« 生長の家つくば会館 | トップページ | ウソの看板は降ろそう »

2009年6月29日

多様なる幸福

 アメリカの黒人音楽を世界に広めたポップ界の“スーパースター”、マイケル・ジャクソンが亡くなった。50歳の突然の死で、薬物の過剰摂取が疑われている。子どもの頃から才能を認められ、数々のヒットを飛ばし、巨万の富を得たが、やがて様々な奇行やスキャンダルが報じられ、巨額な訴訟費用で財産を減らし、そして、再起を期している時、突然の死を迎えた。才能も、名誉も、富も得た彼だが、はたして幸福な人生だったろうか、と思う。
 
 6月14日の本欄では、元米時事週刊誌『タイム』の国際問題担当記者だったピコ・ライヤー氏(Pico Lyer)の「幸福とは、我々の環境条件にあるのではなく、そこから何を得るかにある」という考え方を紹介して、日時計主義との共通点を指摘した。日時計主義は、すでに与えられているものを十分に感謝して受け、人々と共有するところに幸福を見出す。この考え方によると、幸福とは、「神の恵みへの感謝と、それを他者と共有するときに味わう一体感」と言えるだろう。となると、幸福とは一種の“主観的感覚”というようにも聞こえる。別の言い方をすると、客観的条件がどんなに(悲惨)であっても、本人が幸福だと感じていれば、そしてその幸福感を(少数であっても)他者とともに味わうことができれば、それが幸福ということになる。
 
 この論法をジャクソン氏の生涯に適用させると、彼の人生が幸福であったかどうかは本人に聞いてみないと分からない、ということになる。しかし「死人に口なし」だから、本当のことは分からない。わずかに分かるとしたら、彼が死ぬ間際にダイイング・メッセージでも残していて、そこに「私は幸福だった」という意味のことが書いてあれば(あるいは録音されていれば)、本人の公私の生活がたとえどんなに荒んでいても「マイケル・ジャクソンの人生は幸福だった」と言える。こういう言い方に何か問題があるだろうか? あるとしたら、それは何か?
 
 読者は、この論法に違和感を感じるだろうか。私は少し感じる。その理由は恐らく、一般に「幸福」を考えるときに、我々はそれを測定するための何らかの“標準”や“基準”があると考えているからだ。まったく基準がなく、「本人が幸福だと思えば幸福」なのでは、「幸福を追求する権利」などというものは、ほとんど意味がなくなるような気がする。なぜなら、人間というものは、奇妙なことを含めて、ほとんどあらゆることに幸福を感じるからだ--「爪を噛む」「吊革を集める」「ガンダムを収集する」「皿を割る」「女装をする」「公園で裸になる」「バンジー・ジャンプをする」……等々。
 
「幸福は死ぬ時に決まる」という考え方がある。ある人が若い頃からどんなに成功し、名声をほしいままにし、大金持ちになり、美女と結婚し、幸福な家庭をもち、社会のために尽くし、人々に尊敬されたとしても、歩道橋に落ちていたバナナの皮で足を滑らせて転落死したならば、その人は不幸だということになる。少なくとも、古代ギリシャ人はそう考えた。哲学者のサイモン・クリッチリー氏(Simon Critchley)は25日付の『ヘラルド朝日』紙に、そういう意味のことを書いている。この考え方は、上で触れた“幸福主観論”と180度異なるものだ。幸福とは、本人の主観とは関係なく、他人がその人をどう語るかによって決まるというのである。だから、死に方が愚かであれば、その人は幸福とは言えなくなる。

 この考えを“客観的幸福”と呼べば、前に書いたのは“主観的幸福”といえるだろう。この両方の意味で幸福な人は、本当に幸福なのかもしれない。
 
 谷口 雅宣

|

« 生長の家つくば会館 | トップページ | ウソの看板は降ろそう »

コメント

マイケル・ジャクソンさんの突然の死はショックでした。
偉大なアーティストなのに余りに悲しい人生だったという報道に、なんともいえない想いを抱きました。
ご冥福をお祈りいたします。

投稿: 岡本 淳子 | 2009年6月30日 22:58

ありがとうございます。


先生がガンダム御存知でびっくりしました。僕もガンダム少し持っています。

「ドラゴンボール」や「ポケモン」「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」もご存知ですか?(わからなかったらすみません)

投稿: 奥田 健介 | 2009年7月 2日 07:36

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 生長の家つくば会館 | トップページ | ウソの看板は降ろそう »