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2009年2月19日

宗教は暴力抑制の源泉か?

 アメリカ人の政治コラムニスト、トーマス・フリードマン氏(Thomas L. Friedman)が19日付の『ヘラルド・トリビューン』の論説の中で、「宗教と文化は、ひとつの社会における最も重要な抑制の源泉である」と書いていた。この文章は、それだけ読めば、宗教に好意的な評価をしていると受け取られる。しかし、フリードマン氏がここで書いているのは、昨年11月にインドのムンバイで起こった無差別殺戮事件の犯人のことなのである。もっと具体的に言えば、この事件で軍や警察と撃ち合って射殺された9人のテロリストの死体が、埋葬の引き受け手がないまま、病院の死体安置所に放置されていることを書き、その話の続きに「宗教は……重要な抑制の源泉である」と述べているのである。そして、彼はこの9人のことを「パキスタン人のイスラーム・テロリストたち」(Pakistani Muslim terrorists)と呼んでいるから、彼らテロリストが宗教的動機によって残忍な無差別殺戮をしたことを同氏は認めている。政治分析には明晰な論理を展開する同氏だが、宗教の問題では何か混乱していると感じた。

 フリードマン氏の言いたいことは、こういうことだ--宗教信者による自殺的テロは、開かれた社会の中ではほとんど防ぐことができない。なぜなら、公道や公共の場ですべての人の身体検査をすることはできないからだ。これを防ぐ唯一の方法は、社会そのものの中にある。ある文化や信仰コミュニティーが自殺的テロ行動を堂々と、明確に、首尾一貫して否定するようになれば、金属探知機や警官の増員よりも有力な抑止力になる--というのである。そして、この後に、最初に引用した言葉を書いている。同氏はここで、テロリストの遺体の引き取りを「堂々と、明確に、首尾一貫して」拒否したインドのイスラーム・コミュニティーのことを誉めているのだが、その同じイスラーム信者の中にテロリストがいるという矛盾については、なぜか口を閉ざしている。
 
 私は、フリードマン氏が宗教や文化に与える評価に反対するつもりはないが、宗教が内部に抱える矛盾についても、もう少し書いてほしかった。この矛盾の背後には、宗教で最も重要な「教義の解釈」の問題が横たわっている。インドのイスラーム社会では、無差別自爆テロは教義に反するとして明確に否定されているが、アラブの主流であるスンニ派のイスラーム解釈とメディアの間では、それが容認されるだけでなく、一部では“殉教者”として称賛される。このようなまちまちの解釈が行われるのは、イスラームという宗教が伝統的に柔軟な、幅広い解釈を許してきたからであり、また、アラブのスンニ派の解釈が過激になりやすい原因の1つには、イスラエルとの長期にわたる武力紛争があり、この紛争の一方の当事者を西洋社会が支援してきたという事実もある。だから、宗教や文化そのものが、暴力の抑制の源泉であるのではない。このことは、日本人ならばオウム真理教の活動を振り返ってみればよく分かるだろう。

 宗教の教えの中には、暴力の発動を抑制するものもあれば、それを正当化するものを含む場合もある。大体においては、前者が後者を上回っているのが普通の宗教だ。しかし、宗教が国家権力や社会から圧迫を受け、あるいは独自の教義解釈が一人歩きをして社会から遊離していくと、“窮鼠猫を噛む”式の教義解釈が成立して、暴力的行動が現れることがある。私はそのことを『心でつくる世界』(1997年)の中で、アメリカとフランスでの実例を挙げて詳しく書いている。そういう理由で、私は宗教の教義を「すべてよし」とするのではなく、その中の重要なもの(中心部分)とそうでないもの(周縁部分)とを分離する試みを提案しているのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

宗教の中心部分と周縁部分との分離する試みは大切だとは思いますがイスラーム分派の一部指導者(オーム教の場合は教祖)には通用しないのではないか?テロリスト達(実行犯)は一部指導者によってマインドコントロールされた心の破壊者であってロボットと同じなのだから防ぎようが無い!問題の元凶は分派の一部指導者にあり、この人達を自由の名のもとに放置している限り抑制制止する事は出来ない、全てを認め全てとの和解は素晴らしいけれども"毒ムギ(一部指導者)の例え"ではありませんが和解してはいけない!ものも有ると考えます。

投稿: 尾窪勝磨 | 2009年2月23日 12:05

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