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2009年9月15日

自然と人間 (5)

 前回、この題で本欄を書いたとき(9月9日)、私は次の点を強調したのだった--人間の自然観は相矛盾していて、自然を克服すべき“対立物”と考える一方、人間を自然の一部として捉え、自然を尊ぶ考え方もあり、これら双方が同じ宗教の中に共存している場合がある。この「共存している」例として挙げたのが、聖書の『創世記』第1章と第2章に記述された2つの天地創造の物語だった。ただし、この「同じ宗教」が具体的には何であるかについては触れなかった。読者の中には、それはキリスト教であろうと考えた人が多いに違いない。しかし、『創世記』はキリスト教徒だけの教典ではなく、ユダヤ教徒もイスラーム教徒も、そこにある記述を大変重視している。ということは、いわゆる「一神教」の教えの元となる教典には、相矛盾した自然観が含まれているということである。私は、そのことが今日の人類が直面している地球環境問題の解決について、何らかの示唆を与えていると思うのである。

 私は今夏、ブラジルのサンパウロ市で行われた「世界平和のための生長の家教修会」で、アメリカの社会学者、リン・ホワイト(Lynn Townsend White, Jr., 1907-1987)が『創世記』第1章26~28節の記述を引用して、今日の自然破壊と環境問題の元凶はユダヤ=キリスト教の神学であると非難したことに触れ、その反証を試みた。なぜなら、神道や仏教の思想に親しんできたこの日本社会でも、人間による自然破壊や深刻な環境問題が起こったからである。いや、まだ着々と起こりつつあると言っていいだろう。それは例えば、永い自民党政治の中で制度下された「道路特定財源」の地方へのバラ撒きと、それを消化するための不必要な道路建設である。これが、ユダヤ=キリスト教の神学と関係しているとはとても思えない。それよりも、私企業や個人が、自然や環境、日本国民将来や生物多様性よりも、自分たちの生活や短期的な経済的利益を優先しているという、宗教とは関係のない「欲望」や「無責任」が原因だろう。
 
 が、そういう人々も、休日などには家族や友人と連れ立って、自然豊かな日本の山や河川でレジャーを楽しんでいるに違いないのだ。それはつまり、同じ1人の人間が、自然を人間の“対立物”と考える一方で、自然を愛し、自然の恵みを享受しているということだ。ただし、この場合の「自然を愛する」とは、「自然から搾取する」という意味に近い。自分にとって見て美しく、聞いて快く、食べて美味しく、肌に触れて快いものを自分の近くに引き寄せて愛し、あるいは消費するのであって、自然の中の醜いもの、耳障りなもの、まずいもの、不快なものは排除し、破壊していいと考える傾向がある。これは「神学」のような高級な精神的営みの結果、起こるのではなく、何か別の、もっと“動物的”で“感覚的”な衝動の発露ではないだろうか。
 
 このような「自然から搾取する」生き方は、自然を“対立物”として見なくとも、“対象”として、人間から突き放して“別物”として見ている。言い換えれば、人間と自然とを等しいものとしてではなく「非対称」(等しくない)ものとして考える。これに対して、人間を自然の一部として見る考えは、双方を対称的(等しく)に捉えるのである。宗教学者の中沢新一氏は、地球上の生態系のバランスはこのような対称的自然観が生んだ倫理によって保たれてきたとし、「今日、人類が知性を結集してつくりださなければならないのは、このような倫理なのではないか」と呼びかけている。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○中沢新一著『対称性人類学』(講談社、2004年)

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コメント

 自然を守る行為の中には、人間にとってキツイことであったり面倒なことであったりすることがある場合があると思います。キツイことや面倒なことであっても自然を守るために実行しようと思うための方策の一つは、自分さえよければという利己主義を放棄することにあると思います。

投稿: 志村 宗春 | 2009年9月16日 22:00

>いわゆる「一神教」の教えの元となる教典には、相矛盾した自然観が含まれているということである。私は、そのことが今日の人類が直面している地球環境問題の解決について、何らかの示唆を与えていると思うのである。

 ”聖書の『創世記』第1章と第2章”に記述されてある矛盾の原因は、第1章は実相世界を、第2章は現象世界を語っていると理解しておりますが、人間はその現象世界が本物であると思うから、自然を“対象”・自分とは“別物”として見ているのであると思います。
 そして、中沢新一氏の文献は拝見しておりませんが、氏が指摘される”対称的自然観の倫理”は、再び人間の自然観を実相世界に取り戻すことである、と勝手ながら私は解釈します。
 従いまして、今日、人類が知性を結集してつくりださなければならない倫理の根本は、唯神実相の生長の家の御教えにあり、今日の人類が直面している地球環境問題の解決のため、この御教えをより多くの人々に伝えることが現代のわれわれの使命であると思います。

投稿: erica | 2009年9月17日 21:21

ericaさん、

 中沢新一氏は著書の中で「実相」という概念を使っていませんから、多分、それを聞いたことがあっても、信じてはいないと思います。「実相」の概念はプラトンの「理念」の考えと似たところがありますから、世界的にもそれなりに受け入れられる余地はあると思います。

投稿: 谷口 | 2009年9月23日 22:04

合掌 ありがとうございます。

中沢氏の論理解釈に生長の家独自用語の「実相」を
使ってしまい誤解を招く発言をいたしました。お詫び申し上げます。
おっしゃる通りです。
再拝

投稿: erica | 2009年9月24日 00:22

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