信仰による戦争の道 (2)
これに対して、もっと厳しい評価をしているのが、前回の本欄で言及したジェームズ・キャロル氏の論説である。彼によると、この資料カバーの一件は外部に知られようが知られまいが、政治的・軍事的判断を誤らせる極端な種類のキリスト教信仰が政権トップにあった証拠だとし、9・11以後のブッシュ政権の外交政策全体に疑問を投げかけているように見える。
キャロル氏が指摘する宗教的狂信の危険性とは、次のようなものだ--
①目的遂行に固執した宗教的熱狂は、宗教についてだけでなく、政治・軍事方面にも批判的精神を受けつけない。
②軍の内部で改宗を進める者は、部隊の結束を築くために、「イエス」のような宗教的シンボルを利用して個々の兵士が作戦の目的、指令、そしてそれに従う自己に対する疑念を払拭させようとする。しかし、疑念というものは、他の選択肢への道であるから、軍指導者の最大の友である。
③死後の世界や死後の救いを最高の価値とする信仰は、現世を生きる価値を低く見る。特に、破壊と暴力の後に来る“神の国”を望む終末への信仰は、そういう破壊と暴力を惹き起こす要素となる。
④宗教的原理主義は、教典に書かれた言葉の一言一句を文字通りに尊重して、その言葉が書かれた文脈を無視する傾向がある。そして、そこからは、これと似た“軍事的原理主義”を生む可能性がある。それは、目の前にある軍事的脅威にのみ注目し、それが生まれてくる原因--例えば、「なぜこれだけの数の自爆攻撃志願者が生まれるのか?」などという、より広い社会的・政治的“文脈”を無視する傾向である。
⑤自分を“神の意志を実行する軍隊”として見るものは、戦場でも“神”のようにふるまう傾向がある。すなわち、遠方から自らの手を汚さずに、非戦闘員を含めた敵地の住民に対して過大な力を行使する傾向である。
⑥世界を“善”と“悪”に二分して見る宗教的視点は、敵地の住民の本当の意志や感情を見誤らせる。
⑦3つの一神教の聖地がある中東地域は、この種の宗教的狂信による武力行使を許す場所としては最悪の場所である。
私は上の分析に概ね賛成するが、⑤については異議を唱えたい。なぜなら、ここで指摘されている「神のような振る舞い」とは、「残虐で無答責」という意味だからだ。旧約聖書に出てくる“神”は、確かにそのような振る舞いをするのだが、そのような神への信仰は、生長の家とは無縁である。しかし、人間を罪深く、価値の低い存在として見る信仰では、全能の絶対神は、人間を虫ケラのように殺戮して何ら顧みることはない。だから、そういう「特定の神」への信仰が問題なのであって、「神への信仰」一般が残虐行為を生むと考えるのは間違いである。また、⑥については、本欄ですでに何回も書いてきたように、「唯神実相論」の生長の家ではありえない考え方である。
このように考えてくると、「神への信仰」一般が政治や軍事面での正しい判断を誤らせるのではなく、その信仰の内容が問題であることが分かる。神のほかに“悪”があると信じたり、神は罪人を容赦なく罰するという種類の信仰に身を任せる人々は、いったん“悪”のラベルを貼った人に対しては、人権無視の残虐な仕打ちをする傾向がどうしても出てくるだろう。それは、相手に対する自信というよりは恐怖心の裏返しなのだ。そして、アブグレイブやガンタナモ収容所での数々の悲劇が起っていった。私には、そう思えるのだ。
谷口 雅宣