臓器移植の先に見えるもの
6月9日と同13日の本欄で、臓器移植法の改正をめぐる動きについて少し書いた。この問題は、臓器の提供側と受け手側の利害が必ずしも一致しないところに、基本的な問題がある。提供側が前もって提供の意思と時期(心臓死か脳死か)を示していれば、両者の利害は一致するから、問題は起こりにくい。それでも、提供者本人でなく、家族の感情の問題は残るかもしれない。これに対して、事前に提供者の意思が示されていない場合、家族にそれを決める責任と負担が生じる。家族全員が一致した判断を下せれば、それでも負担は少ない。が、そうでない場合、家族構成員の間に感情的なシコリが残ることも考えられる。
これが提供側の問題だが、受け手の側では少し種類の違う問題が生まれる。それは「他人の死を待ち望む」という心理状態になることである。倫理感が確立していない子供の場合、この心理状態はさほど負担でないかもしれないが、成人した人間にとっては、個人差はあるにしても倫理的ジレンマは感じられるだろう。これを克服し、幸いにも移植臓器を得た人は、提供者に対して感謝の念を強くもつに違いない。が、感謝しようとしても本人は死亡しているのだから、その思いは、提供者の家族に対して、手術をした医師に対して、あるいは移植を可能とした社会に対して向けられるかもしれない。これはよいことだ。また、他人に助けられたことで、社会への奉仕を志す人も出てくるかもしれない。これも、よいことだろう。しかし、これとは反対に「臓器を得る権利がある」などと考える人も出てくるだろう。
以上は、臓器移植にかかわる個人の問題だが、社会全体を見るとどうなるだろうか。現在の臓器移植法が扱っている範囲は、死んだ人(心臓死と脳死)の臓器だから、社会全体では一種の「臓器のリサイクル」制度のようなものだ。この言い方が悪ければ、「臓器を使えるうちに他人に回す」制度である。摘出された1個の臓器は、基本的には1個のまま他の人に移植される。そういう「1対1」の関係がある。ところが、提供される臓器が足りないと考える人の間では、臓器の「リサイクル」ではなく、「創出」の技術も開発されつつある。つまり、新しく臓器をつくるのである。これができれば、臓器の提供側の問題はもちろん、受ける側の倫理的ジレンマの問題も軽減するし、移植にかかわるコスト削減につながる可能性もある。
そんな技術の確立を目指しているのが、いわゆる「再生医療」と呼ばれている分野である。この技術は一見、倫理的な問題が少なく理想的に思えるかもしれないが、そう簡単ではない。本欄で何回も言及してきた「ES細胞(embryonic stem cells)」や「iPS細胞(induced pluropotent stem cells)」の技術が、まさにこの分野の先端である。が、ES細胞には「受精卵を使う」という問題があり、iPS細胞には「ガン化のリスク」があることを書いてきた。本欄では、卵子や精子などの生殖細胞を除く「体細胞」を利用した再生医療の進展に期待を示してきたが、iPS細胞の研究はこの分野に属する。が、それ以外の体性幹細胞(成人幹細胞)を利用した再生医療の研究も進んでいる。次回の本欄では、それを紹介しよう。
谷口 雅宣
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コメント
臓器移植の問題は、子供の時からよく考えさせられる問題です。単純に考えると、移植で治せる人のために臓器を提供する事は良い事なのではないかと思っていました。
だから、日本で年齢制限があり、幼い希望者がアメリカなどで多額の負担を強いられながら移植を待つ姿などが報道されるのを目にする度、はがゆい思いをしてきたのは事実です。
自分も、一応脳死移植を受け入れる立場から、臓器移植提供に全て同意するカードを持っています。
しかし、それが本当に正しいのかどうかと問われると、自信はありません。だから、他人に勧める気にもなりません。
科学や医学の発達によって、もっと最良の方法が採用される日も来るでしょうし・・・。
とにかく、倫理や人の魂の問題を置き去りにして安易に突き進んでよい問題ではない事だけは、確かなのでしょうね。
本当に難しいです。
投稿: 岡本 淳子 | 2009年6月17日 09:38