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2009年8月25日

幸福の方程式 (4)

 前回の本欄で使った「分厚い米国産のビーフ・ステーキ」の喩え話は、少し難解だったかもしれない。単に食品として味わい、また栄養のことを考えれば足りるような例を使えば、説明は大幅に単純化できた。例えば、代りにこれが「鮭フレークが入った握り飯」であり、それを「友人宅に行ったとき手料理として出された」のであれば、ほとんど手放しで喜び、感謝することに問題はないだろう。食べている時にも、味のこと、食感のことに心を集中することができるから、単純においしくいただけるに違いない。では、なぜ「分厚い米国産のビーフ・ステーキ」ではそれをするのが難しいのだろう?

 答えは、簡単である。その理由は、「食べる」という行為以外のことを、いろいろ考えるからである。では、前回、思考実験で行ったような複雑でややこしいことを、我々は考えるべきではないのだろうか? 答えは「否」である。そういうことを考えながら「自他一体感」を得ること(あるいは失うこと)を問題にするのが、人間が人間としてある意味だ。そんなことを全く問題にせずに、どんな場合にも、目の前の牛肉にかぶりついて満足している姿は、あまり人間的だと思えない。そんなことは、イヌやネコがいつもやっていることだ。

 が、ここに1つ、彼ら(イヌやネコ)にも学ぶべきことがある、と私は考える。それは、前回扱ったような複雑でややこしい人間社会の種々の問題を考えてばかりいると、“せっかくのご馳走”もマズくて食べられなくなる、という事実である。このことは、食事だけでなく、我々の生活のあらゆる面で言える。最近は「マルチタスク」などというようだが、アイポッドで音楽を聴きながら通勤する人、ケータイで話しながら街を行く人、携帯ゲーム機に熱中しながら観光バスに揺られる人……これらの人々は、機械によって結ばれているバーチャルな場所に注意を引かれるから、自分が物理的に置かれているリアルな場所との関係が希薄になる。すると、前回の例と同じように、“せっかくのご馳走”が目の前にあっても気づかず、感じられない、という状況が生まれてしまうのである。
 
 本欄の読者ならば、私がここで言っていることは“初耳”でないはずだ。すでに本欄で何回も扱ったし、単行本でも説明したこと--「意味優先」対「感覚優先」、あるいは「左脳的見方」対「右脳的感じ方」のこと--を、私は別の角度から書いている。ブラジルの全国大会でも、私は「幸福とは何か」を論じる際に、右脳と左脳の役割分担の違いについて簡単に触れた。つまり、「左脳」はたいていの人では「言葉による思考」を担当し、「右脳」は感覚器官を通じて物事を感じる際によく使われる。ということは、我々人間は、論理性と感覚認識とを統合させることで、人間らしい生き方ができるように造られているということだ。それが、神が我々に与えた"地上生活の青写真"であろう。言い換えれば、我々は、この双方の脳を十分使ったときに、本当の意味での幸福や生き甲斐を感じるのである。

 この幸福論は、脳科学の言葉で表したが、これと同じことを宗教的に表現すれば、「もっと神の恵みに感謝しよう」ということだ。我々現代人の生活は、“意味過剰”で“左脳偏重”に陥っていることが多い。もちろん「左脳」も神からの恩恵だから、感謝して使わなければならない。しかし、左右の脳のどちらかに偏重した生活は、神の御心ではない。言い換えれば、何でも論理的に理解してすますのでは、人間は満足できないのだ。もっと直接的に、感覚を通して“他者”との一体感を得るところに、我々の幸福のカギが隠されていることもある。そういう意味で、“すでに与えられた神の恵み”を右脳を通して再発見し、感謝し、心に留めるだけでなく、押し広げて他者とそれを共有する「日時計主義」の生き方こそ、幸福生活への道だと言えるのである。

 谷口 雅宣

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コメント

肉食を断じてしない!と言うことが人間の人間としてのある意味である、食べられるビーフステーキの元なる牛との自他一体感を問題にせずに(ひょっとしたら一体感を感じながら御免ね!頂きます!と感謝して食べられる人もあるでしょう)食べる姿はあまり人間的だとは思わない!と言われている様に思います、釈尊は自らそうされたとは思いますが人々に対して上記の様な言葉を残されてはいないと私は勝手に思っていますがモーゼやイエス、ムハンマドはどうだったのでしょうか?食物連鎖と言う大自然と言う環境(万法)の中で肉食をすることは人間のあるべき姿ではない!と言うの本当に神の御心なのでしょうか?聖書の神は血のままで食べてはいけない!と言う前提を置きながら固有名詞を上げて屠って食べる事を認めています、この神と肉食を人間的でない!とする神との違いは何なのでしょうか?教えて下さい。

投稿: 尾窪勝磨 | 2009年8月26日 10:15

ありがとうございます。日時計日記のおかげで楽しく暮らしています。web版日時計日記もよく投稿しています。本当に日時計主義は素晴らしい!時間がかかったけど解決したこともあります。

あと僕は今年の6月ころからですが、神様いるってわかるようになりました。目の前のことに夢中でそのことを忘れることはあります。でも落ち着いた時、神様を感じて嬉しくなります。ありがとうございます。

投稿: 奥田 健介 | 2009年8月26日 10:42

合掌

≪「左脳」はたいていの人では「言葉による思考」を担当し、「右脳」は感覚器官を通じて物事を感じる際によく使われる。ということは、我々人間は、論理性と感覚認識とを統合させることで、人間らしい生き方ができるように造られている≫

≪この双方の脳を十分使ったときに、本当の意味での幸福や生き甲斐を感じる≫

≪何でも論理的に理解してすますのでは、人間は満足できないのだ。もっと直接的に、感覚を通して“他者”との一体感を得るところに、我々の幸福のカギが隠されていることもある。そういう意味で、“すでに与えられた神の恵み”を右脳を通して再発見し、感謝し、心に留めるだけでなく、押し広げて他者とそれを共有する「日時計主義」の生き方こそ、幸福生活への道だと言える≫

 左右の脳をバランスよく使い、論理性と感覚認識とを統合させること。
 “すでに与えられた神の恵み”を右脳を通して再発見し、感謝し他者とそれを共有する「日時計主義」の生き方を実践することが大切であるとあらためて分かりました。

 私は、何でも論理的というか理屈っぽく考える傾向があります。つまり何事を行うにあたっても正しいか間違っているは効率的か効率的でないか?をよく見極めないと気がすまないところがあります。
 そのことがすべて悪い分けではなくその行為のみに偏重すると左脳ばかり使用して右脳は活性化されないことになります。
 それを徐々に変更して右脳を活性化させるために週3回はジョギングをしたり、また、日々の生活の中で極力素晴らしいことを見つけて感動するようにしております。

 今後は、『日時計主義』の実践をますます極めまして
素晴らしい人生を歩みたいとひたすら思っております。

 再拝

投稿: 志村 宗春 | 2009年8月26日 19:37

尾窪さん、

>>この神と肉食を人間的でない!とする神との違いは何なのでしょうか?教えて下さい。<<

 あなたの質問は何かすごく混乱しているように聞こえます。もっと落ち着いて、よく考えて、何を質問するのかを自分で分かってから質問をされた方がいいと思います。私には、あなたの質問の意味が分かりません。

投稿: 谷口 | 2009年8月26日 22:34

谷口雅宣総裁様
ご解答有難う御座います、神が肉食を許されるか否か?私には分かりません、生き物の心情を思えば蚊も殺さない様に扇を使われ、歩く時には小さな虫を殺さない様に下をずーと見て歩かれたと言われます釈尊は終生実行されたものと思いますがこれは人間的ではなく神仏の姿であり、色々な生き物の命(肉食)を頂いて生きてる者こそ人間的なのではないか?と思うのです、、その中で人間は肉食は神仏が許されないのだ!人間的ではないのだ!と断定するのではなく、肉食を断じてしない方がより神仏に近い!神仏に喜ばれるのだ!との考えもある知れませんが慈悲普く慈愛深き神は「そう頑なに考えなくても良い!健康に生きて行く為には感謝を忘れずに美味しく頂きなさい!」と言われるかも知れません、それは個々人が自らを修め少欲知足に務め森羅万象の恵(この中に肉食も入る)に感謝し自然と共に生き抜いて行けば良いのではないか!例えば欲望は煩悩なのか?と考えた場合、私は欲望は生きる為に必要なものであり煩悩は思わない、限界(公序良俗)を超えた時煩悩となるのではないかと考えるのです、自らの心情に基づいて一切肉食をしない!と言う行為そのものは私には出来ませんが素晴らしいし、立派で尊敬できる行為であるとは思っています。

投稿: 尾窪勝磨 | 2009年8月27日 11:32

尾窪さん、

 まだ混乱した質問ですね。が、だいたいおっしゃりたい意味は分かります。が、言葉をもっと正確に使うように努力された方がいいと思います。そうすれば、ご自分の思考が整理され、自分が何を言いたいのかも、より明確になると思います。
 まず「ご解答有難う御座います」とおっしゃりますが、私は解答などしていません。それから、「神が肉食をする云々」と書かれていますが、この言葉は、本当に貴方がおっしゃりたい言葉ですか? もし、そうならば、あなたが信じている「神」とは何ですか? 菜食をしたり、肉食をして、栄養を外部から補給しなければ生きていけないものを、あなたは「神」と呼ぶのですか?
 それから、あなたは「釈尊が終生実行されたものと思います」と書かれていますが、そういう表現の根拠になったものは何でしょうか? 「釈尊が実際に何をしたか」ということは、歴史的な意味ではきわめて不確かなことです。また、あなたは釈尊のことを「人間的ではなく神仏の姿であり」とおっしゃっていますが、釈尊が人間でないのなら、何なのですか? もし“超人”や“聖人”であり、我々人間の及びもつかない存在であるならば、貴方が「終生実行された」とおっしゃるその「終生」とは、いったい何を指すのですか? 釈尊は、80歳で死んだのですか? 死なないで生きているのですか? 死んだのならば、きわめて「人間的」な存在ではないのでしょうか? ……これらも含めて、その他の多くの箇所にも、同様の混乱した記述が散見されます。
 あなたは、人間の本性は仏であると考えておられるのですか? おられないのですか? 「人間は神の子」という教えを肯定されるのですか? それとも「神仏は人間とは別」というお考えなのですか?

投稿: 谷口 | 2009年8月27日 22:07

有難うございます。
幸福の方程式、幸福=実相
深くて難しいと感じつつも、あらゆる生命が実はその魂の根本ではじめから理解しているところの真理を、分かり易く表現してくださったのかなと思いました。
肉食のお話ですが、谷口雅春先生の御著書「心と食物と人相と」を読んでみたり、雅宣先生の説かれます環境を守る視点や食料難を回避出来るだけの穀物の収穫が地球全体でありながら、食肉用に育てられている家畜の餌として大半が消費されているというお話を聴きまして、自分の食生活を、もっと真面目にみなおさなければならない時期かなと考えています。
でも、お肉は嫌いな方ではないので、完全にベジタリアン生活に入る事は、今のところ私には難しいです。
出来るだけ消費を減らす方向にはと、お買い物を気をつけてはいるつもりなのですが・・・。
申し訳ありません。
余談ですが、お釈迦様のゴータマ・シッダールタ様は、80代の後半に施しを受けた豚肉の食あたりが原因で、涅槃に入られたとの説を聞いたことがございます。
うろ覚えの記憶を頼りにコメントを書かせていただきましたので、間違いなど多々あるとは存じますが、ご容赦くださいますようお願い申し上げます。
再拝

投稿: 岡本 淳子 | 2009年8月28日 10:06

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