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2009年9月 9日

自然と人間 (4)

 本欄をこの題で書くのは久し振りだ。1~3回を書いたのは昨年の2月で、ちょうど生長の家の国際本部を“森の中”へ移転するための候補地の調査との関係で、自然と人間との複雑な関係を考える立場に置かれたからだった。つまり、人間は、自分たちの集団である「社会」での活動を効率的に行うために、自然を壊したり改変して「都市」を造ってきた。このため、社会に対して影響力のある活動を効率的に行うには「都市に住む」ことが必要になっている。この場合、「都市に住む」とは「自然から離れる」のと同義だ。つまり、都市は自然の要素をできるだけ排除して造られた場所である。そういう現状の中で、自然と共存する業務を実現しようとすると、当然、①都市から離れ、したがって②効率が悪く、③社会へのインパクトも弱い、という方向に進むことになる。この方向へ極端に進めば、生長の家は宗教運動としてはあまり意味のないものとなる。もちろん、そんなことは許されない。だから、都市(人間社会)と森(自然)との間の“適当な中間点”を見つけて、そこへ移ることを考えねばならない。
 
 この考え方には、しかし問題が1つある。それは、人間(社会)と自然とを互いに相容れない“対立物”としてとらえているからだ。自然と人間とは、表面的には確かにそのような“対立物”として見えることはある。が、遺伝学や生物学、栄養学の視点から見れば、人間が自然の一部であることはあまりにも明白だ。人間は自然なくしては生きられない。このことは、科学が成立するはるか以前から明々白々の事実だったから、宗教の中には自然を尊び、自然をむやみに破壊しないための教えがいくつも含まれている。今夏、ブラジルのサンパウロ市で行われた「世界平和のための生長の家教修会」では、このことを確認するために開催されたといっていいだろう。もっと正式に(堅苦しく)言えば、今回の教修会のテーマは、世界の宗教のもつ「自然観」の研究である。そこでは、すべての宗教を取り上げることはできなかったが、南北アメリカの先住民の宗教に始まり、ユダヤ=キリスト教、ヒンズー教、仏教、イスラームについて、これらの教えの中で自然がどうとらえられているかが発表された。
 
 この中で、興味あることが1つ分かった。それは、上に書いた人間の自然に対する相矛盾したとらえ方--つまり、自然を克服すべき“対立物”と考える見方と、自然を尊ぶ考え方--が、同じ宗教の中に共存している場合があることだ。これの典型的な例の1つが、生長の家でもよく指摘される聖書の『創世記』の天地創造の物語の矛盾である。つまり、『創世記』の第1章と第2章には、少し異なった世界観を示す2つの創造物語があるということだ。このことを谷口雅春先生は、『生命の實相』頭注版第11巻(万教帰一篇上)で、例えば次のように指摘されている:
 
<すでに述べましたように、『創世記』の第1章における天地と衆群(すべてのもの)との創造は、神の第1念をば実質とし、神の言霊(ことば)を創造力として造られたのでありますが、その真創造は既に終わったのでありまして、今(第2章)は第2念の偽創造でありますから、土すなわち物質によってすべての生き物が造られたことになっており、神がすべての者にその名を与えたまうたものでなく、人間がすべてのものにその名を与えて、その名を与えたとおりにすべてのものが成っているのであります。> pp.65-66
 
 雅春先生はここで、『創世記』第1章では、例えば「神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた」(5節)とか「神はそのおおぞらを天と名づけられた」(8節)というように、神の被造物は神自身によって名前がつけられたとされているのに対し、第2章では、「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」とし、「人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけた」(19~20節)などと書いてあることを指摘されているのだ。つまり、第1章では「天地万物の命名者は神だ」と解釈できるのに対し、第2章では「それは人間だ」と言っているように見えるのである。

 このほかにも、両章の間には矛盾した記述がいくつもある。だから、聖書学者の間では、『創世記』の成立には少なくとも4人の"作者"が関与しているという説が唱えられている。そして、それぞれの作者を「J」(Jahwist)」、「E」(Elohist)、「P」(priestly writer)、「R」(redactor、編集者)というように、アルファベットの頭文字を使って表す習わしができているほどだ。さらに言えば、これらの聖書学者の見解によると、天地創造の物語は、「P」と「J」がそれぞれ第1章、第2章の成立に深く関与したという。このことを、イギリスの宗教学者、カレン・アームストロング氏(Karen Armstrong)は『神の歴史』の中で次のように書いている:

<イスラエルにおいては、前6世紀に至るまで、本当は天地創造への関心は存在しなかった。この時に初めて、「P」と呼ばれる著者が、現在の『創世記』の第1章にある荘重な創造物語を書いたのである。Jでは、ヤハウェが天地の唯一の創造者であるか否か、絶対的には明確ではない。しかしながら、Jにおいて最も明瞭なことは、人間と神の間に一定の区別があるという考えである。自分の神と同じ素材から成ると考えるのではなく、人間(アダム)は、その語呂合わせが示すように、土の塵(アダマ)に属するものなのである。>(p.30)
 
 つまり、アームストロング氏は、『創世記』第1章では「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(27節)として、神と人間との本質的“同一性”が示されているのに対して、第2章では本質的な“異質性”が描かれている、と指摘しているのである。このことを元にして「自然と人間」の関係を考えれば、第1章では、自然も人間も神の言葉(=霊)によって創造され、「はなはだ良かった」のに対し、第2章の天地創造では、自然界の生物は土の塵(=物質)によって創造され、善も悪もある(=善悪を知る木)ということになる。第1章では、自然は人間の“対立物”ではないが、第2章では“対立物”となる可能性をもっているのである。
 
 谷口 雅宣

 

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