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2009年5月30日

信仰による戦争の道 (2)

 これに対して、もっと厳しい評価をしているのが、前回の本欄で言及したジェームズ・キャロル氏の論説である。彼によると、この資料カバーの一件は外部に知られようが知られまいが、政治的・軍事的判断を誤らせる極端な種類のキリスト教信仰が政権トップにあった証拠だとし、9・11以後のブッシュ政権の外交政策全体に疑問を投げかけているように見える。
 
 キャロル氏が指摘する宗教的狂信の危険性とは、次のようなものだ--

①目的遂行に固執した宗教的熱狂は、宗教についてだけでなく、政治・軍事方面にも批判的精神を受けつけない。

②軍の内部で改宗を進める者は、部隊の結束を築くために、「イエス」のような宗教的シンボルを利用して個々の兵士が作戦の目的、指令、そしてそれに従う自己に対する疑念を払拭させようとする。しかし、疑念というものは、他の選択肢への道であるから、軍指導者の最大の友である。

③死後の世界や死後の救いを最高の価値とする信仰は、現世を生きる価値を低く見る。特に、破壊と暴力の後に来る“神の国”を望む終末への信仰は、そういう破壊と暴力を惹き起こす要素となる。

④宗教的原理主義は、教典に書かれた言葉の一言一句を文字通りに尊重して、その言葉が書かれた文脈を無視する傾向がある。そして、そこからは、これと似た“軍事的原理主義”を生む可能性がある。それは、目の前にある軍事的脅威にのみ注目し、それが生まれてくる原因--例えば、「なぜこれだけの数の自爆攻撃志願者が生まれるのか?」などという、より広い社会的・政治的“文脈”を無視する傾向である。

⑤自分を“神の意志を実行する軍隊”として見るものは、戦場でも“神”のようにふるまう傾向がある。すなわち、遠方から自らの手を汚さずに、非戦闘員を含めた敵地の住民に対して過大な力を行使する傾向である。

⑥世界を“善”と“悪”に二分して見る宗教的視点は、敵地の住民の本当の意志や感情を見誤らせる。

⑦3つの一神教の聖地がある中東地域は、この種の宗教的狂信による武力行使を許す場所としては最悪の場所である。

 私は上の分析に概ね賛成するが、⑤については異議を唱えたい。なぜなら、ここで指摘されている「神のような振る舞い」とは、「残虐で無答責」という意味だからだ。旧約聖書に出てくる“神”は、確かにそのような振る舞いをするのだが、そのような神への信仰は、生長の家とは無縁である。しかし、人間を罪深く、価値の低い存在として見る信仰では、全能の絶対神は、人間を虫ケラのように殺戮して何ら顧みることはない。だから、そういう「特定の神」への信仰が問題なのであって、「神への信仰」一般が残虐行為を生むと考えるのは間違いである。また、⑥については、本欄ですでに何回も書いてきたように、「唯神実相論」の生長の家ではありえない考え方である。

 このように考えてくると、「神への信仰」一般が政治や軍事面での正しい判断を誤らせるのではなく、その信仰の内容が問題であることが分かる。神のほかに“悪”があると信じたり、神は罪人を容赦なく罰するという種類の信仰に身を任せる人々は、いったん“悪”のラベルを貼った人に対しては、人権無視の残虐な仕打ちをする傾向がどうしても出てくるだろう。それは、相手に対する自信というよりは恐怖心の裏返しなのだ。そして、アブグレイブやガンタナモ収容所での数々の悲劇が起っていった。私には、そう思えるのだ。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年5月29日

信仰による戦争の道

 2001年9月11日の同時多発テロ事件以後、本欄ではアメリカの前大統領ジョージ・W・ブッシュ氏がイラク戦争を開始した“理由づけ”に関して、懐疑論を唱えつづけてきた。ブッシュ氏によると、イラク戦争は一種の“自衛”のための戦争であり、したがって正当化される。その主な理由は、①9・11の首謀者であるオサマ・ビンラーデンをイラクが支援してきた、②イラクは核兵器を含む大量破壊兵器(WMD)を開発している、の2点だった。ただし、これだけでは、伝統的な自衛戦争の開始要件を満たさないので(つまり、イラクからの攻撃は受けていないから)、これらに加えて、③その国家がアメリカないしアメリカ国民を攻撃する意図をもっている、という要件を満たした場合は、実際に攻撃を受ける前であっても(または、攻撃を受ける前にこそ)“先制攻撃”または“防衛的介入”を行う権利がある--こういう新しい戦略理論を打ち出したのだった。これが有名な「ブッシュ・ドクトリン」である。さらに、この理論にもとづいてアメリカの攻撃対象になりうる国を“悪の枢軸”として特定した。

 これらの理論は、9・11後のアメリカの“テロとの戦争”に向けた“新しい戦略”として、純粋に政治的な観点から策定されたように見える。私も長い間、そう思っていた。しかし、その一方で、ブッシュ氏はキリスト教右派の強力な支援を受けてきただけでなく、本人が「神」や「宗教」を信仰することを公然と認めてきた。このことは、政策としては人工妊娠中絶反対やES細胞の研究への制限など、好ましい結果に結びついていた。私は、そのことを評価するのにやぶさかでない。しかし、ブッシュ政権の最大の問題は、アフガニスタンとイラクで2つの戦争を始め、それが大統領退陣後も継続され、現在に於いても多くの人々に死や苦しみをもたらしていることだ。だから、この2つの戦争を生み出したブッシュ氏の戦略理論には、どこかに問題があるのである。私は、その問題点は「悪を認める」という同氏の、宗教的な信念とも思える強い態度であると指摘してきたが、その態度が個別具体的にどのような誤った判断を生み出したかについては、よく分からなかった。
 
 ところが、最近になって、イラク戦争開始当時の大統領近辺の情報が明らかになるとともに、この疑問に一部光を当てると思われる文書が発見され、アメリカのメディアなどで取り上げられている。それを簡単に言えば、「ブッシュ氏は聖書の言葉からヒントを得て戦争を始めた可能性がある」ということだ。アメリカにいかにキリスト教信者が多いとしても、大統領が聖書の言葉に触発されて戦争を始めたとすると、アメリカの“国是”とも言われる「政教分離」の原則と矛盾するばかりか、アメリカという国家の情報処理能力や判断の信頼性にも疑問が出る事態にもなりかねない。
 
 私は、5月26日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に載ったジェームズ・キャロル氏(James Carroll)の論説から、このことを知った。キャロル氏によると、『ジェントルマンズ・クォータリー』(Gentleman's Quarterly)という季刊誌の最新号にロバート・ドレイパー氏(Robert Draper)が書いた記事が、最初にこのことを伝えた。この記事には、ブッシュ時代の国防長官だったラムズフェルド氏が政権内部においてどれほど嫌われ、また一度決まった方針でも、自分の気に入らないものの実施をどうやって遅らせてきたなどという、“ラムズフェルド悪玉論”が展開されている。が、その記事の最初のところに、イラク戦争開戦前後、国防総省が大統領のブリーフィングのために使った文書の中に、戦場の兵士などの写真を聖書の言葉で飾った資料が含まれている、との指摘があるのである。
 
 記事によると、この資料の作成者はラムズフェルド氏自身ではなく、統合参謀本部と国防長官に直接情報を提供する立場にある空軍のグレン・シャッファー少将(Glen Shaffer)の発想によるもので、開戦前の段階では、戦いを前にした政権中枢部の緊張感をほぐす目的で、ユーモアのつもりで作られた資料カバー(cover sheets)だったそうだ。が、戦争が始まり、死者が出はじめると、クリスチャンであるシャッファー氏は資料カバーに聖書の言葉を使うのがいいと考えたらしい。しかし、同省上層部にはイスラーム教徒の分析官もいたから、国防総省内の何人もの同僚はこれに反対した。が、シャファー氏は「上司のリチャード・マイヤーズも国防長官も、それに大統領自身がこれをお好みだ」と答えたという。
 
 ここで問題になるのは、戦争の開始や目的遂行に必要な冷静な判断と宗教的信念とが両立するか、ということだ。記事を書いたドレイパー氏は、「このことが知れたら、このようなイメージは“ブッシュ政権は宗教戦争を遂行しようとしている”との印象を強め、イスラーム世界との緊張感を高めることになる」として、疑義を表明している。

 谷口 雅宣

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2009年5月28日

絵手紙・絵封筒ワークショップ

 今日は朝から、東京・大手町の逓信総合博物館(ていぱーく)の2階で行われている「光のギャラリー 絵手紙・絵封筒展」へ行き、10時からのワークショップを担当した。この展覧会は、TKこと小関隆史氏が運営している絵手紙ブログ「アトリエTK」に投稿された絵手紙・絵封筒の作品を展示したもので、26日から始まっている。小関氏のブログには私も絵封筒を主体に投稿してお世話になってきたので、同氏の依頼をうけて、絵封筒や絵手紙を実際に制作するワークショップの“指導”をすることになった。
 
Tkphoto08  しかし、私は絵については正式な勉強などしておらず、趣味の範囲を出ないと思っているので、人を“指導”する立場にない。そこで、私の時間は「私は絵封筒をこうして描く」という題にしてもらい、主に自分の経験を参加者にお話しすることにした。ただ、生長の家には芸術連盟もあり、現在、新しいタイプの誌友会(少人数の教えの勉強会)で技能や芸術表現を扱うことになっているので、生長の家の教えと芸術表現との関係についてきちんと述べる必要がある。幸いにも、私の書いた小冊子『自然と芸術について』(生長の家刊)がこの日に間に合うように出版されたので、それをテキストに使いながら、50分ぐらいのトークと、絵手紙・絵封筒の制作実習、作品の講評を(あつかましく)行わせていただいた。
 
 TK氏からは事前に、ワークショップの参加予定者は15人ほどと聞いていたが、木曜日は生長の家本部が休館のこともあり、結構多くの本部職員が来てくださったので、狭い会場は人で埋まった。妻も参加者として来てくれた。私のトークは、前半を教えと芸術との関係、後半を私の絵封筒の描き方に分けたが、前者は内容が硬いのでほどほどにして、後者に力点を置いたつもりだ。前者に興味のある人は、上掲の小冊子の方をじっくり読んでいただきたい。後者について知りたい方は、このワークショップはビデオ録画してあるので、いずれご覧になれる機会が来ると思う。

 この展覧会とワークショップは31日(日)まで続くので、首都圏の有志の方はこぞって参加されたい。出品者は98人、作品点数は絵手紙215点、絵封筒74点である。明日以降のワークショップの予定は、次の通り(括弧内は担当者名):

       午前の部(10:00~12:00)    午後の部(14:00~16:00)
 29日(金)「絵手紙・絵封筒にチャレンジ」  「ポストカードをつくろう」
        (小関 隆史)        (竹内 芳美)
 30日(土)「スケッチを生かした絵封筒」   「ポストカードをつくろう」
        (玉井 亜季)         (竹内 芳美)
 31日(日)「楽しく描こう 絵手紙・絵封筒」「ハガキ・封筒に自由に描いてみる?」
        (栗原 麻衣)         (山本 英輔)

 谷口 雅宣

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2009年5月27日

自然エネルギーは無限? (2)

 本欄に25日に出した“クイズ”の正解を言おう。
 現在、地球に存在していて利用可能の自然エネルギーの量は、

 ①水力 → 7.2TW
 ②風力 → 870TW
 ③太陽光→ 86,000TW
 ④地熱 → 32TW

 ということのようだ。
 これに比べて、人類全体が現在消費しているエネルギーの総量は「15TW」でしかないのだそうだ。

 この数字が正しければ、太陽エネルギーの利用技術を開発することで、人類のエネルギー問題は解消してしまうことになる。私はこの数字を知って、まさに“目覚むる心地”がしたのである。英語にも「eye-opening」という言葉がある。目がまん丸に開いてしまうとと共に、スッキリと問題が整理されるということだろう。それに、上に掲げた自然エネルギーの分類は、厳密にいうと“排他的”でない。つまり、それぞれの分類の中に他の分類の要素が混じることがないのが“排他的”選択肢だ。ところが、「水力」とは、地上での水の循環(降水 → 河川 → 海水 → 蒸発)の力を利用したエネルギーだから、これが起こる原因には太陽から来る熱が含まれている。また、「風力」が得られるのも、太陽から来る熱が大きな原因だ。「地熱」についても、地球が誕生した原因は太陽だから、地中のマグマは太陽からの恩恵でもある。

 このように考えていけば、人類が太古から「太陽神」を拝んできたことは、まったく“合理的”と言えるのではないか? 太陽エネルギーはまた、我々人間の肉体を内部から支えてくれてもいる。何のことかといえば、それは「人間の食物」のことだ。食物連鎖のピラミッドを思い出してほしい。最下段にあるのは「植物」だが、これは太陽エネルギーを光合成によって内部に取り込んで生きる。この植物の貯めた栄養素を食べて「動物」が生きている。そして人間は、この双方を食して肉体生命を維持しているのだ。
 
 では、化石燃料とは何か? それは、太古に生きた植物や動物の死骸が地中深くに埋もれ、永い時間の経過の中で化学反応を起こし、可燃性の固体や液体、気体に変化したものだ。ということは、これまた太陽の恩恵なくして考えられない。今日、人類が抱えている最大の問題である地球温暖化は、これらの太陽エネルギーの蓄積を“正しく”利用できていないところに原因がある。言い直せば、地下に蓄積された太陽エネルギーを偏って利用しているために、地上と大気圏内での太陽エネルギーの循環を加速させているということだろう。となると、これを抑制するためには、地下に蓄積されたエネルギーの利用を減らし、地上で得られるエネルギーをもっと利用すればいい。つまり、地下資源の利用を減らし、地上資源の利用を増やすことで事態は解決する。中でも、太陽光の直接利用はきわめて合理的と言わねばなるまい。

 最初に掲げた数字から単純計算をすれば、太陽は、現在の人類のエネルギー需要の実に「5,700倍」もの莫大なエネルギーを、常に地球に降り注いでくれているのである。
 
 --天照御親神の大調和の命射照らし地球(くに)静かなりぃ~。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月26日

特大シュークリーム

 昨日は夕食時の私たち夫婦の会話を紹介したが、今日は、夕食のデザートのことである。今朝、妻が銀座に行くというので、私は「何かおいしいものを……」と言って、土産を所望した。それで買ってくれたものがシュークリームだった。

 妻は、初めからそれを買うつもりだったわけではない。が、昼前に、ある洋菓子店の前を通りかかったら短い人の列ができていて、「12時から限定販売いたします」というアナウンスがあったとかで、興味をもって並んだという。本を読みながら待っていたら、彼女の後ろにはいつの間にか長い列。そのうちに店員が注文を聞きにきたので、“最小単位”はいくつかを尋ねたら、「3個セットで630円」だったそうだ。だから、それを買って帰ってきたのだそうだ。
 
Etegm090526  夕食後、焦げ茶色の直方体の紙箱から出てきたそれは、楕円形の長径が10㎝、短径が8㎝もある大きなシュークリームだった。皮の表面にはクランベリーの小片と粉砂糖が振りかけられていて豪華だ。また、皮の一部から中身のカスタードクリームが少し見えているところが、またおいしそうだ。丸ごと1個は大きすぎるので、私たちはそれを半分に分けた。かじってみると「甘い!」と思いきや、クリームは案外薄味で上品な甘さだったのがまた良かった。ごちそうさまでした。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月25日

自然エネルギーは無限?

 夕食時に帰宅した私に向かって、妻がやや紅潮した顔で今日の英語のレッスンで学んだことを教えてくれた。ニュース記事等をもとにしたヒアリングと読解、ディスカッションの教室だが、まずカナダ人の先生が作ったクイズを生徒みんなでやったところ、彼女は全問正解だったというのである。そのクイズとは、地球上で得られる自然エネルギーの量と、現在、地球全体で人類が消費しているエネルギー量を比較して、どのエネルギーがどのくらいの量かを当てるものだという。ここでいう自然エネルギーとは、①水力、②風力、③太陽光、④地熱、の4種類で、これらの利用可能量と、人類全体のエネルギー消費量(⑤)がそれぞれどれほどか、というのである。

Squares  もちろん、専門家でもなければそれらの数字をすべて覚えていないから、5つのエネルギーの数値が概数で示されている。だから、それら5つの数字が、それぞれどのエネルギーに当てはまるかを言えばいいのである。エネルギーの単位は「ワット(W)」であるが、量が大きいので、「1兆ワット」を意味する「テラワット(TW)」の単位で表記する。すると、ここに掲げた図のように、それぞれのエネルギーは「86,000」「870」「32」「15」「7.2」のうちいずれかに当てはまるという。図の中の「 a~e」の四角にエネルギーの名前を記入せよ--こういう問題である。
 
 エネルギー量の見当をつけるために、例を挙げると、1960年代から1990年代にかけて製造された最も強力なレーザー照射装置の出力が、だいたい「数TW」だという。ただし、照射は、何10億分の1秒しか続かなかった。また、雷が生み出すエネルギー量は最大で「1TW」ほどだが、この場合も3万分の1秒の間だけだという。読者は、どの箱にどのエネルギーが入るか分かるだろうか? 頭をひねって挑戦してみてほしい。
 
 1つヒントを言おう。私はかつて(5~6年以上前に)太陽光発電に関する専門家の本を読み、「現在、日本全体で消費するエネルギー量を太陽光発電だけから得ようとして、発電パネルを敷き詰めていくと、四国の3分の1ほどの面積があればいい」ということを知った。そして、「なんだ、それならエネルギーの自給はできる」と驚いたものだ。このクイズの解答を知ったときも、この時と同じような驚きを感じたのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月23日

“ミニブログ”が燃えている

「ミニブログ」というのは私がつけた仮名である。本名は「ツイッター」といい、鳥がさえずることを意味する英語「twitter」から来ている。1行から2行の短い言葉を登録し、利用者間で共有するサービスだ。これが今、ネット上で大評判になっている。パソコン、携帯電話、スマートフォンのいずれからも無料で使える。何に使うかは、利用者の想像力しだいという点もおもしろい。

Twitter_logo  中をのぞいてみると、有名人が多いのに驚く。もちろんネット上でのことだから、本人が書いているのか、それともファンが運営しているのか、あるいは全くの偽名なのかは分からない。しかし、アメリカの政治家ではオバマ大統領、ジョン・マケイン氏、アル・ゴア氏はもちろん、カリフォルニア州のシュワルツネッガー知事、テレビタレントのオプラ・ウィンフレイ、自転車選手のランス・アームストロング、大手テレビ局のニュースキャスター、メディアでは『ニューヨークタイムズ』や『BBC』『CNN』『NBC』『タイム』『ライフ』……こういう人々や団体が「つぶやき」(ツイッター自身はそう訳している)をネット上に漏らすことで、何かを実現しようとしているのが分かる。

 最も分かりやすい用途は、『ニューヨークタイムズ』などのメディアの使い方だ。『タイムズ』は、自分のサイトに掲げた記事や映像の“見出し”をツイッターに流している。だから、『タイムズ』の記事に興味がある人は、ツイッター上の同社のページへ行って「フォローする」というボタンをクリックすれば、それ以降、自分のページに“見出し”の配信を受けることができる。そして、興味のある“見出し”をクリックすれば、リンクを通じて記事や映像が見れる。これまでのネット上の新聞の読み方は、①新聞のサイトへ行って、②記事のタイトルを見渡してから、③興味あるものを読む、という3段階の作業が必要だった。しかし、ツイッターによる配信では、①ツイッターへ行く、②興味ある見出しをクリックする、という2段階ですむ。しかも、1紙だけでなく、複数の紙・誌の見出しから選べるのは便利である。
 
 これに比べて、個々の“有名人”のサイトの使い方は、いろいろだ。シュワルツネッガー知事(フォロワー18万2千人)は自分の動静を毎日のように書き込み、ときどき写真も掲示している。これに対して、購読者(フォロワー)の書き込みが多く、それへの同知事の返事も載っている。オプラ(同114万人)の場合は、自分の番組やサイトへの案内や近況報告が多い。かつてABCニュースのキャスターで取材中にイラクで負傷したボブ・ウッドラフ氏(同2千9百人)は、現在自分の財団の活動のために、ツイッターを使っているようだ。彼の財団は、イラクやアフガニスタンから帰還したアメリカ兵への支援活動を行っている。

 宗教運動への利用もいろいろなものが考えられるが、『タイム』誌が6月1日号で取り上げているアメリカの教会の例は、参考になるだろう。それによると、ミシガン州ジャクソン市にあるウエストウインズ・コミュニティー教会では、メンバーを一堂に集めてツイッターの使い方を手ほどきした後、「140字以内で神や信仰について語る」ための時間をもった。チャペルに設置された大型映像装置には、コンピューターの画面が拡大して映し出され、そこへ携帯電話やPCからメンバーがツイッターに書き込んだ言葉が、リアルタイムで表示される。時には冗談が書き込まれることもあるが、「私には、すべてのものの中に神を見出すことは難しい」とか「私が神を求めれば求めるほど、神は私に人のためになることを求める」とか「心の癒しというものは、時につらいこともある」など、真剣な言葉もあったという。教会での礼拝中にこのようにして“つぶやく”ことには、もちろん反対論もある。が、新しい心の通い合いが生まれ、また深まることで、メンバー同士の一体感、神への信仰が深まる--というのが、賛成論者の言い分らしい。
 
 ネット上では、相互に面識のない者同士の新たな関係が世界中で毎日生まれ続けている。多くの人々が心の支えを失っている時代には、このようなネットの特性を生かして、神への信仰をひろめることは宗教者の義務だとの考えが、賛成論者を突き動かしているようだ。

 谷口 雅宣

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2009年5月22日

手書きと手描き

 最近、手書きと手描きの味に目覚めている。「手書き」とは、文章を紙にペンで書くことであり、「手描き」とは、絵をPC上に手で描くことである。前者は、ワープロやパソコンが登場する前には誰でもやっていたことだから、説明はいらないだろう。後者は、パソコンの周辺機器の1つである「ペン・タブレット」に類する小道具を使う代りに、紙や絵筆や絵の具を使わないでPC上に直接絵を描くことである。
 
 文章を紙にペンで書くことは、パソコンを使う従来の書き方より、概してよほど時間がかかる。が、私が記者時代は、それしか方法がなかったから、粗雑なワラ半紙でできた桝目の大きい原稿用紙に、ボールペンでバンバン書いた。その場合、締め切り時間に追われて書くのがほとんどだから、記者は“速書き”の工夫をする。私が学んだ書き方は、ボールペンを持った手を宙に浮かせて書く方法だ。普通は、効き手の小指の脇の部分を原稿用紙に接しながら書く。が、これだと、手と紙の間で摩擦が起こって書く速度が鈍くなる。そこで、当時のベテラン記者は、手を原稿用紙から離して(つまり、宙に浮かせて)書く速記法を使っていた。書道で筆を持つときのように、ペンを立てて持って書くのである。これだと、書く速度は確かに速くなるが、文字の格好は崩れてしまう。それを崩れないように書く練習をするのである。

 私の今の書き方は、そんな特殊な方法ではなく、普通の当り前の方法だ。400字または200字詰め原稿用紙に万年筆で書く。それに、従来のパソコンを使った方法も併用している。現に今、この文章はPC上で書いている。ではなぜ、紙にペンで書くようになったのかというと、事務所を移動して、万年筆と原稿用紙に対面したからだ。この辺の事情については、機関誌7月号に文章を書いたので詳しいことはそちらに譲る。が、ごく簡単に言えば、事務所の引越しの際に、父が使っていた原稿用紙の“山”と、以前誰かからもらった万年筆に対面して、その双方を捨てずに活かそうと思ったからだ。それですでに何本か原稿を書いたが、本欄に登場したものでは、「矢印探偵は行く」がそれに当たる。
 
「手描き」の方は、やや専門的になる。私が普段使っているパソコンはノート型のタブレットPCであることは、どこかに書いた。このパソコンでは、特殊なペンを使って画面に直接絵を描くことができる。そのようにして描いた絵を、私はすでに2007年10月から本欄等で発表している。(例えば、同年10月6日同月11日同月18日など)では、最近何が新しくなったかというと、これと似たようなことをオンラインでやる「手書きブログ」なるものが、登場したことだ。ここへ登録して、サイトにつながると、パソコン上ではなく、オンラインでつながったサーバー上に、直接絵を描くことになる。

 これまでの方法では、私が描いた絵はあくまでも私の“手元”のPC上に描かれる。ところが、新しいブログでは、ネット上の“先方”の機械に直接描き込むから、描いた絵を再びネットに上げる手間が大幅に省略できる。が、その反面、“先方”の機械にはネット経由で大勢の人々が描き込むから、お絵描きソフトの機能はかなり限定されている。例えば、絵の大きさは一定で、使える色の数も少なく、編集機能も最低限しかない。しかし、そういう限定された環境にあることが、かえって描き手の工夫を誘い、変わった、味のある絵を生み出すことがある--そういうことに気がつき出したのである。
 
Briosh  実は、今年4月7日の本欄に掲載した絵は、この「手書きブログ」から生まれた。また、私の英語のブログにも、そこからいくつかの絵を掲載している。まだまだ“テスト中”の範囲を出ないが、機械的なものと手作りのもの--デジタルとアナログとの不思議な組み合わせに魅力を感じている。ここに、最近の作品を掲げる。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月21日

“若者撃退器”を足立区が導入?

 本欄で4年前に紹介したイギリス製の“若者撃退器”が、いよいよ日本の足立区(東京都)で今日から実験的に使われるらしい。20日付の『朝日新聞』が夕刊で伝えている。これは、若者の耳にしか聞こえないとされる18キロヘルツ前後の高い周波数の音を発生させる装置で、昆虫のカを意味する「モスキート(mosquito)」という名前のもの。カが発声する高音が不快であることから、開発者が名付けたらしいが、日本での商品名は記事中にはない。
 
 記事によると、足立区がこの実験に踏み切るのは、夜中に若者たちが北鹿浜公園に集まって騒ぎ、トイレの便器や事務所の窓ガラスを壊したりするほか、周辺住民から「騒音で眠れない」との苦情が後を絶たないためらしい。同区公園管理課で半年間議論を重ねたすえ、実験的導入に踏み切るという。破壊のあった事務所と公衆トイレがならぶ付近に設置して、午後11時以降、翌朝5時まで高周波数音を鳴らす。議論があるのは、やはり「公園」という公共施設の中に、一部の人間(若者)の入場を妨げるような装置を設置するからだろう。が、同公園管理課の増田治行課長は、「憩いの場のはずの公園が、安眠を奪う迷惑施設になってはいけない」(同記事)と考えて導入するという。

 足立区のウェブ上の説明では、北鹿浜公園は足立区内に2箇所ある交通公園の一つで「交通広場」と「公園部分」の領域に分かれ、前者にはミニ列車、自転車、バッテリーカーなどがあるため入場の規制があるが、後者は常時開放されている。ここへ夜間、若者たちが集まって騒ぎたてるのだろう。私は、この機械の効果をよく知らないが、4年前の本欄によると、それを設置したら「若者が耳を押さえながら店内に入って来て、“あの音を止めてくれ”と頼んだ」というから、若者には「耐えがたい音」であることは確かだ。しかし、若者は店内に入ってきたのだから、彼らを「寄せつけない」音ではなさそうだ。ということは、耳栓をしたり、ヘッドフォンを付けた若者には、あまり効果はないのではないか。また、彼らが「自分たちを排除するため」という設置目的を知ったならば、かえって反発して騒ぎを大きくしないか、と心配する。
 
 『朝日』の記事では、この機械は1台20万円もするそうだが、この公園での昨年度の被害額は約70万円という。3台の設置で被害がなくなれば「効果あり」と言えるだろうが、私としては、公園を夜間閉鎖すればすむ話ではないかと思う。そうすれば「若者だけ締め出す」という公共面からの問題も生まれないと思うのだが……。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月20日

自動車は“環境性能”重視へ

 アメリカにオバマ政権が生まれたことで、同国内はもちろん世界各地で様々な変化が起こっているが、今後の自動車の開発競争は“環境性能”をめぐるという方向に決まったようだ。本欄等で何年も前からそれを訴えてきた私としては、うれしい限りだ。この分野で世界をリードしてきた日本の自動車産業にとっても、歓迎すべきことだろう。これはアメリカ時間の19日、米政府が発表した自動車の燃費規制の強化策によるもので、19~20日付の新聞各紙が伝えている。
 
 それによると、今回の規制強化策は、すでに決定していた米政府の燃費基準強化策の実施を、当初予定の2020年から2016年に4年繰り上げるというもの。この燃費強化により、2016年以降、同国で販売される自動車は、1リットル当り「15.1km」以上でなければならないことになる。現行は「10.6km」以上だから、業界にはかなり大幅な燃費向上が求められることになる。また、20日の『日本経済新聞』の説明によると、新政策では、この“最低基準”とは別に“目標値”として「16.5km」が求められているが、この数字は、現在のホンダの新型ハイブリッド車「インサイト」の燃費に相当するという。つまり、日本の先端的自動車の環境性能は、アメリカより7年も進んでいるということだ。
 
 しかし、同じ『日経』の別の記事では、トヨタとホンダのハイブリッド車の燃費が比較されていて、そこではトヨタの「旧型プリウス」の最高燃費が「35.5km」、「新型プリウス」が「38km」、ホンダの「インサイト」は「30km」になっている。ということは、アメリカでの燃費基準は「最高燃費」ではなく、別の数字(平均燃費?)によるものらしい。また、この新規制は2016年に突然始まるのではなく、2012年から現行の基準を毎年5%ずつ引き上げることで実施するというから、アメリカの自動車業界は、“待ったなし”の厳しい転換を迫られることになる。
 
 20日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、米政府のこのような厳しい規制に対して、自動車業界は猛然と反発していると思いきや、「これは我々が求めてきた全国一律の基準であり、実施への時間的余裕も製品開発計画上、無理がないものだ」と歓迎しているというから、驚いた。同記事の分析では、米業界のこのような方針転換は、政治的状況の変化と業界の脆弱な経済体質によるものらしい。つまり、業界寄りの共和党政権が倒れたうえ、老舗のクライスラーの破産に加え、最大手のGMも、政府から大量の資金援助を受けてなお合理化を進めなければならない状況だから、“牙”を抜かれてしまったのだ。

 このような経緯を考えてみると、今回の経済危機は必ずしも“悪い結果”だけを生み出しているのではないことが分かる。困難は時として人間を苦しめることがあるが、その困難を乗り越えることで、新しい可能性に向かって飛躍するものもいる。私は、日本の自動車メーカーがさらに優れた環境性能を実現してほしいと願っているが、それと同時に、アメリカの自動車業界の中から、そのような“ヒーロー”が必ず頭をもたげてくると期待している。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月19日

温暖化時代に陸地が隆起

 地球温暖化が起こると氷河や極地の氷が解け、その水は海へ流れ出て、海面上昇が起こり……というシナリオは、すでに多くの人々が知っている。ところが、アメリカ北端の州・アラスカのジュノー市では、氷河の融解にともなって海面が下降しているという。その理由は、陸上に積み上がっていた氷河の重さが減ることによって、陸地が膨張しつつあるかららしい。19日の『ヘラルド・トリビューン』が伝えている。

 地質学者の調査によると、グリーンランドその他のいくつかの地域では、200年以上前にあった氷河融解によって、これと同様の現象が起こったという。が、ジュノー市とその周辺では年間9メートルの割合で氷河が退縮しており、この速度はその当時より速いらしい。これによって、地域の住民の生活には様々な問題が起こっている。まず、海面から陸地が隆起することで地下水面が下降する。すると、湿地や河川は干上がってしまう。湿地帯には乾いた土地が出現するから、隣地との境界があいまいになり、土地をめぐる紛争が起こる。また、氷河から解けた水は沈殿物も一緒に海岸地域に運んでいくから、水は濁り沈泥がたまり、船舶の運航に支障ができる。
 
 アラスカ州南東部の地図をひろげてみると分かるが、このあたりはロッキー山脈が海岸近くまでせり出していて、そこから流れ出る多くの川と、海岸に近接する島々が網目状の複雑な水路をつくっている。そこへ融けた氷河から大量の沈殿物が流れ込むのだから、島と島、島が陸がつながり、川が干上がり、水路は消滅し、森に変化するという現象が起こっているのだ。これによって生態系が大きく変化しつつある。この地方の人間の生活と密接に関係しているのがサケだが、水路が濁ったり、泥で埋まってしまえば、サケは産卵の機会を失ってしまう。

 陸地の隆起のもう一つの原因は、プレート(岩板)の移動だ。これは日本列島の地震の原因でもあるが、アラスカ州南東部の場合は、太平洋プレートが北アメリカプレートを押し上げる位置にあるという。この力と氷河融解との総合効果により、ジュノー近くの土地の隆起は年間8センチ近くという“信じられない”速度で起こっているという。科学者の試算では、ここの土地は過去200年で3メートルも上昇し、温暖化の影響も加わると、これから2100年までにあと90センチ盛り上がるという。

 労せずして自分の土地が増えていくことは一見、よいことのように思える。しかし、それと共に周囲の生活環境も一変してしまうのだから、この地方の人々の戸惑いは深刻なのだ。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月16日

信濃川の夜景

 新潟北越教区での生長の家講習会のために、新潟市に入った。信濃川を目の前にしたホテルを宿にしているが、あいにくの小雨模様のため、いつもの散策は中止した。が、その代り、暮れてゆく新潟の町を部屋の窓からゆっくり眺める時間がもてた。

Shinanoriver  眼下に万代橋が見える。そこを上下方向に行き来する車や、バイク、そして人……。その流れとは対照的に、左右方向に白波を引きながら時々、船が通る。この川は、人間の動きを邪魔したり、助けたりしながら、はるか昔の時代から同じ方向に流れ続けてきたのだ。その悠久の流れの中で、人間が川に対してできることはそう多くない。が、川から得る恩恵は、きわめて大きく多種多様だ--飲料水、灌漑水、漁場、交通手段、洗濯用水、工業用水、水の循環、栄養素循環、風景美、レジャー、文化の交流……。

 江戸川、淀川、ハドソン川、ナイル河、黄河、チグリス=ユーフラテス河……。古来、人間は川辺に集落を形成し、文化や文明を築いてきた。それは、川から得られる恩恵の大きさを知っていたからだ。物質的に見れば、川とは、水が高いところから低いところへ流れている場所にすぎない。が、その「流れる」という一見単純な事象の中から、無限の恩恵と可能性が現れてくる。妻とそんなことを語り合いながら、信濃川を臨む窓辺で夕食をした。その際、撮った写真をここに掲げる。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月14日

横浜でバラを愛でる

Rosegarden2  今日は、休日を利用して“親孝行”に出かけた。とは言っても行き先は横浜で、本欄の読者はご存じのように、我々夫婦が足繁く行く町だ。しばらく行っていなかったこともあり、またバラの美しい季節なので、花好きの母が喜ぶ顔が見たかったのである。お目当ての場所は、横浜・山手の「港の見える丘公園」。午前9時過ぎに東京を出ると、幸い道路は空いていて、40分ほどで目的地に着いてしまった。

Redroses  バラは、横浜市の“市の花”である。この公園には8千平方メートルの市営のローズガーデンがあり、約80種の千八百株のバラが植えてある。横浜開港当時、この山手の丘にはフランス軍とイギリス軍が駐屯し、その後、フランス領事館やイギリス総領事公邸などが建設された。この英総領事公邸を市が買い取り、現在の「イギリス館」となった。そして、イギリスの国の花がバラであることに因み、市政100周年を記念して、平成元年に“市の花”が制定されたという。

Artistroses  好天だったこともあり、公園にはすでに多くの中高年男女が来ていて、カメラを構えたり、スケッチブックを広げたりして、一年のこの時季にしか見られない“バラの美”を記録しようとしていた。バラ園のど真ん中に椅子を置き、カンバスを立て、色とりどりのバラたちを描いている画家もいた。私も、さっそくデジカメを使って同じ行動をとることにした。母も妻も、それぞれに花々を記録したことは言うまでもない。

Rosegarden  その時の記録のいくつかを、ここにご披露する。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月13日

運命を獲得する (2)

 個人の運命についても、細部までが本人の誕生前に定められていることを、『ハディース』の「予め定められること」の章は次のように書いている--

「預言者は言った。『アッラーが天使に母の胎の管理を委ねたとき、彼は“主よ、一滴の精液、主よ、血の塊、主よ、肉の塊”と言い、やがて神が創造の業を終えようとされるとき、天使は“主よ、男ですか、女ですか。不幸ですか、幸福ですか。その糧はどれほどですか。またその寿命はいかほどですか”と尋ねるであろう。このように人が母の胎内に居るとき、これらのことはすべて予め定められる』と」

 イスラームの伝統の中にはこのような運命観があるので、アラビア語の「書く」という意味の動詞「カタバ(kataba)」には、通常の意味に加えて「運命をあらかじめ定める」という意味も付与されている、と大川玲子氏は言う。このことを踏まえて、同氏は映画『アラビアのロレンス』(1962年)の中に出てくる主人公とベドウィンの首領との会話の中に、英国人とアラブ人の運命観の違いが、「書く」という言葉の用法によって見事に表現されていることを指摘している。(『聖典「クルアーン」の思想』、pp.137-140)
 
 私もこのシーンを覚えているが、その時の英語は確か「It is written.」だったと思う。何事かが起こることが確実である時に、アラビア語では「それは書かれている」と言うのだ。どこに書かれているかはモスレムの間では自明だから、あえて言わないのだろう。ところが、映画の主人公のロレンスは、ある人物の死について「書かれている」と言われたことに反発し、その人物を助けに行く。その時、そこへは行けないと反対するアラブ人に対して、逆に「それは書かれているのだ……ここにね」と言って、自分の頭を指差す。これが、アラブ人とイギリス人の運命観の違いなのだそうだ。それで結局、ロレンスは自分の考えを実行に移して、その人物を助け出す。これによって、ベドウィンの間では一気に英雄となる。なぜなら、自分の運命を自分で切り開くことなど、イスラームでは考えられないかららしい。

 こういう文脈でアラブ人の運命観を提示すると、それはまるで迷信臭い“遅れた信仰”のようなニュアンスに聞こえる。しかし、私は、『スラムドッグ$ミリオネア』の主人公が、最後のクイズの正解を言い当てたときに、「It is written.」という言葉を漏らしたのを覚えている。この主人公は、「自分は必ず正解を言い当てる」あるいは「言い当てねばならない」との強い意志をもってクイズを勝ち抜いてきたのだから、この時に言った「It is written.」は、『アラビアのロレンス』でベドウィンの首領が言った同じ言葉とは、ずいぶんニュアンスが違うように思う。むしろそれは、同じ時にロレンスが言った「It is written.」に近い意味の言葉だと私には感じられた。つまり、ジャマールは、幼時から好意を寄せていたラティカと結ばれることを自分の運命と信じ、そのために彼女を不幸な境遇から救おうと努力し、そして意を決して挑戦したクイズだから、必ず勝利することを祈り、かつ信じてベストを尽くした。その彼が、最後の勝利を手にしたときに「It is written.」と言ったのだから、それは“天の書”に書いてあることだけを指すのではなく、自分の心にも深く刻印されてきたことも指しているに違いないのである。
 
『ハディース』の同じ章に、人間は生れたときから運命が決まっているという教えに対して、ある信徒が「それなら予め定められたことに身を任せるべきではないでしょうか?」と訊いた時、ムハンマドはこう答えたと書いてある--「いや、そうすべきではない。力一杯行うだけだ。そうすれば、すべてのことは容易になる」。彼はさらに続けて、「喜捨を好み、懼神のこころ敦く、いと美わしい報酬を固く信ずる者もある。そういう者には我らが安らぎの道を易しくしてやろうぞ」と唱えたという。

 イスラームでいう「運命」とは、こういう真剣な努力と信念をともなったものを指すと考えれば、「運命を獲得する」という表現は私には納得できるのである。その場合、これは「内部理想の実現」という考えと違いはなく、“天の書”とは、生長の家で言う「実相」と似通ってくるのではないだろうか。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○大川玲子著『聖典「クルアーン」の思想--イスラームの世界観』(講談社現代新書、2004年)
○牧野信也訳『ハディース--イスラーム伝承集成』全6巻(中公文庫、2001年)

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2009年5月12日

運命を獲得する (1)

 7日の本欄でアカデミー賞受賞映画『スラムドッグ$ミリオネア』について書いたとき、イスラームの信仰の中にある「運命を獲得する」という考え方について触れた。この考え方は、現在イスラームの“正統派教義”の端緒となった「アシュアリー派」の教説や『ハディース』の中にある。私は『衝撃から理解へ--イスラームとの接点をさぐる』(2008年)の中で、小杉泰氏の言葉を引用して、この理論を次のように描いた--
 
「人間は主体的選択を繰り返して人生を生きているが、その主体的選択によって、あらかじめ決められている自分の運命を『獲得』しているのだ」(p.157)

 こんなややこしい考え方がなぜ必要かというと、イスラームでは徹底した「唯一絶対神」信仰が求められるからだ。神は創造主であり、それは唯一絶対であるということになると、人間の運命も神の創造以外には考えられない。しかし一方で、人間に自由意思があると考えると、人間は自由に自分の「行動を選択する」ことになる。これを言い換えれば、人間は自分の「行動を創造する」のだ。そして、その行動を原因として、何かの結果が生じる。すると、その結果も神ではなく、人間が創造したことになってしまう。こうして、神の唯一絶対性は人間によってどんどん侵蝕されていく。この矛盾を解決するために考え出されたのが、この「運命の獲得」論である。
 
 イスラームにおける「運命」のとらえ方は、我々日本人とは少し異なるようだ。日本では、運命とは「超自然的な力に支配されて人の上に訪れるめぐり合わせ」であり、「天命によって定められた人の運」(『大辞林』)だ。この「超自然的な力」とは、必ずしも「創造神」でなくてもよく、「天命」は複数の神によるものでも問題はなさそうだ。また、「運勢」とか「開運」「衰運」という言葉が示すように、運命には勢いがあって、開けたり、衰えたりするのだから、多少変化してもいいことになっている。ところが、イスラーム研究者の大川玲子氏によると、イスラームの信仰には、この世で起こるすべてのことは天地創造の時点ですべて決定ずみとするような、厳密な運命観がある--
 
「ムスリムの『サヒーフ』“運命”(カダル)章には、アッラーが諸事象を天地創造の5万年前に書いた、という内容のものがある。このハディースが言おうとしているのは、アッラーが天地創造のはるか昔に、その後に生じること全てに関してあらかじめ決定していたということである。これがイスラームの運命観である」(『聖典「クルアーン」の思想』p.134)

 これと似た考え方は、ムハンマドの言行録である『ハディース』の「創造の初め」の章にある預言者の言葉にも表れている--

「そこで預言者は『初めにアッラーのみが存在し、それ以外は何もなかった。次に神の玉座が水の上に現われ、神は板の上にすべてのものの名を書き、天と地を創造された』と言った」

 これは、天地創造の時点で、神はすべてのものの名前を天上にある「板の上」に書き、それにしたがってすべてのものが創造された--という考え方である。つまり、この世で起こるすべての現象は、創造の時点で“天の書”に書かれていたのだから、それ以外のことは今後も起こらないというのである。この“天の書”という言葉は大川氏の造語だが、根拠のないものではなく、『ハディース』その他のイスラームの文書にしばしばこれに類する表現が現れる。例えば、『ハディース』の上記の文章のすぐあとには、次のようなものがある--

「アブー・フライラによると、神の使徒は『万物の創造を終えたとき、アッラーは玉座の上にある書の中に“わたしの恵みは怒りにうち勝った”と書かれた』と言った」
 
「神の使徒」とはムハンマドのことだが、その言葉として、神は万物の創造後に「書の中に……書かれた」とあるのである。それはいったいどんな書物なのだろう? 大川氏によると、『ハディース』の1つには、天地創造の際の「全事象が書かれた可能性のある場所として『護られた書板』が挙げられて」おり、また、よく引用されるイスラームの伝承には、次のようなものもあるという--

「最初にアッラーが創造したものは『筆』である。アッラーは『筆』に『書け』と言った。『筆』が『何をですか、主よ』と尋ねると、アッラーは『カダル(=運命)を書け』と答えた。『筆』はそれから[最後の]時が起こるまでにあること全てを書き記した」(p. 136)

 このように、天地のすべてのものが予め“天の書”に書き記されているのだから、個人の運命がその例外であるはずがないのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○大川玲子著『聖典「クルアーン」の思想--イスラームの世界観』(講談社現代新書、2004年)
○牧野信也訳『ハディース--イスラーム伝承集成』全6巻(中公文庫、2001年)

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2009年5月11日

矢印探偵は行く (4)

 サブローは、今度はタカシに従わなかった。
「ぼくは、もう帰るよ」
 そう言うと、彼はすまなさそうな顔でタカシを見た。そして、
「時間もおそくなってきたし……」
 と付け加えた。
Arrow10  その言葉が、タカシの気に障った。サブローの家は自営業で、両親はたいてい家にいた。それに比べ自分の家は、両親が共働きで留守がちだった。サブローが家に帰れば、温かい夕食の支度ができているのだろうが、自分は鍵を開けて薄暗い家に入り、冷蔵庫の中の料理を暖めてから、一人で食事する。そう思うと、何だかサブローが憎らしくなってきた。
「そんなの、約束破りだ!」
 タカシはこう言ってサブローをにらんだ。
 サブローは、タカシの態度の急変に驚いて、相手を見ていた。
 タカシは、さらに続けた。
「十個さがすって言ったじゃないか。それができないのは弱虫だからだ」
 思わず強い言葉が出たので、タカシは自分でも驚いた。
 サブローは下を向いて、体を左右に揺らして何も言わない。
 それを見ると、タカシは、
「もういい!」と言って、「ボクはひとりで行くからね」という言葉を残して、地下道へ続く階段に向かってズンズン歩き始めた。
 階段を1段、2段……と降りながら、タカシは後ろからサブローに追いつかれるのはいやだと思い、小走りになって階段を駆け降りた。矢印のことは、忘れてしまっていた。階段が終ると、さらに下へ行くエスカレーターが回っていた。それにポンと跳び乗ってから、タカシはふと思った。
(ボクは、何のためにエスカレーターで下へ行くんだろう?)
 それから、矢印のことを思い出した。そして、階段の途中で矢印をさがさなかったことに気がついた。でも、エスカレーターはタカシをどんどん下へ運んでいた。「逆のぼり」は危険だから絶対いけない、と学校では教わっていた。タカシは、斜めに動いていくエスカレーターの天井を見上げていた。そんなところにも矢印が描いてあるか、と思ったのである。すべすべした天井は、しかし金属質の光を放っているだけで、表面には何の印もついてなかった。
 エスカレーターを降りたタカシは、地下鉄日比野線の改札口に向かって歩き始めた。通路の左右に気を配って歩いていく小学生の姿に気づいた何人かの大人は、不思議そうにタカシの方を見た。親の姿を捜して立ち止まる婦人もいた。が、頭を左右に振りながら下を向いて歩いているタカシは、そんなことに一向気がつかず、足は改札口に向かって進んでいた。
 切符売り場の前で立ち止まったタカシは、困った顔で周囲を見回した。そこから先、どこへ行くべきか分からなかったからだ。その時、「7」という数字と「矢印」という言葉が、タカシの頭の中を駆け巡っていた。「7番目の矢印」を見つけたらもう帰ろう、と彼は思った。
 と、改札口を入った先の天井近くに、タカシは地下鉄のホームを示す大きな看板が掛けてあるのに気がついた。それを見た彼の表情が急に明るくなった。その看板には、横書きで「日比野線」と書いた文字と、その路線の頭文字「H」をあしらった銀色の太い円、そして、乗降ホームの方向を示す大きな矢印が描かれていたからだ。
Arrow16  タカシはその看板を見ながら、自分の考えが正しかったと思い、うれしくなった。サブローは、矢印が何のためにあるかを考えてからたどるのがいいと言ったが、自分は、そんなことは矢印をたどっていけばあとで分かると考えた。そして今、サブローは家に帰ってしまったけど、実際に矢印をたどった自分の方が、矢印の意味にたどりついた、と彼は思った。目の前の看板に描かれた立派な矢印は、そんなタカシの考えを「確信」にまで導いてくれる力強さをもっていた。道路上にあった鳥の足跡のような矢印は、みんなこの立派な矢印のためにあったのだ。
(もう、ひょろひょろとしたチョーク書きの矢印に従う必要はない。立派な矢印について行こう)
 とタカシは思った。
(ここで切符を買って改札口を通れば、8番目の矢印も、9番目も10番目もすぐに見つかるに違いない)
 こう考えたタカシは、ポケットから百円玉を2枚出して、日比野線の切符を買った。

(終り)

 谷口 雅宣 

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2009年5月10日

矢印探偵は行く (3)

 その時、
Arrow12 「あったぞ、ここにあるぞ」
 というサブローの声が、後ろの方から聞こえてきた。振り返ると、サブローが道路脇のプランターの所を指差している。4番目の矢印は、ちょっとだけ考えごとをしていたタカシの目に入らなかったのだ。タカシは小声で「クソッ」と言うと、サブローがいる方へ走っていった。
 その矢印は、用水池とは別の方角にある路地の方向を指していた。そしてその路地は、表通りに続いていることを二人の子供は知っていた。
「大通りに行くなら、もっと近道があるのに……」
 と、サブローは不満そうにボソボソと言った。
「でも、何か意味があるから矢印を書いたんだよ」
 と、タカシはやや低い声で言った。そして、「とにかく、十個見つけるまでやってみよう」と付け加えた。
 二人の子供はもう走らなかった。自分たちが通学路として毎日通っている表通りへ行くのだから、予想外のことはあまり起らないと感じたのだ。
 表通りに面した酒屋さんの一軒ほど手前に、自動販売機が数台並んでいるが、そのかげに潜むようにして5番目の矢印があった。
「あっ、ほら……」
 と言ってそれを指差したサブローは、
「大通りに出ろっていっている」
 と、あまり熱意のない声で言った。
「ほんとだ。でも、大通りには宝が隠してありそうもないね……」
 と、タカシも自嘲気味に言った。
Arrow9  二人は大通りに出ると、付近の歩道を見回して、次の矢印のありかを探した。歩道にはブロックが敷かれていて、車道と段差ができていたが、その境界を仕切る細長い縁石の上に、直角に曲がった小さな矢印が白い文字で描かれていた。
「こんなところにある!」
 それを見つけたタカシが、かん高い声で言った。
 サブローは、矢印の示す方向を見ていた。そして、
「地下鉄の駅だ」
 と言った。
 二人の目の前には、地下鉄日比野線の駅へ続く地下道が大きな口を開けていた。二人は顔を見合わせた。地下鉄に乗ることに躊躇を感じたからだ。ポケットにお金がないわけではなかったが、大事なお小遣いを使ってまで矢印さがしを続けるべきかどうか、迷っていたのである。
「下まで行く?」
 と、サブローが訊いた。
「どうしよう……」
 今度は、タカシも自信がなさそうだった。
 サブローは、自分が心配していた事態が起こりつつあると思った。矢印が描かれている理由を知らずに、それが示す方向へただやみくもに進んでいく。そんなことを続けていれば、きっと迷子になってしまう。
「もう帰ろうよ」
 サブローはタカシに言った。
「でも……」
 タカシは足をモジモジさせてこう言うと、
「6番目まで見つけたんだから……あと4つだよ」
 と言って、地下道の入口を見つめた。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月 9日

矢印探偵は行く (2)

 タカシは、サブローを納得させようと思って、自分の“名案”のよさの説明Arrow5を始めた。
「これがほんとに矢印だったら、矢印の方向には何かがあるんだよ。もし何もなくて、かわりに別の矢印があれば、やっぱりこれは矢印ってことになる。矢印も何もぜんぜんなかったら、これは矢印じゃないってことになるだろ? とにかく行ってみなけりゃ何もわかんないじゃないか」
 サブローはうなずきながらタカシの話を聞いていたが、話し終わるのを待って、こう言った。
「でもさ、矢印の先に矢印があって、さらにその先にも矢印があって……って、ずーっと矢印が続いていたら、どこまで矢印をたどって行くつもり?」
「そりゃ……どこまでもさ」
 とタカシは言った。
「家(うち)へ帰るのおそくなるよ」
 と、サブローは心配そうな顔をした。
「じゃあ、適当に十個ぐらいみつけたらやめにすればいい」
 と言って、タカシは肩をすくめた。
「どこか知らない所へ行っちゃったら、帰れなくなるかもしれない……」
 と、サブローはまだ不安顔だ。
 タカシはそんなサブローに向かって、笑顔でこう言った。
「道に迷うことは、ぜったいない。だって、矢印をたどってきたんだから、逆にたどって帰ればいいんだ」
 それを聞いて、サブローの顔も明るくなった。
「わかった。いくつあるか知らないけど、どにかく十個たどってみよう」
 それから、黄色い帽子と黒いランドセル姿の二人は、競争して“矢印さがし”を始めた。夕方の都会の路地を、黄色い二つの帽子が人とぶつかりそうになりながら、前後になったり、左右に揺れたり、突然止まったりして進んでいくのが見えた。

Arrow6  三番目の矢印は、先を走っていたタカシが見つけた。
「ほらほら、こんなところにあった。先が曲がってるぞ!」
 その矢印は、犬が立ち寄りそうな、ひんやりとしたコンクリートの電柱の下に描いてあった。それは、「ここで右に曲がれ」とでも言うように、上向きの矢印がまんなかで直角に右に折れていた。
 追いついてきたサブローが、
「右へ行ったら用水池の方だぞ」
 と言った。
「その前に路地がいくつもあるから、そっちへ行くかもしれない」
 と、タカシは言って走り出した。サブローは、その後ろ姿を目で追いながら、
「用水池はあぶないから、行っちゃいけないって先生が言ってたぞ!」
 と声を張り上げた。
 タカシはその声を聞きながら、
(もし矢印が用水池の方を指していたら、どうしよう?)
 と考えた。、
(先生がいけないと言ってた場所へ、矢印が行けと言ってたら、それは先生の言うことをきくべきだ)
 とタカシは思ったが、その一方で、
(せっかくここまで矢印をたどったのに、途中でやめるのはつまらない)
 とも思った。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月 8日

矢印探偵は行く (1)

 小学生のタカシは、学校からの帰りみちでその印を見た時、一緒にいたサブローにこう言ったのだった。
「ほら、これは鳥の足跡みたいだろ?」
 でも、サブローはそれを見て、
「少し形がへんだなぁ。それに、鳥は二本足なのに、印は一つしかない」
 と言った。
 二人は、学校の教室にいる時から、このマークの話をしていた。タカシはそれを何か秘密の印じゃないかと言った。学校の周辺にあるアスファルトの道路の隅に、チョークか何かで描いた白っぽい太い線で、三本指の鳥の足跡のような印が描いてある。それも、ていねいに描いたのではなく、勢いよく書きなぐったように、三本の線が互いに交差していたりする。そんなマークが、一カ所でなく、何カ所にもあるようなのだ。
「数えてみたの?」
 と、サブローが聞いた。
「ううん、まだ」
 タカシは首を横に振った。
「じゃあ、帰りに二人で数えてみようか?」
 サブローの提案に、タカシは二つ返事で賛成した。何か探偵ごっこのような、また宝さがしのような、ワクワクした気持になってきた。
Arrow1  二つ目のマークの所へ行った時、サブローは、
「これ、矢印じゃないの?」
 と言った。
 鳥の足の指だったら、三本の指の長さに違いはあまりない。でも、目の前にある印は、真ん中の指が一本だけ長い。
「ああ、ほんとだ!」
 マークをはさんでサブローの反対側に立っていたタカシは、ポンと両手を打って大声で言った。
「こっちから見たら、矢印に見える」
 そう言ったタカシは、「じゃあ、矢印の方向へ行ってみようよ」と、サブローの顔をのぞき込んだ。
 でもサブローは、そのマークを見ながら考えていた。タカシがそばへ行ってサブローの袖を引っぱっても、まだ考えていた。
「何、考えてんの?」
 と、タカシは言った。
「どうしてかなぁ……」
 とサブローは言って、「なぜ道路に矢印なんて書くんだろう……」と付け加えた。
「そんなこと、考えてもわからないよ」
 とタカシは言って、「矢印をたどっていけば、きっとわかるよ」とサブローをさそった。
 タカシは、自分が今言ったことは「すごい名案」だと思った。何でも、考えるよりはやってみるというのが、タカシの行動パターンだった。それに比べてサブローは、よく考えて、わかってから始めるタイプだった。だから、タカシが引っぱって、サブローがついていく--そんなやり方で物事が進むのは、今回だけでなかった。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月 7日

映画『スラムドッグ$ミリオネア』

 私にとっては大型連休の最終日である7日、日比谷で映画鑑賞をした。現代のインドを舞台とした『スラムドッグ$ミリオネア』で、今年のアカデミー賞8部門受賞という鳴り物入りだ。が、派手な印象はまったくなく、予想していた混雑もなかった。インド生まれの作家の小説を原作に、イギリス人監督によるインド人の映画だ。こういう映画を見たのは初めてなので、一種のカルチャー・ショックを経験した。とにかく、インドのスラム街とそこで生きる人々の生活が、子供である主人公の視点から克明に描写されるのが衝撃的だ。この“衝撃”とは、ゴミの山と排泄物、売春、暴力、不正、不条理がひしめく中に、貧困を知らない人がいきなり放り込まれた時、感じるような衝撃だ。
 
 荒筋を簡単にいえば、この貧民街から出た1人の少年が、テレビのクイズ番組を奇蹟的に勝ち進んでミリオネアになる--それだけだ。私は、映画を見る前からこの程度の筋を聞いていたから、少年はトンデモない天才か秀才かと思っていた。しかし、そうではなく、主人公が困窮生活の中で知ったことが、ちょうどうまい具合にクイズの問題として出る、という“よい偶然”の連続によるのである。これだけだと「うまくできすぎた話」で終ってしまうが、主人公がそういう知識を得るために、どのような苦境を乗り越えてきたかが、フラッシュバックの手法で、たたみかけるように画面に映し出されるのが、何とも迫力がある。主人公は「ジャマール」という名前の男の子だが、幼少時代(7歳)、少年時代(13歳)、青年時代(18歳)を3人の俳優が演じる。その3人の間に見事な一貫性がある。

 この一貫性を補強するのが、愛情である。主人公には幼少期から一緒に育った「ラティカ」という女の子がいて、その子との兄妹愛のようなものがやがて恋愛に育ち、その子と一緒になりたいという純粋な動機から、ジャマールはクイズ番組に出るのである。社会的には階級制度がまだあるインド社会で、最下層に属するこれらの人々が、純粋な動機によって“頂上”を目指すという物語の構造が、観客の共感を誘うのだろう。それからもう一つ、「運命」(destiny)という言葉がこの映画のキーワードだ、と私は思った。映画の各所で、主人公は思いつめた目で「これは運命だ」という言葉を吐く。そして、困難を次々に克服してしまう。私は最初、これは単なる口癖だろうと思ったが、もっと深い意味があるようだ。
 
 主人公の育った貧民街の人々は、ヒンズー教が盛んなインドでは少数派の、モスレム(イスラーム信者)のようだ。ヒンズー教徒から襲撃されたことや、ジャマールの兄が神に祈る姿から、そう言えると思う。すると、イスラームの信仰の中にある「運命の獲得」という考え方が思い出される。普通、「運命」とは、生まれた時から存在する一定の“人生コース”のようなものを言う。だから、それはすでに「在る」ものであり、神から「与えられた」ものである。ということは、人間が努力によって手に入れるべきものではない。ところが、一部のイスラームでは、人間は信仰とこの世での努力によって、「よい運命を獲得する」という考え方が採用されている。これを「運命の獲得」論と呼び、難解なことで有名だ。(詳しくは、拙著『衝撃から理解へ』、pp.156-157参照)
 
 この映画では、主人公はイスラーム信仰者として明確には描かれていないが、彼の貧困から脱しようとする懸命な努力と、ラティカへの一途の愛は明らかだ。また、彼がクイズ番組に出ている時、その目は確信に満ちている。そして成功するたびに、「これは運命だ」という言葉が口から飛び出す。その結果、クイズに勝って、恋人も手に入れてしまうのである。これを見て、私は「よい運命を獲得する」という理論は、神学者の理論としては難解でも、実践者あるいは信仰者の理論としては分かりやすい、と妙に納得してしまった。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月 3日

第61回生長の家青年会全国大会終わる

 今日は午前10時から、東京・渋谷の明治神宮会館で「生長の家青年会全国大会」が行われた。第61回であるから、戦後の日本の歴史とともに歩んできた生長の家青年会の伝統を想い起こさせる。前日、相愛会と栄える会合同の全国幹部研鑽会が行われたその場所に、1,086人の青年が集まった。昨年の参加者(1,154人)より若干減ったが、青年会員は834人で、昨年(813人)より増加したことは大変よかった。

 私は、前日に引き続いて、午後から1時間の講話を担当したが、参加者の中には未会員の青年もいるため、生長の家の基本教義を説明しながらの講話となった。したがって、講話の最後の方で時間が足りなくなったという印象は否めない。が、参加者の皆さんが熱心に聞いてくださっているのが感じられ、ありがたかった。

 感想を若干述べれば、「日時計ニュース」というプログラムが面白かった。ネット上には同名のブログがすでにあるので、私は何をするのか訝った。が、ふたを開けてみると、各地の青年会員の活躍ぶりをビデオでレポートするもので、“手作り”のユーモアや人間味が感じられてよかった。そのままネット上に登録すれば、全国の会員が活用できるかもしれない、などと思った。体験談もバラエティーがあり、運動に参加する青年達の“幅”が感じられた。

Delphinium2  前日の本欄では、相愛会幹部が運営するブログを紹介したが、今日の大会でも、青年会員がブログを使って誌友会のフォローや日時計主義を実践していることを知った。その1つは「としまとしまりす」で、もう1つは「日時計生活富山版」である。本欄の読者からの声援をお願いする。
 
 ここ2日間は花束をいただいたので、今日は私の家の庭に咲く花のスケッチをここに掲げ、青年大会をはじめ3日間の行事を“縁の下”から支えてくださった多くの人々への感謝のしるしとします。皆さん、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月 2日

第1回生長の家相愛会・栄える会合同全国幹部研鑽会終わる

 今日は昨日に引き続いて、初めての「生長の家相愛会・栄える会合同全国幹部研鑽会」が行われた。会場は東京・渋谷の明治神宮会館で、生長の家本部の“お膝元”である。豊かな神宮の森の中に、全国から1,811人の幹部の方々が集まって日時計主義による真象の拡大と両運動組織のさらなる飛躍を誓い合った。私は前日と同じく、午後から1時間の講話を担当した。内容もほぼ同様だったが、時間配分はうまくいったものの、時間を気にし過ぎたところがあって、各ポイント間の連絡がスムーズにつながらなかったきらいがある。講話は“生モノ”でなかなか難しい、と思った。両組織からの報告によると、参加者の内訳は相愛会が1,353人、栄える会が458人で、1年前の本欄に載せた数字と比べると、相愛会は192人、栄える会は104人も増加した計算になる。参加促進にご尽力くださった全国の皆様に心から感謝申し上げます。
 
 今回の研鑽会の特徴は、両組織の“壮年層”の活動に焦点を当てたことだろう。このため参加者も比較的若い人々が目立ち、体験発表や活動報告にも新しい展開が感じられた。その中で、私のようにブログでの活動を昨秋から開始した幹部がいることを知り、心Delphinium 強く思った。この人は、島根教区の相愛会副連合会長の持田正悦さんで、デジカメ写真と俳句を組み合わせた「写俳日記」というブログを展開中だ。今日、そのことを檀上で発表されたのに、今日付でブログがすでに更新されているのには驚いた。生長の家以外の読者からも反応があるというので、インターネットを通した伝道活動として大いに期待される。そのほかにも、いろいろ素晴らしい発表があったが、割愛させていただく。
 
 研鑽会でいただいた花束の中から、今日の空のように青が美しいデルフィニウムをスケッチした。両組織の皆さん、実行委員の皆さん、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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2009年5月 1日

第1回生長の家白鳩会全国幹部研鑽会終わる

 初めての生長の家白鳩会の全国幹部研鑽会が、無事終った。午前10時から午後3時半までの5時間半が、アッというまに過ぎ去ったような印象だ。しかし、会場で感じた参加者の熱気は、まだ私の脳裡に鮮明に残っている。この研鑽会では、さいたま市の大宮ソニックシティホールをメイン会場とし、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山と福岡県太宰府市の生長の家福岡県教化部の2会場を光回線で結んで、映像・音声の同時中継が行われた。白鳩会中央部の報告では、入場者数はメイン会場が2,300人、宇治会場が2,790人、福岡会場は1,074人の合計6,164人で、参加目安だった6,260人にほぼ達した。これまでの「全国大会」とは違い、今回から参加資格が白鳩会の「支部長以上」の組織役員ということになったため、体験談をはじめとした会のプログラムも、幹部向けの“濃い”内容のものとなったと思う。

 私は、午後1時から1時間の講話を行った。日時計主義には“観”と“行動”の両面があるという話をしたが、時間配分を誤って予定時間を5分ほどオーバーしてしまった。光回線を使った映像と音声の中継は、生長の家講習会ではすでに利用しているが、私自身はいつも映像や音声を「送る側」にいたから、「受ける側」として中継映像を見たのはFowersw今回が初めてだった。案外きれいに映っていたので驚いた。この程度の映像と音声ならば、この種の会合で「双方向のやりとり」をもっと多く取り入れることが可能だと感じた。
 
 今回は、新型インフルエンザの世界的流行の危険が警告され、横浜市の高校生への感染が疑われていた最中の開催だったので、大人数の会合をもつことの不安はあった。しかし幸いにも、問題の高校生のインフルエンザは従来型のものと判明し、胸をなで下ろしたしだいである。研鑽会の開催準備や参加促進に尽力くださった多くの方々に、この場を借りて心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

 帰宅してから、研鑽会でいただいた花束の花をスケッチした。皆さまへの感謝の気持を込めて、ここに掲げます。
 
 谷口 雅宣

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