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2009年3月31日

急須が見ている…

 昨日はコイの置物を描いたが、今日は電動カミソリを描くつもりだった。ゴツイ体躯の機械で、ヒゲが濃くない私に似つかわしくなく、いかにも大袈裟なところが面白かった。が、木のテーブルの上にそれを置いてフト気がついた。目の前に白い急須があり、その佇まいが私の気を惹くのである。妻が選んだ急須で、毎日使っている代物だから、高価なものではない。ところが、シンプルなデザインでありながら、変化に富んでいるように見える。こういう時は、当初の計画にこだわらず柔軟に対応すべきなのだ……ということで、私は電動カミソリを脇に置いて、急須を描きはじめた。
 
Mtimg090331j  描きながら気がついた。この急須が私を惹きつけた理由は、それが置かれた角度と関係がある。つまり、急須の注ぎ口がこちらを向き、その左右に円形模様が1つずつ配置されている様子が、まるで「ロボットの頭部」のように見えるのである。円形模様はロボットの「目」であり、急須の注ぎ口はまるで「象の鼻」か「突き出した口」のように見える。この「顔」のイメージが。私を惹きつけたに違いない。
 
 本欄では何度も書いているが、人間の脳の視覚野と呼ばれるところには、「顔」のような模様を見たときに敏感に反応する神経細胞があるらしい。これを「顔細胞」と呼ぶ人もいる。急須を見たときに私が感じた“魅力”には、恐らくこの顔細胞からの通信が関与している。言い換えれば、私は急須を見たとき、無意識のうちにそれを「顔のあるもの」--つまり「生きもの」と感じたに違いない。電動カミソリは、確かに電気で動くが、生きたものではない。急須も生き物ではないが、ロボットの顔に似て見えたことで、私の潜在意識が生き物として感じ、惹きつけられた、と考えられる。もっと簡単に言えば、私は「急須が見ている…」と感じたのだ。

 それ以外にも、私が急須に惹かれた理由はあるだろう。が多分、この「顔がある」という要素は大きいに違いない。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月30日

コイの置物

 昨日は香川県高松市で生長の家講習会があり、5,310人の受講者が集まってくださった。当日の天気予報は「曇り後雨」だったが、幸い穏やかな好天となり、ほぼ満開のヒカンザクラが青空によく映えたよい一日となった。妻と私は28日午後に高松入りし、市の中心部にある商店街を散策した。うどん屋が多いのは予想通りだったが、午後4時ごろから店内に客がいるのは、意外だった。聞くところによると、おやつ代りにうどんを食べる人も珍しくなく、そういう人のために、当地のうどん屋では“ミニ丼”に入った少量のものをちゃんと用意しているという。とにかく安価だから、気楽に食べられるのがいいのだそうだ。
 
Mtimg090330  そんな商店街の一画に旗や記念品を売る店が1軒あり、ショーウィンドーに陶製の小さなコイ幟の置物が飾ってあった。赤と青の大小の番いで、何ともユーモラスな顔と形をしているのが気に入った。値段も「二千円」と手ごろである。店の奥さんに作者のことを尋ねたら「地元の人」だというし、5月の子供の日も近いので買うことにした。作者は、木田郡三木町に住む「三木徹」という66歳の陶芸家だそうだ。

 27日に生きたコイを買ったが、そのことが今回の買い物と関係しているに違いない。コイに親しみを感じていたのだ。とりわけ、弱々しかった1尾のことが気になっていた。土曜日、東京を発つ前に池を覗いたら、その1尾は他のコイたちと一緒に元気に泳いでいたのである。だから、旅行中はコイのことをあまり心配していなかった。しかし、今朝、仕事場へ行く際に、ふと気になって再び池を覗いた私は、声を上げそうになった。赤と白の模様が鮮やかなそのコイが、池の中央付近で、横倒しになって沈んでいるのが見えたからだ。残念だが、環境の激変に耐えられなかったのだ。
 
 人間は、置き物は作れるが生き物はつくれない……そうあらためて感じた。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月27日

コイを買う

 昨日は木曜日の休日だったので、妻と2人で多磨霊園へ墓参に行った。国道20号線から入る霊園前の道路沿いには、立派なサクラ並木が枝をアーチ状に拡げて続いているが、まだ開花し始めたばかりだった。それでも、園内のシダレザクラの中には満開のものがあり、青空を背景に白く堂々と輝いていた。墓参を終り、近くのホームセンターに寄った。妻がこまごまとした日用品を買ったあとで、2人でペット売場へ行って小型の錦鯉を3尾買った。庭の池に入れて飼うためである。
 
 わが家の池には、すでに大型のコイが1尾、中型が1尾、小型のコメットが3尾いた。これらは、池の南側の間際に大型ビルが建った中でも生き抜いてきた。私は、このビルが池全体に影を落とすので、今後池には魚は育たないと思っていた。が、5尾はどうにか育ってくれており、特にコイは明らかに成長しているので、仲間を増やそうと思っていたのである。
 
Fishpond  3尾のコイは、女性店員が2つのビーニール袋に水槽の水と一緒に入れ、その上から酸素を注入して密閉してくれた。この酸素がどのくらいもつか訊かなかったが、私たちはその後、深大寺近くのソバ屋へ向かった。このソバ屋が案外混んでいて待たされたので、食事中もコイたちに必要な酸素量が気になっていた。が、幸い、家に帰って3尾を池に放すと、最初は戸惑った様子のコイたちも、すぐに2尾が“先輩”のコイたちと合流した。ところが残りの1尾は、岩陰に身をひそめてじっとしている。まるで「知らないところはコワイ」と感じ躊躇しているように見える。個々の魚に「性格」のようなものがあるとは考えにくいが、このコイは明らかに“臆病者”に見えるのである。結局、5分ほど後に、3尾目のコイも体を動かし出し、やがてゆっくりと池の中央へ進んでいって、新しい仲間と合流したのである。恐らく水温の差が大きかったので、この1尾については、体の諸機能の調整に時間がかかった--というのが私たちの解釈である。
 
 3尾のコイたちの、これからの成長が楽しみである。

 谷口 雅宣

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2009年3月25日

映画『パッセンジャーズ』

 今日は我々にとって“週末”の水曜日だったので、日比谷で映画鑑賞をした。妻も私もロドリゴ・ガルシア監督作品のこの映画の前評判をまったく知らなかったが、久しぶりに見ごたえのある作品に出会えたと思った。「パッセンジャーズ」は乗客という意味だから、恐らく飛行機墜落事故の映画……というぐらいの知識しかなかったが、そういうアクション性だけでなく、心理サスペンスとラブストーリーも入っており、加えて上質の宗教性も加味されている。それらの要素が、93分の作品の中できちんと表現されているのは、驚きだった。この見事な多面性を可能にしたのは、作品の最終部に仕掛けられた“どんでん返し”だ、と私は思う。

 これが何であるか言えないことを、読者は了解してほしい。この作品の醍醐味は、その“どんでん返し”を経験した鑑賞者の心に、複雑な謎が一気に解けた解放感と、静かな人間的感動が拡がっていくところにある。映画でなければ恐らく得られないそんな機会を、私は読者から奪いたくない。

 主演は女優のアン・ハサウェイで、若い心理セラピストを演じる。彼女は、不時着した航空機から奇蹟的に助かった5人の乗客のカウンセリングをする。この主人公は、いわゆる“心的外傷後ストレス障害”(PTSD)を“治療”しようとするのだが、5人の患者は1人、また1人と治療から脱落していく。かと思うと、妙に明るい男性患者が、彼女を口説こうと様々な手で言い寄ってくる。そのうち、事故機の航空会社が生存者の数を誤魔化している疑いが芽生える。かと思うと、彼女の上司が隠しごとをしている様子である--こうして主人公は、何か大きな“陰謀”のただ中にいる自分を発見して、もがくのである。

 映画は、主人公の目を通して周囲の状況を描いていくが、その同じ“周囲の状況”が、映画の最終部の“どんでん返し”によって主人公の思い込みから解放されると、映画鑑賞者にはまったく別の意味をもって見えてくる--それが圧巻である。これによって、鑑賞者は、同一の“事実の連続”が、2つの異なった意味をもっていることを知る。そして、“悪い意味”や“悪意”として感じられてきたことが、突然、“よい意味”をもった“善意”の行動であることが分かるのである。この体験は、人生の艱難に際して、環境は自心の展開であると知り、周囲の人々は皆、自分に何かを教えてくれる導き手であったと感じる宗教的体験とも似ている。上述した「上質の宗教性」とは、このことを言っている。
 
 「肉体の死は、人間の魂の解放である」と言われるが、この作品を見ると「なるほど、そうかもしれない」と納得される。昔の映画では『オールウェイズ』(1989年)や『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990年)が同じ主題をもっと正面から扱っていて、私は好きだった。が、この作品はそれを言わば“斜め”に扱おうとして“凝った仕掛け”を使っている。が、それに騙されても、悪い気はしないから不思議だ。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月24日

なぜ今「地球環境工学」か? (3)

「地球環境工学」を語りながら、私はここまで肝腎なことを1つ書かなかった。それは、この新しい科学技術が「具体的に何をするか」ということである。前回紹介した『NewScientist』誌は、この技術について「地球の自動温度調節装置を調整すること」と表現し、具体的手法として、太陽光を拡散させて弱めるために「大気中に微細な塵をばらまく」ことや、「宇宙空間に鏡を大量に打ち上げる」ことなどを挙げている。しかし、その一方で「植林」も地球環境工学の“原始的方法”だとしているところを見ると、若干、概念の混乱があるのかもしれない。が、読者にこの概念のイメージを理解してもらうために、同誌の挙げている例をすべて列挙してみる:

(1) 宇宙鏡の設置(space mirrors)--上述の通り。

(2) 植 林(foresting)--省略。

(3) エーロゾル散布(aerosols)--成層圏に煙霧質の粒子を散布する。

(4) 人工雲の作製(cloud seeding)--海水を粒子にして大気中に散布する。

(5) 人工木の埋設(artificial trees)--炭素を固定した人工木を地中に埋める。

(6) 反射性作物の栽培(reflective crops)--太陽光の反射効率が高い作物を植える。

(7) 生物炭化法(biochar)--農業廃棄物を炭化させて土中に埋める。(2月9日の本欄参照)

(8) 海洋肥沃化(ocean fertilization)--海中への鉄分付加でプランクトンを活性化。

(9) 海洋への炭酸注入(carbonate addition)--粉末の石灰岩を海中に投入する。

 これらの具体策を見て気がつくことは、ほとんどのものが比較的安価に実行できることだ。「安価」という意味は、現在考えられている温暖化抑制のための諸方策--省エネ、省資源、リサイクル、炭素税、排出権取引、自然エネルギー開発など--に比べて、コストが安く見えるということだ。また、一国の決断で実行できるという点も見逃すことができない。この2つの要素は、しかし地球環境工学の長所であると同時に問題点でもある。なぜなら、安価で実行しやすい方策は、国際的な取り決めなしに、また環境への影響評価を軽視して実行されやすいからである。
 
 『NewScientist』誌によると、この危険性は実際、2005年11月にあったという。当時、国連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の副議長で、ロシアの地球気象環境研究所の所長であったユーリ・イズラエル氏(Yuri Izrael)は、プーチン大統領に対して、ロシアは今すぐ大気圏に60万トンの硫酸塩エーロゾルを散布すべきだと提言したのだ。この方法は、上記のリストの3番目にあるものだが、2007年に行った実験によって、硫酸塩による太陽光の遮蔽は、地球のある箇所に深刻な旱魃をもたらす危険があることが分かったのだ。

 だから、このような危険性を無視して地球環境工学を実施することは、国際紛争の原因になるのである。事実、アメリカはベトナム戦争時代、敵のホーチミン・ルートの補給路を断つ目的で人工雨を降らせる実験をしたことがある。つまり、この技術は戦争目的に使用できるし、実際にそうされたことがあるのだ。これによって「国連環境変容技術の敵対使用禁止協定」(UN Convention on the Prohibition of Military or Any Other Hostile Use of Environmental Modification Techniques, ENMOD)が作られ、今日までにアメリカを含む70カ国が批准していることは重要である。この技術の“悪用”が、人類全体にとって、さらには地球全体の生態系にとって深刻な問題を投げかける可能性を忘れてはならないだろう。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年3月23日

なぜ今「地球環境工学」か? (2)

 地球の平均気温に「4℃の上昇」が起こった場合の科学者のシミュレーションを、3月21日の本欄で紹介した『New Scientist』の記事から拾って紹介しよう。

 同誌は、それが起こった時の地球環境を「人類がかつて経験したことのない変わり果てた地球」だと表現する。が、人類が登場する前の地球には、そういう“温暖時代”があったらしい。それは今から5500万年前で、海底深くに凍結し化学的に封印されていたメタンが、地上に噴き出したことで始まったと言われる。これによって5ギガトンの炭素が大気中に放出され、地球の平均気温は5~6℃も上昇し、極地に熱帯林が出現したという。また、海には二酸化炭素が融け出して酸化したため、海洋生物の大量死が起こった。加えて、氷の融解によって、海面は現在より100メートルも高い位置まで上昇し、南アフリカからヨーロッパあたりまで砂漠になった。「4℃の上昇」が起こると、これと似た現象が起こると予測されている。
 
 これは理論上の想定で、実際に何がどう起こるかは、気温上昇のスピードと、極地の氷がどれだけ融けるかによって変わってくるらしい。が、この“温暖時代”の大きな特徴の1つは、現在の地球で人間の居住と食糧生産に適した場所の多くが、居住にも農業にも適さなくなることだ。また、水温の上昇による海水の膨張や、氷河の融解、高波などで、当初は海面が2メートル上昇し、さらにグリーンランドや南極の氷が融け出せば、さらなる海面上昇が起こるという。NASAのゴッダード宇宙科学研究所のジェームズ・ハンセン所長(James Hansen)によると、大気中のCO2の濃度が現在の「385ppm」から「550ppm」になれば、地球上から氷は完全に消え、海面上昇は80mに達するという。

 人類が居住地と農地を失う理由は、熱帯地域の砂漠化によるらしい。現在、地球上の土地の半分は北緯30度から南緯30度の熱帯に位置していて、この地域が特に気候変動に対して脆弱であるという。平均気温が4℃も上がると、例えば、インド、バングラデッシュ、パキスタンなどでは、短期間に激しい熱帯モンスーンが訪れる。これが、現在より洪水の被害を拡大する一方で、地表の熱は上がっているから、蒸発も速く起こる。そこで、アジア地域では旱魃が悪化するという。これらの影響で、バングラデッシュでは土地の3分の1が失われると予測されている。
 
 アフリカのモンスーンも激化するという。モンスーンが運ぶ雨により、サハラ砂漠から南方の地域は恐らく一度は緑化すると予測する人がいる。その一方で、アフリカ大陸全土を、深刻な旱魃が襲うとする予想もある。また、地表の温度が上がることで水分が減少するから、中国大陸、アメリカ合衆国南西部、中米地域、南米のほとんどと、オーストラリアで得られる淡水の量は減少する。サハラ砂漠は北上しながら拡大して、中央ヨーロッパに達する。さらに、温暖時代には氷河は消えてしまうから、ヨーロッパ・アルプス、ヒマラヤ、南米のアンデスなどからの水量は激減し、その結果、アフガニスタン、パキスタン、中国、ブータン、インド、ベトナムなどで水不足が深刻化するという。

 このように見てくると、地球上で人類が生活できる地域は、北極と南極に近いごく限られた土地ということになる。ガイア理論の提唱者であるジェームズ・ラブロック博士(James Lovelock)によると、極地付近の地域以外には人が住めなくなるため、「人類は極めて困難な状況に置かれるし、私は、こういう困難を切り抜けられるほど人類が利口とは思わない。人類は生物種としては生き残るだろう。しかし、今世紀中に出る犠牲者の数はとてつもなく大きくなる」という。
 
 地球環境の将来について、このように深刻な予測が、名の通った科学者や一流の研究機関の間にあることを知ってみると、そんな事態を防ぐためには「あらゆる手段を使うべし」という意見が出ることも頷ける。「今、地球環境工学の実地研究に乗り出すべきだ」という考えは、こういう文脈で表明されているのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月22日

速度を落とせ

 今日、大津市で行われた滋賀教区の生長の家講習会では、朝から小雨模様であったにもかかわらず、前回を1割強上回る3,763人の受講者が集まってくださった。鈴木幸利・教化部長をはじめ、同教区の幹部・会員の皆さま方の並々ならぬご努力に、心から感謝申し上げます。体験談も粒ぞろいで、聖歌隊の合唱もよかった。講習会終了後の幹部懇談会でも、和やかな雰囲気の中で、中身のある意見交換ができたことはありがたかった。

 講習会の午後の講話で、私は現在の世界的な経済危機の克服のために、一部の政府が大量の資金をつぎ込んで公共事業や大規模プロジェクトの実施を考えていることを、遠回しに批判した。欲望を駆り立てて“人間本位”の世界をつくり上げようとするこれまでの手法が、「良好な地球環境の維持」の要請とはもはや両立しないと考えているからだ。この点は、前回の本欄を読み返していただければ了解してもらえると思う。
 
Slower 「スローライフ」とか「スローフード」という言葉が使われるようになっているが、現代人の“先を急ぐ”生き方の限界を示しているのが今日の経済状況であり、政治の無能であると思う。今朝、大津市で泊まったホテルから下を見ると、雨で濡れた道路に大きく白文字で「速度落せ」と書かれていた。その言葉が、今の人類全体への警告のように思えたので、写真に撮った。私たちは「緑の森」「青い海」が自分たちにとってどれだけ大切かを、忘れかけているのではないか。

 谷口 雅宣

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2009年3月21日

なぜ今「地球環境工学」か?

 私は最近、「ジオエンジニアリング」(geoengineering)という言葉が気になっている。アメリカの外交専門誌『Foreign Affairs』(フォーリン・アフェアーズ)が3~4月号の表紙の見出しにこの言葉を使ったし、イギリスの科学誌『New Scientist』が2月28日号(vol.201, No.2697)の論説の見出しに、やはりこれを使っている。

 ジオ(geo)とは「地球の」とか「地理に関する」という意味の接頭語だ。従って、ジオグラフィー(geography)は「地理」であり、ジオロジー(geology)は「地質学」、ジオポリティックス(geopolitics)は「地政学」である。エンジニアリングはもちろん「工学」のことだから、「地球」や「地球環境」を工学の対象とするのが「ジオエンジニアリング」である。新しい言葉だから、私の使う英和辞典にも英英辞典にもまだ載ってない。
 
 ご存じのように、遺伝子工学(genetic engineering)は、人間が生物の遺伝子を操作することによって、生物を人間の目的に合わせて制御したり、改変する学問だから、ジオエンジニアリングは「地球や地球環境を人間の目的に合わせて制御し、改変する学問」ということになる。私はそれを「地球環境工学」とここでは訳した。
 
 賢明な読者はすでにお気づきと思うが、著書や本欄などを通して遺伝子工学に疑義をはさんできた私にとって、「地球環境工学」はさらに疑わしい考え方である。それは私が、宗教家であるからではない。多くの科学者が「地球環境を人間の力で操作するためには、遺伝子操作よりもさらに慎重な配慮が必要だ」ということをよく知っている。第一、「今日の深刻な地球温暖化の原因は、人間の活動による温室効果ガスの増大である」という事実が、地球環境工学の難しさを証明していると言えるからだ。産業革命によって、我々は当初まったく意図せずに、地球環境を悪い方向に変える技術と文明を創造した。そして今日、悪いと知りながらも、この方向を逆転できないでいる。自分の行動の過ちを正せない人間が、何を今さら「地球環境工学」か?
 
 私が「ジオエンジニアリング」という言葉を目にした最初の印象は、そういうものだった。ところが今日、生長の家講習会のために滋賀県大津市に向かう新幹線の中で上記の『New Scientist』誌を読んだ私は、この学問が今、科学者の間では“最後の手段”として論議の対象になっていることを知った。私が言っているのは、経済危機とか北朝鮮のミサイルのことではない。現在の人類の意識と世界の政治・経済制度では地球温暖化を止めることができないから、人類の犠牲を最小限に食い止めるために、科学技術を動員して地球環境の操作に、あるいは少なくともそういう技術の研究に着手すべしという議論が、環境学者や気象学者の間で行われているのである。
 
「4℃の上昇」というのが、ここでのキーワードである。つまり、地球の平均気温の上昇がこのレベルに達すると、地球環境の変化は後戻りできない状態になるらしい。そして、何年後にこの段階に達するかといえば、あるコンピューター・モデルは「2050年」にはなるという。が、それは悲観的予測で、多くの科学者は「2100年」までにはそうなると予測しているようだ。我々の子や孫の時代だ。これはもちろん、現在の京都議定書での取り決めが実現せず、さらなる政治的努力も効果がないという前提に立っているのだろう。つまり、“最悪の事態”の到来を予測して、今から準備を始めるべきだとの考え方である。
 
 科学者がそれほどの危機感を抱く理由は、「4℃の上昇」が起こった場合の地球環境のシミュレーションを知れば了解できる。が、そのことは、次回以降に譲ろう。

谷口 雅宣

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2009年3月20日

誠実な“間借り人”として

 春分の日の今日は、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールにおいて「布教功労物故者追悼春季慰霊祭」が約2時間にわたってしめやかに行われた。私は、斎主として奏上の詞を述べ、参列者に大略以下のようなご挨拶を申し上げた:
 
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 本日は、布教功労物故者を追悼する春季慰霊祭にお参りくださいまして、誠にありがとうございます。

 このお祀りは、永年にわたり生長の家の幹部活動をしてくださった方々で、地上での使命を終えられて霊界に旅立っていかれた方々をこの場にお迎えして、ご生前のご活躍を偲び、感謝の誠を捧げるという意義深いものです。今回は196柱の御霊様をお祀りいたしました。

 昨年の同じ時期にも話したと思いますが、私は、春のこの時季にお彼岸があり、慰霊祭が行われることは大変時宜にかなったよい習慣だと感じています。というのは、自然界では冬が終って、虫が地上に現れ、植物の花が一斉に咲き出し、鳥や動物が活発に動き出すからです。つまり、この時季には“生命の再生”ということが私たちに如実に感じられるからです。そんな時に、死者の霊をお祀りするのがなぜふさわしいのでしょうか? それは、“死者”とは、本当の意味では死者でないからです。生長の家はもちろん、その他の多くの信仰では、肉体の死は本当の人間の死ではなく、霊界や死後の世界への生まれ変わりだと考えます。ですから、生命の再生のときなのです。
 
 死は、霊界への生命の「再生」であると同時に、この世に残された者にとっては「移行」や「継承」が行われるときであります。

 ご存じのとおり、私の父は昨年10月に亡くなりました。そして、私は去る3月1日に生長の家総裁を襲任させていただきました。近々、谷口清超先生が使っておられた執務室を私が使うことになるので、最近、そこへ行って、自分ならその部屋をどう使おうかなどと考える時をもちました。すると、その部屋には先生が使っておられたものがまだ数多く残っているのですね。父は物を大切に使う人でしたから、古いカナ専用のタイプライターとか、パソコンがそれほど普及していない時代に使われていたワープロ専用機も置いてありました。そのほかにも、旧式のラジオやテレビが残っていました。私はこういう古い機械を今後もすべて使うわけにはいきませんが、中にはまだ十分使えるものもあるので、そういうものはできるだけ使っていこうと考えています。

 私は、古いものが嫌いではありません。実は、私が副総裁の頃から十数年間使っていた部屋は、初代の総裁である谷口雅春先生が使っておられた部屋なのです。この本部会館が建てられた当時の「総裁室」を、私はずっと使わせていただいていました。ですから、そこには建設当時からある古いデスクや洋服ダンスがあり、私はそれをそのまま有り難く使っていました。ですから、今回の執務室の交替でも、古いものが使えるのは有り難いことだと感じています。なぜならそこには、大げさに言えば“伝統の継承”がきわめて具体的な形で実現しているからです。別の言い方をすれば、前任者の気持や雰囲気を大切にしながら、新しいものを導入していくことが、とても自然な形でできるのです。
 
 こういうことは、私が特殊な立場にいるから可能であった、と見ることもできます。しかし、よく考えてみると、どんな人の一生も結局、“前任者”と“後継者”が適切に混じり合うことで、成り立っているのではないでしょうか。私達は両親のDNAを半分ずつ引き継いでいるだけでなく、DNAを超えたところの人生観や生き方、ものの考え方、遺産、家訓、商習慣、顧客、市場、商店、工場、農地……なども両親、あるいは前任者から受け継いでいます。それを消し去ることは不可能だし、また無意味なことです。先人から受け継ぐべきものは素直に受け継いで、その上に自分に合った、また新しい時代にふさわしい何かを加えていく……そういう営みが、私たちの人生の基本形ではないかと思います。
 
 このように考えていくと、親や先輩や先任者を肉体の死によって失うことは、今回の私のように、“部屋”を交替することに似ています。かつて親がいた位置に、自分が座るのです。親が握っていたハンドルを、自分が握るのです。そして交替したならば、そのまま自分が未来永劫にわたってその“部屋”に居座るのではありません。それは、次の人に交替するまでの一時期にすぎません。交替の時期がいつくるかは分かりませんが、自分はそれまでの間だけ部屋を使わせてもらう“間借り人”にすぎないのです。なぜなら、私たちの“本当の部屋”“本当の家”は実相世界であるからです。別の言い方をすれば、私たちの肉体は地上の一時期を使命遂行のために使う“仮りの衣装”にすぎないのです。そういうことを、谷口雅春先生は『続 真理の吟唱』にある「新たに生まれる言葉」の中で説いておられるので、一節を朗読し、紹介いたします。
 
 (「新たに生まれる言葉」『続 真理の吟唱』pp. 59-61 を朗読)

 --このように説かれていまして、私たちの実相は霊的実在であるというのが、生長の家の人間観であるのであります。今日お祀りした御霊さまは皆、この教えを宣布することに人生を捧げられた私たちの大先輩であります。私たちはこれからも、御霊さまの遺志を継いで、次の時代の後継者に真理宣布の志を伝えるとともに、この世に生あるかぎり誠実な“間借り人”としてベストを尽くし、人類光明化運動に邁進していきたいと思います。
 
 春のお彼岸のお祭に際して、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月19日

ブラジル全土で“ネット研修会”

 日本の生長の家では、地球温暖化抑制のための“炭素ゼロ”を目指した運動を展開していることは、多くの読者はすでに御存じのことだ。このためには、交通機関の選択を含んだ国内での人の移動や、集会の持ち方など多方面に工夫が必要であることは言うまでもない。全国59教区に置かれた教化部会館や6箇所の本部直轄練成道場では、環境経営システムの国際基準であるISO14001の認証をすでに得ているから、日常的な活動の中では、国際基準にもとづく温室効果ガス削減の努力を続けているところだ。しかし、宗教運動には人と人との密接なコミュニケーションが不可欠である。宗教は伝統的に、この人と人との直接対面による“魂の触れ合い”が核心となって発展してきたから、「人を集める」ことなくして宗教行事は考えられなかった。

 しかし、昨今の通信技術の劇的な進歩によって、「人を集める」機能の一部を通信技術が肩代わりすることが可能になっている。都道府県単位で行われる生長の家講習会では、衛星による複数会場への同時中継が行われることは、もはや珍しくない。また、全国行事においても、白鳩会の全国大会が衛星中継によって数カ所で同時開催されてきたし、昨年12月には「故生長の家総裁、谷口清超先生追善供養祭」が光回線を使ったインターネット中継によって、全国60箇所以上に配信された。そして、今年5月初めにも、生長の家白鳩会の幹部研鑽会が全国3カ所で同時中継される予定だ。
 
 これは日本国内の事情だが、生長の家の信徒数が日本を上回るブラジルでは、通信事情が日本より悪いと聞いていたので、全国に向けた行事の同時中継など当分先の話だと考えていた。ところが、ラテン・アメリカ教化総長、向芳夫・本部講師の報告によると、ブラジルではこの3月15日に、全国にある83の教化支部を会場にして、今年上半期の講師研修会をインターネット中継によって実施したというから、驚いた。研修会は午前10時に始まり、開会式からインターネットで配信したらしい。また、本部講師が担当する4つの研修と、昼食を挟んだ後の地元講師会長による研修などが行われた。向総長自身は、今年8月にサンパウロで行われる「世界平和のための生長の家国際教修会」の参加促進と「祈りの力について」と題する研修も担当したという。同総長は、この画期的取り組みについて「終了後、各教化支部からの反響も聴取しましたが、皆さん大変喜んでくれました」と報告してくださった。

 また、この“ネット研修会”に参加したサンパウロ市の地方講師によると、参加対象になったのはブラジル国内の約3千人で、この中には地方講師だけでなく、昨年の地方講師試験受験者も含まれるという。サンパウロ教区では60人の地方講師が“ネット研修会”に参加した。研修会を指導したのは、向教化総長のほか、村上真理枝・副教化総長、北原オリンピオ・本部講師、高橋信治・本部講師の4人という。効果的な研修会となったかどうか、参加者の反応が知りたいところだ。
 
 ブラジルはすでに、自動車の燃料としてバイオエタノールを使っているが、日本の20倍の広さがあるこの国で、このような形で講師研修会が行われれば、二酸化炭素の削減効果はさらに大きいに違いない。日本の“炭素ゼロ”に向けた運動にも、大いに参考になる試みである。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月18日

透明性の魅力

 ペットボトルは手軽で、持ち運びに便利であるため、人気は衰えない。その中に入れて持ち運ぶ液体も、水やお茶、清涼飲料水などいろいろあって、それぞれの中身にふさわしい色や装飾をほどこされ、コンビニやスーパーの棚に並んでいる。

 しかし、なぜペットボトルは透明なのか? それは多分、外から中身が見える方が、見えないよりも信頼できるからだ。「はい、このように中身にいつわりはありません」と容器自体が宣言しているのだ。それに加えて、透明なものには何となく清潔感がある。
 
Mtimg090316  私は最近、ホテルに備え付けのアメニティーグッズの中に、ペットボトルと同じ素材の透明プラスチックの容器を見つけた。普通の背の低い清涼飲料用の容器の4分の1ほどの大きさだ。3つの瓶の中にそれぞれ黄、緑、白色の液体が入っていて、3つ並ぶと実にかわいく、色の組み合わせが美しい。そのうち1本を使ったので、容器を持ち帰った。具体的に何に使うかなど頭にないまま、この瓶自体の魅力に逆らえなかったのである。ガラス瓶にも清潔感はあるが、重くて、割れる危険性がある。その点、ペットボトルは軽くて、頑丈である。加えて、栓が付属しているのもいい。好天の朝、窓辺に置くと、明るい光を反射して輝いて見えた。そんな様子をスケッチした。
 
「透明性」は、人格や政治、企業経営においても好ましいとされる。外から分かる様子と中身とが変わらないことは、一般的に美徳なのだ。「ウソをつかない」とか「約束を守る」という徳目も、透明性と関係があるに違いない。我々の道徳評価には、視覚からの影響が少なからずあるようだ。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年3月17日

本は不況に強いのか?

 3月10日の本欄では、インターネット書店「アマゾン」の電子本専用機のことに言及して、「こんなものが日本に上陸したら、紙製の本の売り上げはますます落ち、中小の書店は相当打撃を受けるだろう」などと書いた。ところが、その一方で、ヨーロッパやアメリカの書店では、この不況の中で紙製の本の売り上げが伸びているというのである。16日の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。
 
 それによると、フランスでの本の販売数は、昨秋にいったん減ったものの、12月には前年同月比で2%増え、1月には2.4%増となった。金額ベースではさらに良く、1月は前年同月比4%増、2月には7%も増えたという。ドイツでも同様の傾向が見られ、1月の販売数は前年同月比で2.3%増えた。アメリカとイギリスではそれほどよくないものの、昨年は減っていない。が、今年に入って最初の10週間は、約1%の減少だそうだ。しかし、この減少幅は、他の産業が軒並み2桁台の売上減少を示しているのに比べ、驚くほど小さい、と同紙は言う。
 
 なぜこうなのかについては、いろいろの説がある。まず書籍は、新型テレビやゲーム機に比べて安価であるから、絶好の代替品だ。また、失業者が増えているため労働時間が短くなり、空いた時間を読書に使う人が増えたとも考えられる。あるいは、最近数年間の過剰な労働を経験した人々が、今は読書によってものを考えるようになったのかもしれない。さらには、過酷な現実と直面したくない人々が、名作の中に逃げ込んでいるのかもしれない……。

 が、この傾向が長く続くと考えるほど、同紙は楽観的でない。というのは、書籍の売上が伸びているのは小売段階であって、卸段階では逆に減っているからだ。具体的には、アメリカでの昨年の本の卸売総額は2.4%減ったという。理由は、書店側が出版社への注文を減らしているからだ。また、書籍販売への不況の影響は、遅れてやってくる可能性もある。というのは、同紙が指摘しているように、1929年にウォール街で株価が暴落した直後は、書籍販売はさほど減らなかったものの、それから数年たって大恐慌が進行するにつれて本は売れなくなり、多くの出版社が倒産したからだ。が、逆に、不況によって生れた出版社もあるらしい。それは1935年に設立されたペンギン・ブックスで、同社の創業者は「よい本を煙草1箱の値段で」という新しい考えのもとに起業し、成功した。
 
 現在の書籍の好調の理由を考えるのに、参考になるデータがある。それは、このペンギン・ブックスから出ているジョン・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith)の名著『大恐慌--1929年』の売上である。一昨年の同書のイギリスでの売上は200冊そこそこにすぎなかったが、昨年は1万2千部も売れたそうだ。ということは、この不況下にあってこそ、人々が求める本を出すことが出版社の命運を決めることになるのである。

 谷口 雅宣

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2009年3月16日

裁判員として“罪”をどうするか?

 昨日東京で行われた生長の家講習会で、裁判員制度との関連で興味ある質問が出た。川崎市高津区から来られた49歳の女性の、こういう質問である--
 
「午前の部のご講話より、ずっと心にひっかかっている問題がございます。“人間本来罪なし”と教えて下さる生長の家のみ教えにふれていますと、5月から始まる裁判員制度でもし(裁判員に)選ばれました時、罪なし、罪なしでみんな神の子さんに見えて、とても極悪犯でも裁くことがむずかしく、冷静に判断できません。本当は死刑にしたいと思えるのに、という場合もあります。どうしたらよいでしょうか?」

 私は、これに対して「実相と現象の区別」をポイントに置いて答えたが、言いたいことがどれだけ伝わったか定かでない。そこで、この場を借りて、少し補足させていただきたい。

 まず、「人間本来罪なし」という場合の宗教上・道徳上の罪と、裁判員制度を含む法律上の罪とは、若干意味が異なるのである。英語でも、前者を「sin」といい、後者を「crime」と呼んで区別している。宗教上・道徳上の罪は、一般的には創造主である完全なる神に比較して、人間は本質的に不完全であるという意味で使われる。これに対して法律上の罪は、単に法律に違反しているという意味だ。だから、前者は後者より広い意味をもつ。例えば、日本では大麻(マリファナ)を個人が栽培することは法律で禁じられているが、アメリカの一部の州では禁じられていない。この場合、大麻栽培者は、日本では法律上の罪人であるが、アメリカのその州ではまったく自由人だ。このように、法的な罪は国や州によって異なるが、宗教上の罪は、そのような地域的な差異は認められない。例えば、「他人の不幸や死を願う」ことは宗教的・道徳的罪とされることがあるが、そういう傾向のある人は、どこの国へ行っても同じような心を抱くだろうから、地域的な差異は生じない。
 
 以上は、2種類の罪の一般的な説明である。そして、5月から始まる裁判員制度では、我々は宗教上・道徳上の罪を裁くのではなく、もっぱら法律的罪を裁くのである。大麻栽培の例を使えば、ある人が日本国内で大麻を栽培したかしないかの事実認定にもとづき、法律に照らして罰則を適用する--それだけのことである。法律に「禁固1年」と書いてあったら、それ以下の罪になるのであり、決して「禁固2年」や「懲役刑」にすることはできない。また、ある人が国内で実際に大麻の栽培をしていたのであれば、生長の家でどんなに「罪はない」と説いていても、その人は「有罪」とならざるを得ない。ただし、量刑(罰則の適用)については、罪の程度が軽微であれば--例えば、大麻と知らずに、別の植物だと思って栽培していた場合、事実上は刑を免除する「執行猶予」となることもある。それでも、法律的にはあくまでも「有罪」だ。
 
 ところが、宗教上・道徳上の罪という観点では、生長の家では「人間本来罪なし」であるから、有罪判決を受けた人に対しても、「あなたは本当は罪人ではありません」と断言するのである。大麻栽培者に対してだけでなく、詐欺師にも、放火犯にも、殺人犯にも、そう言うのである。ここで重要なのは「本来」という2文字であり、これは「実相においては」という意味だ。「人間本来罪なし」をこの文脈の中で言い直せば、「現象的には殺人犯でも、実相においては神の分身として完全である」ということになる。裁判員になった生長の家信徒は、一方では法律的意味での罪の有無をきちんと判断すると同時に、宗教的な意味での罪は「本来ない」ということを信じるのだ。まるで“ダブル・スタンダード”のように聞こえるかもしれないが、「実相と現象を分けて考える」というのは結局、そういうことになるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月15日

東京の皆さん、ありがとう!

 今日は素晴らしい晴天の下、東京・有楽町駅前にある東京国際フォーラムにおいて、東京第一教区の生長の家講習会が行われた。東京23区を中心とした首都圏の幹部・信徒の皆さんの大いなるご努力によって、静かながら楽しい雰囲気の中での講習会になったことを心から感謝申し上げます。東京生まれ、東京育ちの私なので、講話の中では「私にとって“ふるさと”の東京だが、年末年始やお盆に“帰省”することができない。伊勢に帰省できる妻が羨ましい……」などと、つい余計な言葉を吐いてしまった。会場では、質問もかなり多く出て受講者の関心の深さを窺えたが、時間の都合で半分も答えることができなかったのは、残念だった。重要なテーマの質問については、また本欄などを通して機会を見てお答えしたいと思う。
 
Mtimg090315  会場の控室に飾られていた花々を手土産にいただいた。春先に多いフリージアなど黄色い花を主体とした“盛り合わせ”で、帰宅後、今日の記録として自由版『日時計日記』にスケッチした。

冬から早春にかけて、日本の山野に自生する花には黄色や白が多いのだそうだ。これは、植物の花の色を研究している国立博物館の岩科司氏の話として3月1日の『日本経済新聞』に書いてあった。岩科氏によると、黄色系の色は多くの昆虫に好かれる“大衆性”をもっているため、虫たちの活動がさほど活発でない早春の時期には、植物はどんな“客”にもえり好みされない色の花を咲かせて、子孫繁栄の機会を待つのだそうだ。だから、フクジュソウ、マンサク、トサミズキの花は黄色い。スイセンやフリージア、タンポポも黄色や白だ。ちなみに、マンサクの名前の由来は「真っ先に咲く」からとか。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月14日

『日時計日記』に自由版できる

Freediary  生長の家が発行している『日時計日記』に“自由版”という新タイプ(=写真)が加わった。まだできたてホヤホヤなので、地域によっては入手できるのは数日後になるかもしれない。従来版の『日時計日記』は左から開く方式で、縦書きもできなくはないが、全体の構成は横書きを前提としている。日付と曜日が印刷されていて、記入項目も指定されているなど“自由度”が限定されていた。これに比べて新版は、右から開く方式を採用、ページからは日付、曜日、記入項目がなくなり、判型が一回り大きくなった。このため、より広いページを自由に使うことができる。また、表紙は上製本の頑丈なつくりになっている。
 
 もう1つの特徴は、1週間に1回の割合で、谷口雅春先生、清超先生、そして私の本からの抜粋文が「今日のあなたへ」という欄に掲載されていることだ。全部で53本の文章があり、それぞれをその週の指針とすることができる。また、日記を書くときの“手がかり”として、生活のアイディアを得るヒントとしても使うことができるだろう。リボンの栞(しおり)がついているのも親切だ。

 日記のつけ方は、各人各様であっていいと思う。1年分の日付をすべて印刷してある従来の『日時計日記』は、「毎日書く」という習慣を作るのに良いし、その年の「記録を残す」という意味でも優れている。一方、この“自由版”は、書く日と書かない日があってもいいが、書くときは書きたいだけ使え、イラストや絵をつけたり、写真やメモも貼りたいという人にとっては、とてもありがたい。また、講師の出講記録や、誌友会の記録などにも使えるだろう。私は、従来版の『日時計日記』をつける前は、文庫本サイズの『マイブック』というのを何年も使っていて、これは事実上、「何も印刷してない文庫本」だった。この“自由版”の印象は、それに近い。ただし、上に書いたように、ずっと大判であり、表紙も用紙もしっかりしているから、机上や本棚の中でも見栄えがする。

Mtimg090314  「善は急げ」という言葉もあるから、私は今日、さっそく最初のページに日付を書き込んで、好きなように使ってみた。読者も、工夫していろいろな用途に使ってみてはいかがだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月13日

米でES細胞の研究が拡大

 1月24日の本欄で、発足したばかりの米オバマ政権がES細胞の利用規制を緩和するとの観測を紹介した。また、2月6日には、ES細胞とiPS細胞の2つを比べながら研究を進める方法を、再生医療研究者は求めているらしいと書いた。その理由は、前者は“本物”だが後者は一種の“代用品”だから、代用品の優秀さは本物なくしては分からないというものだった。そして、3月10日の『ヘラルド・トリビューン』紙は、オバマ大統領がブッシュ時代に禁止されていたES細胞研究への連邦予算の支出をついに解禁する、と伝えた。その記事を読むと、アメリカのES細胞研究は、今回の大統領の決定だけでは“一挙進展”とはいかないようだ。その理由を述べよう。
 
 ブッシュ政権下のアメリカでは、人間の受精卵を使った研究を禁止するための法律改正が議会によって行われていたから、研究範囲が実際に大幅に拡大されるためには、議会がオバマ氏の方針に賛成して法改正を行わねばならないのである。この法律による禁止条項は、通称“ディッキー=ウィッカー改正条項”と呼ばれるもので、1996年に成立して以来、議会によって今日まで毎年、延長され続けてきた。そこでは、具体的には、国民の税金を使って人の受精卵を作成することと、受精卵を壊したり廃棄すること、さらに受精卵が傷つく可能性を知りながら、その危険を冒すことが禁じられている。これらの法の縛りがなくなるまでは、“全面解禁”とは言えない。

 しかし、今回の大統領令によって、すでに作成されたES細胞株を使った研究には、連邦政府の予算がつくことになる。だから、アメリカにおけるこの分野の研究は今後、大幅に伸びることが予想されるのである。『朝日新聞』もそう考え、今日(13日)の社説で「オバマ大統領は、政治や宗教にゆがめられない健全な科学政策を目指している。今回の発表もその大きな一歩といえる」と大いに持ち上げている。

 が、宗教が科学を「ゆがめる」という考え方はおかしい。科学は「善悪の価値判断をしない」ことで発達してきたことは認めるが、そのことによって生物化学兵器や核兵器の製造が行われてきたことも事実である。宗教が科学の使い方に関与することは、必ずしも「ゆがめる」ことにはならず、「正す」場合もあるはずである。にもかかわらず、宗教が関与しないことが「健全」だとするのは、大いなる偏見である。また、オバマ政権自身は、科学政策について「政治や宗教にゆがめられない」という表現は使っておらず、「科学と政治を分離するという公約の一環として」(as part of a pledge to separate science and politics)この政策を実行したと言っている。『朝日』の記事では、この「政治」(politics)という言葉が、いつのまにか「宗教」にすり替わっているのである。

 ところで、私のES細胞研究についての見解は、1月24日の本欄などですでに何回も述べたので、ここでは繰り返さない。日本は何でも「アメリカの右に倣え」をする癖があるから、今後、iPS細胞の研究だけでなく、ES細胞研究の規制緩和への圧力が強まることが予想される。私は、受精卵を使わない前者の研究は条件付きで支持するが、ES細胞研究には反対の立場を崩すつもりはない。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月12日

電子写真立て

 今日は休日を利用して、前々から興味をもっていたデジタル・フォトフレーム(電子写真立て)というものを買いに、渋谷へ行った。私の場合、写真はもっぱらデジカメで撮り、撮った写真は暇を見てノートパソコンのハードディスクへ転送する。そして1年に1回ぐらい、CDかDVDへ焼いておく。写真をこんなふうに扱っていると、紙にプリントした形で写真を見ることがほとんどない。もちろんアルバムなど存在しないから、「あそこで写真を撮った」という記憶のあるうちはまだいいが、それも薄れてくると、写真があることも忘れてしまう。しかし、だからといって、撮りためた写真をプリントしてアルバムを作る気には、とてもなれない。そうする時間も、できたアルバムを収めるスペースもないからだ。うまく言い表せないが、具体的な「紙」として残っていないデジタル写真は、脳内の記憶として一種“抽象化”してしまうのである。そんな頼りなさを、この新製品が満たしてくれるかもしれないと思ったのである。
 
 早い話、デジタル・フォトフレームとは、キーボードがない小型のノートパソコンである。今どきのノートパソコンは、通信や動画表示、音楽演奏、スケッチブック等の諸機能を備えているが、そういうものをすべて取り除いて、単に「画像の保存」と「表示」だけに機能をしぼった薄型のパソコンだと思っていい。こんな説明で分かりにくい人には、こう言おう--写真立て全体が液晶パネルであり、そこへ何枚もの写真が自動的表示される--そんな製品だ。「何枚も」と書いたが、その数は10や20ではなく、1000や2000の規模だ。電源を入れると、自分の選んだ写真が、指定した時間間隔をおいて、次々と自動的に表示される。表示の仕方は、パソコンの画面でスライドショーを眺めるのとほとんど変わらない。それなら、写真をパソコンで見ていればいいようだが、パソコンはご存じのように機能があり過ぎるし、操作が複雑である。だから、スイッチを入れただけでポンと写真が映る--写真しか映らない--装置が考案されたのだろう。価格は、どの機種も「2万円」前後だ。
 
Dpf_pola  私が買ったのは、ポラロイド社の8インチのデジタルイメージフレーム(=写真)で、型番は「XSJ-008431B」だ。写真はJPEGフォーマットにしか対応していないが、音声(MP3)と動画(AVI)も再生するところに惹かれた。つまり、「写真立て」だけの機能ではなく、音楽や声も出るし、ムビーも見られる。それでいて1キロを切る重量だから、壁に掛けて使えるのである。日本や韓国の会社も、似たような機能と仕様の製品を出していて、当初はソニーの製品を考えていたが、人気があるためか、渋谷の大型量販店2軒で「在庫がない」と言われた。そこで店頭で見て、画面が明るい2機種の中からこれを選んだのである。もう一方の機種は、2007年のモデルからあまり変わっていないというのでやめた。

 家に帰ってから、さっそく妻と私のデジカメから写真を転送して、スライドショーを走らせた。写真の切り替えには色々なパターンが使えるから、静止画でありながら動画の雰囲気を作ることもできる。難点もいくつかあるが、まだ機能を十分に使いこなしていないせいかもしれない。いずれ、機会を見て使い勝手等を読者に報告しよう。

 谷口 雅宣

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2009年3月11日

サルも歯を磨く

 今朝のNHKニュースでサルが歯を掃除する様子を見て、私は驚いた。歯ブラシや楊枝を使うのではなく、フロスをするのだ。このフロスという習慣は恐らく日本人にはない。なぜなら、『広辞苑』を引いてもこの言葉は出ていない。また、私がそんな方法があるのを知ったのは、大人になってからだ。西洋人が糸を使って歯と歯の間を掃除するのを見て、「奇妙な習慣だな」と思ったのを記憶している。フロスは英語の「floss」から来ていて、もともとの意味は、トウモロコシのひげのように、植物にある絹綿状のものを言い、そこから歯間に糸を通して掃除する「糸楊枝」の意味になったらしい。ちなみに、「糸楊枝」も『広辞苑』にはない。

 このサルの行動は、しかしそれほど一般的な行動ではないようだ。『産経新聞』(11日付)によると、これをするのはタイのバンコクの北東にあるロブリーに生息するカニクイザルの一群で、この行動は10年ほど前から見られるようになり、「人と接する中で学んだ行動と考えられている」らしい。つまり、タイの人はフロスをするということで、このサルは街中で暮らしているから、人間を真似てするようになったというのだろう。しかも、フロスに使うのは「糸」ではなく、人間の「髪の毛」というから不思議だ。
 
 私がこれを不思議に思う理由は、日本ではシカ除けに人の髪の毛を使うという話を聞いたことがあるからだ。シカの食害を防ぐには、人間の髪の毛を吊るした糸を張っておくというのである。ということは、シカにとって人間の髪は“危険信号”か“嫌いなもの”であるはずだが、タイのカニクイザルにとっては、口の中に入れても問題ないということになる。街中で一緒に暮らしていれば、それだけ近い関係になるのだろうか。私だったら、妻の髪の毛でも口に入れたくないし、ましてやサルの毛などまっぴらだ。
 
 ところで、このニュースや新聞記事のポイントは何かというと、親のカニクイザルがフロスをする時、子ザルが目の前にいる場合は、そうでない場合よりも大げさに動作をするということを、京都大学霊長類研究所の研究チームが発見し、今日付で発行されるアメリカの科学誌に発表したということだ。これによって、「親が子に道具の使い方を教える」ことが、人間以外の動物で初めて確認されたと言えるらしい。これは『朝日新聞』の説明だが、『産経』の場合は「歯磨きを教える“しつけ”とも考えられる」と書いていて、微妙に表現が違う。私は、日本語の「しつけ」の意味は「礼儀作法などを身につけさせる」(『広辞苑』)ことだから、ちょっと意味がズレていると思う。『朝日』の表現だと、サルは「道具の使用」をするだけでなく、「道具の使用法の伝達」も行うというポイントがより明確だ。
 
 京大の霊長類研究所は、幸島のサルの“イモ洗い”を発見したことなどで有名だ。これは、「海水を道具に使って、イモの汚れを落とし、さらに塩味をつける行動をサルがしている」ということで、今回の発見は、そういう道具の使用法の伝達が、サルでは親から子へと意識的に行われていることの証拠となる。これがなぜ重要かというと、動物行動学の分野では、「道具を作る」ことや「道具を使う」ことは昔から人間だけがすると考えられていたし、ましてや「道具の使用法を教える」などという高度に文化的な行動を、人間以外の動物がするとは考えられていなかったからだろう。が、私の感想を言わせてもらえば、カラスだって木切れなどを道具に使うし、「教える」ということだったら、鳥も子に飛び方を教えるだろうし、猛獣は狩りの仕方を教えると思うのだが……。それともこれは“素人判断”なのか?
 
 谷口 雅宣

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2009年3月10日

紙を使わない出版 (2)

 昨年の1月28日の本欄で「紙を使わない出版」と題して、アメリカで発売された電子本専用機のことに触れた。あれから1年数カ月たったが、3月16日号のアメリカの時事週刊誌『TIME』は、その後の電子本の“進化”について3ページの記事を載せている。それを読むと、最も有望なのは前回触れたアマゾンの「キンドル(Kindle)」の後継機である「Kindle 2」という専用機のようだ。詳しい仕様は、このサイトで見ることができる。私は早くそれを試してみたいのだが、日本への上陸はまだ先のようだ。
 
『TIME』誌の記事によると、359ドルの初代のキンドルはアメリカで約50万台売れたといい、品切れ気味の状態がまだ続いている。後継機は、初代より画面のコントラストと表示速度が向上し、電子本の収納容量が7倍に増えたため、一般的な書籍では1500冊以上が1台に収まるとか。初代同様に汎用ブラウザーがついているからインターネットが使え、テキストを読み上げる機能が新たに加わった。これで重さは約290gだ。1回の充電で2週間使えるというから、海外旅行にも持っていけそうである。こんなものが日本に上陸したら、紙製の本の売り上げはますます落ち、中小の書店は相当打撃を受けるだろう。

 すでにご存じの読者も多いと思うが、キンドルの最大の特徴は、インターネット書店のアマゾンから直接無線で、電子本のデータが入手できる点だ。つまり、電波が通じるところならどこからでも、高速で、廉価な本がほとんど無制限(1500冊)で買える。読書家の悩みである「本の置場」など心配する必要はないし、インターネットで本を探し、即注文して読めるという時代になる。それはもうアメリカでは始まっており、日本でも1年か2年先にはそうなるのだ。こうなると、“文書伝道”の方法はまったく違ってくるのではないだろうか。
 
 もちろん、紙製の本が数年先になくなるとは思わない。しかし現在、「文庫」や「新書」の形で提供されている情報のほとんどは、電子本に移行するような気がする。なぜなら、それらは手軽に1~2回読んで廃棄される種類のものだからだ。これからの我々は、この種の本は電子情報で取っておく一方、紙の手触りや手ごたえを楽しみ、あるいは美的な満足を得たいものは紙製の本として部屋に置いておく……というような使い分けをするのではないだろうか。では、現在、普及誌や機関誌のような雑誌の形で提供している情報は、いったいどうなるのだろう? この点をよく検討し、早い時期に次代に対応できる出版体制を整えておく必要を感じるのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月 8日

行動を起こすこと

 今日は松山市を初め愛媛県下の3箇所(土居、宇和島)を会場として、生長の家講習会が行われた。晴天とはいかなかったものの、幸い気温も比較的暖かく、前回を上回る5,530人の受講者が参集してくださり、落ちついた雰囲気の中で会がもたれたことは誠にありがたかった。同県の幹部・信徒の方々の熱心な推進活動に、この場をお借りして心から感謝申し上げます。
 
 さて前回は、リンゴとミカンの相違点・共通点について書いたが、今日の講習会では、午後の質問の時間に「万教帰一」に関するものがいくつか出たので、生長の家では各宗教の「相違点」ではなく「共通点」を研究し、認める活動をしていることを述べた。これに対して宗教学者は、それぞれの宗教の「違い」を研究することが多いので、学問的な視点から宗教を見る場合は、「万教帰一」の考え方にはなかなか到達しにくいと思う。しかし、リンゴとミカンの例で示したように、共通点と相違点のいずれに着目するかは、正誤の問題というよりは、その人の好みや関心のありかの問題なのである。だから、学問の分野においても、各宗教の共通点に焦点を合わせた研究がもっと出てくれば、「万教帰一」の考え方が世界にもっと拡大していく可能性がある。私はそれを待ち望んでいる。
 
Mtimg090308  ところで、今日は愛媛県に行ったついでに、ミカンを扱った絵をもう1枚ご披露しよう。添えられた英語は、「行動しなければ何も得られない」というような意味だ。目の前においしそうなミカンがあっても、ただ「おいしそうだなぁ~」と思っているだけでは、それを得ることはできない。当り前のことだ。ミカンに対して、自分の方から何かアクションを起こして積極的に関わっていくことをしなければ、ミカンから何かを得ることはできない。

 これは宗教についても同じで、自分の前に「こういう宗教がある」と知っているだけでは、そこから何も得られない。聖書に記されたイエスの教えにも、次のようなものがある:
 
 「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(『マタイによる福音書』第7章7節)
 
 だから、自分の意志でまず何か--例えば「本を読む」など--アクションを起こすことが必要である。そういう意味では、今日は5千人もの人が「講習会へ行く」というアクションを起こしてくれたことは、とても重要なことだと思う。それに対して今後、宗教の側から応えるリアクションが、愛媛県下でさまざまな形で展開されていくに違いない。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年3月 7日

リンゴとミカン

 英語の表現に「リンゴとミカンは比べられない」という言い方がある。どちらも収穫の時季が違うし、味も違うし、それにともなって用途も違ってくる。リンゴは料理やパイなどのお菓子に使うのに対し、ミカンはジュースが主体だ。だから、「どちらが好きか?」と聞いて選択を迫ると、「どちらも好きだ。両方ともほしい」という意味合いを込めて、この表現が使われる場合が多い。双方の違いを強調し、どちらの存在も価値ありと認める考え方だ。
 
Mtimg090303  これに対して、ここでは共通点を認めるものの見方を提案してみた。リンゴもミカンも丸い、色も共通なものが含まれるし、大きさもわざわざ同程度に描いた。また、味わってみると、どちらにも酸味と甘味が含まれる。それに、双方とも植物の果実である点は同じだし、フルーツコンポートにも一緒に載っているではないか!……という具合にだ。このように考えていくと、「なるほど似ているなぁ~」という気がしてくる。
 
 それでは、「どちらか選べ」と言われたらどうするだろう? たぶん、違いを強調した場合よりも選びやすいのだ。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月 6日

リンゴをどう切る?

Mtimg090302  リンゴの切り方には無数の方法がある。縦に切る……水平に切る……斜めに切る。切る位置によって、切り口の形が変わる……切り口の模様が変わる……大きさが変わる。でも、ほとんどの場合、そんないろんな切り方はせずに、大人しく、真ん中から縦に半分に切り、それをさらに半分に切り、そしてさらに半分に切る。できるだけ等分に切ろうとする律儀さは、驚くばかりだ。多分、相手がいるときは、そうする。
 
 でも今度、リンゴを1人で食べるときは、思い切って冒険してみよう。そこから新しい展開が始まるに違いない。人生の何気ない習慣も、リンゴのようなものなのだ。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月 4日

日本海裂頭条虫は絶滅か?

 最近は「腸内細菌」という言葉を広告などでもよく目にするから、微生物が人間の体内で“よい働き”をしていることは知られるようになった。私も毎朝、ヨーグルトを食べるようになって久しい。しかし、「寄生虫が体にいい」という話は聞いたことがなかった。そう言っているのは人間総合科学大学の藤田紘一郎教授で、“寄生虫博士”の異名をもつ人だ。藤田教授は、3月1日付の『日本経済新聞』に寄稿した記事で、「日本海裂頭(れっとう)条虫はヒトを終宿主にする寄生虫で、ヒトの体内でしか卵を産めないからヒトを大切にする」と書いている。また、1月26日の『産経新聞』では「寄生虫がいると花粉症などの過敏なアレルギー反応を抑える作用が期待できる」としている。で、この日本海裂頭条虫とは何かといえば、体長が10mにもなるあの「サナダムシ」のことなのだ。驚くのはそれだけでなく、藤田教授は2年前まで、サナダムシを自分の体内で飼っていたというのだ。

 何のためか!……というと、「寄生虫をはじめ細菌・ウイルスなどの微生物に対する日本人の間違った考えを是正したい思いがあったからだ。清潔志向に偏りすぎた現代日本人の生活と精神構造に、警鐘を鳴らす目的もあった」(『日経』)と同教授は言う。清潔志向の何がいけないかというと、人間の体内に棲む微生物は、太古の昔から“縄張り”である人間を守ることで人間と共存してきたのに、現代人はこれらの微生物を抗生物質や防腐剤、そして添加物の多い食品を摂取することで「ひたすら攻撃している」からという。同教授が特に問題にするのは、私が冒頭で書いた「腸内細菌」のことで、これらは100種類、100兆個も腸内にいて、我々の免疫力をつけ、ビタミンを合成しているのに、我々はそのことをあまり認めなかったからだ。が、まぁ最近は、腸内細菌については、だいぶ理解が進んでいるのではないか。
 
 ところが同教授が最近心配しているのは、サナダムシが日本からいなくなっていることだ。「それはいいことだ」と我々は考えがちだが、これは地球温暖化と関係している一大事らしい。それを説明するためには、サナダムシの壮大な一生を知らねばならない。この虫の幼虫は、体長2㎝前後のときは魚のサケの肉の中に潜んで日本海を回遊している。これを寿司などとして日本人が生で食べると、我々の体内に入る。人間の腸内では、彼らは1日に20㎝も伸びる。1カ月では6mになり、2カ月で10m前後になったところで成長が落ち着くという。彼らは雌雄同体なので“伴侶”を探す必要がまったくなく、どんどん産卵する。その量たるや1匹で1日200万個も産む。従来ならば、この卵は人糞と一緒に川に流れてミジンコの餌となり、その後は食物連鎖をたどってサケ類の体内に摂取される。ところが、衛生環境が整備されてくると、彼らの卵は川に出られずに死滅してしまうことになる。
 
 それでも藤田教授のところには、サナダムシ発見の知らせが全国から届いていたという。10年前までは毎月1回は連絡があったが、最近はほとんどない。同教授自身、サケを何匹も入手して、体内の幼虫を見つけると、それを飲んでいたそうだ。それが可能だったのは、日本海側の日本より北の国から来たサケ類のおかげだった、と同教授は考える。が、2007年2月以降、幼虫は見つからなくなったという。その理由は「温暖化でサケの産卵回遊に変化が生じた」からだ、と同教授は推測する。もちろん、外国での衛生環境の整備も関係しているだろうが、同教授は「サケの南下が少なくなるとサナダムシはミジンコから稚魚に移行できなくなる」と考えるのである。
 
 目に見えないほど小さいサナダムシの卵が毎朝、200万個もトイレに排出され、それが食物連鎖に乗って何千キロの距離を旅し、そのうちのたった数匹がやがて、どこかの国の人の体内に収まる。すると、待っていましたとばかりにスゴイ勢いで成長し、宿主の身長をはるかに超える大きさになって卵を産む。クリストファー・コロンブスも顔負けの、壮大な生き方ではないだろうか。が、やはり、私は腹の中で何mもの寄生虫を飼うのは勘弁してほしい。その代り、ヨーグルトやチーズ、納豆などをおいしくいただこうと思う、腸内細菌群に大いに感謝しながら……。
 
 谷口 雅宣

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2009年3月 3日

雛祭り

 今日は雛祭りということで、わが家では“女性軍”が活躍した。とは言っても、女性は当初は妻一人だ。彼女は2週間前ぐらいから、妻の実家から贈られた雛人形を箱から出して来て床の間に飾り、それでは足りないのか、小さい置物の男女雛を2セット、どこからか出してきて、玄関のカウンターと居間のテレビの上に飾っていた。例年のことなので、私は驚かず騒がず、「もう3月だなぁ~」という感慨に浸るだけだ。が、今晩は恒例の雛祭り料理に娘を呼ぶというので、多少影響を考えた。彼女は仕事の帰りにわが家に寄って、食後に帰宅する。それだけだ。が、仕事が終わる時間が分からないので、我々夫婦は先に食事をして彼女を待つことになった。

 食事は、豪華なちらし寿司、海老とホタテのフライ、青菜の白和え、雛カマボコHinaryoriにハマグリの吸い物である。これに加えて、長崎へ行ったときにいただいた「桃カステラ」というデザートがあったから、フルコースの食事である。これら全部を用意するために、せっせと立ち働く妻のエネルギーには、男の私には計り知れないものがある。男の祭りである「端午の節句」の方は、わが家ではもうとっくに有名無実化しているというのに……「桃の節句」ではこうして伝統が守り続けられる。この辺は“男女の違い”でしか説明できそうもない。
 
 やがて仕事帰りの娘が来て、食事が始まる。私は、食卓に出され小皿が雛人形を象っているのに気づき、それを絵に描き始める。女二人は、にぎやかに会話を楽しんでいる。私はそれを聞きながら、娘が家族をもてば母親と同様に雛祭りの伝統を守っていくのだろう、などと考える。妻は、伝統行事を大切にするタイプの人間だから、「桃カステラ」のこともウィキペディアでちゃんと調べていた。長崎はカステラの本場だから、桃の実を模したカステラを焼くのだそうだ。長崎の人たちは、県外でも当然そうすると思っているらしいが、長崎にしかない習慣だという。

 もっと興味あることが、妻の持っている本に載っていた。雛祭りは「上巳(じょうし)の節句」といって、もともとは中国伝来のものだ。「上巳」とは3月の最初の巳(み)の日のことで、古代中国では「忌み日」で、川で身を浄める習慣があったそうだ。この考えを受けた日本では、この日に紙で人形を作り、これで体をなでてから、川や海に人形を流して穢れを祓う行事が行われていたという。これを「上巳の祓え」とか「雛送り」といい、雛人形の原型になったという。現代でも地方によっては、この日に「流し雛」をする習慣が残っているそうだ。しかし、この“原型”の背後にある考え方と、現在の豪華な段飾りの雛人形の考え方とはずいぶん違う。一方は忌み事、他方はお祝事だ。「伝統行事」といえども、歴史の流れの中では大きく変遷するものだと改めて感じた。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○大泉書店編集部編『和ごよみの暮らし』(2007年、大泉書店)

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2009年3月 2日

数々のお祝いに感謝申し上げます

 私の生長の家総裁就任について、多くの方々からお祝いの言葉をいただいています。この場を借りて皆さまの御厚情に感謝申し上げるとともに、今後ますます襟を正し、神意に聴く努力を重ね、ご期待に応えられるよう鋭意精進させていただきます。ありがとうございました。
 
 昨日は、長崎県・西海市の生長の家総本山で「生長の家総裁法燈継承祭」と「新総裁襲任 立教80年生長の家春季記念日祝賀式」が、約2千5百人の幹部・信徒が参加して盛大に行われた。以下は、同祝賀式での私の話の概要である:

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 今日は、生長の家では「立教記念日」として長い間、お祝いされてきた特別の日であります。例年ならば、立教記念春季祝賀式というのが、東京・原宿で行われ、私はそこで、今日よりも少ない数の皆さまの前でご挨拶するのでありますが、今年は、ご覧の通りに、ここ長崎県西海市の生長の家総本山の出龍宮顕斎殿で、国内はもとより国外からも生長の家の幹部・信徒の代表者に大勢お集まりいただいて、「新総裁襲任 立教80年生長の家春季記念日祝賀式」というものをもつことができました。これはひとえに、生長の家の大神のご意向と初代総裁、谷口雅春大聖師、2代総裁、谷口清超大聖師の御徳によるものであり、そして皆さま方の絶大なるご支援によるものであります。誠にありがたく、感謝申し上げます。ありがとうございます。
 
 今から23年と4カ月前に、谷口清超先生は生長の家総裁の法燈を継承されましたが、その時のお言葉が『求道と伝道のために』という本に掲載されています。生長の家の地方講師の方ならば、よく読んで知っておられるご文章でありますが、きわめて重要でありますので、そのお言葉のポイントを確認したいのであります。それは「面授」ということと、「不立文字の継承」ということであります。
 
 「面授」については、こうあります--

『生命の實相』やその他の谷口雅春尊師の書物を読み、深くその真理の奥義に魂をゆさぶられ、弟子と言ったり、そうでなくても会員として幹部活動をした人は沢山いるのである。その中で「われこそは尊師の御教えを正しく継承するものである」と考える人もいるにちがいない。しかし法(大法)の継承というものは「自分がそう思う」だけでは成り立たないのである。それを道元禅師は「面授」の巻でくわしく述べられ、「師と弟子が対面して」師がそのことを認可しなければならぬ。弟子が勝手に自分で決める問題ではないと教えられるのである。勿論、世間様がきめるものでもないことは言をまたない。
 
 --これは、谷口雅春先生から清超先生へ、生長の家総裁の法燈が「師と弟子が対面して」継承されたことを述べておられる文章の中に出ている話であります。これが生長の家の伝統であります。「大法」といわれるような宗教的真理の神髄の継承は、師と弟子とが直接会って、対面して引き継ぐのでなければいけないということです。道元禅師の『正法眼蔵』の中には、それが「面授の巻」として独立した一章を設けて詳しく書かれているのであります。それを清超先生は解説されて、次のように説いておられます--
 
 おおよそ仏祖の大道は、唯面授と面受あるのみ、受面と授面あるのみである。これ以外に余分の法はない。そこに何らの欠落はなく、まさに正法眼蔵そのものである。この面授の、あうにあい難い面授にあった自己の面目は、まさに何ものにも替え難く、随喜し、懽喜(かんき)し、信受し、奉行すべきものである」(『正法眼蔵を読む』下巻、p. 250)

 このように、真理の神髄の継承は、師と弟子との直接対面によらなければならず、それは奇蹟的に素晴らしいことだと書かれているのであります。また、「継承」ということについては、次のようにあります--
 
 世の中には「継承」ということを何か誤解している方もいらっしゃいまして、谷口雅春先生のお説きになった一言一句をその通りまたくり返しお伝えするのであろう、かの如く思われる方もおられるかもしれませんが、実はそういうものではないのであります。つまり、教えの神髄の不立文字をお伝え頂き、それを継承するということでありまして、これはお釈迦さんが霊鷲山(りょうじゅせん)上において迦葉尊者に「吾れに正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相の微妙の法門あり、摩訶迦葉に付属す」と言われた時、金波羅華の花を捻られて一言もおっしゃらず、こう目くばせして“揚眉瞬目”(ようびしゅんもく)、眉をあげて目をぱちぱちっとさせて衆生を見渡され、こう何か意味ありげに見まわされた時に迦葉尊者だけが破顔微笑したというので、お前に正法眼蔵を譲ったぞとおっしゃった。
 
 --このあとに、また次のように説かれています--

 この真理は言葉では尽くせないがお前に譲ったぞということでありまして、この事は先生のお説きになられました一言一句をまたくり返し説けということとは違うのであります。
 継承とか嫡々相承ということはそういうことではないんです。例えば、明治天皇様が大正天皇様にお位をお譲りになる、あるいは大正天皇様が今上陛下にお譲りになるという事は、「わしと同じ事をお前達はせよ」ということではなかったのです。真理というのは、その時その時に応じて色々な相(すがた)をもって展開されねばならない。(『求道と伝道のために』p.6)
 
 私は、このように定められた生長の家の伝統に則って、谷口清超先生から面授によってこの真理の大道を継承させていただきました。そしてただ今、住吉大神の御前で大真理の眼晴(がんせい)の継承を祈念申し上げました。したがって、これまた清超先生から教えられたように、私は先師の一言一句を繰り返すというのではなく、時代や環境の変化に応じて、いろいろな姿をもってこの運動をさらに積極的に展開していきたいと念願するものであります。

 さて、このほど今日の法燈継承を記念いたしまして、生長の家から私の随筆集を出させていただきました。『目覚むる心地』というタイトルです。「目覚める」というのが我々が使う普通の口語ですが、このタイトルが「目覚むる」という文語体になっているのは、兼好法師の『徒然草』から取っているからです。これがどういう意味かという詳しい話は、これと同じ題で書かれた文章が本の中にあるので、それを読んでください。今日は、そういうことよりも、この本を出した意図について少しお話したいのです。
 
 私は2001年ごろからブログを書いていることは、大抵の人はご存じと思います。この本は、そのブログの文章の中から、私の私生活とか、私的な感想、随想などを集めて1冊にまとめたものです。かつて、『ちょっと私的に考える』(1999年)という本を出しましたが、それと似た側面があります。が、違っているのは、『ちょっと私的……』に収められた文章は長いのですが、この本には、ブログですから、短文が多く集められているという点でしょう。それで、どうして今の時期に私が「私的な内容」のものだけを本にしたかということですが、これについては、この本の「あとがき」で説明しています。一部ですが、その文章をご紹介いたします:
 
 (同書、pp. 290-292 朗読)
 
 まあ、こういうわけで、「今度、生長の家総裁になった谷口雅宣というのは、どんな人間か?」という疑問に応えるために、この本を出していただいたのであります。ここに収められた文章は、古いものは2001年1月、新しいものは昨年の12月まで、8年間に書いたもので66篇あります。内容は難しくないはずですから、ぜひご一読いただいて「私」という人間を知っていただき、ちょっと気に入らない面があっても、ご容赦いただきたいのであります。現象人間としての私には、まだまだ不完全な部分があります。実相顕現の運動は、公的にも私的にも展開される必要があるのです。
 
 そこで、公的な面での話にもどりましょう。
 ご存じのように、現在の世界には、経済的危機と地球環境の危機とが同時に訪れています。23年前に、谷口清超大聖師が生長の家総裁を継がれたときとは、また状況がかなり違っています。生長の家も2年前から、“自然と共に伸びる運動”を実現しようとして、これまでの大量生産・大量廃棄ならぬ、大量動員・大量宣布の方法や、その他の様々な運動の取り組みを見直し、新しい運動構築に向かって進んでいます。これを成功裏に実現するためには、本部サイドの努力はもちろん必要ですが、皆さま方の叡智と独創性も大いに必要です。
 
 しかし、有り難いことに、私たちは実相世界の実在を教えていただいています。神の創造された世界には“善きものすべて”があるということです。そこには、“自然と共に伸びる世界”がすでにあるのです。私たちがこれから、実相世界のアイディアを正しく受信し、それを現象的に正しく表現することによって、この実相の“住吉の世界”は地上に必ず顕現してくるでしょう。その偉大なる運動を皆さまとともに、喜びをもって展開していくことをここ、龍宮住吉本宮の前でお誓いして、今日の記念すべき日の私の言葉といたします。皆さん、本日は誠にありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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