だぞ……」
 と、泰二の中の“科学者”は注意を喚起するのだが、もう一人の泰二は、「楽しい迷信じゃないか」と答えて譲ろうとしなかった。
 
 谷口 雅宣
 

| | コメント (1)

2009年9月24日

『産経新聞』は大丈夫か?

 私は若い頃、『産経新聞』のお世話になったことは本欄等に書いたと思う。だから、私は同紙に個人的な恨みなどなく、むしろ感謝している。が、最近の同紙の外交に関する報道姿勢には“疑問符”がつきまとってならない。特に、アメリカに民主党のオバマ政権が誕生し、日本でも民主党への政権交代が起ったころから、思いあまって感情に流されるのか、報道記事が評論記事のようである。事実をそのまま伝えればいいものを、エモーショナルな見出しを付けて、読者が記事を読む前から論評してしまうのである。これは、ジャーナリズムとして邪道であり、まるで新聞が“売らんかな”の週刊誌化しつつあるようで、嘆かわしい現象だ。

 先の総選挙で、『産経』が自民党政権の維持を訴えたことを私はそれほど問題にしていない。同紙はもともと「産業経済新聞」であり、産業界と経済界とのつながりが太く、それらの業界の意見を無視しえない立場にあることは理解できる。が、同時に、新聞は“公器”として国民の考えを重視しなければならない。そして、今回の総選挙での国民の選択は明瞭だった。自公政権に対して「ノー」と言ったのである。それは、必ずしも「民主党にイエス」ではない。が、まだ試運転を始めた真新しい政権に対して、初めから疑いの眼差しをもって報道する姿勢には、一流の報道機関にふさわしくない“やっかみ”が感じられ、好感がもてない。特に、外交政策の分野でそれをやることは、『産経』がこれまで重視してきたと主張する“国益”にも反することになる、と私は思う。
 
 もっと具体的に言おう。最も近い例では、今日(24日)の第1面で鳩山首相とオバマ米大統領の初めての会談を伝える記事に、「気まずい“信頼構築”」という見出しをつけた。いったい何が「気まずい」のかと思って記事の中身を読んでみたが、日米首脳の間に「気まずい」空気が流れたなどということはどこにも書いていない。それどころか、首相は会談後に「全体として温かい雰囲気があった。大統領と私との間に何らかの信頼関係のきずなができたのではないか」と評価している。では、大統領の方から何か不満が表明されたのかというと、そういう言葉はなく、『産経』は第3面でオバマ氏の「同盟関係が20世紀後半において強かったように、21世紀もさらに強くなるチャンスだと確信している」という言葉を引用し、「新政権との協力に期待感を表明した」と自ら書いているのである。もちろん、それらを100%額面通りに受け取る必要はないが、「気まずい」ことが事実として起こったのでなければ、そんな表現を使うべきではない。

『産経』は結局、ここで記者の「憶測」を見出しに取っているのである。何を憶測しているかといえば、「民主党が在日米軍再編の見直しなどを公約にしたことで米側の不信が蓄積されている」(第1面記事)ことであり、日本側は今回、「信頼構築」を最優先に掲げていて「緊迫した場面こそなかった」(同)が、「それは懸案を事実上先送りさせたためで、“忍耐”のオバマ政権がいつ態度を硬化させるかはわからない」(同)ということである。つまり、『産経』が言いたいのは、こういうことだろう--日米新首脳の初顔合わせは大過なくスムーズに行われたが、それはオバマ大統領が民主党政権に不信感をもっていても忍耐の人であり、本当に言いたいことをガマンして言わなかったからだ。だから、2人にとっては気まずい初顔合わせであったに違いない。私は、こういうことを『産経』が言ってはいけないとは思わない。しかし、言うのであれば、事実報道を装って記事の本文に紛れ込ませて言うのではなく、堂々と「主張」などの論説欄で言うべきである。また、あくまでも事実報道として言いたいのであれば、「米側の不信が蓄積されている」ことや、オバマ氏が特別に「忍耐の人」であること、または「言いたいことをガマンしている」ことなどの証拠をきちんと記事中に示すべきである。それをやらずに断定的に書くことは、読者の知性を侮った“世論操作”に近いと思う。
 
『産経』は同じ日の第3面でも、第1面と同様のことをしている。それは「“現実統治”迫る米」という見出しの記事である。この記事は、今回の日米首脳会談の解説記事であるが、見出しだけを見ると、今回の首脳会談でオバマ大統領が鳩山首相に対して「もっと現実的な統治をしろ」と迫ったような印象を与える。が、そんな事実は一切ない。「現実的な統治」を迫っているのは、オバマ氏でもなく、国務長官のクリントン氏でもなく、その部下である国務省の日本担当者でもなく、何とこの記事を書いた『産経』の記者なのだ。アメリカ側はそんな注文を一切していないにもかかわらず、『産経』の記者はアメリカに成りかわって、鳩山首相に「現実統治」を迫っているのだ。ということは、この記者は不思議なほどアメリカ大統領に近く、アメリカの外交政策に通暁しており、オバマ氏の心中も知悉していることになる。ところが、記事の最後尾に書いてある次の文章を読めば、そうでないことがわかるのだ--

「今回や11月の訪日の際の首脳会談を通じ、大統領が鳩山首相に“現実の政治”を迫り説得できるかどうか、手腕が問われている」

 なんのことはない。この記者は鳩山首相の政治は非現実的だから、それを修正するためには、アメリカの大統領が「現実政治をしろ」と日本の首相に迫ることが必要であり、それができれば大統領の手腕を認めるというのだ。一介の日本人記者が、アメリカ大統領の手腕をそんなことで判断するのは失礼だし、第一それをやりたいのなら、他国の大統領の手など借りずに、自分が新聞記者として言論によって自らの紙面を使ってやるべきだ。また、それができないのなら、「できない」という現実の中に自分の力不足の原因を認めるべきである。

 最近の『産経』の見出しの取り方は、このように主観的である。これはほんの一例であり、鳩山首相が日本の温室効果ガス削減の中期目標を国連で発表したときも、同じような手法を使って「一般記事の見出しによる意見表明」を行った。それは23日付の同紙の第1面に載った「高過ぎる公約の呪縛」という見出しだ。「高過ぎる」はすでに意見表明だが、「呪縛」は感情の露出でなくて何であろう? 繰り返しになるが、私はこれは新聞の邪道だと考える。意見表明は論説欄で堂々とやればいい。「それをしたがまだ足りないから、一般記事の見出しで警鐘を鳴らすのだ」では、スポーツ新聞とどこが違うのか。また、戦前・戦中の新聞とも似ている。『産経』が今後もそういう方向へ流れていくのであれば、より客観的な情報を求める多くの読者を失うことになるだろう。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (3)

2009年9月23日

“求道と伝道”で芸術的人生を

 お彼岸の中日に当たる今日は、東京・原宿の生長の家本部会館ホールで午前10時から「布教功労物故者追悼秋季慰霊祭」がしめやかに執り行われた。私は奏上の詞を朗読し、玉串拝礼をするなど斎主として勤めさせていただいた。以下は、慰霊祭の最後に私が述べた挨拶の概要である。

---------------------------------
 本日は、布教功労物故者を追悼する秋季慰霊祭にお参りくださいまして、誠にありがとうございます。
 このお祀りは、永年にわたり生長の家の幹部活動をしてくださった方々で、地上での使命を終えられて霊界に旅立っていかれた方々をこの場にお迎えして、ご生前のご活躍を偲び、感謝の誠を捧げるためのものです。今回は182柱の御霊さまを新たにお祀りいたしました。
 
 今年の秋は、例年より早く来たように感じられます。「夏が早く過ぎた」と言ってもいいかもしれません。その証拠に、例年、ちょうどこの秋のお彼岸に時を合わせたように、私の家の庭には白と赤の2種類のヒガンバナが咲きますが、その咲き初めが2週間ほど早かったのです。近ごろは天候不順ということがよく言われるので、その影響かもしれません。しかし、つい数日前に講習会で伊勢に行ったときには、ちょうど赤いヒガンバナが田んぼ脇のあちこちに沢山咲いていたので、それほどの“気候変動”ではないのかもしれません。ただ、日本の農業地帯である北海道は、今年は雨が多く、日差しも少なかったようで、この間、函館へ講習会で行った時には、今年の北海道の小麦の収穫量は例年より2割ほど少なく、ダイズに至っては4割も少ないと聞きました。

 さて、生長の家の神示の中に「帰幽の神示」というのがあります。宇治の大祭などで朗読されるので、ご存じの方も多いと思います。そこには人間の一生を音楽に喩えて、人間の生命の永遠性が説かれています。神示の言葉を引用すると「汝の肉体は汝の念弦の弾奏せる曲譜である」と書かれています。これは「肉体」という一見頑丈そうな物質の塊が、実はピアニストやバイオリニストが演奏する音楽のように、心の状態によって変化し、流動する柔軟な存在でもあるという意味であります。だから、演奏のために普段から練習を積んでおかないと、音程を外したり、テンポを間違えたりすることもあるように、我々の肉体も心の調子を整えておかないと時々、調子をくずすわけです。そのことを神示では「念弦の律動にただ調和を欠きたるのみなるを病いという」と説いています。つまり、私たちが病気になるのは、あらかじめ定められた人生音楽の曲をまだ完全にはマスターしていないで、演奏を間違えてしまうのに似ているというわけです。だから、そういう場合には、また練習を重ねて、より完全な演奏ができるように努力すればいいのであります。
 
 このように「帰幽の神示」では、人生を表現芸術に喩えています。このことは、私たちに「人生を表現者として楽しめ」という教えでもあるのです。この間の20日に、三重県の講習会が伊勢でありましたが、そこで沢山の質問が出ました。その中の1つの、50歳の会社員の男性からの質問ですが、こういうのがありました--
 
「生長の家の教えを学ぶに当って、組織に属しながら実践する方が早いと思いますが、(その反面)組織の役につく事によって行事にふり廻されることがあります。谷口雅春大聖師の真理を自由に宇治等に行って学ぶために、組織の行事等に費やす時間を、それに当てたいと思う。一切の役を辞退しようと思いますが、いかがでしょうか?」
 
 この質問は、求道と伝道との関係についての一種“古典的な”問題を指摘していますね。「自分はもっと求道をしたいのだが、組織からは伝道の要請があって充分求道ができないから、伝道の役目はやめてしまいたい」ということだと思います。私はこの質問に答えるのに、「自他一体」ということを話しました。宗教の悟りには、また、宗教運動には、この「自他一体」の要素がなければならない。自分だけが生きているのではなく、すべての人々や環境との間に“愛”で結ばれているのが自分である、そういう自覚が必要です。つまり「すべては一体」の自覚です。これは、言葉で聞いてすぐに分かるものではなく、また頭で分かっても、実際生活の中で実践し、実感するのでなければ本物ではありません。生長の家の「大調和の神示」の中にも、そのことが次のように書かれています--
 
「神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波をよう受けぬ」
 
 他の人々とも一体であるという愛の自覚が生まれたならば、何かの形で「光明化運動をしたい」「組織の仲間とともに伝道をしたい」という気持が起こるはずです。自分だけ求道のための勉強に集中するのがよくて、他の人々へのお世話や伝道などご免こうむるというのでは、自他が対立していますから、「神の救いの念波をよう受けぬ」ということになるでしょう。また、聖経『真理の吟唱』には、「生長の家の礼拝の本尊は観世音菩薩である」と書かれていますが、この観世音菩薩の最大の役割は「菩提心を起して己れ未だ度(わた)らざる前に、一切衆生を度(わた)さんと発願修行する」(『聖使命菩薩讃偈』)ことです。「自分さえ早く教えの神髄に到達すればいい」というのは一種のエゴイムズでもあるわけです。その道そのものが悪いわけではありませんが、それだけでは充分ではない。他の人や行事への参加者が真理によって救われるのを目撃することで、喜びは倍加し、本当の意味での自他一体の愛が自覚されるものです。その実感が、本当の悟りに私たちを導いてくれるのです。
 
 このことは仏教においては「上求菩提・下化衆生」という言葉でも説かれていることで、今日、このお彼岸の慰霊祭で招霊し、お祀りした人々はよく心得ておられたことだと思います。なぜなら、これらの御霊さまは皆、講師や組織の幹部として光明化運動に生涯を捧げられた人々だからです。すなわち、自分が教えを受けたい、真理を知りたいと、上へ上へと精進するだけでなく、受けた教えを、まだ完全には理解していなくても一般の人々に伝えて、他を助けたいとの願を起こして一所懸命に運動をされた人々であります。先ほど、人生は表現芸術に喩えられるという話をしましたが、これら御霊さまの人生は「求道と伝道」をともに実践された“芸術的人生”とも言えると思います。私たちも、この御祭を契機として、これら運動の諸先輩の人生から学び、顕幽手を携えて、これからも人類光明化運動を益々盛んに展開していきたいと思います。
 
 本日は、お参りいただきまして誠にありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (6)

2009年9月20日

キノコの神さま

 その石像は、泰二たちの山荘の裏の、カラマツ林の中にあった。

 泰二はそれを「石像」と言わずに、「キノコの神さま」と呼んだ。仏像を「仏さま」と呼んだり、観音像を「観音さま」と呼ぶのが許されるのだから、実際には「神さま」そのものではなく、それを形に表したものを「神さま」と呼ぶことも許されると思った。だいいち「神さま」には一定の形がないのだから、それと似せた像を造ることは困難なのだ。にもかかわらず、人間は太古の昔から、数限りない神像や仏像を造ってきた。これは、目に見えないものを一つの形に固定し、代表させることで、自分たちの心に何がしかの安定を得るためなのだろう。

 それは、財布の中に、愛する人の写真を忍び込ませる心境にも似ている。愛する人は、いろいろな表情や仕草をして心の中に生きているのだが、そのうちの一つを「写真」として固定し、それに愛する人の全体を代表させるのだ。そうすると、その一枚の写真を媒介として、愛する人の全体と交流するような気持になれる。もっとも最近は、財布に替って携帯電話がそういう写真の保管場所にもなっているが、とにかく、多くの恰好や表情をする「Aさん」でも、一枚の写真で代表させることができるのだから、夥しい種類と数のキノコを、一体の「キノコの石像」に代表させることもできる。そして、その像を「キノコの神さま」と呼ぶのに何も不都合はない--泰二はそう思った。

 そのキノコの神さまを拝みに行こう、と彼はふと思ったのである。彼は特に信心深い人間ではなかったから、「拝む」というより「様子を見に行く」といった方が正確かもしれない。

 泰二がその石像を建てたのは、裏山と自分との関係を示す「形」がほしかったからだ。彼が「裏山」と呼ぶ場所は、地図上の位置では「一定の場所」だと言えるが、それ以外のことは、何も一定していなかった。四季の移ろいとともに植生は変わり、姿を表す動物や鳥の種類は変わり、出現するキノコの種類も変わった。同じ一本のカラマツでも、地図上の位置は変わらなくても、枝の高さは変わり、シカに皮をはがされた幹の傷痕の高さも変わった。こういう自然の営みは、まるで川の流れのようだ、と彼は思った。それを遠くから見ていると、揺れず動かず、安定した「一つの流れ」のように見える。しかし、近づいてよく見てみると、そこでは何ひとつとして一定のものはない。水の分子、土の粒子、プランクトン、小石、魚、虫の死骸……そこを通過するすべてのものが刻一刻と変わり続けている。それと同じことが、裏山でも起こっている。去年、おいしいタラノメを提供してくれたタラの木は伸びすぎて、もう先端に手が届かない。美しい木陰を作っていたアカシヤの低木は、シカに皮をむかれて枯れてしまった。その代り、花をつけなかったヤマボウシの木が、今年は花を咲かせ、今は赤い実をいっぱいつけている。春が来てまもなく、林の中の太いカラマツが一本倒れた。外見はとても頑丈に見えた木だったが、幹の根元に空洞ができていて、自分の重さを支え切れなかった。

 こうして、林の中の物事の違いを探せばきりがない。林の中のほとんどすべてのものが、これほど激しく変化していても、「林」と呼ばれる空間の全体は変わらないように見える。いや、人間には林全体を一望することはできないのだから、「見える」のではなく、「林」と呼ばれる空間の全体を、勝手に人間が変わらないと「考えている」にすぎないのだ。

 そういうことに気がついてから、泰二は何か一定の「形」あるものを裏山に建てて、その林全体を代表してもらい、自分の心中の一つの“拠り所”にしたいと考えるようになっていた。

 谷口 雅宣

| | コメント (5)

2009年9月18日

米が東欧へのMD配備を中止

 アメリカが突然、東欧諸国へのミサイル防衛(MD)施設の配備計画を中止すると発表した。大統領自身が発表したのだから、最終決定である。新聞各紙は、主として3つの理由を挙げている--①イランの核武装を抑えるためにロシアの協力を得る、②ロシアとの関係改善と核軍縮の進展、③イランの長距離ミサイル開発の遅れ。ブッシュ時代に導入が決定されたこのMD計画は、「イランのミサイルの脅威から欧州と駐留米軍を守るため」として、ポーランド(迎撃ミサイル基地)とチェコ(レーダー基地)に迎撃施設を配備するものだが、ロシアがこれを自国の戦略核を無力化するための施設と見なして、猛然と反対してきた。だから、計画の中止で、ロシアとの関係改善を図り、イランの核開発阻止と戦略核兵器制限条約の更改交渉を一気に進展させたいのだろう。
 
 が、私は、この計画のもう1つの(隠された)目的がどうなったのか、興味がある。それは、テロリストの核攻撃を抑止することだ。私は、すでに2007年5月13日の本欄で、東欧のMD施設は「核自爆テロの抑止を目指した報復攻撃用システム」という側面もあることを指摘した。しかし、この“側面”をもたせたのは、前政権のブッシュ大統領であり、ブッシュ氏の外交思想は“善悪二元論”が基礎となっていた。つまり、“悪の枢軸”を初めとしたテロ国家やテロリスト養成国家を起源とする“テロとの戦い”が必要だとする考え方だ。これに対し、オバマ政権の考え方は“イスラームとの対話”を目指し、イスラーム国家に対しては武力や圧力によるよりも、対話と理解を進めようとするものだった。
 
 この考えを軍事戦略に及ぼした場合、ブッシュ氏の恐れていた「イスラーム過激派による核自爆テロ」の可能性を、オバマ氏は「ない」と判断したのだろうか? それとも「あるかもしれない」と考えたうえで、軍事ではない別の手段で、核自爆テロを抑止する方法を考え出しているのだろうか? そういう点に、私の興味はあるのである。
 
 本欄の読者は、今から約2年前、イスラエルがシリア領内を爆撃したことを憶えているだろうか。これは、北朝鮮の協力を得て建設中だった核関連施設を、完成前に破壊するのが目的だった。シリアはその後、核開発を中止したようであるが、イランはご存じの通り、核開発は独立国の権利であるとの立場を明確にして、欧米諸国と対立している。ということは、欧米諸国が“イランの核”を阻止しない場合、イランとは至近距離にあるイスラエルが、自衛の目的でイランを攻撃する可能性があると言える。そんなことが起これば、中東地域には一気に紛争が広がり、世界は混乱状態に陥るだろう。
 
 そういう緊急性のある状況判断のもとに、今回のアメリカの方針転換が行われたのだ、と私は思う。平たく言うと、ロシアの協力を得てイランの核開発を阻止することに緊急性を感じたための決定ということになる。そういう緊張した国際関係の中でまもなく、鳩山総理となって初めてのG-20と、日米首脳会談が行われることになる。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2009年9月17日

フランスの“次の手”はGDP改革?

 11日の本欄でフランスが炭素税の導入に向けて動き出したことを書いたが、今度は「GDP」(国内総生産、Gross Domestic Products)という永年使われてきた経済指標について、その見直しを考えているらしい。15日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。理由は明白で、GDPは人間の“幸福度”や地球環境問題の深刻化とは無関係の指標だからだ。このことは、昔から各方面から指摘され、私も本欄その他で何回か言及してきたが、一国の元首がそれを言い出すのは珍しく、好ましいことだと思う。

 上掲の記事によると、大統領の諮問委員会が7日、サルコジ大統領に対して「現行のGDPは、経済の健全さを表す基準としては不十分であり、持続可能性と人間の幸福(well-being)の要素を取り入れて拡張すべきである」という内容の報告をした。この諮問委員会は、米コロンビア大学のジョセフ・スティグリッツ氏(Joseph E. Stiglitz)とハーバード大学のアマーティア・セン氏(Amartya Sen)という2人のノーベル経済学賞受賞者を含めたメンバーからなる。同委員会は、GDPに象徴される経済発展は本来、人間の幸福増進の手段とすべきものなのに、現在は目的化してしまっている点を問題にしているという。

 とりわけ、市場の機能を表す狭い尺度が、社会の「繁栄」や人間の「幸福」というような広い尺度と混同されている現状を憂え、報告書は「我々は測定するものによって影響される。だから、もし我々の測定の仕方が間違っていれば、それにもとづいた決定にも誤りが出る。諸々の政策は、GDPの値を上げるためではなく、社会の福利を向上させるために遂行されるべきである」と言っている。さらに報告書は、今回の経済不況にも触れ、「GDPの値に過剰に焦点を当てたこと」が金融危機の始まりの一因だとし、政策決定者はGDPによる経済成長に目を奪われ、その蔭に隠れた他のデータ--例えば、家計や企業の負債が増え、維持できなくなっていたこと--を見落としていた、と分析している。これに対し、サルコジ大統領は、この提言の内容を組み入れた報告を行うように国家統計局に指示し、まもなくピッツバーグで行われるG-20の会合で、他国にも同じことを提案する考えだという。
 
 GDPは、一国の内部で生産された商品とサービスの市場価格の総計である。この場合の「商品」の中には武器や特殊車両(戦車や装甲車、消防車、救急車、警察関係車両)も含まれ、また「サービス」の中には軍隊の出動、治安維持、消防活動、災害救助も含まれる。だから、テロや国際紛争、交通事故、火災、天変地異が起こっても、GDPの値は向上することになる。これらが、社会の福利増進や人々の幸福の増大とは関係がないことは明らかだ。また、GDPは国家間の“経済力”の指標と見なされることがあるが、そこに住む国民一人一人の福利の指標ではない。例えば、アメリカはGDPで「世界1位」ではあっても、国連開発計画(UNDP)が定める人的開発指数(human development index)で測ると、「世界15位」にすぎない。この指数には、長寿や健康、知識の入手可能性、生活水準などが含まれていて、それによるベスト3位は、アイスランド、ノルウェー、カナダである。
 
 さらにGDPは、環境の持続可能性を破壊するような活動を把握できない。このことは、今回の報告書でも問題視されているという。例えば、ある途上国が外国企業から鉱山開発を勧められたとする。これを許可すれば、GDPの数値は上がる。が、その際、鉱山使用料はわずかで、周囲の環境が汚染され、労働者が健康被害を被ったとしても、GDPの数値は上がるのである。

 私は、2002年のブログでGDPの欠陥に触れ、そのことを『足元から平和を』(2005年刊)の中でも取り上げ、市場外の価値をも含めた“新しい経済学”の必要性を訴えた。また、この際、人間の手がついていない自然の価値を金銭的に表そうという経済学者の研究も紹介した。さらに、「自然」それ自体を資本としてきちんと評価する「自然資本」の考え方にも触れたのだった。そういう先駆的な人々の正当な努力が、ようやく一国の政策にも反映されつつあるのならば、素晴らしいことだと思う。環境を重視する日本の新政府にも、ぜひ見習ってもらいたい。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (3)

2009年9月15日

自然と人間 (5)

 前回、この題で本欄を書いたとき(9月9日)、私は次の点を強調したのだった--人間の自然観は相矛盾していて、自然を克服すべき“対立物”と考える一方、人間を自然の一部として捉え、自然を尊ぶ考え方もあり、これら双方が同じ宗教の中に共存している場合がある。この「共存している」例として挙げたのが、聖書の『創世記』第1章と第2章に記述された2つの天地創造の物語だった。ただし、この「同じ宗教」が具体的には何であるかについては触れなかった。読者の中には、それはキリスト教であろうと考えた人が多いに違いない。しかし、『創世記』はキリスト教徒だけの教典ではなく、ユダヤ教徒もイスラーム教徒も、そこにある記述を大変重視している。ということは、いわゆる「一神教」の教えの元となる教典には、相矛盾した自然観が含まれているということである。私は、そのことが今日の人類が直面している地球環境問題の解決について、何らかの示唆を与えていると思うのである。

 私は今夏、ブラジルのサンパウロ市で行われた「世界平和のための生長の家教修会」で、アメリカの社会学者、リン・ホワイト(Lynn Townsend White, Jr., 1907-1987)が『創世記』第1章26~28節の記述を引用して、今日の自然破壊と環境問題の元凶はユダヤ=キリスト教の神学であると非難したことに触れ、その反証を試みた。なぜなら、神道や仏教の思想に親しんできたこの日本社会でも、人間による自然破壊や深刻な環境問題が起こったからである。いや、まだ着々と起こりつつあると言っていいだろう。それは例えば、永い自民党政治の中で制度下された「道路特定財源」の地方へのバラ撒きと、それを消化するための不必要な道路建設である。これが、ユダヤ=キリスト教の神学と関係しているとはとても思えない。それよりも、私企業や個人が、自然や環境、日本国民将来や生物多様性よりも、自分たちの生活や短期的な経済的利益を優先しているという、宗教とは関係のない「欲望」や「無責任」が原因だろう。
 
 が、そういう人々も、休日などには家族や友人と連れ立って、自然豊かな日本の山や河川でレジャーを楽しんでいるに違いないのだ。それはつまり、同じ1人の人間が、自然を人間の“対立物”と考える一方で、自然を愛し、自然の恵みを享受しているということだ。ただし、この場合の「自然を愛する」とは、「自然から搾取する」という意味に近い。自分にとって見て美しく、聞いて快く、食べて美味しく、肌に触れて快いものを自分の近くに引き寄せて愛し、あるいは消費するのであって、自然の中の醜いもの、耳障りなもの、まずいもの、不快なものは排除し、破壊していいと考える傾向がある。これは「神学」のような高級な精神的営みの結果、起こるのではなく、何か別の、もっと“動物的”で“感覚的”な衝動の発露ではないだろうか。
 
 このような「自然から搾取する」生き方は、自然を“対立物”として見なくとも、“対象”として、人間から突き放して“別物”として見ている。言い換えれば、人間と自然とを等しいものとしてではなく「非対称」(等しくない)ものとして考える。これに対して、人間を自然の一部として見る考えは、双方を対称的(等しく)に捉えるのである。宗教学者の中沢新一氏は、地球上の生態系のバランスはこのような対称的自然観が生んだ倫理によって保たれてきたとし、「今日、人類が知性を結集してつくりださなければならないのは、このような倫理なのではないか」と呼びかけている。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○中沢新一著『対称性人類学』(講談社、2004年)

| | コメント (4)

2009年9月13日

倫理的消費者の潮流

 今回の世界的金融危機とそれに続く経済不況の後に、現れるものは何か? かつてと変わらぬ大量生産・大量消費・大量廃棄を奨励する物質主義的資本主義なのか、それとも、地球温暖化抑制や経済格差の是正を視野に入れた、もっと倫理的な経済システムなのか?

 --こういう質問をすれば、恐らく大部分の人は「後者が望ましい」と答えるに違いない。私もそれを希望する。が、「希望する」だけではその実現は保証されない。なぜなら、人間の心には習慣性があり、そういう人間が集まって構成された社会や経済にも、その習慣が色濃く反映されるからである。希望しながら、「でも実現は無理だろうなぁ~」と手をこまねいているだけでは、習慣の力から脱することはできない。
 
 従来の消費生活に疑問を感じ、別の生活を模索しつつ、自らの消費に何らかの倫理を導入する人々を「倫理的消費者」(ethical consumers)と呼ぶらしい。同じようにして、単に金儲けを目的とするのではなく、社会に倫理的なインパクトを与える目的で企業や団体に投資する人々とを「倫理的投資者」(ethical investors)という。そういう人々は、今回の経済危機より前から存在していたことはいた。が、数は少なく、特殊例外的であり、大金持ちの人もいたから、一部には“売名行為”ではないかと批判されることもあった。つまり、社会の“潮流”になることはなかったと言える。が、この経済危機後には、多くの普通のアメリカ市民が、倫理を重視した投資や消費に参加しつつあるようだ。

 アメリカの時事週刊誌『TIME』は、9月21日号に「倫理的消費者の台頭」(The Rise of the Ethical Consumer)という特集記事を載せ、この新しい潮流に注目している。それによると、厳しい経済不況下の今年であっても、アメリカの人々はガソリンの燃費が悪いSUVからプリウスに買い替えたり、フェアトレードのコーヒーを選んで買ったり、かつてない高率で社会的責任を重視する企業に投資したりしているという。『TIME』誌が行った世論調査では、今年1月以降、オーガニック製品を買ったアメリカ人は、10人のうち6人以上という。また、大勢の人々が省エネタイプの電球も買った。さらに、それらの商品の購入動機は、「オーガニック」とか「省エネ」などという商品の性質によるだけでなく、その出所にもよるという。今夏、同誌が1,003人の成人を調査したところ、その82%は、地元や近隣の企業や団体を支援することを意識して、お金を使ったという。また、40%近くの人が、今年商品を買った理由として、それを生産している企業や団体が掲げる社会的、あるいは政治的価値に賛同したことを挙げている。

 アメリカでは1995年以降、企業の社会的責任(SRI)を重視する投資信託が急増している。この種の投資信託は、一般にタバコや、石油、小児労働に関係する企業への投資を避けるところに特徴があるが、そういう投資信託の数は1995年当時は55しかなかったものが、現在は260もあるという。そして、それらへの投資総額は約2.7兆ドルに上り、アメリカの金融市場全体の11%ほどを占めるらしい。このような“倫理的潮流”がつくられつつある要因の一つは、オバマ氏が大統領選挙のキャンペーン中から環境配慮型の製品や産業を称揚し、利益と倫理原則は両立しうることを強調してきたことだが、オバマ大統領の誕生により、社会的責任を重視する人々の活動はさらに盛り上がりを見せているらしい。
 
 生長の家でも“炭素ゼロ”運動の一環として肉食を減らしたり、マイ箸、マイバッグ、マイボトル、グリーン購入のような個人レベルでの活動に加え、太陽光発電装置の設置、会館や道場の建設に際しての設備のグリーン調達などを進めている。企業が社会的責任を果たすことで利益が出るためには、我々消費者の意識が高まることが必要だ。そういう動きが日本のみならず、消費超大国のアメリカでも生まれていることを知って、心強く思った。
 
Wedding  ところで、私は12日に生長の家講習会のために函館市へ行ったが、宿舎となったホテルで面白い光景に遭遇した。ホテルの正面玄関にいたとき、1台の真っ白なリムジンカーが目の前に横づけし、中から着飾った新朗新婦が現われたのだ。そのリムジンカーときたら、普通の高級乗用車2台分の長さだったから、さも大量のガソリンを消費するに違いない。こういう豪華な演出の結婚式をするのが今の若者の“潮流”かと、私は口をあんぐりと開けたのだ。が、中から出てきた2人の幸せそうな姿を見ると、つい赦してあげたい気持にもなった。ところで、上掲の『TIME』誌によると、かの国では「倫理的な結婚式」(ethical weddings)を実現するための活動も行われているという。近々結婚式と縁がある予定の読者は、ぜひ参考にしてほしい。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (2)

2009年9月11日

フランスが炭素税導入へ

 フランスが炭素税の導入に向けて動き出した。サルコジ大統領が10日、2010年からの実施を正式に表明したからだ。『朝日新聞』が11日の夕刊で報じている。それによると、税率はCO2の排出量1トン当たり17ユーロ(約2,200円)で、ガソリンの場合、1リットル当たり約4ユーロセント(約5円)が課税される。当初はこの税率でいくが、段階的に引き上げる方針も示したという。12月に開催される国連の気候変動枠組み条約の第15回締約国会議(COP15)に向けて、主導権をとる意味もあるようだ。
 
 私がこれに注目するのは、フランスは主要先進国としては初めて炭素税の実施に踏み切るからだ。ただし、同国には特殊事情もある。それは、同国が電力の大半を原子力発電に頼っていて、火力発電の割合が少ないということだ。だから、今回の炭素税も電力には適用されないという。しかし、このことは、CO2の排出が少ない原子力発電を大幅に採用している国でもなお、CO2削減をしなければならないという認識がヨーロッパにはあることを示している。また、そうすることが、政治的にも重要な意味をもっているということだ。
 
 炭素税では、北欧の国々が先を行っている。11日付の『ヘラルド朝日』紙によると、炭素税に先鞭をつけたのはスウェーデンで、1991年に導入した。この時はCO2の排出量1トン当たり28ユーロという比率での課税だったが、現在をそれを(例外はあるが)128ユーロにまで上げて実施している。それならば、日本経団連が言うように経済が停滞しているかというと必ずしもそうでなく、導入以来の経済成長率は「44%」だから、年率にすると「2.4%」だ。デンマークはスウェーデンの翌年に炭素税を導入し、その後、フィンランド、ノルウェー、スイス、そしてカナダの一部が導入した。専門家の中には、今後ヨーロッパでは、フランスに続いて炭素税の導入が進むと予測する人がいる。その理由は、最近の経済不況によって、先進各国は企業からの税収が激減したうえ、経済対策で大量の資金を投入して、新税の必要に迫られているからだという。

 サルコジ大統領の炭素税導入の発表は、しかし、フランス国民からは歓迎されていない。8日に『パリ・マッチ』紙に発表された世論調査では、対象者の65%が炭素税に反対しており、55%がその効果を疑っていて、84%が「税負担が重くなる」と感じているという。導入に賛成している環境保護団体も、新税導入から実際のCO2排出量の減少には時間がかかることを認めているという。なぜなら、温暖化ガスを出さないために、一般の国民は省エネ製品に切り替えたり、設備の変更をしたり、車を買い替えたりすることになるが、これにはどれも時間がかかるからだ。しかし、いったんこの動きが始まれば、産業構造にも変化が起らざるを得ないから、簡単には止められないだろう。
 
 日本では民主党への政権交代により、「環境税」の実施に現実味が出てきている。同党の政権公約には、ガソリン税と軽油引取税を一本化する「地球温暖化対策税(仮称)」が掲げられている。また、来年度には自動車関係税の暫定税率の廃止により、新たな財源確保が必要となる。この機会に、新政府が「炭素税」の考え方に近い環境税を導入することは合理的であり、私はぜひ実施してもらいたいと思う。ただし、国民の税負担が多くなることはほぼ確実だろうから、「それでも、地球温暖化を全力で抑制しなければならない」ということを国民が納得するように、「今後の日本経済は“脱化石燃料”の方向に進むことで発展する」というメッセージを明確に打ち出してほしいのである。

 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年9月 9日

自然と人間 (4)

 本欄をこの題で書くのは久し振りだ。1~3回を書いたのは昨年の2月で、ちょうど生長の家の国際本部を“森の中”へ移転するための候補地の調査との関係で、自然と人間との複雑な関係を考える立場に置かれたからだった。つまり、人間は、自分たちの集団である「社会」での活動を効率的に行うために、自然を壊したり改変して「都市」を造ってきた。このため、社会に対して影響力のある活動を効率的に行うには「都市に住む」ことが必要になっている。この場合、「都市に住む」とは「自然から離れる」のと同義だ。つまり、都市は自然の要素をできるだけ排除して造られた場所である。そういう現状の中で、自然と共存する業務を実現しようとすると、当然、①都市から離れ、したがって②効率が悪く、③社会へのインパクトも弱い、という方向に進むことになる。この方向へ極端に進めば、生長の家は宗教運動としてはあまり意味のないものとなる。もちろん、そんなことは許されない。だから、都市(人間社会)と森(自然)との間の“適当な中間点”を見つけて、そこへ移ることを考えねばならない。
 
 この考え方には、しかし問題が1つある。それは、人間(社会)と自然とを互いに相容れない“対立物”としてとらえているからだ。自然と人間とは、表面的には確かにそのような“対立物”として見えることはある。が、遺伝学や生物学、栄養学の視点から見れば、人間が自然の一部であることはあまりにも明白だ。人間は自然なくしては生きられない。このことは、科学が成立するはるか以前から明々白々の事実だったから、宗教の中には自然を尊び、自然をむやみに破壊しないための教えがいくつも含まれている。今夏、ブラジルのサンパウロ市で行われた「世界平和のための生長の家教修会」では、このことを確認するために開催されたといっていいだろう。もっと正式に(堅苦しく)言えば、今回の教修会のテーマは、世界の宗教のもつ「自然観」の研究である。そこでは、すべての宗教を取り上げることはできなかったが、南北アメリカの先住民の宗教に始まり、ユダヤ=キリスト教、ヒンズー教、仏教、イスラームについて、これらの教えの中で自然がどうとらえられているかが発表された。
 
 この中で、興味あることが1つ分かった。それは、上に書いた人間の自然に対する相矛盾したとらえ方--つまり、自然を克服すべき“対立物”と考える見方と、自然を尊ぶ考え方--が、同じ宗教の中に共存している場合があることだ。これの典型的な例の1つが、生長の家でもよく指摘される聖書の『創世記』の天地創造の物語の矛盾である。つまり、『創世記』の第1章と第2章には、少し異なった世界観を示す2つの創造物語があるということだ。このことを谷口雅春先生は、『生命の實相』頭注版第11巻(万教帰一篇上)で、例えば次のように指摘されている:
 
<すでに述べましたように、『創世記』の第1章における天地と衆群(すべてのもの)との創造は、神の第1念をば実質とし、神の言霊(ことば)を創造力として造られたのでありますが、その真創造は既に終わったのでありまして、今(第2章)は第2念の偽創造でありますから、土すなわち物質によってすべての生き物が造られたことになっており、神がすべての者にその名を与えたまうたものでなく、人間がすべてのものにその名を与えて、その名を与えたとおりにすべてのものが成っているのであります。> pp.65-66
 
 雅春先生はここで、『創世記』第1章では、例えば「神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた」(5節)とか「神はそのおおぞらを天と名づけられた」(8節)というように、神の被造物は神自身によって名前がつけられたとされているのに対し、第2章では、「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」とし、「人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけた」(19~20節)などと書いてあることを指摘されているのだ。つまり、第1章では「天地万物の命名者は神だ」と解釈できるのに対し、第2章では「それは人間だ」と言っているように見えるのである。

 このほかにも、両章の間には矛盾した記述がいくつもある。だから、聖書学者の間では、『創世記』の成立には少なくとも4人の"作者"が関与しているという説が唱えられている。そして、それぞれの作者を「J」(Jahwist)」、「E」(Elohist)、「P」(priestly writer)、「R」(redactor、編集者)というように、アルファベットの頭文字を使って表す習わしができているほどだ。さらに言えば、これらの聖書学者の見解によると、天地創造の物語は、「P」と「J」がそれぞれ第1章、第2章の成立に深く関与したという。このことを、イギリスの宗教学者、カレン・アームストロング氏(Karen Armstrong)は『神の歴史』の中で次のように書いている:

<イスラエルにおいては、前6世紀に至るまで、本当は天地創造への関心は存在しなかった。この時に初めて、「P」と呼ばれる著者が、現在の『創世記』の第1章にある荘重な創造物語を書いたのである。Jでは、ヤハウェが天地の唯一の創造者であるか否か、絶対的には明確ではない。しかしながら、Jにおいて最も明瞭なことは、人間と神の間に一定の区別があるという考えである。自分の神と同じ素材から成ると考えるのではなく、人間(アダム)は、その語呂合わせが示すように、土の塵(アダマ)に属するものなのである。>(p.30)
 
 つまり、アームストロング氏は、『創世記』第1章では「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(27節)として、神と人間との本質的“同一性”が示されているのに対して、第2章では本質的な“異質性”が描かれている、と指摘しているのである。このことを元にして「自然と人間」の関係を考えれば、第1章では、自然も人間も神の言葉(=霊)によって創造され、「はなはだ良かった」のに対し、第2章の天地創造では、自然界の生物は土の塵(=物質)によって創造され、善も悪もある(=善悪を知る木)ということになる。第1章では、自然は人間の“対立物”ではないが、第2章では“対立物”となる可能性をもっているのである。
 
 谷口 雅宣

 

| | コメント (0)

2009年9月 8日

新産業の育成に歩み出そう

 まもなく首相となる鳩山由紀夫氏が打ち出した「温暖化ガス25%減」という中期目標に対して、予想通り自民党と経済界が「反対!」の合唱を始めたが、これは驚くほどのことではない。産業革命以来の“地下資源文明”から転換して、再生可能の“地上資源文明”に移行するという人類史の長く大きな流れの中では、多少の混乱があるのはいたしかたないだろう。この流れを嫌う自民党と日本経団連が提出してきた温暖化抑制のための“代替コース”は、原子力発電の振興であるが、今回の総選挙で、このコースは国民によって否定されたと私は解釈している。それでもまだ、このコースを追求する合理的理由はもはや存在しない。別の言い方をすれば、原発の増設は、自民党政権下でさえきわめて困難だったのだから、民主党政権下でそれを進めるという選択肢は存在しないということだ。だからこれからは、日本の産業界は再生可能エネルギーの利用技術の開発と、その利用に焦点をさだめて、結束して進んでほしいと思う。

 古い産業から新しい産業への移行時には、「できない」と見えることの方が「できる」と見えることより多いのは当り前だ。だから、この移行期には、「何ができないか」を取り上げて文句を言うのではなく、当初は見つけにくいかもしれないが、「何ができるか」を探して、それを拡大していくのが責任ある正しい態度である。新産業の育成は、子供の教育とこの点で同じである。子供に向かって「お前はこれができない。あれもできない」と文句ばかり言う親は、その子の将来を摘み取ってしまう。少し難しいと思うことでも、「あれができるのだから、これもできるぞ」と言って励ますことで、その子は現状から先に進み、ついに親を超えることもできるのである。我々一般人の地球環境問題への取り組みにも、同様のことが言える。これは、政治の問題というよりも、心理学が取り扱う分野である。
 
 つまり、環境問題への取り組みにも“よい方法”と“悪い方法”があるのだ。イギリスの科学誌『New Scientist』が8月22日号でそのことを伝えている。それによると、「ああしなさい、こうしなさい」という説教方式の取り組みは効果が少ないのに対し、アル・ゴア氏が訴えたような「気候変動の危機も我々の力で解決できる」式の積極的な"can do"の訴えの方が効果的だそうだ。また、人間の本性は、一般に考えられているように強欲でも近視眼的でもなく、やり方さえ工夫すれば、他人や自然界のために行動するのに驚くほど積極的になれるという。

 この“よい方法”を見つけるために、「自然保護心理学」という新しい学問ができている。英語では「conservation psychology」といって、自然と人間との相互供与関係を、自然保護の観点から研究する学問である。社会心理学や生態学、動物行動学、哲学等の知見を総合して、人間と自然環境との調和した関係の実現を追求する分野である。この学問では、自然界に対する人間の保護的態度や情愛ある関係がどのようにして形成されるのか、環境をどう見るか、環境との触れ合いと子供の成長・発達、自然保護の倫理、自然保護の文化、自然の価値と意味、自然保護の行動などについて研究する。今夏、ブラジルのサンパウロ市で開催された「世界平和のための生長の家教修会」では、世界の伝統的宗教と南北アメリカの先住民の信仰の中で、自然がどう扱われているかという「自然観」の研究発表が行われた。こういう分野も、自然保護心理学が扱う領域と重なっている。宗教と科学とが協力できる分野の1つとして興味深い。
 
 「人間は本来、自然を愛する生きものである」というのが、当り前のようであるが、この学問が見つけ出した知見の1つだ。上掲誌の特集記事で、オランダの社会心理学者、マーク・ヴァン・ヴガト氏(Mark van Vugt)は、そのことを次のように記している--「我々は、人工的な環境よりも自然環境の方を好み、人工的な環境の中では、そこに何かの自然物--樹木や水など--があるのを好む。人間はまた、文化の区別なく、アフリカのサバンナのような広大な風景を好む。ヨーロッパでもアメリカでも、毎年動物園を訪れる人の数は、すべてのプロスポーツ競技に集まる人の数より多い。自然は人間の健康にも影響を与える。病室の窓から自然の風景が見える患者の方が、レンガの壁しか見えない患者よりも早く快復する」。
 
 これらは、人間が明らかに自然の一部であることを示している。だから、この分野の今後の取り組みにおいては、地球環境の「問題」を取り上げる段階から一歩進んで、そういう自然と人間との本来ある親しい関係を取りもどすために、産業を「育てる」という積極的な観点が重要と思う。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2009年9月 7日

「温暖化ガス25%減」を貫こう

 民主党の鳩山由紀夫代表が、日本の温室効果ガス排出を「1990年比で25%減」らすとの2020年までの中期目標を宣言した。この数字は、民主党の選挙公約にあったものと変わらないが、これを掲げる前提として「すべての主要国の参加による意欲的な目標の合意」を条件とした点で、より現実的となっている。分かりやすく言い直せば、「今後の交渉で、アメリカを初め、中国やインドなどの温暖化ガス主要排出国が、自ら意欲的な削減目標を設定した場合、日本もこのような規模で温暖化抑制に貢献する」という態度を明確にしたのだ。総選挙後、次期首相となる鳩山氏がこう宣言したことで、麻生首相が6月に表明した「2005年比15%減」(1990年比8%減)の政府目標は事実上、変更されたことになる。都内で行われた「朝日地球環境フォーラム2009」(朝日新聞社主催)での講演で発表したもの。

 私は、同代表が選挙公約通りに、野心的な温室効果ガス削減目標を明確化したことを大いに歓迎する。また、「政治の意思として、あらゆる政策を総動員して実現をめざす」との決意表明も清々しい。ただし、これはまだ“大きなアドバルーン”の段階であるから、それを現実の政策に反映させることは簡単でなく、経済界からの反対があり、時間もかかるに違いない。が、日本の首相(候補)としては近年に珍しい明確な態度表明であり、方向性も間違っていないから、国民として今後、このアドバルーンが落ちてしまわないように、温暖化ガス排出削減に引き続き努力していきたい。

 今回の総選挙のみならず、選挙公約というものは一般に“人気取り”を目的として実質を伴わないものが多い。だから、選挙後に政治・経済の現実に直面し、知らぬ間に“看板を下ろす”ことになったり、下ろさなくても“羊頭狗肉”の政策を実行したりするケースは少なくない。しかし、「地球温暖化抑制」の目標は、国民のためにも、国のためにも、国際平和のためにも、そして地球生命全体のためにも必要不可欠のものである。これが「家計」や「年間所得」や「景気」や「業界」のために、一時的にはマイナスの効果をもたらすことがあっても、国政の中心にある人は看板を掲げ続け、その示す方向に制度を改革し、人材や資源の再分配を行い、国民精神を鼓舞しながら進み続ける必要がある。鳩山氏がそのことを指して「あらゆる政策を総動員」すると言ったのならば、拍手を送りたいのである。また、この大きな目的達成のためには、人気取り政策の一部を(例えば、高速道路無料化政策を)下ろす勇気も必要である。

 『朝日新聞』は9月6日の第1面で、民主党の高速道路無料化の公約の元となったと思われる経済効果の試算が、国土交通省で2年前に行われていたことを報じている。その試算によると、経済効果は高速道路の渋滞増加などで年間「-2.1兆円」になるものの、一般道の渋滞緩和で「+4.8兆円」が見込まれ、差し引きで「2.7兆円」の経済効果が新たに生まれるという。しかし、CO2の排出量がどう変化するかは部分的試算しかしておらず、一般道の渋滞緩和により「1.8%(310万トン)減」という数字があるだけだ。しかし、政府が実際に行った休日の高速料金の「上限千円化」の経験から分かるように、高速道路上の渋滞によってもCO2の排出量が増えることは明白である。こういう細かい点も加えた本格的な試算を行うことにより、高速無料化によってCO2排出量の増加が予想されるならば(私はきっと増加すると思うが)、この時代遅れの人気取り政策をとり下げてほしいのである。国民もきっと納得してくれるに違いない。
 
 谷口 雅宣
 

| | コメント (4)

2009年9月 4日

アメリカは意外と冷静

 前回も触れたように、次期首相の鳩山由紀夫氏の署名入り“寄稿文”が注目されているが、これに対する冷静な見方もアメリカにはある。4日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(IHT)は、鳩山-オバマ電話会談を取り上げ、鳩山氏が「我々は日米同盟が日本の外交政策の基盤(foundation)であることを再確認した」と述べたと伝えた。この記事には、縦15cm、横22.5cmの大きな写真がついていて、そこでは鳩山氏がアメリカのジョン・ルース駐日大使と立った姿勢で語り合っている。2人の間にはアメフト選手が被るヘルメットがあって、その説明には「2人が持つのは両者がともに学んだスタンフォード大学のフットボール用のもの」とある。この会談は鳩山-オバマ電話会談の数時間後に行われたらしく、ここでも鳩山氏は「日米同盟は日本の外交政策の基本(basis)」だと伝えたという。

 また、アメリカの時事週刊誌『Newsweek』は、ウェブサイト限定の記事を2日付で掲載し、それに「恐怖は無用。日米摩擦の可能性は興奮しすぎ」という題をつけて問題の沈静化を図っている。この記事では、「鳩山氏は過激派などでは全くない」とし、騒動のもととなった論文は「もっと長い日本語の論文から大意を無視して引用したもの」だと述べ、論文の目的は「グローバリゼーションの闇部に目を向けさせるためで、その全体を否定することではない」ときちんと解説している。そして、日本語の原文には「今日我々は経済のグローバル化を避けることはできない」と書いてある、と付け加えている。
 
 さらにこの記事は、鳩山氏は決して「反米」ではないとし、同氏が若い頃、学者を目指しながら政治に魅力を感じたのは、スタンフォード大学の学生だった1976年の独立記念日(つまり、独立200年祭)に、アメリカの愛国心の高揚に触れてからだと説明している。また、鳩山氏は1998年に、ある会合で自分は「アメリカの大ファンだ」と言ったとも書いている。そして最近でも、同氏はオバマ氏に早期から注目し、自分の今回の選挙でもオバマ流の「チェンジ!」を強調し、選挙で大勝直後には、オバマ大統領に従って地球規模の「対話と協力」を進めたいと述べた、などと随分詳しく解説している。
 
 また、鳩山氏が「反米」ではなくても、「より対等な」対米関係を目指している点についても、同誌は表現が抽象的で不明確であることから誤解が生じているとする。私もこの件は、『Voice』9月号の鳩山論文をきちんと読めば、同氏のスタンスは明確だと思う。そこには、こう書いてある--
 
「もちろん、日米安保体制は、今後も日本外交の基軸でありつづけるし、それは紛れもなく重要な日本外交の柱である。同時にわれわれは、アジアに位置する国家としてのアイデンティティを忘れてはならないだろう。経済成長の活力に溢れ、ますます緊密に結びつきつつある東アジア地域を、わが国が生きていく基本的な生活空間と捉えて、この地域に安定した経済協力と安全保障の枠組みを創る努力を続けなくてはならない」(p.139)

 『Newsweek』の記事では、これに関して民主党政権の外相候補とされている岡田克也氏の言葉を引用し、この「対等」の意味を次のように解説する--

「通商・経済面での交渉では、日米間では長らく対等の関係が続いていて、双方が率直な意見表明を行ってきた。しかし、安全保障の面では、そうでない」。だから、民主党は日米同盟を重視する点は変わらないが、それと同時に、日本がアメリカの“膝の上の犬”(lapdog)であり続けることを欲しないのだ。

 この“膝の上の犬”が何を意味するかというと、それはイラク戦争の盲目的追認であり、米海兵隊8千人のグァムへの移転に、日本の納税者が60億ドル(5,700億円)を支払う合意などを指す、としている。そして、選挙公約は結局、国内向けだから、北朝鮮の核外交や中国の軍備増強などの厳しい国際関係の現実に直面すれば、民主党政権も“理想”を“現実”に合わせる方針転換を余儀なくされるだろう、と記事を締めくくっている。私も、そうなると思うのだ。
 
 谷口 雅宣

 

| | コメント (0)

2009年9月 3日

鳩山論文の不思議 (2)

 本欄の読者からの貴重な情報で、表題の問題の“不思議”がかなり解消した。鳩山由紀夫氏はご自分のウェブサイトをもっていて、そこに、『Voice』誌に載った日本語論文と、その英訳文(韓国語訳もある)が掲載されているからだ。この後者の英文と、問題になった『ニューヨークタイムズ』紙への“寄稿文”(ご本人は寄稿を否定)は、長さも内容も違う。私が推測するところ、恐らく作者も違うだろう。鳩山氏のサイトにある英文は、日本語原文を省略せずに英語に翻訳してあるが、問題の“寄稿文”は短縮したものの翻訳である。だから、この英文“寄稿文”に対して鳩山氏が「寄稿した事実はない。中身が一部ゆがめられている」と言ったのであろう。さらに注目されるのは、鳩山氏のサイト上の論文には和文にも英訳文にも「8月10日」という日付が入っている点だ。この日付はサイトへの「発表日」だと考えられるから、問題の“寄稿文”が『ニューヨークタイムズ』(電子版)に載る(日付は8月27日、IHTも同じ)までには2週間以上のへだたりがある。この間、鳩山氏のサイトの英文を切り貼りして短縮したダイジェスト版をつくることは、英語を解する人なら誰でもできる。
 
 今日(3日)の『朝日新聞』は、鳩山氏のこの英文が“寄稿”として掲載されるまでの事情を伝えていて、それを読むと今回の“不思議”の原因が、さらに理解される。その記事から抜粋しよう--
 
 鳩山氏の論文はもともと月刊誌「Voice」9月号へ寄稿、「私の政治哲学」の題で掲載された。
 鳩山事務所によると、それを英訳して鳩山氏個人のホームページに載せていたところ、米ロサンゼルス・タイムズ紙から問い合わせを受け、要約掲載を了承したという。ニューヨークタイムズ紙電子版は、ロサンゼルス・タイムズ紙の親会社系列のトリビューン・メディアサービスから配信を受けたが、鳩山氏を「寄稿者」として掲載した。
 鳩山氏は掲載から4日後の8月31日、記者団に対し「(日本の)雑誌に載ったものをその新聞社が抜粋して載せた。一部だけとらえて書かれている」と強調。内容についても「グローバリゼーションの負の部分だけを言うつもりはなかった。決して反米的な考え方を示したものではない」と、真意が伝えられていないと説明する。
 
 つまり、アメリカのメディアのスタッフが鳩山氏の英訳論文を編集して作った“ダイジェスト版”が、鳩山氏側の内容チェックを受けずに発表されたため、鳩山氏からは「中身の一部がゆがめられている」と判断されるような“寄稿文”となったということだ。まあ、こういう行き違いは、あの忙しい選挙の最中には充分ありえるだろう、と私は思う。となると、この事情は米国務省や、ホワイトハウスのアジア担当者にも伝わっているだろうから、オバマ氏には、問題の“寄稿文”ではなく、鳩山氏のサイトに載っている正式の英訳文が渡っているはずだ。が、この論文にもオバマ政権上層部の気になるような表現は、いくつも出てくる。だから、私は9月1日の本欄で、もし誤解があるようならば、「傷口をひろげぬよう、手を打つべきである」と書いたのだった。
 
 ところが、この“関係修復”の努力は、鳩山氏の側から行われたのではなく、意外にもオバマ大統領側から行われたようである。今日の新聞各紙は、3日の未明に、鳩山氏と大統領との電話会談が行われたことを報じている。その会談は、アメリカ側から申し入れられた、と『朝日』は書く。それによると、会談の長さは12分間で、先の総選挙で鳩山氏率いる民主党の勝利を大統領が「おめでとう」と祝ったのに対し、鳩山氏は「勝利は大統領の(当選)のお陰だ。チェンジには勇気がいるが、日本国民に(政権交代の)勇気を与えたのは米国民であり大統領だ」と答えたそうだ。また、鳩山氏は「日米同盟が基軸だ。建設的な未来志向の日米関係を発展させよう」と呼びかけ、「大統領は気候変動、核廃絶・不拡散にリーダーシップを発揮されている。私たちも同じ気持ちの政党だ」などと表明。そして、大統領に「できるだけ早くお目にかかりたい」と早期の日米首脳会談を希望したという。私はこのことを知って、今回の鳩山論文の問題は、前に触れた“宮沢発言”のときより相当早く、日米双方から修復への動きが出ていると感じる。このことは、鳩山氏がまだ正式には日本の首相ではなく、外務省を使えない立場にあることを考えれば、「なかなか悪くない」と思うのである。

 が、こうなってくると、1日の本欄で触れた『産経』の岡本行夫氏の記事が浮き上がってくる。外交評論家として活躍する岡本氏は、次期首相の鳩山氏が自分のウェブサイトに『Voice』誌9月号の論文を日英両語で掲載していることを、知らなかったのだろうか? 私は知らなかった。だから、岡本氏も知らなかったという可能性はある。が、私は外交の専門家ではないが、岡本氏は専門家で、特に外務省の元北米一課長として日米関係のことは知悉している。総選挙で民主党が大勝すれば、“鳩山首相”が日米関係の一翼を担うことになるから、鳩山氏の言動を選挙前から注目していて当然である。だから、『Voice』誌の鳩山論文も読み、そのちゃんとした英訳文もあることを知っていても当然である。にもかかわらず、『産経』に載った岡本氏の論文には、「ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)が掲載した鳩山さんの論文」のことしか書いてないのである。この“鳩山論文”がオリジナルの日本語論文の抄訳であることも書いてないし、日本語の原文があることも書いてない。そして、英語による抄訳文をわざわざ日本語に翻訳して、それに対して批判しているのである。これはフェアーでない、と私は思う。日本の政治家が日本語で書いた論文を日本人の評論家が批判するなら、英語に訳されたものを元にして批判するのではなく、日本語の原文を引用して批判すべきである。
 
 『産経』も『産経』である。1日付の紙面で、上記の岡本氏の論文を掲載した第2面のすぐ下に、「鳩山論文の要旨」という題の記事を掲げ、「ニューヨーク・タイムズ(電子版)に掲載された鳩山論文の要旨は次の通り」と書いている。つまり、鳩山氏が預かり知らない英語による抄訳の要約を、さも鳩山氏自身の論旨であるかのように書いている。私は、岡本氏が個人として鳩山氏のウェブサイトの中身を知らなかったということはあると思うが、政治部記者を大勢抱えた『産経新聞』が組織として、次期首相と目されている民主党の党首がウェブサイトをもっていることを知らなかったという可能性はないと考える。また、そこに、問題とする論文の忠実な英訳があることを知らなかったとも考えにくい。では、正式な英訳文もあり、日本語原文もある次期首相の重要な論文の別の抄訳を、自紙で論評しようという外交評論家に対して、「実は、もっと正式な翻訳文があって、そこにはこう書かれています」とアドバイスをしなかったのだろうか? もししなかったのなら、その理由は何か? 今回の鳩山論文に感じる私の“不思議”は、こうして別の方向に向かっていくのである。

 谷口 雅宣

| | コメント (4)

2009年9月 2日

ブラジルを巡講して

 本欄ではすでに何回か報告したことだが、私がこの8月にブラジルを巡講した際の様子を、短いビデオにまとめた。2分ほどの短編で、サンパウロでの国際教修会(8月1~2日)、ベレンでの一般講演会(8月4日)、サンパウロでの生長の家全国大会(8月8日)の様子に加え、いくつかの未公開の映像も組み入れてある。興味のある方は、ご覧あれ。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2009年9月 1日

鳩山論文の不思議

 民主党の鳩山由紀夫代表がアメリカの『ニューヨークタイムズ』紙に“寄稿”したという論文が、物議を醸している。私はこの論文を、同紙の世界版である『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙(IHT)の8月27日付の紙面で読んだが、「投票日前のこの時期によくぞ出した」と感じた。次の政権を担う責任者としての自覚があると感じたのだが、内容は結構シビアなので驚いた。新聞の発行地であるアメリカ向けのメッセージではないからである。ハッキリ言って“内向き”である。ところが、9月1日の『産経新聞』によると、鳩山氏は「寄稿した事実はない。中身が一部ゆがめられている。論文の全体をみれば反米的な考えを示したものではないと分かる」と記者団に語ったそうだ。しかし、寄稿しないものが掲載されるというのは、明らかな著作権法違反であり、そんなことがアメリカの一流新聞で行われるとは考えにくい。奇妙な話だ。
 
 この論文は「A new path for Japan」(日本の新たな道)と題され、前回の本欄で触れた『Voice』誌(PHP研究所発行)の本年9月号の同氏の論文「私の政治哲学--祖父・一郎に学んだ“友愛”という戦いの旗印」のダイジェスト版として掲載された。元の日本語の論文は10ページにわたるものだが、英文のダイジェスト版はその三分の一ぐらいの長さだ。だから当然、原文の省略が行われており、しかも英語への翻訳だから、単純な「転載」などではない。
 
『産経』の記事は、このいきさつについて、「PHP研究所とIHTの間ではやり取りがあったようだが、IHTとニューヨーク・タイムズでどうなっているのかは知らない。IHTなどが論文を転載する際、事務所に事前許可を求めることはなかった」という鳩山氏の秘書の話を掲載している。しかし、上に書いたように、これは転載ではなく、「編集」と「英語への翻訳」という2つの段階を経た別の著作物である。その内容は当然、原著作者の鳩山氏が目を通すべきであると私は思うが、『産経』の説明では、鳩山氏は知らなかったらしい。となると、当初の私の印象は間違っていたことになる。つまり、鳩山氏は、投票日前に自らの外交姿勢を同盟国であるアメリカの知識層に伝えようと考えてこれを書いたのではなく、何かの手違いで、「内向きの話が、一部を翻訳されて外へ出た」ということか。

 こういう話を聞くと、私は宮沢喜一氏がかつて首相だった時、マネーゲームで利益を上げるアメリカの一部の人々を槍玉に上げて「アメリカの労働倫理は歪んでいる」などと発言したことをメディアがとらえ、外交問題にまで発展したことを思い出す。確かこれも、内向きの会合での発言だったと思う。とにかく、日本語は修飾語を省略して書かれたり発言されることが多いから、それを英語に直訳すると、とんでもない誤解を招くことがある。そのことを鳩山氏のような経歴をもつ人の周辺が知らなかったとは思えないが、なぜかノーチェックで英語の編集翻訳が出てしまったようだ。あるいは、チェックを担当する人が“外交音痴”だったのかもしれない。新政府の出だしでの失敗は、残念なことである。しかし、出てしまったものは仕方がないから、それが本意でないならば、本人が早期にハッキリと否定し、再び外交問題にならないように対処すべきである。宮沢発言の場合も、その対応が遅れたことで尾を引く結果となったからだ。

 ところで、上記の『産経』では、外交評論家の岡本行夫氏が問題の英文ダイジェスト版を取り上げ、一部を日本語に翻訳している。岡本氏が問題視している所は、次のように訳されている--

①「日本は冷戦後、グローバリゼーションと呼ばれるアメリカ主導の市場原理主義に翻弄され続け……人間の尊厳は失われた」
②「グローバル経済は日本の伝統的経済活動を損傷し、地域社会を破壊した」

 ところが、この2つの文章に該当するような箇所は、『Voice』誌の日本語の原文にはない。あえて近い意味の所を引用すれば--
 
①「冷戦後の今日までの日本社会の変貌を顧みると、グローバルエコノミーが国民経済を破壊し、市場至上主義が社会を破壊してきた過程といっても過言でないだろう」
②「各国の経済秩序(国民経済)は年月をかけて出来上がってきたもので、その国の伝統、慣習、国民生活の実態を反映したものだ。したがって世界各国の国民経済は、歴史、伝統、慣習、経済規模や発展段階など、あまりにも多様なものなのである。グローバリズムは、そうした経済外的諸価値や環境問題や資源制約などをいっさい無視して進行した。小国のなかには、国民経済が大きな打撃を被り、伝統的な産業が壊滅した国さえあった」。

 これらを比較すると、私は原論文の編集の過程で誇張が行われ、それが英文に翻訳されることで際立っていった可能性を指摘したい。が、最大の問題は、やはり鳩山氏本人が問題の英文抄訳を「知らない」という点だろう。もしこれが本当であれば、鳩山氏は早急に外交ブレーンの人選を考え直すべきかもしれない。急がなければ、影響はひろがっていく。今日の『日経』の夕刊によると、ベネズエラのチャベス大統領は、「鳩山氏は米国主導の市場原理主義から距離を置き、人間の尊厳回復を政策に掲げている」として、日本の対米政策の変化を注視する構えを示したという。同大統領は「反米」で有名であり、その人から認められるということは、アメリカからは疑われることを意味する。その証拠に、31日のホワイトハウスの記者会見では、アメリカ人記者がギブス報道官に対して、鳩山政権が「中国やロシアと、より近い関係を望んでいるのではないか?」と質問している。(『朝日』夕刊)

 傷口が広がらぬよう、早く手を打ってほしいものだ。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »