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2009年8月16日

神は偉大でないか?

 ニューヨークで買った本の中に、クリストファー・ヒッチェンズ(Christopher Hitchens)という人の書いた『God is not Great:How Religion Poisons Everything』がある。まだ全部は読んでいないが、なかなか面白い。初版が2007年だから、すでに邦訳書も出ているだろう。この本の題を訳せば「神は偉大ではない」となるから、イスラームの信仰者がよく使う「神は偉大なり」という言葉に(多分意識して)反対する形になっている。副題はもっと露骨であり、「宗教はどうやってすべてに毒を入れるか」という意味だ。つまり、宗教組織のもたらす害悪を数え上げてこっぴどく批判する内容の本だ。著者は自らを「無神論者」と呼んでいるが、職業はジャーナリストらしい。私がこんな本をなぜ買ったかというと、宗教組織の内外には批判に値することが実際、たびたび起っており、そういう批判をきちんと受け止めて改善することは必要だと感じているからである。
 
 が、ジャーナリストが書いただけあって、世界の宗教の悪い面には非常に詳しいが、善い面はほとんど書いてない。また、私が今日までに読んだ範囲には、神学や哲学に触れる深い考察はまだ出てきていない。だから著者は、題から想像されるような「神」の概念や観念をしっかり検討したうえで、「神は偉大でない」との結論にいたったというよりは、組織をもつ宗教の弊害が目に余るので、批判本を書いたと言えるかもしれない。生長の家も組織運動をする宗教だから、私はヒッチェンズ氏が批判する側面が我々の周辺にないかどうか気にしながら、この本を読み始めた。すると意外にも、著者の指摘の中には、私が普段から感じていることとさほど違わないものが多いのだった。これは恐らく、著者が宗教の中では“原理主義的”とか“迷信的”といわれる考え方を批判しているためだろう。生長の家はもちろん原理主義ではない。が、そういう考え方をする人が信徒の中にいても、不思議はない。
 
 著者は、人生の初期の段階で宗教に疑問を抱いたきっかけになったエピソードを紹介していいる。それは彼が9歳ぐらいのとき、学校の聖書の時間に、女教師が「植物の葉が緑色をしている」ことについてこんな説明をしたという:
 
「ほら皆さん、神さまは実に偉大なお力をもち、慈愛に満ちていらっしゃるか分かりますね。神さまは、すべての木や草を緑色にされています。この緑色こそ、私たち人間の目がいちばんの安らぎを感じる色です。もしそうでなく、植物がみんな紫色、あるいはオレンジ色だった場合を想像してみてごらんなさい。こんなヒドイことはありません」

 私は、9歳の子供に向かって教師が聖書の時間にこういう説明をすることは、さほどヒドイとは思わないが、著者は論理的思考に優れた子だったのだろう、この教師の言葉は間違っていると直感したそうだ。彼はこの時、「人間の目は自然界に適応しているのであり、その逆ではない」と思ったという。

 彼はその後、13歳になるころまでに、これに類したいろいろの疑問を“神”に対して感じるようになったという。例えば、聖書にはイエス・キリストが数々の“奇蹟”を行ったことが記されていて、キリスト教の“三位一体”の教義によるとイエスは「神」と同義であるので、イエスの奇蹟は神の行為と見なされる。そういう理解のもとで福音書を読むと、イエスは、通りかかった盲人の目を癒したとあるが、神が盲人を癒すことが素晴らしいなら、初めから盲人など創るべきではないと感じた。また、いろいろと真面目な話をした校長が、最後に、「この(キリスト教の)信仰の意味について、君たちはまだ分からないことが多いだろうが、そのうちに、君たちの愛する人々が亡くなる時期が来れば、きっと分かるようになる」と言ったそうだ。それを聞いた彼の心には、怒りがこみ上げてきたという。なぜなら、これは宗教が言っていることは本当じゃないかもしれないが、気休めには役立つと言っているようなものだ、と感じたからだ。

 ヒッチェンズ氏が物事を考える際の基準は、次のように明確に表現されている--「我々は科学と理性だけを信頼しているのではないが、科学に矛盾し理性に反するものは何ごとも信じない」。これは、科学と理性によてすべてが説明できるという意味ではなく、すべてを今説明できなくてもいい、という意味だ。なぜなら、「我々が尊重するのは自由な探究、開かれた心、そして理解そのもののための知の探究である」からだという。私は、このような同氏の態度には、生長の家創始前に『神を審判(さば)く』を著した谷口雅春先生に共通したものがあると感じ、(すべてには賛同しないが)むしろ好感を覚えたのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

ありがとうございます。

僕は何と雅春先生の「神を審判く」読んだことあります!函館教区の白鳩会の先生にお借りしました。

雅宣先生はご存知かも知れませんが一時期出版されていたそうですね(幻の聖典として)!

もう一回読みたいです。確かユダが主人公で「この世界は無明(まよい)が創造(つく)った!」なんていってますよね!

一回しか読んでなくて全部覚えていません。ユダとマリアが恋愛しまかったでしょうか?違ったでしょうか。

神は盲人を創造(つく)るべきではないというそのジャーナリストの方のお考えは確かに雅春先生の青年期の悩みに近いですね!よっぽど頭のいいかたなのでしょう。

僕もちょっと考えてしまいました。その盲人の方は目が見えなくて苦しんでいられたのですから、キリスト様がその目を治したのはいいことではないでしょうか。でも
盲人になることがその人の救いになる時は大自然(神様)がその人を盲人にするとも「生命の実相」にあったとおもいます。

その方が盲人になったことも奇跡だし、イエス様が治されたのも神の奇跡ではないでしょうか?o(*^▽^*)o

投稿: 奥田 健介 | 2009年8月17日 00:09

 私は、以前、ある医師に『生長の家』の本を何冊かプレゼントしたことがありますがその医師は“神と名のついたものは家には置かないようにしている”と、言われて、そのプレゼントしました『生長の家』の本を全て返されました。(但し、パラパラとめくって少しは読まれたということです。)
 神様を認めないような方に如何にして神様を理解して頂き、『生長の家』をお伝えするかは、私にとって今後の課題です。
 
 

投稿: 志村 宗春 | 2009年8月17日 02:14

また先生のまとまった言葉を読むことができてうれしいです。ここ1ヶ月ブログから発信されるお言葉がなく、帰国を心待ちにしておりました。

これからもご指導よろしくお願いいたします。

ヒッチェンズ氏の話、興味深く読ませていただきました。以前生長の家のを何となくいい教えだなと思っていながらも、練成会での講話に反発を覚えていたことを思い出します。

氏もいつか本当の神に出会われることと思います。

投稿: 加藤裕之 | 2009年8月17日 09:36

ヒッチェンズ氏の物事を考える基準として「我々は科学と理性だけを信頼しているのではないが科学に矛盾し理性に反するものは何事も信じない、我々が尊重するのは自由な考察、開かれた心、その理解そのもののための知の探求である」とされています、
ここでは主語が複数になっていますから何かの団体なのでしょうか?自らを無神論者と呼んでいるとの事なのできっと有物論者なのでしょう、信じると言う事ははっきりとした証拠を見せられて納得する事ではない!又物事ではなく人である!と言う教えもあります、つまりヒッチェンズ氏は宗教ではなく哲学的思考を実践して行くと宣言されているのだと思いますがそれはそれとして宗教の名の元にマインドコントロールされた過激派の様な黒い影を除去する明るい無量の光を放つ真の宗教の存在を無視しては片手落ちになるのではないか!私はやはり神仏は偉大なり!宗教の名の元の毒(無明)を消し去る真の宗教たる解毒剤(光明)を持て!と考えます。

投稿: 尾窪勝磨 | 2009年8月17日 11:16

 生長の家組織における原理主義的考え方について考えてみますと、そういう考え方等をする人はあると思います。
 私は、教区相愛会の中である提案を行なったことが過去にありますが、そのアイディアは、検討(審議・討議)等されないまま否定され、ある人は何でそんな提案を行なうのか?と、ものすごい剣幕で怒りました。
 私の行った提案は、結構具体性のある内容のものですが、
 その人は、具体性のある提案を行なうのは、それを行なえ!と言っていることであると言われたのですが、私にはそのことが全く理解できません。また、私が昨年のある日、平成20年度の運動方針にはこういうことがうたわれてあるのでそれを実行しよう、とその人等に言いますと、そんなことは運動方針には書かれていない。そのなことを言っても誰がついてくるのか誰も実行する人はいない。ということを言われます。
 そして誌友会等に出講された時も、人の批判等を行なうことがかなりあり私はそれを聞いていて、二度と参加したくないと思うことがしばしばあります。そういう人の批判を行なっていて、運動や組織が伸びるわけがありません。人が集まって来るわけがありません。
 その人の批判を誌友会で良く行う人は、自分こそが生長の家の教えを良く分かっている真理を良く分かっていると豪語するのですが、私は、その人は、『生長の家』の教えも真理もまつたく分かっていないと思います。

 結局、神意を忠実に生きない時、原理主義に陥る可能性があると思います。
 脚下照顧して自らも気付けなければならないと思います。

 再拝
 

投稿: 志村 宗春 | 2009年8月17日 14:13

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