« 神は偉大でないか? | トップページ | 神は偉大でないか? (3) »

2009年8月17日

神は偉大でないか? (2)

 『God is Not Great』の第1章で、著者のヒッチェンズ氏は「宗教に対する最も穏やかだが決定的な批判」として突きつけている言葉がある。それはこれだ--「宗教は人間がつくった」。これを聞いて読者は驚くだろうか? 私はまったく驚かない。当然のことと思うからだ。生長の家でも谷口雅春先生を「創始者」と呼んでいて、我々の運動を谷口雅春先生と輝子先生が始めたことは自明である。が、ヒッチェンズ氏が言う意味は、それとは少し違うようだ。彼が言いたいのは、「人間のつくったものは不完全」ということだ。つまり、宗教の教えも「不完全」であり、「間違い」の可能性があることを認めるべきだというのである。私はこれを一般論として、受け入れる。では、すべての宗教の開祖の教えには間違いがあるということか? 
 
 ヒッチェンズ氏が「宗教は人間がつくった」と言うときの「つくった人」とは、どうも「開祖」の意味ではないのだ。というのは、彼は宗教の“間違い”についてこう述べているからだ--「宗教をつくったその人々も、彼らの預言者や救い主やグルが何を言ったか、何を行ったかについて合意できない。ましてや、宗教が始まったのちに新しい発見や発展があり、その動きが(当の宗教に)抑圧されたり、糾弾されたことの“意味”について述べることなど、期待できない」。著者は結局、こう言いたいのだろう。キリスト教もイスラームも仏教も、“開祖”であるイエスやムハンマド、ブッダが本当に何を言ったのかについて、それぞれの内部において合意ができていないし、それらの宗教がそれぞれ後に分裂して、異なる宗派に分かれていったことの意味について、当事者から満足な説明は期待できない--そういうことだろう。この意見も、私にはよく理解できる。
 
 そこで著者は、声を荒げてこう非難する--「にもかかわらず、宗教の信仰者は“知っている”というのだ。単に“知っている”のではなく、“すべてを知っている”というのだ。神が存在することを知っているだけでなく、また、その神が世界を創造し、監督していることを知っているだけでなく、神が我々に何を要求するか--食べ物の種類から戒律まで、さらに性生活の規則まで--も知っているというのだ」。(p.10)著者が苛立っているのは、宗教のこの“すべてを知っている”とする傲慢な態度で、これでは現段階の知識以上の真実の追究はできない。さらに宗教には妙なプライドまであるから、宗教を信じない人にとっては、科学的知見や理性をもって世界の真実について議論する相手にはなりえない、というのである。
 
 読者はもうお気づきと思うが、ヒッチェンズ氏はここで「神」を批判しているのではなく、「宗教」を批判しているのである。「神は偉大でない」というのが著書のタイトルであるが、著者は「宗教は偉大でない」と言っているのだ。少なくともこの章(第1章)においては、そうである。ここに、この本の大きな問題が1つあるような気がする。著者は「神」とは何であるかを、今のところ定義していない。それでいて「神」を批判するのはおかしい。もしかしたら、無神論者である著者には「神」が定義できないから、「神」を最高の権威として考え、行動する人間の集団(宗教)を批判する以外にないのかもしれない。が、我々のような神を信仰する者にとっては、この両者の違いは明白である。
 
 ヨーロッパ16世紀の宗教改革者、マルティン・ルターが、当時の聖俗一致のカトリック教会の肥大化した権力に対抗して、ローマ教皇の至上権を否定し、公会議も誤りを犯す可能性があるとして、“神の言葉”としての聖書と信仰者の良心のみによって人は救われると宣言したとき、ルターは、神を批判したのではなく、宗教を批判したのである。その批判したルター本人が、神を信仰していたことは疑う余地がない。だから、ヒッチェンズ氏のこの著書は、タイトルがいかにセンセーショナルであっても、「組織化された宗教」(organized religion)への批判書であって、神は無傷でそれらの上に聳え立っている--そんな感じがするのである。
 
 ところで、生長の家講習会などで私が述べる“宗教目玉焼き論”を記憶している読者は、ヒッチェンズ氏の批判の矛先が、もっぱら目玉焼きの“白身”(周縁部分)の部分に向かっていて、“黄身”(中心部分)にはまだ触れていないことに気がついてほしい。私は、宗教の“白身”は時代や環境や文化によって変わるべしとの立場だから、これまでの氏の宗教批判には、さほどの抵抗を感じないのだろう。
 
 谷口 雅宣

|

« 神は偉大でないか? | トップページ | 神は偉大でないか? (3) »

コメント

合掌 ありがとうございます。

>「宗教は人間がつくった」。これを聞いて読者は驚くだろうか? 
よく宗教を批判する人から聞いた文章です。「宗教は人間がつくった」「神は人間を必要としない」「人間が必要として神をつくった」「自然の偉大なる力・エネルギーは信じるが宗教が云う神は信じない」などと。
以上のような批判を聞かされると、そう言う人は魂の底では神を信じていながらも、人類の長い歴史の中での宗教の歩みや現在も見られる信徒への規制や脅かしなどに執着しているのではないかと考えさせられます。

宗教の”黄身”に到着すれば、我ら宗教を信じている人々と宗教を批判する人々との共通点があるとのことですね。あらゆる宗教のに共通する”黄身”がありそれを観ようと伝える生長の家の偉大な使命に感銘いたします。

投稿: erica | 2009年8月18日 10:50

ヒッチェンズ氏の批判は今の所、的を得てはいない様に感じます、つまり神そのものでは無く、数も知れない宗教組織の頂点に立つ多くの指導者を批判しているにしましてもその全てとして一部とはしていない点です、又「宗教の信仰者は全てを知っている、神の存在を知っているだけでなく、その神が世界を創造し、監督していること、神が我々に何を要求するか、食べ物の種類から戒律までさらに性生活の規則までも知っている!と言うのだ!」と言っておられますが全ての指導者がそんな事を言っているとは考えられません、多くの指導者の中の誰がそんな事を言っているのか?明記されていません、それから「宗教を信じない人にとっては科学的知見や理性をもって世界の真実について議論する相手にはなり得ない」と"断見"と言う狭い見解、この見解をもって「宗教は偉大ではない」と結論付けるのはヒッチェン氏が自分勝手に思われるだけで一つの論ではありますがとても正論としては成り立たないし偏った見方であって正しい見方では有り得ないと考えます。

投稿: 尾窪勝磨 | 2009年8月18日 11:04

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 神は偉大でないか? | トップページ | 神は偉大でないか? (3) »