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2009年6月14日

幸福は環境条件にはない

 今日は、金沢市の金沢歌劇座というところで石川教区の生長の家講習会があった。天気は“高曇り”という感じで、暑すぎもしない好天だった。受講者は、前回を55人(2.9%)上回る1,941人となり、釧路、埼玉両教区に続いて運動にさらに“上昇気流”を吹き上げる結果となり、誠にありがたいことである。とりわけ「+55」という数字は、「GO GO!」に通じるだけでなく、当地出身の大リーガー、松井秀喜選手の背番号だということで、石川県の皆さんは喜びも一入のようである。これを契機として、同教区の運動はさらに発展するに違いない。

 私は午後の講話で、最近新聞で見つけた“よい話”を1つ紹介する予定だったが、時間が足りなくてかなわなかった。そこで、この場を借りてやらせていただきたい。この話は、6月10日付の『ヘラルド・トリビューン』紙の論説欄に、ピコ・ライヤー(Pico Lyer)という人が書いていたものだ。「少ないことの喜び」(The joy of less)という題の文章で、「幸福とは、我々の環境条件にあるのではなく、そこから何を得るかにある」という主旨である。このことはよく言われることではあるが、実際の経験談として語られると説得力をもつ。

 ライヤー氏は若い頃、アメリカの時事週刊誌『タイム』の国際問題担当記者として活躍し、ニューヨーク市の一等地であるパーク街のアパートに住み、ビルマやモロッコ、エル・サルバドールなどの保養地で休暇を過ごせるほどの収入を得ていたという。ところが、そんな彼がやがて気づいたことは、そういう貧しい途上国にいる人々が、生活苦の中、時には戦火の中にあっても、自分が育った平穏なカリフォルニア州サンタ・バーバラ市の人々よりも、生き生きとしていて、明るくさえあるということだった。自分が昔から知っているアメリカ人の多くは、4回目の結婚をしながら毎日心理カウンセラーの治療を受けていたりするというのである。もちろん、貧困では幸福は買えない。しかし、金でも幸福は変えないことも確かだった。
 
 そこで、ライヤー氏は、アメリカでの心地よい生活と仕事を捨てて、京都の裏通りにある寺で1年間、過ごすことにした。そういう場所ならば、月を見て俳句を作ったりする高潔な生き方ができると思ったのである。ところが、実際の寺での生活とは、拭き掃除や掃き掃除ばかりをするという生活だった。
 
 それから21年たった今、彼はまだ京都近郊にいる。住んでいる2部屋のアパートは、寺での自分の部屋よりはるかに狭い。自転車も、車ももたず、テレビはあっても理解できず、新聞や雑誌も読まない。しかし、使える時間は永遠に続くかのようで、足りないと思ったことは一度もない。彼は、出家僧ではない。また、いろいろのものを捨てたことが、全く寂しくないのではない。自分の書いたものを印刷するのに小1時間の旅をしなければならず、また、大リーグの決勝戦を見れないことが嬉しいわけではない。しかし、ある時点で、こういうことに気づいた--少なくとも自分にとっては、幸福とは、自分が「したい」とか、「しなければならない」と思わないことから生まれるのだと。
 
 自動車をもたないことで、自動車に関する様々なことに煩わされなくなる。携帯電話やインターネットが使えないことで、彼は毎夕、ピンポンに興じたり、古くからの親友に長い手紙を書いたり、愛する人とショッピングに出かけることができる。そして、3カ月に1回ほどアメリカにもどり、そこで新聞を眺めても、何か重要なことを聞き逃したなどと思ったことは1度もないという。彼が、好きな本をじっくりと読んでいた間、24時間ニュースを7日間流し続けるローラーコースターのような情報の渦は、人々の心を突き上げたり、突き落としたり、また上げたり、そして落としたりして、結局、最初にいた所とあまり違わない所へもどすだけだ。
 
 だから、ライヤー氏が言うには、外面的な些事や社会的な業績みたいなものは、自分の心に深い幸福感を与えないのである。彼の考えでは、幸福は--平和や情熱と同じように--それを追求しないときに最も自然に現れるのだ。幸福とは、自分の必要以上に望みを拡大させないことから生まれるのである。(Happiness comes from matching your wants to your needs.)
 
 ここまでが、新聞記事の紹介である。すでに与えられているものを十分に感謝して受け取り、人々と共有する「日時計主義」を生きるための、よいヒントがここにあると思う。
 
 谷口 雅宣

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コメント

合掌ありがとうございます。

 本日の「幸福は環境条件にはない」を拝読しまして、“パッ”と365章シリーズのどこかにあった「幸福」の天使(てんのつかい)の物語を思い出しました。『光明道中記』だと思い、探しましたら「4月14日 幸福の声を聴く日」と「4月15日 喜びに招かれる日」(120~121頁です)にありました。
 又、6月14日は、猿沢池ほとりの猿沢荘にて栄える会の「勉強会」がございまして、教化部長先生より教区では伝説(語り草)となっている程と仰っていましたが、谷口雅春大聖師と猿沢池の“エピソード(出来事)”を聞かせていただけました。
 その猿沢池も訪れる事が出来まして、ただ感謝合掌する(気持ち)ばかりでした。
 天気も快晴で、近くには“コウフク”寺もあり、谷口雅春大聖師を偲ばせて頂きました。
 最後に、『光明道中記』で“はしがき”を改めて拝読しておりますと、初版が昭和14年で、改訂が昭和49年でございました。初版から70年で驚きましたが、改訂版も中間の35年と云うことにも吃驚(びっくり)しました。
 35年+35年と長い歳月にもかかわらず、 光 明 を放ち続けられていることに、ただただ合掌させて頂くのみです。

ありがとうございます。 合掌礼拝

投稿: 黒木 康之 | 2009年6月16日 22:24

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