映画『スラムドッグ$ミリオネア』
私にとっては大型連休の最終日である7日、日比谷で映画鑑賞をした。現代のインドを舞台とした『スラムドッグ$ミリオネア』で、今年のアカデミー賞8部門受賞という鳴り物入りだ。が、派手な印象はまったくなく、予想していた混雑もなかった。インド生まれの作家の小説を原作に、イギリス人監督によるインド人の映画だ。こういう映画を見たのは初めてなので、一種のカルチャー・ショックを経験した。とにかく、インドのスラム街とそこで生きる人々の生活が、子供である主人公の視点から克明に描写されるのが衝撃的だ。この“衝撃”とは、ゴミの山と排泄物、売春、暴力、不正、不条理がひしめく中に、貧困を知らない人がいきなり放り込まれた時、感じるような衝撃だ。
荒筋を簡単にいえば、この貧民街から出た1人の少年が、テレビのクイズ番組を奇蹟的に勝ち進んでミリオネアになる--それだけだ。私は、映画を見る前からこの程度の筋を聞いていたから、少年はトンデモない天才か秀才かと思っていた。しかし、そうではなく、主人公が困窮生活の中で知ったことが、ちょうどうまい具合にクイズの問題として出る、という“よい偶然”の連続によるのである。これだけだと「うまくできすぎた話」で終ってしまうが、主人公がそういう知識を得るために、どのような苦境を乗り越えてきたかが、フラッシュバックの手法で、たたみかけるように画面に映し出されるのが、何とも迫力がある。主人公は「ジャマール」という名前の男の子だが、幼少時代(7歳)、少年時代(13歳)、青年時代(18歳)を3人の俳優が演じる。その3人の間に見事な一貫性がある。
この一貫性を補強するのが、愛情である。主人公には幼少期から一緒に育った「ラティカ」という女の子がいて、その子との兄妹愛のようなものがやがて恋愛に育ち、その子と一緒になりたいという純粋な動機から、ジャマールはクイズ番組に出るのである。社会的には階級制度がまだあるインド社会で、最下層に属するこれらの人々が、純粋な動機によって“頂上”を目指すという物語の構造が、観客の共感を誘うのだろう。それからもう一つ、「運命」(destiny)という言葉がこの映画のキーワードだ、と私は思った。映画の各所で、主人公は思いつめた目で「これは運命だ」という言葉を吐く。そして、困難を次々に克服してしまう。私は最初、これは単なる口癖だろうと思ったが、もっと深い意味があるようだ。
主人公の育った貧民街の人々は、ヒンズー教が盛んなインドでは少数派の、モスレム(イスラーム信者)のようだ。ヒンズー教徒から襲撃されたことや、ジャマールの兄が神に祈る姿から、そう言えると思う。すると、イスラームの信仰の中にある「運命の獲得」という考え方が思い出される。普通、「運命」とは、生まれた時から存在する一定の“人生コース”のようなものを言う。だから、それはすでに「在る」ものであり、神から「与えられた」ものである。ということは、人間が努力によって手に入れるべきものではない。ところが、一部のイスラームでは、人間は信仰とこの世での努力によって、「よい運命を獲得する」という考え方が採用されている。これを「運命の獲得」論と呼び、難解なことで有名だ。(詳しくは、拙著『衝撃から理解へ』、pp.156-157参照)
この映画では、主人公はイスラーム信仰者として明確には描かれていないが、彼の貧困から脱しようとする懸命な努力と、ラティカへの一途の愛は明らかだ。また、彼がクイズ番組に出ている時、その目は確信に満ちている。そして成功するたびに、「これは運命だ」という言葉が口から飛び出す。その結果、クイズに勝って、恋人も手に入れてしまうのである。これを見て、私は「よい運命を獲得する」という理論は、神学者の理論としては難解でも、実践者あるいは信仰者の理論としては分かりやすい、と妙に納得してしまった。
谷口 雅宣
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コメント
とてもよく考えられた脚本の映画ですね。
日本映画『おくりびと』と米国アカデミー外国部門賞を競った一本でしたので興味がありました。
私は明日引っ越しで、残念ながらこの映画を観る事は出来ませんが、インドの貧困層は、想像を絶するものではないかと思います。
今もそれは紛れもなく存在し、続いている現実を考えずにいられません。
かのマザー・テレサがインドで暮らしていたのですから…。
神様ありがとうございます。ありがとうございます。
投稿: Y.S | 2009年5月 9日 07:04
合掌ありがとうございます
愛知教区青年会の千崎晶美と申します。
この映画について、総裁先生はどのように解釈されるのだろうか・・・?と考えていたところでしたので、初めてにもかかわらず思わずコメントを書かせていただきました。
私は4月末に、職場の先輩に誘われてこの映画を観ました。
衝撃的な描写とともに、宗教的な背景などどのように受け止めたらいいのだろうか・・・と迷う部分も多かったので、
総裁先生がわかりやすく解説してくださり、納得することができました。
ありがとうございます。
一緒に観た先輩は10年ほど前に、インドに旅行で行ったことがあり、映画で描かれた状況そのままが目に入ってきたそうです。
場合によっては、実の両親が子どもの片手を切り落としてでも所謂“施し”を誘うという情報もあるそうで、その先輩は自分の中に明確な基準を見つけることができず、どなたにも“施し”をすることなく帰国したそうです。
しかし、『おくりびと』主演の本木雅弘さんが仰っていたように、人生観や死生観への考え方に変化はあったと話してました。
この映画全体としては、エンドロールまでインドの映画に必要な、老若男女どの世代でも楽しめるような要素も含みつつ、メッセージ性も強い作品としてまとめているところに、インド文化の力強さを感じた気がします。
曲がりなりにも信仰心をもつ身としては、深く考えさせられ真理をまっすぐに学ぶ大切さを感じさせられました。
再拝
投稿: 千崎晶美 | 2009年5月 9日 23:28
合掌ありがとうございます。『スラムドッグ$ミリオネア』面白そうですね。今度時間があったら是非見てみたいです。
先生はこの間のブログでも映画の紹介をして下さっているので、僕も最近観た映画を紹介させて頂きます。
つい2週間程前の事ですが、その映画は僕が仕事から家に帰ってたまたまつけたテレビでやっておりました。
それは2004年12月に日本で公開された韓国映画『僕の彼女を紹介します』です。
作品自体は知っていたのですが、当時は特に見る事なく、今回初めて観させて頂きました。
その時は途中から観たのですが、終わった時不思議と肉体への執着が抜けている
自分に驚きました。
何て言うか、うまく説明できないのですが。おそらくこちらが現象的感覚で観ていたのであれば、もしかしたら普通のよくある感動的な映画で終わってしまていたのかも知れません。ただ、ちょうど最近『生命の実相』を読む週間が出来ていて、その日も帰りの電車で熟読してきた直後だったので、そう見えたのかも知れません。
最初から見てみたくなった僕は次の日ビデオショップへいきました。そしたら少ない中古DVDの中に1本だけあるのが僕の目に飛び込んできました。まるで僕を待っていたかのように。
そしてDVDを再生して映画が始まると、まずいきなり最初のシーンをみて「えっ、何これ?」という感じでとても驚きました。その後はしばらく普通のラブコメディ映画みたいなシーンが続くのですが、僕がテレビで観たのはその後のシー
ンからでした。
しかし観れば観るほど「人間は肉体ではない、永遠生き通しの生命である」メッセージが隠れているような気がしてなりません。偶然こういう構成になったのでしょうか。それとも監督はそのメッセージが心に響きやすいようにこういうシナ
リオを考えたのでしょうか。
でも意識的にしても無意識にしても、どこかでわかっているのかも知れませんね
。
興味のある方はぜひ御覧になって下さい。普通に観ても涙なしではみれないかなりの名作だと思いますよ。
ちなみにこの映画のパッケージを現在意識にたとえて、中身を潜在意識にたとえると、その表面のイメージと中身がここまで違う作品というのは僕の今までみた中では記憶にありませんね。
また、言うまでもなく、途中出てくる悪現象は本物ではなく作られたものです。また、凶悪殺人犯もそういう役を演じているだけで、本当は素晴らしい役者さんです。(笑)
普段の日常生活やいろんな面でも見かけでは判断できないことも沢山あるようで
す。
心の眼が少しずつ開けてくるにつれ、今まで気付かなかったいろんな導きに気付かせて頂き、神様の御業にただただ驚くばかりです。
日々の神想観で本物を観る眼を養うことが大切だと感じました。
投稿: 澤田敏宏 | 2009年5月12日 10:25
スラムドッグ~、アカデミー賞をとった作品ということで、
公開初日に見に行きました。
正直言って、ちょっと期待はずれでした。
脚本がイマイチな気がしました。(ストーリーが先読みできすぎて)
主人公のラッキー人生よりも、兄が神に懺悔しているシーンや、ラティカに謝るところが心に残りました。
1箇所だけ今だに理解できないのが、宗教暴動で母親が殺さ
れた後、ジャマールが目撃した全身が青い男の子は「神」な
のでしょうか?
どなたかご存知でしたらお教えくださいませ。。。
投稿: はぴまり☆ | 2009年5月12日 14:49
はぴまり☆さん、
全身が青い男の子ですが、あれはヒンズー教の神様だと思います。が、もしかしたら、人間の男の子がそういう“仮装”をしていたのかもしれません。とにかく、あれはヒンズー教の過激派が、イスラームのコミュニティーに対して攻撃をかけているシーンだと私は理解しました。その象徴的映像として、あの男の子の姿があるのだと思います。
投稿: 谷口 | 2009年5月12日 22:03
先生、ご回答ありがとうございました。
胸のつかえが取れた感じです。
それで主人公があのシーンを思い出しながら、
「ラーマとアラーさえいなければ、僕たちは…云々」
と悲しそうに語っていたんですね。。。
投稿: はぴまり☆ | 2009年5月12日 22:54