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2009年8月31日

民主党政権の誕生を歓迎する

 台風11号の列島接近と同期するかのように、民主党への“期待の嵐”が列島を覆った。事前予想でも“民主圧勝”と言われていたが、総選挙の蓋を開けてみたら、同党は衆院の他のほとんどの政党から議席をモギ取り、単独過半数である「241議席」を大きく上回る「308議席」を獲得して“堂々と”政界第一党の地位に躍り出た。これが永田町での隠れた政争の結果起ったのではなく、炎天下の白日、国民全体の明確な意思表明として行われたことに、私は今回の総選挙の第1の意義があると思う。日本は、議会での多数党の首班が総理大臣として国政を司る間接民主主義の国だが、今回の総選挙では、公明党の太田代表や国民新党の綿貫代表が落選するなど、それぞれの政党の党首や大臣経験者に対する国民の審判が明確であり、一種の“直接民主主義”の様相を呈する側面もあった。国民の中の“無党派層”が目覚め、動いたことで、やっと日本は民主主義の実感を味わえる国になったと言えよう。
 
 が、私は手放しで喜んでいるわけではない。今回の“民主圧勝”は、しばしば日本人の間違いの原因となってきた「ムードに流れる」性向や、「付和雷同」の傾向が背後にあることが否めないからである。それが証拠に、選挙前や選挙期間中に、真剣な政策論争はほとんど見られなかった。国民に人気のありそうな“お題目”を並べる一方で、対立政党に悪口を投げつける選挙運動は、従来とあまり変わらなかった。が、変った点は、永く続いた政官癒着や権力を握る政治家の醜態、経済政策の誤り、国民の貧富の格差の拡大、外交能力の欠如等……に対して、多くの国民が「もうガマンできない」として現政権への反対を決意したことだろう。これは言わば「ノー」の選択であるから、あるべき日本の未来像を肯定する「イエス」の選択ではない。この点が、次期政権を担う民主党が直面する大きな課題だろう。つまり、戦後の自民党政治が進めてきた政治・経済・外交の路線に対する明確な“代替案”を、ムードや理想としてではなく、具体的で実行可能な政策として提出し、党内の合意を経て、実施に移せるかどうかである。これができなければ、高まった国民の期待はすぐに逆方向に振れて、短命政権になり果てるだろう。

 いつか本欄でも書いたと思うが、私は日本に2大政党制が到来することを待ち望んでいる。そういう意味では、野に下る自民党は崩壊してしまわずに、イギリスの保守党やアメリカの共和党のように、「自由尊重」と「現実主義」の立場から政策を提言し続けてほしいし、民主党は、イギリスの労働党やアメリカの民主党のように、「平等」と「理想主義」の価値を政策に反映させてほしい。まあ、これは英米の例にあえてなぞらえて書いたのだが、日本には日本独自の価値観の組み合わせがあってもいいし、またそうあるべきだろう。とにかく、現状のように、民主党も自民党も内部に“右”から“左”までの考えが混在している状態では、「どっちが政権を取っても同じ」という印象はぬぐい切れず、これが国民の間の政治不信と政治への無関心の原因となっている。今回の大変化を好機として、両党はぜひ政策論争を深めて、政治的に健全で、国民にとって有意義な“対立軸”を固めていってほしいのである。

 だから、私が民主党政権の誕生を歓迎する第1の理由は、政権交替そのものへの支持だ。つまり、政治参加によって政権が交替しうるという事実を国民が体験したという意味で、今回の選挙結果を歓迎するのである。この事実は、2大政党制の前提である。第2の理由は、民主党の掲げる政策の方が、自民党のそれよりも環境への意識が高いからだ。ただしこの面は、実際の政策実行の段階でどのように変更されるか分からない。また、個別の政策では、高速道路の料金をすべて無料化するなど、環境行政に逆行するものも含まれているから、ポピュリズム(国民の人気取り)に流されないよう注意する必要がある。が、概して言えば、自民党は戦後の日本経済を築き上げてきた鉄鋼・重化学・エネルギーなどの“地下資源産業”との関係があまりに強いために、21世紀の人類と地球生命に必要な“地上資源産業”の育成に不熱心である。民主党は、支持基盤にそれら産業の労働組合を抱えてはいるが、新たな産業の育成と環境行政により熱心であるように思われる。そういう点も歓迎できるだろう。
 
 民主党支持の3番目の理由は、ナショナリズムに対する注意深さだ。これまでの自民党政治家の動向を見ていると、ナショナリズムを手放しで歓迎する人々が多すぎると思う。本にも書いたが、ナショナリズムには善悪両面があるのである。このことは、国際関係を学ぶ者にとっては初歩的な確認事項であるにもかかわらず、勉強不足なのか、それとも“大向こう受け”を狙っているのか、とにかく「愛国」を前面に出せば何かが解決するという風情の言論は短見である。もちろん、自民党政治家の全員がそういうタイプではない。が、そういう人々が目立つのである。これに対して、民主党にも“右派”はいるようだが、少なくとも現在の党首である鳩山由紀夫氏は、冷戦後の国際情勢の分析を通して、日本を含めた東アジアにナショナリズムが勃興する危険性をきちんと予測し、それへの対策を外交方針に組み入れる用意があるようだ。(詳しくは、『Voice』誌本年9月号参照)

 もちろん、「看板を書く」ことは比較的容易である。しかし、その看板に偽りない政策を実行することは、また別の問題である。私としては、今後の民主党政権の政治運営を注意深く見守りながら、必要と思うときには国民の1人として意見表明をしていくつもりである。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月27日

ちょっと夏休み

Villadest1  26~27日の2日間、短い夏季休暇で山梨県・大泉町の山荘へ行った。今回は、キノコ採りや庭の草刈りは省略し、長野県の東御市(とうみし)まで足を延ばした。ここは市町村合併をする前は「東部町」と呼ばれていた場所を含んでいて、そこに玉村豊男氏が経営するガーデン・ファームとワイナリー「ヴィラデスト」がある。
 
 玉村氏のことは拙著『太陽はいつも輝いている』(2008年)にも紹介したが、私に絵を描くことを教えてくれた人の一人だ。とは言っても、直接教わったわけではなく、本や作品展を通してである。東京から、北アルプスを望む標高850mの高地に移り住み、野菜を作りながら、絵を描き、本を書き、展覧会をし、ブドウを栽培し、それでワインを作り、ついにレストランまで始めてしまったというマルチ人間である。その奥さんが、実は私の小学校時代の同学年で、いつかはご挨拶に行こうと考えていたのである。昼食時に予約して行ったが、観光バスまで来ていて、店内は人でいっぱいだった。玉村氏も店におられたが、客の案内や指図に忙しく、声を掛けるのは遠慮した。が、帰りがけに奥さんと話す機会があり、35年前の小学生の顔を覚えているか心配だったが、名前を言うと思い出してくださった。ありがたかった。
 
Efuto0908261  ヴィラデストでは数多くの野菜と果物を作っているが、レストランに隣接したオリジナルグッズ販売コーナーで、色とりどりの各種トウガラシを袋に入れて売っていたのが、面白くかつ美しかったので、買って帰った。辛さの段階を記した説明書もあって、とても親切だ。山荘に帰ってから、絵封筒に描いたものをここに掲げよう。

 谷口 雅宣

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2009年8月25日

幸福の方程式 (4)

 前回の本欄で使った「分厚い米国産のビーフ・ステーキ」の喩え話は、少し難解だったかもしれない。単に食品として味わい、また栄養のことを考えれば足りるような例を使えば、説明は大幅に単純化できた。例えば、代りにこれが「鮭フレークが入った握り飯」であり、それを「友人宅に行ったとき手料理として出された」のであれば、ほとんど手放しで喜び、感謝することに問題はないだろう。食べている時にも、味のこと、食感のことに心を集中することができるから、単純においしくいただけるに違いない。では、なぜ「分厚い米国産のビーフ・ステーキ」ではそれをするのが難しいのだろう?

 答えは、簡単である。その理由は、「食べる」という行為以外のことを、いろいろ考えるからである。では、前回、思考実験で行ったような複雑でややこしいことを、我々は考えるべきではないのだろうか? 答えは「否」である。そういうことを考えながら「自他一体感」を得ること(あるいは失うこと)を問題にするのが、人間が人間としてある意味だ。そんなことを全く問題にせずに、どんな場合にも、目の前の牛肉にかぶりついて満足している姿は、あまり人間的だと思えない。そんなことは、イヌやネコがいつもやっていることだ。

 が、ここに1つ、彼ら(イヌやネコ)にも学ぶべきことがある、と私は考える。それは、前回扱ったような複雑でややこしい人間社会の種々の問題を考えてばかりいると、“せっかくのご馳走”もマズくて食べられなくなる、という事実である。このことは、食事だけでなく、我々の生活のあらゆる面で言える。最近は「マルチタスク」などというようだが、アイポッドで音楽を聴きながら通勤する人、ケータイで話しながら街を行く人、携帯ゲーム機に熱中しながら観光バスに揺られる人……これらの人々は、機械によって結ばれているバーチャルな場所に注意を引かれるから、自分が物理的に置かれているリアルな場所との関係が希薄になる。すると、前回の例と同じように、“せっかくのご馳走”が目の前にあっても気づかず、感じられない、という状況が生まれてしまうのである。
 
 本欄の読者ならば、私がここで言っていることは“初耳”でないはずだ。すでに本欄で何回も扱ったし、単行本でも説明したこと--「意味優先」対「感覚優先」、あるいは「左脳的見方」対「右脳的感じ方」のこと--を、私は別の角度から書いている。ブラジルの全国大会でも、私は「幸福とは何か」を論じる際に、右脳と左脳の役割分担の違いについて簡単に触れた。つまり、「左脳」はたいていの人では「言葉による思考」を担当し、「右脳」は感覚器官を通じて物事を感じる際によく使われる。ということは、我々人間は、論理性と感覚認識とを統合させることで、人間らしい生き方ができるように造られているということだ。それが、神が我々に与えた"地上生活の青写真"であろう。言い換えれば、我々は、この双方の脳を十分使ったときに、本当の意味での幸福や生き甲斐を感じるのである。

 この幸福論は、脳科学の言葉で表したが、これと同じことを宗教的に表現すれば、「もっと神の恵みに感謝しよう」ということだ。我々現代人の生活は、“意味過剰”で“左脳偏重”に陥っていることが多い。もちろん「左脳」も神からの恩恵だから、感謝して使わなければならない。しかし、左右の脳のどちらかに偏重した生活は、神の御心ではない。言い換えれば、何でも論理的に理解してすますのでは、人間は満足できないのだ。もっと直接的に、感覚を通して“他者”との一体感を得るところに、我々の幸福のカギが隠されていることもある。そういう意味で、“すでに与えられた神の恵み”を右脳を通して再発見し、感謝し、心に留めるだけでなく、押し広げて他者とそれを共有する「日時計主義」の生き方こそ、幸福生活への道だと言えるのである。

 谷口 雅宣

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2009年8月24日

幸福の方程式 (3)

 前回の本欄に掲げた思考実験の意味を、読者には理解してもらえただろうか? 「分厚い米国産のビーフ・ステーキ」を3つの社会的文脈の中に置いた場合の、人間の幸福とは何かを考え、感じてもらおうというのである。それを再掲すると--

 ① インド・ムンバイの外資系ホテルのレストランで、現地の人におごってもらった。
 ② 北朝鮮政府の招待により、平壌の政府施設でご馳走になった。
 ③ 日本の友人宅に行ったとき、友人の手料理として出された。

 ①の状況下で米国産ビーフ・ステーキが出てくることが実際にあるかどうかは、今は問わない。が、仮に出てきたとすれば、「インド」という国名と「外資系ホテル」というのがキーワードである。インドは、ご存じの通りヒンズー教の国であり、そこでの「牛」は神聖な動物である。それを食することは一種のタブーである。にもかかわらず、「外資系ホテル」(つまり、ヒンズー教徒でない人が多く宿泊し、その客の嗜好に合わせた食事が出る可能性がある場所)ならば、ステーキが出ることがあるかもしれない、と私は考えた。が、仮にそうであっても、ホテル従業員の多くはヒンズー教徒であることが予想される。そういう人々の前で、そういう人々の感情を無視して、我々は本当に「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」などと考えながら、幸福感を味わえるだろうか?
 
 ②の場合は、もっと複雑である。北朝鮮政府が日本人を食事に招くなどということは、通常はない。もしあるとしたら、元アメリカ大統領、ビル・クリントン氏が最近、彼の地で金将軍から大歓迎を受けたように、かなり高度な政治的な“手駒”としての利用価値がある、と判断されたからだと考えねばならない。また、現在の状況下では、日本政府は北朝鮮に核開発を断念させる目的で、六カ国協議の枠組みを外さないように注意して交渉している最中である。そんな中で、北朝鮮とは国交がなく、“仮想敵国”とさえ見られているアメリカで生産された牛肉を、北朝鮮が日本人に提供すること自体が奇妙である。これはもしかしたら、北朝鮮側の「我々は日本人の知らないところで、すでにアメリカと直接交渉をして牛肉を入手している」というメッセージかもしれない。そういうものを目の前にして、「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」などと手放しで喜び、幸福感を得る日本人がいたとしたならば、そういう人は帰国後、「オメデタイ」を通り越して「アホカ!」と言われるかもしれない。
 
 さて、最後に残った③の場合は、どうだろうか。この状況は、我々には充分ありえるものだから、読者も思考実験をしやすいに違いない。各人の自由な想像にもとづいて「自分だったらどう感じるか」を考えていただけばいいのである。で、私はどうするかと自問してみると、やはりここでも「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」という幸福感に包まれることはできない。それよりも、この友人に対して自分が「肉を食べない」ということを知らせなかったことを後悔するだろう。その上で、友人の好意を無にしないために、あえて肉を食べるかどうかを判断しなければなるまい。この場合は、私とその友人との関係がどういう性質であるかによって選択が変わるだろう。いずれにしても苦渋の決断になるような気がする。それを幸福感に昇華させることができるかどうか、今の私には何とも言えない。状況があくまでも「仮想」であるからだ。

 が、理論的に言えば、「お気持は大変ありがたい」と感謝し、しかし「肉は食べません」と言ってその理由をきちんと説明する、という選択肢はあるだろう。また、その逆に、ステーキをいただいてから、「実は、こういう理由で普通肉食はしません」と説明する選択も、あるかもしれない。それを「H=T」の幸福と呼ぶことができるかどうかは、むずかしい。多分、(思考実験の中ではなく)実際の状況においてのみ判断ができると思う。

 結局、私がここで言いたいことは、人間の心に生まれる“幸福感”なるものは、社会的文脈なしには考えられないということである。言い換えれば、人間は、自分個人が客観的にどんなに“幸福な状態”にあるように見えても、その状態が、他人や他の生物の犠牲のもとに成り立っていると感じられる場合は、幸福感は得られないのではないか。これが、人間に与えられた「自他一体感」の意味だろう。そういう感性に優れている人が追求する幸福と、そうでない人のそれとは、相当異なることが予想できるのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月23日

幸福の方程式 (2)

 私が「H=R-E」の方程式に引っかかった理由は、もう一つある。それは、6月10日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に載った別の幸福論を読んでいたからである。それについては、6月14日の本欄ですでに触れているので詳述しないが、簡単に言うと「幸福とは、我々の環境条件にあるのではなく、そこから何を得るかにある」という主旨だ。元国際ジャーナリストのピコ・ライヤー氏(Pico Lyer)が書いていたもので、「幸福は、それを追求しないときに最も自然に現れ」、「自分の望みを必要に合わせることでやってくる」(Happiness comes from matching your wants to your needs.)という内容だった。前回紹介したエリック・ワイナー氏の幸福論と似てはいるが、同一ではない。
 
 ワイナー氏の「H=R-E」という考え方は、「期待すると失望するから、期待しないでいよう」というのだから、物事に対して一種“憶病”であり、消極的だ。目の前で起こる出来事から身を離して、「できるだけ関わりにならなければ、ケガも少ない」と、電車の中の酔っ払いに対するような、「触らぬ神に祟りなし」の態度である。が、ライヤー氏の得た幸福は、物理的、環境的には“不足”の状態に置かれていても、「そこから得られるもの、否、そこからしか得られないものの中にもある」というのだから、環境に対して人間が働きかける積極性、能動性が感じられる。私は、しかしもう一歩突っ込んだ幸福論を提案したかった。

 そのためには、「幸福はどこから来るか?」という根源的問題に答えねばならない。この問いに対しては、ワイナー氏もライヤー氏も同じ答えのように思われる。それは「個人の心」から来るという答えだ。ワイナー氏は「期待しない」という個人の心が、その“反動”として「期待以上の」幸福を生み出すと考える。一方、ライヤー氏は、必要以上に「望まない」「求めない」ことで、目の前の物事の中に幸福を見出す。だから、これらは「個人の心」の中で完結した幸福論と言える。が、これでは、個人と個人をつなぐ「社会」や、社会と社会の間の「国際」問題について、何も語れないのではないか。

 例えば、我々日本人が、世界的には“豊かな生活”といえる中で、米国産のビーフステーキを目の前にして、「H=R-E」の方程式を援用すれば、こんな幸福感(私の幸福感ではないが)を得るのだろうか--
 
「ああ、今日は予想もしていなかったステーキをいただける。ああ有り難い。うれしい!」

 これに対して、ライヤー氏の幸福論では、こんな反応になるのだろうか--
 
「おっ、今日は望んでもいなかったステーキをいただける。国産牛よりは身は固いというが、その代り、悪玉コレステロールは少ないに違いない。それに、こんな値段で分厚い肉が食べられるなんて、実に有り難いことだ!」

 しかし、これら2つの幸福感には、人間として何かが欠けているように私は思う。それは“他者”との関わりである。この場合の“他者”とは、必ずしも「他の人間」だけではなく、「他の生物」とそれを含む「自然」や「環境」も含まれる。人間の中の幸福感は、それを感じる個人の内部で完結するものではなく、その人を含む“他者”との関係において得られるものであるはずだ。それを知るためには、次の思考実験をしてみるといい。つまり、自分が上の架空的人物になり代り、次のような状況下で、部厚いステーキを目の前にしていると想像してほしい--
 
 ① インド・ムンバイの外資系ホテルのレストランで、現地の人におごってもらった。
 ② 北朝鮮政府の招待により、平壌の政府施設でご馳走になった。
 ③ 日本の友人宅に行ったとき、友人の手料理として出された。

 この思考実験をすれば、①~③にある“他者との関係”に応じて、心の中に起こる反応は皆、違ってくると思うのだが……。読者はどうお考えか?
 
 谷口 雅宣

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2009年8月22日

幸福の方程式

 本欄にこんな題をつけると、今回の総選挙に急遽、大量の候補者を出して臨んでいる特定の宗教政党のことを思い出す人がいるかもしれない。が、「幸福」とは基本的に心の中の問題だから、私は政治で簡単に幸福が実現できるとは思っていない。私がこれから書こうとしているのは、8月にブラジルで開催された生長の家ブラジル全国大会での私の講話についてである。ここで私は、実は“幸福の方程式”なるものを提案した。それは、こういうものである:
 
 F = V (Felicidade igual Verdadeira Imagem)
 
 これは、ポルトガル語による表記だから、英語を使えばこうなる:

 H = R (Happiness equals Reality.)
 
 この場合の「Reality」とは「現実」ではなく、生長の家で説く「実相」のことだ。英語圏では、この言葉を「True Image」とも訳しているので、上の方程式は、
 
 H = T (Happiness equals True Image.)
 
 と書き直すこともできる。
 
 この方程式は、「実相が幸福である」とか「幸福は実相から来る」とか「幸福は実相の反映である」という意味である。だから、日本語で方程式を書くとすれば、さしずめ
 
 幸福 = 実相
 
 となる。
 
 私がなぜ、海外での講演で、こんな見慣れない方程式を持ち出したかというと、海外読者の多いニューヨークタイムズ紙の国際版『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』に、これとは違う“方程式”が提案されていたからだ。否、もっと正確に言うと、「方程式」自体ではなく、方程式に表せるような単純化された幸福の定義が掲げられていたからだ。私はそれに異議を唱えるとともに、「生長の家が幸福について何か語るとしたらどうなるか」をブラジルの信徒の方々にお伝えしておきたかった。
 
 私が異議を唱えた記事は、今年7月22日付の上掲紙にあるエリック・ワイナー氏(Eric Weiner)による「Happiness is low expectations」(幸福は期待を下げること)という論説記事である。この題を見ればわかるように、ワイナー氏のポイントは明確で、「現実を見るのに、期待をもたずにすれば幸福が来る」ということだ。ワイナー氏がこの結論に達した理由として挙げているのは、数々の国際調査の結果、デンマーク人が世界で一番幸福だと考えられることだ。もっと詳しく言うと、各国の対象者に幸福であるか否かについて聴き取り調査を行うと、デンマーク人の3分の2が、「人生にとても満足している」と答えるのだそうだ。それも、最近の傾向ではなく、ここ30年間というもの、ずっとこの傾向が続いているという。その原因についてワイナー氏は、「デンマーク人は物事にあまり期待しない性格だから」と分析している。つまり、「期待せずに現実を生きれば、幸福感を味わえる」ということだ。この考え方は、次のような方程式で表現できるだろう:

 H = R - E
 (Happiness equals reality minus expectation)
 
 私はこの記事を読んで、「?」と思ったのである。これは「幸福」の定義というには単純すぎないか。また、「幸福」の定義というよりは、「諦め」とか「無頓着」(indifference)の定義ではないか、とも思った。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月21日

青柿を拾って

 このところ硬い話題が続いているので、今日は少し気を抜いて書く。ブラジルから帰ってようやく時差ボケから抜け出せたようだが、東京の暑さにはフラフラする思いだ。日中のアマゾンは日向では40℃を超えるが、陰に入ると結構しのげる。これは湿度が低いせいだ。ところが日本の夏は、湿度の高さでへきえきする。これを“超越”するには暑さから逃げるのではなく、かえって外へ出て運動をするテがある。というわけで、今日はジョギングに出かけた。
 
 帰国して2回目だが、体がすっかりナマっていて、1回目はいつもの距離を走れず、走ったあともフラフラで、1日後に筋肉痛が出た。2回目の今日は、前回より距離を延ばしたが、やはり全メニューを消化できなかった。それはそれでいい。もう若くないのだから、無理はいけない、と自分に言い聞かせた。で、衆院選のポスターなどを眺めながら本部事務所に歩いて帰る途中、細い路地に青柿がいくつも落ちているのを見つけた。「ああ、もうそんな季節なんだ」と思った。
 
 この場所では、いつかも青柿を拾ったことがある。調べてみると、昨年の8月22日の本欄にそのことが書いてある。が、その時のものより一回り大きいように感じた。カキの木が成長するのは分かるが、それにともなって実も大きくなるのだろうか。とにかく6~7個も落ちていた。下はアスファルトか砂利なので、割れずに無事のものはなかった。昨年は、傷のないものを見つけてスケッチしたのだが、今年はほぼ“全滅”。この点でも、実が昨年より大きくなったことを示していると思う。質量が大きいものは、地面に落下する衝撃も強いからだ。それでも、わずかに傷んだ状態のものを1つ見つけて持って帰った。
 
 大きさを測ってみると、長さは6センチ、円錐形の実の円周は最大5センチあった。こんな立派な大きさのものが、嵐が吹いたわけでもないのに、ボタボタと落ちてしまっていいものだろうか……と思った。青柿の状態では種も未熟だから、子孫を殖やすための工夫とは言えまい。普通の虫や鳥は青柿を食べないだろうから、別の種類の昆虫かバクテリアの食物となるのかもしれない。それにしても、自然界は豊かだと思った。言い換えれば、このカキの木は、自分が必要とする数以上の実をつけて、他の生物に“大盤振る舞い”をしているのだ。青柿の状態でこれだけ落ち、赤くなってからも、まだ与え続ける。この“与える精神”を見習うべきだと思った。
 
Efuto090821  絵封筒に描いた。青柿は“緑色”と思いきや、決して単色ではなく、黄色や茶色の混ざった緑色もあれば、陰影の部分はほとんど黒い。つややかな肌には、光も映っている。最近、夫婦で絵手紙を描いているというM氏から残暑見舞いの絵手紙をいただいたので、返事をこれに入れるつもりだ。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月20日

神は偉大でないか? (5)

 『God is Not Great』の第5章は、“病気治し”をめぐる宗教の問題である。ここには、生長の家の信仰者にも無縁でないことが書かれていて、興味深い。簡単に言えば、「信仰で治すか、医学で治すか?」の問題だ。特に、病気の原因が医学的にハッキリしている場合、宗教がそれを否定すると、信仰者に悲惨な結果を招く可能性が大きくなる。だから、宗教(あるいは信仰)は有害である、というのが著者、ヒッチェンズ氏の主張である。

 具体的な事例を読むと、世の中にはずいぶん極端な主張をする宗教もあるものだと驚く。もちろん、生長の家では医学を否定しない。が、医学だけでは健康は回復しない、と考える。投薬や手術が健康をもたらすのではなく、人間の内部にある自然治癒力が発揮される必要があり、そのためには「心」の要素が非常に大きい。このことは医学でも認めているから、我々の信仰では「医者を取るか信仰を取るか?」という二者択一の問題は発生しないことが多い。ただし、一度「医者」を選択すると、最近では検査、検査、投薬、投薬……という事態になりかねない状況でもあるから、「できることなら、信仰だけで治したい」という患者の気持も充分理解できるのである。
 
 さて、ヒッチェンズ氏が示す事例をいくつか掲げよう。

 インド北東部のベンガル地方で、著者の友人のカメラマンがユニセフの仕事の一環として子供たちのために小児麻痺のワクチン接種を進めていた時のことだ。どこからともなく妙な噂がひろがってきたという。それは、この薬は西洋の諸国の謀略であって、ワクチンを飲めば生殖機能が不能となり、下痢が続くというのである。その噂の出どころが、イスラーム主義者なのだった。小児麻痺のワクチンは同一人に2回接種しなければならないが、この噂のおかげで、心配した多くの親たちが接種をためらうこととなり、その地方からこの病気を排除することができなくなるのだった。この例は「信仰で治せ」というものではないが、「西洋医学を疑う」という点で、その効果は似ている。
 
 ナイジェリアでは、もっとヒドイことがあった。同じ小児麻痺予防のワクチンの接種について、イスラーム法学者の一団がそれを「イスラームに対するアメリカと国連の陰謀である」というファトワ(イスラーム法にもとづく見解)を出したのだ。ワクチンは、真の信仰者の胤を絶やすためのものだというのである。この法的見解のおかげで、小児麻痺が一時消えていた同国に、数カ月後にはこれが復活した。そればかりでなく、旅行者やメッカへの巡礼者が感染したまま外国へ行ったため、この病気がすでに撲滅されていた他の国--アフリカ3国と遠くイェメンまで--へと小児麻痺は広がったのだ。
 
 これと似たことが、コンドームとエイズとの関係で世界各地で起こったという。それをいちいち書くことは控えるが、問題のポイントだけを言えば、エイズウイルスの感染防止のためにコンドームは有効だという医学的見解に、医学不信と避妊禁制を盾に取って、イスラーム法学者のみでなく、カトリック教会までが声をそろえて反対したのである。その反対理由はばかげている--「すべてのコンドームには、密かに目に見えない細かい穴が開けてあるから」というのである。つまり、コンドームはエイズを感染させるために作られた、と信じているようなのである。しかし、コンドームは避妊具の1つであるから、穴が開いていれば欠陥商品であり、場合によっては訴訟の原因にもなる。だから、「すべてのコンドーム」に穴が開いているはずはない。
 
 アフリカなどでのエイズの蔓延は、こうした宗教的見解の愚かさにも原因がある。
だから、ヒッチェンズ氏は「宗教は、公衆衛生に対する緊急な脅威であり続けている」と手厳しい。また、この章では、ユダヤ教の「割礼」の習慣についての批判もあるが、その詳細は本欄で取り上げるのに相応しくないと考えるので、割愛する。

 谷口 雅宣

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2009年8月19日

神は偉大でないか? (4)

 ヒッチェンズ氏の『God is Not Great』は、第3章で「ブタ」の問題を取り上げている。この章は「ちょっと脇道に反れ、ブタについて」という題がついていることから分かるように、短くて5ページしかない。が、中身はとても“濃厚”である。ここで言う「濃厚」の意味は、「内容が充実している」というよりは、「味が濃くて口に合わない」というニュアンスがある。2006年の生長の家の教修会では、宗教がもつ「食物規程」について学んだが、この中でも、ユダヤ教とイスラームがブタについての禁忌をもつことが話題となった(本欄では2006年7月5日参照)。ヒッチェンズ氏はこの章で、ユダヤ教とイスラームの厳しい“ブタへの禁忌”は、実は“ブタへの偏愛”の裏返しであるとの説を展開する。
 
 心理学を学んだ人ならば、人間の心中にある「愛」と「憎」とは、実は同じコインの表と裏であるとの説明を聞いたはずだ。それと同じように、宗教の教えにある“禁忌”も、それが度を超えている場合は、逆に対象がもつ“魅力”を示しているとするのである。で、イスラーム世界でブタへの禁忌が「度を超えている」と言えるのは、ジョージ・オーウェルの『動物農場』(Animal Farm)1945年8月17日に刊行されたジョージ・オーウェルの小説。 を子供が読むことを禁じているし、ヨーロッパのイスラーム主義者は、『3匹の子ブタ』や『ミス・ピギー』『クマのプーさんのピグレット』など、昔からある童話やキャラクターを子供の目から隠せと要求しているからだという。まあ、私としては、昔から特にブタとのつき合いはなかったし、ブタ肉も食べることはないから、この件についての判断は差し控えたい。
 
 が、ヒッチェンズ氏の指摘の中で1つだけもっともだと思うことを言おう。それは、“ブタへの禁忌”を宗教のドグマとして異常なまでに強調しなくても、ブタの生態や屠殺場での彼らの恐怖と苦しみの様子を知り、我々人間とDNA構成がきわめて近いこと、さらに人間への移植用の臓器としてブタのものが使われている事実等を冷静に考えてみれば、ブタを人間と無関係の「蔑むべき動物」と考えるよりは、地球生命を構成する仲間のうちでは、サルに次いで“近種”であると考える方が正しいという点だ。著者はこのことを宗教で強制しなくても、「理性と思いやりの感情から明らか」(in the plain light of reason and compassion)だというのである。私も同感である。

 谷口 雅宣

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2009年8月18日

神は偉大でないか? (3)

 クリストファー・ヒッチェンズ氏は『God is Not Great』の第2章に、「Religion Kills」という題をつけている。その意味は、もちろん「宗教は殺す」という厳しい批判だ。が、そこに挙げられている数々の実例は、ほとんどが政治がらみの話である。前回の本欄で、私は16世紀ヨーロッパのカトリック教会のことに簡単に触れたが、その当時の社会は“祭政一致”が普通だった。が、これによって政治目標が宗教的熱意(熱狂)によって追求されたり(例えば十字軍)、科学的研究が弾圧される(例えばガリレオ裁判)という大きな弊害が生じたために、近代国家は政教分離を統治原則の重要な柱の1つに据えることになった。だから、それ以前に起こった宗教がらみの政治的対立を、21世紀の現代社会に持ち出して宗教を批判することは不公平であり、不合理である。この点を1つ押さえておきたい。だから、政教分離が適用されないイスラーム社会においては、この問題は現代においても存在する。その場合、そういう政治的対立の責任を「宗教」のみに嫁すことは、やはり不合理と言わねばならないだろう。人間の欲望や野心--つまり、政治的利害が、宗教と同じ程度に関与しているに違いないからだ。

 さて、こうは言ったものの、ヒッチェンズ氏がここで宗教批判の材料として挙げている例の多くは、現代社会での事例である。ボスニア紛争において“民族浄化”政策を冷酷に実行したラドヴァン・カラジッチ(Radovan Karadzic)やラトコ・ムラディッチ(Ratko Mladic)両氏を、ギリシャ正教の大主教が熱心に応援したこと。アイルランドの独立問題で同じキリスト教の“カトリック”と“プロテスタント”が武装組織を結成して殺し合いを演じたこと。レバノンにおける“宗教対立”、パレスチナ問題、インドのボンベイでのヒンズー民族主義の横暴、イラン=イラク戦争、サダム・フセイン統治下のイラクにおける“宗教弾圧”……。これらの中で、宗教的権威が「暴力反対」の意思を全く表明しなかったわけではないが、特に紛争の帰趨に影響力をもつメジャーな宗教(例えば、ローマ教皇庁)の一般的態度は「躊躇」であった。このことに加え、そういう暴力行為に率先して参加した宗教信者が多数あることに、ヒッチェンズ氏は「嫌悪感を覚える」というのである。

 これらの例は、宗教が政治と結びつくことで起こる悪い影響を示している、と私は考える。宗教は、人の信念や感情を動かす力をもっているから、政治の側からは利用したい重要な“資源”の1つである。一方、宗教の側からも、宗教的信条にもとづいた社会改革を実現したい場合、政治は手っ取り早い手段の1つである。政治と宗教は、こうして一種の同盟関係を結び、いわゆる“宗教政党”が結成される。だから、政教分離がされたはずの欧米諸国の中にも、「キリスト教民主同盟」とか「キリスト教右派」などという呼称がいまだに存在するし、日本の政治にも公明党のような政党が大きな影響力をもっている。ここで重要になるのは、政治的対立が深刻化したときに、宗教勢力がそれを沈静化する役割をはたすのか、それとも先鋭化する側に回るのか、の違いである。前者が好ましいことは言うまでもないが、宗教がすでに政治に深く関与している場合、その宗教が前者を選ぶことは大変むずかしい。それよりも、後者を選ぶ方が自分の利益になると考えがちである。つまり、“神の目線”で--すべての存在の福祉実現を目的として--物事を考えることができにくくなり、“宗教の目線”--1宗教団体の利害優先--でしか考えられなくなる。この点で、政教一致は危険な形態と言わねばならない。
 
 ヒッチェンズ氏は、政党政治に関与しなくても宗教が危険である実例として、サルマン・ルシュディー氏(Salman Rushidie)の著作『悪魔の詩』(The Satanic Verses)をめぐる暗殺事件を挙げている。私は、こういう問題になってくると、宗教の教義とその解釈が大変重要な位置を占めてくると思う。ある宗教が神仏に対抗する力をもった「悪」や「魔」の存在を説いている場合、信仰者は周囲の状況によっては、善悪が対立した世紀末的な世界観をもつようになり、激しい暴力に訴えることがある。この件について、私は『心でつくる世界』に実例を出して詳しく書いたから、ここでは説明を省略する。日本ではオウム真理教の事件を思い出していただければ、理解してもらえる読者はいるだろう。ヒッチェンズ氏はしかし、こういう“一部”の過激派宗教の暴力行為だけでなく、その行為に対して他のメジャーな宗教が非難することをせず、または逆に、この宗教的言論弾圧の「被害者」に対して、宗教を冒涜したと非難したことに怒りを表明している。殺人者を非難しない者は、共犯か、少なくとも幇助犯だという論理だろう。

 谷口 雅宣

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2009年8月17日

神は偉大でないか? (2)

 『God is Not Great』の第1章で、著者のヒッチェンズ氏は「宗教に対する最も穏やかだが決定的な批判」として突きつけている言葉がある。それはこれだ--「宗教は人間がつくった」。これを聞いて読者は驚くだろうか? 私はまったく驚かない。当然のことと思うからだ。生長の家でも谷口雅春先生を「創始者」と呼んでいて、我々の運動を谷口雅春先生と輝子先生が始めたことは自明である。が、ヒッチェンズ氏が言う意味は、それとは少し違うようだ。彼が言いたいのは、「人間のつくったものは不完全」ということだ。つまり、宗教の教えも「不完全」であり、「間違い」の可能性があることを認めるべきだというのである。私はこれを一般論として、受け入れる。では、すべての宗教の開祖の教えには間違いがあるということか? 
 
 ヒッチェンズ氏が「宗教は人間がつくった」と言うときの「つくった人」とは、どうも「開祖」の意味ではないのだ。というのは、彼は宗教の“間違い”についてこう述べているからだ--「宗教をつくったその人々も、彼らの預言者や救い主やグルが何を言ったか、何を行ったかについて合意できない。ましてや、宗教が始まったのちに新しい発見や発展があり、その動きが(当の宗教に)抑圧されたり、糾弾されたことの“意味”について述べることなど、期待できない」。著者は結局、こう言いたいのだろう。キリスト教もイスラームも仏教も、“開祖”であるイエスやムハンマド、ブッダが本当に何を言ったのかについて、それぞれの内部において合意ができていないし、それらの宗教がそれぞれ後に分裂して、異なる宗派に分かれていったことの意味について、当事者から満足な説明は期待できない--そういうことだろう。この意見も、私にはよく理解できる。
 
 そこで著者は、声を荒げてこう非難する--「にもかかわらず、宗教の信仰者は“知っている”というのだ。単に“知っている”のではなく、“すべてを知っている”というのだ。神が存在することを知っているだけでなく、また、その神が世界を創造し、監督していることを知っているだけでなく、神が我々に何を要求するか--食べ物の種類から戒律まで、さらに性生活の規則まで--も知っているというのだ」。(p.10)著者が苛立っているのは、宗教のこの“すべてを知っている”とする傲慢な態度で、これでは現段階の知識以上の真実の追究はできない。さらに宗教には妙なプライドまであるから、宗教を信じない人にとっては、科学的知見や理性をもって世界の真実について議論する相手にはなりえない、というのである。
 
 読者はもうお気づきと思うが、ヒッチェンズ氏はここで「神」を批判しているのではなく、「宗教」を批判しているのである。「神は偉大でない」というのが著書のタイトルであるが、著者は「宗教は偉大でない」と言っているのだ。少なくともこの章(第1章)においては、そうである。ここに、この本の大きな問題が1つあるような気がする。著者は「神」とは何であるかを、今のところ定義していない。それでいて「神」を批判するのはおかしい。もしかしたら、無神論者である著者には「神」が定義できないから、「神」を最高の権威として考え、行動する人間の集団(宗教)を批判する以外にないのかもしれない。が、我々のような神を信仰する者にとっては、この両者の違いは明白である。
 
 ヨーロッパ16世紀の宗教改革者、マルティン・ルターが、当時の聖俗一致のカトリック教会の肥大化した権力に対抗して、ローマ教皇の至上権を否定し、公会議も誤りを犯す可能性があるとして、“神の言葉”としての聖書と信仰者の良心のみによって人は救われると宣言したとき、ルターは、神を批判したのではなく、宗教を批判したのである。その批判したルター本人が、神を信仰していたことは疑う余地がない。だから、ヒッチェンズ氏のこの著書は、タイトルがいかにセンセーショナルであっても、「組織化された宗教」(organized religion)への批判書であって、神は無傷でそれらの上に聳え立っている--そんな感じがするのである。
 
 ところで、生長の家講習会などで私が述べる“宗教目玉焼き論”を記憶している読者は、ヒッチェンズ氏の批判の矛先が、もっぱら目玉焼きの“白身”(周縁部分)の部分に向かっていて、“黄身”(中心部分)にはまだ触れていないことに気がついてほしい。私は、宗教の“白身”は時代や環境や文化によって変わるべしとの立場だから、これまでの氏の宗教批判には、さほどの抵抗を感じないのだろう。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月16日

神は偉大でないか?

 ニューヨークで買った本の中に、クリストファー・ヒッチェンズ(Christopher Hitchens)という人の書いた『God is not Great:How Religion Poisons Everything』がある。まだ全部は読んでいないが、なかなか面白い。初版が2007年だから、すでに邦訳書も出ているだろう。この本の題を訳せば「神は偉大ではない」となるから、イスラームの信仰者がよく使う「神は偉大なり」という言葉に(多分意識して)反対する形になっている。副題はもっと露骨であり、「宗教はどうやってすべてに毒を入れるか」という意味だ。つまり、宗教組織のもたらす害悪を数え上げてこっぴどく批判する内容の本だ。著者は自らを「無神論者」と呼んでいるが、職業はジャーナリストらしい。私がこんな本をなぜ買ったかというと、宗教組織の内外には批判に値することが実際、たびたび起っており、そういう批判をきちんと受け止めて改善することは必要だと感じているからである。
 
 が、ジャーナリストが書いただけあって、世界の宗教の悪い面には非常に詳しいが、善い面はほとんど書いてない。また、私が今日までに読んだ範囲には、神学や哲学に触れる深い考察はまだ出てきていない。だから著者は、題から想像されるような「神」の概念や観念をしっかり検討したうえで、「神は偉大でない」との結論にいたったというよりは、組織をもつ宗教の弊害が目に余るので、批判本を書いたと言えるかもしれない。生長の家も組織運動をする宗教だから、私はヒッチェンズ氏が批判する側面が我々の周辺にないかどうか気にしながら、この本を読み始めた。すると意外にも、著者の指摘の中には、私が普段から感じていることとさほど違わないものが多いのだった。これは恐らく、著者が宗教の中では“原理主義的”とか“迷信的”といわれる考え方を批判しているためだろう。生長の家はもちろん原理主義ではない。が、そういう考え方をする人が信徒の中にいても、不思議はない。
 
 著者は、人生の初期の段階で宗教に疑問を抱いたきっかけになったエピソードを紹介していいる。それは彼が9歳ぐらいのとき、学校の聖書の時間に、女教師が「植物の葉が緑色をしている」ことについてこんな説明をしたという:
 
「ほら皆さん、神さまは実に偉大なお力をもち、慈愛に満ちていらっしゃるか分かりますね。神さまは、すべての木や草を緑色にされています。この緑色こそ、私たち人間の目がいちばんの安らぎを感じる色です。もしそうでなく、植物がみんな紫色、あるいはオレンジ色だった場合を想像してみてごらんなさい。こんなヒドイことはありません」

 私は、9歳の子供に向かって教師が聖書の時間にこういう説明をすることは、さほどヒドイとは思わないが、著者は論理的思考に優れた子だったのだろう、この教師の言葉は間違っていると直感したそうだ。彼はこの時、「人間の目は自然界に適応しているのであり、その逆ではない」と思ったという。

 彼はその後、13歳になるころまでに、これに類したいろいろの疑問を“神”に対して感じるようになったという。例えば、聖書にはイエス・キリストが数々の“奇蹟”を行ったことが記されていて、キリスト教の“三位一体”の教義によるとイエスは「神」と同義であるので、イエスの奇蹟は神の行為と見なされる。そういう理解のもとで福音書を読むと、イエスは、通りかかった盲人の目を癒したとあるが、神が盲人を癒すことが素晴らしいなら、初めから盲人など創るべきではないと感じた。また、いろいろと真面目な話をした校長が、最後に、「この(キリスト教の)信仰の意味について、君たちはまだ分からないことが多いだろうが、そのうちに、君たちの愛する人々が亡くなる時期が来れば、きっと分かるようになる」と言ったそうだ。それを聞いた彼の心には、怒りがこみ上げてきたという。なぜなら、これは宗教が言っていることは本当じゃないかもしれないが、気休めには役立つと言っているようなものだ、と感じたからだ。

 ヒッチェンズ氏が物事を考える際の基準は、次のように明確に表現されている--「我々は科学と理性だけを信頼しているのではないが、科学に矛盾し理性に反するものは何ごとも信じない」。これは、科学と理性によてすべてが説明できるという意味ではなく、すべてを今説明できなくてもいい、という意味だ。なぜなら、「我々が尊重するのは自由な探究、開かれた心、そして理解そのもののための知の探究である」からだという。私は、このような同氏の態度には、生長の家創始前に『神を審判(さば)く』を著した谷口雅春先生に共通したものがあると感じ、(すべてには賛同しないが)むしろ好感を覚えたのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月14日

日本に帰りました

 今日の午後、ニューヨークから成田へもどった。順調な飛行で時差ボケ以外は、特に体調の変化はない。7月26日から3週間の旅だったが、終ってしまえばあっけない感じだ。帰りの航空機の中でニューヨークで買った本を読み、また同市で撮った写真のアルバム作成をした。本については、別の機会に紹介することがあるかもしれない。写真アルバムはこのサイトに公開したので、興味のある方はご覧あれ。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月12日

谷口純子氏の講話

 8月8日に行われた「生長の家ブラジル全国大会」で谷口純子・生長の家白鳩会総裁が行った講話の様子を公開する。私が自分の席から撮った動画を編集し、本人の許可を得て、ユーチューブに登録したものだ。雰囲気だけでもお伝えできればと思う。
 
 また、ブラジル人の青年が私たちのブラジル到着時(28日)の様子をユーチューブに登録してあるのを見つけたので、その日付のところに挿入してある。興味のある方をご覧あれ。
 
 谷口 雅宣

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2009年8月 5日

アマゾン群馬の森へ(現地時間4日)

アマゾン群馬の森(1)... on Twitpic ベレン市郊外約50kmにある。在北伯群馬県人会が取得した540ヘクタールの土地で、アマゾンの原始林の保全と再生林の維持を行っている。巨木の前で記念撮影。

アマゾン群馬の森(2)... on Twitpic 森の中に巨大なキノコがあると思ったが、実は木の実の殻。素焼きの土器のような重さと頑丈さがあって、自然に蓋ができるのが不思議だ。

サンタ・バーバラ... on Twitpic サンタ・バーバラの町。高級住宅地のある同名の街がロサンゼルスの郊外にあるが、こちらの町は素朴な小さい町。群馬の森は、この町の近く。

ドラゴンフルーツを食べる... on Twitpic お土産にいただいたドラゴンフルーツ。ホテルに帰ってから食べた。切り口の鮮やかさに比べ、味は結構薄い。

ベレンの町... on Twitpic 宿舎のホテルから展望したベレンの町。向こう側にアマゾン河が広がる。

 谷口 雅宣

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2009年8月 4日

ベレンの施設を見学(現地時間3日)

Cows crossing the road to the SNI Amazonia Spiritual Traini... on Twitpic ベレンから奥地へ向かう道路は、生長の家のアマゾニア練成道場に近づくと舗装がなくなり、赤い土だけの凸凹道となる。その道には突然、馬や牛が現れて道路を横切ったりする。動物優先の生き方を目の当たりにした。

Rostrum in the main hall in the SNI Amazonia Spiritual Traini... on Twitpic アマゾニア練成道場の講堂の演壇。背後にある実相額を掲げた“祭壇”に注目。

Quarters in the Amazonia Spiritual Training Center... on Twitpic アマゾニア練成道場の宿舎。サンパウロ郊外にあるイビウーナ練成道場の方式を踏襲している。部屋の両脇に練成員が寝るベッドが並んでいる。

Coconut juice served at the Amazonia Spiritual Traning Center... on Twitpic この日は晴天で、気温は40℃近くになった。が、乾燥しているので、それほど暑いとは感じない。水分補給のため、ヤシの実のジュースをいただいた。

Christ-like figure standing by the road to Belem... on Twitpic ベレンへもどる途中の道に、大きな“キリスト像”の立つ施設があった。詳しくは不明。

The newly built SNI Belem Missionary Center... on Twitpic 生長の家のベレン教化支部会館を訪問。できたてホヤホヤのビルで、まだ市からの使用許可が下りていないという。市中心街のよい条件の場所にある

The main hall in the Belem Missionary Center... on Twitpic 教化支部会館の大講堂。舞台近くの天井から、プロジェクターが下がっているのに注目。設備は進んでいる。

 谷口 雅宣

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2009年8月 3日

サンパウロからベレンへ

At the reception dinner in the SNI Brazillian Missionary Head... on Twitpic  2日の夜、教修会参加者有志とともに、懇親のための夕食会をもつ。ブラジルの珍しい魚を使った料理などが豊富に出る。

Leaving Sao Paulo for Belem, Amazonia on Twitpic 8月3日は、早朝にサンパウロのホテルを出て、コンゴニャス空港へ。7時50分発のJJ37161便に乗って、アマゾン河河口近くの都市、ベレン(Belem)へ移動した。直行便に乗るはずだったが、何かの手違いで、首都ブラジリアを経由する便となった。昼過ぎにベレンに到着し、空港のレストランで昼食をとった。

Acai ice cream served at Belem Airport on Twitpic 食後のデザートに、「アサイ」というヤシの一種の実を使ったアイスクリームを食べる。濃い紫色のもので、日本でいえばカシスのシャーベットと似ている。が、甘味を抑えた上品な味。口の中が“おはぐろ”のように染まる。この果実は最近、鉄分やポリフェノールの含有量が多いというので、健康食品として珍重され、値段が上がっているという。

 谷口 雅宣

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2009年8月 2日

国際教修会でのスナップ

 もうすでに一部で紹介されているが、8月1~2日にサンパウロ市のフンシャル劇場で開催された「生長の家国際教修会」の会場風景をお届けする:

At the SNI Special Conference for World Peace (1) on Twitpic

At the SNI Special Conference for World Peace (2) on Twitpic

At the SNI Special Conference for World Peace (3) on Twitpic

At the SNI Special Conference for World Peace (4) on Twitpic

 谷口 雅宣

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