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2009年4月24日

“誠意ある表現”の大切さ

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山の谷口家奥津城の前で、「谷口輝子聖姉二十一年祭」がしめやかに行われた。お祭には、この日、最終日を迎える長寿ホーム練成会の参加者を初め、近隣教区の信徒等約320人が参集して、生前の輝子先生の御徳を偲びながら焼香、聖経『甘露の法雨』読誦を行った。私は、お祭の最後に概略、次のような挨拶をした:

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 皆さん、本日は谷口輝子先生の二十一年祭にお集まりくださいまして、ありがとうございます。輝子先生は92~93歳で亡くなられ、それからもう20年たったということですから、時がたつのは速いものです。私はこの間、3月1日に生長の家総裁を襲任させていただきましたが、その関係で輝子先生に久しぶりにお会いしたような気分を経験しました。というのは、東京の生長の家本部会館内で、前総裁の谷口清超先生が使っておられた部屋へ私が移ることになり、執務室を引っ越したのです。正確に言うと、まだ書籍等の移動がすべて終っていないので、まだ引っ越しの途中にあります。谷口清超先生の使っておられた総裁室には本がいっぱい残っていて、その中に輝子先生が書かれた『愛の相談室』というのもありました。
 
 この本は昭和59(1984)年の3月7日--つまり、輝子先生のお誕生日--に世界聖典普及協会から発行されたものです。もう25年も前の本です。この本は、実は私が作った本と言ってもいい。当時、私は世界聖典普及協会で出版担当の部長をしていて、部下と一緒に本や講話のカセットテープづくりをしていたのであります。そのことを思い出しました。今日は、その本から引用しながら輝子先生の御徳をお偲び申し上げたいと思うのです。
 
『愛の相談室』の本には、輝子先生のところに来た人生相談や信仰相談の手紙に対して、先生がお答えするという形式の文章がたくさん載っています。その中に「手紙は誠心で」という題のものがあります。この「まごころ」や「誠意」というものを輝子先生は大変重視された方でした。例えば、この相談の少し前のところで、厚化粧をする人について、こんなことを書いておられます--

「こういう人は、その厚化粧を剥した時に、ちょうどお面を取ったように、全く違う人が現われてくると思います。そういうお面を被ったようなお化粧をして、お見合いをしたりしましたならば、その方の結婚生活では死ぬまでお面を被っているわけにはまいりませんから、やがて子供の一人もできた時には、お面どころか薄化粧もしないで、襟垢だらけで汚い汚い女房になってしまいます。その時に、“お面”を見て美しいと思って結婚した男は、その婦人から心が離れてしまうのでございます。
 私は、何事もありのまま正味の姿で、生地そのままの姿でありたいと思います。お見合いの時でさえも、素顔であって欲しいと思うぐらいであります」(p.54)
 
 これは、「人と接するときはウソや見かけ倒しではいけない。誠意をもって接しなければ、いずれウソがバレて、人間関係が破綻する」--そういうことを仰っているのであります。この「厚化粧ではだめだ」というお考えは、手紙については、「真心をもって書けば、多少下手な字でも大丈夫」というお考えにも通じます。この本の94ページに、相談が書かれています--
 
 (相談の箇所を朗読)
 
 これに対して、輝子先生はこう答えておられます--
 
 (pp. 95-96 を朗読)
 
「虚栄心から字をうまく見せようとせずに、少々下手と思っても、誠意をもってていねいに書けば、それは相手に通じる」--そういうご指導です。輝子先生は、そういう生き方をされて来た人でありました。

 この「字をていねいに書く」ということは、最近のようにパソコンやケータイが頻繁に使われるようになってくると、あまり重要でなく感じられるかもしれませんが、そうではないと私は思います。というのは、私のところに手紙をくださる人の中にもいろいろおられて、直筆で書いてくる人が多いのですが、たまにパソコンのプリンターから打ち出した文字だけで、手紙をくださる人もいます。そういう手紙は非常に読みやすいという点ではありがたいのですが、「一体、誰が書いたのか?」と疑問を感じます。つまり、誰が書いてもプリンターで打ち出せば同じだからです。本当にご本人が書いたのならば、自筆のものの方がプリンターで打ち出したものよりも、受け取った相手は「誠意」を感じます。それが多少、下手な字であっても、ていねいにさえ書いてあれば「誠意」を感じます。
 
 それから、最近ではメールを多く使うようになってきました。皆さんの中にも、たいていのことはメールですませてしまう人もおられると思います。私も毎日、メールを使って人と連絡をしています。しかし、自分の「誠意」を示そうと思うときには、メールのような、手っ取り早く機械で作った文字では不十分ですね。また、誠意だけでなく、「好意」「感謝」「尊敬」「ユーモア」などを表現するときも、メールやパソコンよりも、自分の手を使い、下手でもいいから心を込めて書いたものが数段優れています。そういう意味からも、私は講習会の際には「絵封筒」というのをよく描きます。封筒に大きな絵を描いた中に、手紙を入れて出すのです。これは、絵手紙と同じように、ちょっと練習すれば誰にもできるものです。これをするには、メールを打つよりもはるかに多くの時間がかかりますが、その代り、相手に伝える内容は、大変豊かなものとなります。
 
 受け取った相手は、きっと驚くし、喜んでもらえます。これも「まごころ」や「誠意」の表現であります。誠意というのは必ずしも真面目なだけではなく、楽しいものも、ユーモアにあふれたものもあります。ですから、皆さんも光明化運動の中で、あるいはご自分の人間関係の中でも、表面を飾るのではなく、心の中にあるものを素直に表現しながら、誠意をもった生活をしていただきたい。それが、谷口輝子先生が教えてくださった生き方だと思います。
 
 谷口輝子先生の二十一年祭にあたって、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。

谷口 雅宣

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コメント

ありがとうございます。

僕も手紙は手書きです。

でもいろいろ考えさせられました。

投稿: 奥田 健介 | 2009年4月25日 12:05

字の上手下手は努力と言う事は勿論ですが天分と言うものがある様に感じます、上手な人は「習った事がない事はないが特別に努力した事はない!普通に書いている、何故かこの様に書ける」と言い、自分でも意識している様です、私は努力していないし天分もありませんので下手ですが故社長から「誰にでも分かる様に太く濃く書け!」と指導され心掛けています、下手でも年賀はがきには必ず住所氏名は勿論自筆、裏面も一言書き添えます、直心是道場と言う言葉もあります様に有りの儘が一番楽で一番良い様です、誠意や真心と言うものはある程度表現力が無いと伝わらない場合がありますが至誠心とか深心とかは自力ではなかなか身に付かないと浄土真宗では説かれます、やはり、宗教心と言うものが根底に必要なものなのでしょうか、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2009年4月27日 11:21

合掌 ありがとうございます。

当教区の『聖姉谷口輝子先生21年祭』に参加させて頂きました。教化部長先生の御挨拶の中での谷口輝子先生のいくつかのエピソードを拝聴し、改めて聖姉の意識の尊さに感動しました。

>「虚栄心から字をうまく見せようとせずに、少々下手と思っても、誠意をもってていねいに書けば、それは相手に通じる」
その御言葉とそれに続く総裁先生のコメントに、日本語が下手でできるだけ手書きを避ける私は大きな刺激を受けました。ありがとうございます。

投稿: 平峰恵利花 | 2009年4月29日 14:23

この記事へのコメントは終了しました。

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