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2009年8月18日

神は偉大でないか? (3)

 クリストファー・ヒッチェンズ氏は『God is Not Great』の第2章に、「Religion Kills」という題をつけている。その意味は、もちろん「宗教は殺す」という厳しい批判だ。が、そこに挙げられている数々の実例は、ほとんどが政治がらみの話である。前回の本欄で、私は16世紀ヨーロッパのカトリック教会のことに簡単に触れたが、その当時の社会は“祭政一致”が普通だった。が、これによって政治目標が宗教的熱意(熱狂)によって追求されたり(例えば十字軍)、科学的研究が弾圧される(例えばガリレオ裁判)という大きな弊害が生じたために、近代国家は政教分離を統治原則の重要な柱の1つに据えることになった。だから、それ以前に起こった宗教がらみの政治的対立を、21世紀の現代社会に持ち出して宗教を批判することは不公平であり、不合理である。この点を1つ押さえておきたい。だから、政教分離が適用されないイスラーム社会においては、この問題は現代においても存在する。その場合、そういう政治的対立の責任を「宗教」のみに嫁すことは、やはり不合理と言わねばならないだろう。人間の欲望や野心--つまり、政治的利害が、宗教と同じ程度に関与しているに違いないからだ。

 さて、こうは言ったものの、ヒッチェンズ氏がここで宗教批判の材料として挙げている例の多くは、現代社会での事例である。ボスニア紛争において“民族浄化”政策を冷酷に実行したラドヴァン・カラジッチ(Radovan Karadzic)やラトコ・ムラディッチ(Ratko Mladic)両氏を、ギリシャ正教の大主教が熱心に応援したこと。アイルランドの独立問題で同じキリスト教の“カトリック”と“プロテスタント”が武装組織を結成して殺し合いを演じたこと。レバノンにおける“宗教対立”、パレスチナ問題、インドのボンベイでのヒンズー民族主義の横暴、イラン=イラク戦争、サダム・フセイン統治下のイラクにおける“宗教弾圧”……。これらの中で、宗教的権威が「暴力反対」の意思を全く表明しなかったわけではないが、特に紛争の帰趨に影響力をもつメジャーな宗教(例えば、ローマ教皇庁)の一般的態度は「躊躇」であった。このことに加え、そういう暴力行為に率先して参加した宗教信者が多数あることに、ヒッチェンズ氏は「嫌悪感を覚える」というのである。

 これらの例は、宗教が政治と結びつくことで起こる悪い影響を示している、と私は考える。宗教は、人の信念や感情を動かす力をもっているから、政治の側からは利用したい重要な“資源”の1つである。一方、宗教の側からも、宗教的信条にもとづいた社会改革を実現したい場合、政治は手っ取り早い手段の1つである。政治と宗教は、こうして一種の同盟関係を結び、いわゆる“宗教政党”が結成される。だから、政教分離がされたはずの欧米諸国の中にも、「キリスト教民主同盟」とか「キリスト教右派」などという呼称がいまだに存在するし、日本の政治にも公明党のような政党が大きな影響力をもっている。ここで重要になるのは、政治的対立が深刻化したときに、宗教勢力がそれを沈静化する役割をはたすのか、それとも先鋭化する側に回るのか、の違いである。前者が好ましいことは言うまでもないが、宗教がすでに政治に深く関与している場合、その宗教が前者を選ぶことは大変むずかしい。それよりも、後者を選ぶ方が自分の利益になると考えがちである。つまり、“神の目線”で--すべての存在の福祉実現を目的として--物事を考えることができにくくなり、“宗教の目線”--1宗教団体の利害優先--でしか考えられなくなる。この点で、政教一致は危険な形態と言わねばならない。
 
 ヒッチェンズ氏は、政党政治に関与しなくても宗教が危険である実例として、サルマン・ルシュディー氏(Salman Rushidie)の著作『悪魔の詩』(The Satanic Verses)をめぐる暗殺事件を挙げている。私は、こういう問題になってくると、宗教の教義とその解釈が大変重要な位置を占めてくると思う。ある宗教が神仏に対抗する力をもった「悪」や「魔」の存在を説いている場合、信仰者は周囲の状況によっては、善悪が対立した世紀末的な世界観をもつようになり、激しい暴力に訴えることがある。この件について、私は『心でつくる世界』に実例を出して詳しく書いたから、ここでは説明を省略する。日本ではオウム真理教の事件を思い出していただければ、理解してもらえる読者はいるだろう。ヒッチェンズ氏はしかし、こういう“一部”の過激派宗教の暴力行為だけでなく、その行為に対して他のメジャーな宗教が非難することをせず、または逆に、この宗教的言論弾圧の「被害者」に対して、宗教を冒涜したと非難したことに怒りを表明している。殺人者を非難しない者は、共犯か、少なくとも幇助犯だという論理だろう。

 谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣先生

 政治と宗教の関わりという点では生長の家も無縁ではないですね。生政連という組織があって、生長の家は積極的に政治活動に関わっていた訳ですから。
 でも、昭和58年に生政連が解散になり、生長の家は政治から一切手を引いたですね。私は当時、大学生で青年会をやっていて、正直何故だと疑問に思いました。憲法改正、優生保護法改正はどうするんだと思いました。

 でも、現実は生長の家は単なる自民党の巨大な集票マシーンになっていただけの様ですね。谷口雅春先生はそれより前に昭和54年に九州に龍宮住吉本宮及び顕斎殿を建立されて、もう政治力の様な人間力では日本国の実相は顕現出来ない、直接、住吉大神の御出座を仰いで神様の御力で日本国実相顕現、世界平和を成就して頂こうと言う事になって、その流れの生政連解散だと私は解釈しています。

 ところで宗教が政治に口を出している例は公明党がありますが、最近「幸福実現党」なんてのも出て来ましたね。私は彼らの綱領とか詳しく読んでいませんが憲法9条反対なんて言っているのを見るにつけ、昔の生長の家の政治的主張を真似ているみたいな感じもちょっとします。

投稿: 堀 浩二 | 2009年8月19日 10:46

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