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2009年3月20日

誠実な“間借り人”として

 春分の日の今日は、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールにおいて「布教功労物故者追悼春季慰霊祭」が約2時間にわたってしめやかに行われた。私は、斎主として奏上の詞を述べ、参列者に大略以下のようなご挨拶を申し上げた:
 
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 本日は、布教功労物故者を追悼する春季慰霊祭にお参りくださいまして、誠にありがとうございます。

 このお祀りは、永年にわたり生長の家の幹部活動をしてくださった方々で、地上での使命を終えられて霊界に旅立っていかれた方々をこの場にお迎えして、ご生前のご活躍を偲び、感謝の誠を捧げるという意義深いものです。今回は196柱の御霊様をお祀りいたしました。

 昨年の同じ時期にも話したと思いますが、私は、春のこの時季にお彼岸があり、慰霊祭が行われることは大変時宜にかなったよい習慣だと感じています。というのは、自然界では冬が終って、虫が地上に現れ、植物の花が一斉に咲き出し、鳥や動物が活発に動き出すからです。つまり、この時季には“生命の再生”ということが私たちに如実に感じられるからです。そんな時に、死者の霊をお祀りするのがなぜふさわしいのでしょうか? それは、“死者”とは、本当の意味では死者でないからです。生長の家はもちろん、その他の多くの信仰では、肉体の死は本当の人間の死ではなく、霊界や死後の世界への生まれ変わりだと考えます。ですから、生命の再生のときなのです。
 
 死は、霊界への生命の「再生」であると同時に、この世に残された者にとっては「移行」や「継承」が行われるときであります。

 ご存じのとおり、私の父は昨年10月に亡くなりました。そして、私は去る3月1日に生長の家総裁を襲任させていただきました。近々、谷口清超先生が使っておられた執務室を私が使うことになるので、最近、そこへ行って、自分ならその部屋をどう使おうかなどと考える時をもちました。すると、その部屋には先生が使っておられたものがまだ数多く残っているのですね。父は物を大切に使う人でしたから、古いカナ専用のタイプライターとか、パソコンがそれほど普及していない時代に使われていたワープロ専用機も置いてありました。そのほかにも、旧式のラジオやテレビが残っていました。私はこういう古い機械を今後もすべて使うわけにはいきませんが、中にはまだ十分使えるものもあるので、そういうものはできるだけ使っていこうと考えています。

 私は、古いものが嫌いではありません。実は、私が副総裁の頃から十数年間使っていた部屋は、初代の総裁である谷口雅春先生が使っておられた部屋なのです。この本部会館が建てられた当時の「総裁室」を、私はずっと使わせていただいていました。ですから、そこには建設当時からある古いデスクや洋服ダンスがあり、私はそれをそのまま有り難く使っていました。ですから、今回の執務室の交替でも、古いものが使えるのは有り難いことだと感じています。なぜならそこには、大げさに言えば“伝統の継承”がきわめて具体的な形で実現しているからです。別の言い方をすれば、前任者の気持や雰囲気を大切にしながら、新しいものを導入していくことが、とても自然な形でできるのです。
 
 こういうことは、私が特殊な立場にいるから可能であった、と見ることもできます。しかし、よく考えてみると、どんな人の一生も結局、“前任者”と“後継者”が適切に混じり合うことで、成り立っているのではないでしょうか。私達は両親のDNAを半分ずつ引き継いでいるだけでなく、DNAを超えたところの人生観や生き方、ものの考え方、遺産、家訓、商習慣、顧客、市場、商店、工場、農地……なども両親、あるいは前任者から受け継いでいます。それを消し去ることは不可能だし、また無意味なことです。先人から受け継ぐべきものは素直に受け継いで、その上に自分に合った、また新しい時代にふさわしい何かを加えていく……そういう営みが、私たちの人生の基本形ではないかと思います。
 
 このように考えていくと、親や先輩や先任者を肉体の死によって失うことは、今回の私のように、“部屋”を交替することに似ています。かつて親がいた位置に、自分が座るのです。親が握っていたハンドルを、自分が握るのです。そして交替したならば、そのまま自分が未来永劫にわたってその“部屋”に居座るのではありません。それは、次の人に交替するまでの一時期にすぎません。交替の時期がいつくるかは分かりませんが、自分はそれまでの間だけ部屋を使わせてもらう“間借り人”にすぎないのです。なぜなら、私たちの“本当の部屋”“本当の家”は実相世界であるからです。別の言い方をすれば、私たちの肉体は地上の一時期を使命遂行のために使う“仮りの衣装”にすぎないのです。そういうことを、谷口雅春先生は『続 真理の吟唱』にある「新たに生まれる言葉」の中で説いておられるので、一節を朗読し、紹介いたします。
 
 (「新たに生まれる言葉」『続 真理の吟唱』pp. 59-61 を朗読)

 --このように説かれていまして、私たちの実相は霊的実在であるというのが、生長の家の人間観であるのであります。今日お祀りした御霊さまは皆、この教えを宣布することに人生を捧げられた私たちの大先輩であります。私たちはこれからも、御霊さまの遺志を継いで、次の時代の後継者に真理宣布の志を伝えるとともに、この世に生あるかぎり誠実な“間借り人”としてベストを尽くし、人類光明化運動に邁進していきたいと思います。
 
 春のお彼岸のお祭に際して、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。
 
 谷口 雅宣

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