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2009年2月28日

花はただ与える

 昨日から今日にかけて、長崎・西海市の生長の家総本山で「代表者会議」というのが行われた。出席者は約780人で、日本国内はもちろん、ブラジル、アメリカ、ヨーロッパなど海外からも代表者が集まってくださった。会議では、4月から始まる新しい年度の運動方針について詳しい解説があり、質疑応答などが行われた。内容は、専門的になるので省略する。

Mtimg090227  昨日は宿舎で、空いた時間を使い、飾られている花のいくつかをスケッチした。花を見ていると、いろいろな思いが去来する。花は色と香りで虫を誘い、受粉してもらって実をつける。これはもちろん、子孫を殖やすための“戦略”でもあるのだろうが、その実は豊かな栄養を鳥や動物たちに提供する。そして、鳥や動物は食べた実に含まれる種を遠方に運んで、植物の繁殖の手助けをする。種が発芽し成長すれば、また美しい花が咲いて、昆虫や鳥がやってくる。そんな「ただ与える」生き方をする植物たちが、美しくないはずがないと思うのだ。
 
Flowers attract bugs to pollinate and bear fruits, which give nutrients to propagate seeds, which, then, sprout and grow to bloom. They just continue to give.

 谷口 雅宣
 

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2009年2月27日

友だちはどこにでもいる

Mtimg090226  昨日、羽田から長崎まで飛んだ。
その航空機の中で眠気と戦っている私の前に、こんな顔が出現した。
彼も眠くて仕方がない風情だ。
「ああ、同類はいるものだなぁ……」
と思いながら、私は夢の中に引き込まれていった。

I was almost asleep when I saw this sleepy face in front of me in an airplane.

 谷口 雅宣

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2009年2月26日

色は輝く

 昨日の夜、渋谷のコーヒー店に入った。と、室内には、光の三原色(赤、緑、青)をそのまま照明にしたようなスタンドが立っていた。それを見て描いたのがこれである。

Mtimg0902252 What if there's no color? Different colors enhance each other's characters. Don't worry about being different.

 谷口 雅宣

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2009年2月25日

写メールサイト

 最近、一行ほどの短い「つぶやき」のようなメッセージをウェブに掲示するサービスがあるということを知り、実験してみた。また、これと連動して写メールをアップするサイトがあることも分かった。私は、ケータイを使わないので写メールはできないが、その代り、簡単な絵をアップするのもいいと思い。やってみた。

 アメリカのサイトらしいので、すべて英語でしたが、日本語を使うこともできそうだ。興味のある人は実験してみてはいかがだろうか。

  つぶやきサイトは http://twitter.com
  写メールサイトは http://twitpic.com

  である。Mtimg090225

 本欄でかつて「秘密を書き込むサイト」の話をしたことがあるが、私は、そんな“暗い”ことではなく、日時計主義的なメッセージや写真、絵などを、どんどん世界に発信できないかと考えた。その1つの場として、こういうサイトの利用も面白いと思う。私が登録した絵をここに掲げる。

 谷口 雅宣

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2009年2月23日

受精卵の声 (2)

 2月20日の本欄に書いた香川県立中央病院の受精卵取り違えミスは、時間の経過とともに、大きな問題がその背後にあることを浮き彫りにさせている。それは、「受精卵に対する価値感」の問題である。これまでの報道による限り、ミスを犯した産婦人科のK医師(61)は、受精卵を人間の命と同等のものとして評価しているとはとても思えないのである。

 20日付の『日本経済新聞』夕刊の記事では、K医師は昨年9月、受精卵が入った複数の容器を作業台に並べて発育状況を確認した際、台上にあった別の女性患者の容器と取り違えたとし、別の患者の容器が台上にあったことは「たまたま1個だけ置いてあった」と釈明した。ところが同じ『日経』の22日の記事では、この時、台上にあった受精卵は、「廃棄しようと作業台に放置されていたものだった」と記述が変わっている。この記事は、さらに次のように当時の状況を説明している。(括弧付きのA・Bの表現は、私がつけた)--
 
「9月18日、別の患者(B)の受精卵が入った複数のシャーレを台上に出して作業。うち1つは不要と判断し、ふたを捨て、台の上に置いたままにしていた。次に女性(A)の受精卵が入った複数のシャーレを出し、作業するうちに混在し、すべてを女性(A)のシャーレとして保管した」。

 この記述が事実だとすると、K医師の当初の「たまたま1個だけあった」という釈明はウソである。また、この記述からは、複数の人間の受精卵を厳密に区別するという配慮--言い換えると、複数の家庭の間に子の取り違えが起こらないようにする配慮--が、まったく感じられない。このことは、23日付の『朝日新聞』がK医師の作業について「受精卵の廃棄数を記録していなかった」と伝えていることからも分かる。この記事の状況説明は、こうである--
 
「別の患者Bさんの廃棄用の受精卵を入れたシャーレを作業台に置き忘れたまま、女性患者Aさんの受精卵の入ったシャーレを並べて生育状況をチェックした。当時、患者を識別するシールは、シャーレのふただけに貼られていたが、先に置いてあったBさんのふたは廃棄されていたため、BさんのシャーレをAさんのものと思いこんだという」。

 こちらの記事の方が、『日経』より具体的で分かりやすい。が、いずれの記事でも、K医師が複数の受精卵をズサンに扱っていることが分かる。『朝日』はさらに23日の夕刊で、作業台には当時、「Bさんのシャーレを含む4つ以上のシャーレが置かれていたことが分かった」と伝えている。記事には、それらをどう扱ったかも詳しく書いているが、ここでは省略する。

 それよりも、私が読者の注意を喚起したいのは、ここにあるような受精卵へのズサンな扱いがなぜ起こるか、ということである。私は、K医師は例外的にズサンであり、その他の産婦人科医は受精卵を「人間の命」と同等に扱ってくれていると信じたい。が、受精卵については、どんな人間にも否定しがたい事実が一つある。それは、受精卵が大変小さいということだ。成長を観察するにも、顕微鏡なしでは不可能である。「それは当り前」といえばその通りだが、私はこの「小さい」という事実が、「価値を小さく見る」ことにつながっていると思うのだ。

 サイズが小さいものは大きいものより価値が低いと考えるのは、我々人間が一般にもっている心理的傾向だろう。「小さい人間(小人)」「小さい心(小心)」という言葉は、そういう価値判断を含んでいる。また、野菜や果物、車や土地、人や国家でも、大きいものは小さいものより価値があると考える。「大は小を兼ねる」という言葉も、同じ価値感を表している。この判断は、我々の無意識の領域にまで忍び込んでいるだろう。進化心理学的に考えても、このことには合理性がある。もっと別な言い方をすれば、受精卵を顕微鏡で眺めながら、「こんな小さな命にも自分と同じ価値がある」と感じるに至るまでには、相当程度の理性の働きが必要だと思うのである。

 いや、理性は本当に「小も大も等価」と認めるだろうか? 私には一抹の不安が残る。では、何があれば「受精卵も人も等価」という認識に至るのだろう? 私は、それは「神への信仰」だと思う。創造主(つくりぬし)としての神が、すべての生命を価値あるものとして創造されたと考える時、その神を介して、「大」なる命も、「小」なる命も等価であるとの認識が生まれるのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月22日

『目覚むる心地』について

Mezamub_m  まもなく訪れる生長の家の春季記念日には、私が生長の家総裁の法燈を継承する祭祀が行われるが、この日を記念して出版される随筆集『目覚むる心地』(=写真、生長の家刊)が手元に届いた。この本には、私が本欄で書き継いできた文章の中から、私生活や家庭・家族に関するような“私的”なものばかりを集めてある。古いものは2001年1月、新しいものは昨年の12月まで、8年間に書いたものが全部で66篇収録されている。
 
 宗教家がある教団組織の責任者になる時に、自分の私生活を公表するということを奇異に感じる読者がいるかもしれない。しかし、私は本欄などですでに私生活は公表しているし、この際、何か気取った本を出すよりも、「こんな人間ですが、よろしくお願いします」という気持で、皆さんにご挨拶したいのである。もし読者がこの本を読んで、「何だ、こんな人間が指導する宗教はツマラナイ」とおっしゃるなら、残念ではあるが仕方がない。私は、自分を隠して表面だけを繕い、人さまに立派なことを言おうとは思わない。それは、どこかの政治家がやっていることで、宗教家のすべきことではない。そんな考えで、皆さんの前に立つ気持である。叱咤鞭撻があればありがたくお受けし、自らの向上に努める所存である。
 
 この本は、次の5章からなる--
 
 第1章:家族・家庭
 第2章:動・植・物
 第3章:自然と人間
 第4章:過去から未来へ
 第5章:映画を見る
 
 章のタイトルを見れば大体の内容はわかるだろうが、分かりにくいのは第2章と第4章だろうか。
第2章は、「動物」と「植物」と「物」(椅子など)について書いている。第4章は、私の青年時代を振り返り、将来を展望するような内容だ。第5章は、映画評論のようなものだ。全体としてこれまでの“堅い内容”の本とは違い、冗談も含む読みやすい内容と思うので、ご愛顧いただければ幸甚である。

 表紙カバーの絵について、ひと言--これは、横浜市にある根岸森林公園に行ったときにスケッチしたもので、「2004年9月16日」の日付がある。この時に見た、目の覚めるような黄緑色の芝生の広がりと、本のタイトルとがよく合うと思った。
 
 その本のタイトルは、文語体である。「目覚める」というのが普通の口語だが、文語体にした理由は、兼好法師の『徒然草』から取った語であるからだ。これがどういう意味かという詳しい話は、同じ題の収録文か、2007年12月13日の本欄を読んでいただきたい。
 
 以上、簡単ながら、新刊書の紹介をさせていただきました。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月21日

少女と少年

Mtimg090219  この少女の絵は、私が最近訪れた写真学校の作品展で出会った写真を見て、それを水彩で描き直したものだ。
 インドの少女のようだが、私はこの少女の見開いた両眼の力強さに惹かれた。写真に写った目は、やや緊張していて、どこか怯えたような雰囲気がある。が、私がそれを見て描いたこの絵では、引き締まった口元とも相まって、相手を睨みつけるような強さがある。それに、この子の喉元は、どう見ても少女ではなく少年のようだ。

 私が妻にそのことを言うと、
「えぇ~、でも着てるものは女の子でしょう」
 と言って、簡単には同意してくれない。
 そこで私は、
「女の子の衣装を着た少年だよ」
 と言ったが、妻は分かったような、わからないような顔をした。

 私の頭の中にあったのは、昔、子どもの頃に読んだ、白土三平の作品だった。確か『カムイ外伝』か何かだったと思うが、主人公のカムイは美男子の忍者で、たまに女装したりするのだ。もちろん、個人の趣味でするのではなく、任務遂行のためだ。そんなイメージが、この絵と重なって感じられる。
 
 私は幼稚園時代から男女共学の環境で学んだ。小学校では、4年生まで女の先生が担任で、自らバットを握って野球の指導もしてくれた。当時は、「長馬」という遊びが流行っていて、これを男女の別なくやったのを覚えている。2チームに分かれて、「馬」になる側と「馬に乗る」側で戦う。前者のチームは一列に並び、腰を前に曲げて背中を平にし、胴の長い馬の形をつくる。その上に、後者のチームが一人ずつ走って飛び乗っていく。そして、「乗る側」が馬を潰すか、最後に乗った人が「馬の側」の大将とのジャンケンに勝てば、乗り手チームが勝ちとなり、再び乗ることができる。しかし、乗り手が馬から振り落とされるか、ジャンケンに負ければ、馬と乗り手は交替しなければならない。
 
 こんな荒っぽい遊びを、男女で一緒にやっていた。この頃は、女子の方が男子より早く成長するから、体の大きさでは女子が勝ることは珍しくない。子どもの頃の男女の差は、だからほんとうに微妙なものだ。そんなわけで、私が少女を描くつもりで少年の絵になったことも、ご容赦いただきたい。

 谷口 雅宣

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2009年2月20日

受精卵の声

 不妊治療で他人の受精卵を誤って移植され、妊娠が確認されてから9週目に人工中絶されるという医療ミスが発生した。過去にも、別の患者の受精卵の移植や夫以外の精子の注入などの事故はあったというが、妊娠にいたり、さらに中絶が発覚したのは初めてのケースらしい。今朝の新聞各紙が伝えている。『朝日新聞』によると、日本での体外受精は、2006年に約3万2千人の女性に実施され、それに顕微授精(約3万4千人)を加えると約6万6千人の女性が同様の治療を受けていることになる。決して少ない数ではない。

 体外受精の方法で受精卵を得るまでには、依頼主である夫婦にとって経済的にはもちろん、心身の負担も大きい。それでも「子がほしい」との強い願いからこれが行われる。今回の場合、受精卵の取り違えだから、4人の大人の意思が無に帰し、少なくとも2個の幼い生命が犠牲となった。誠に残念で、悲しいことである。この治療の担当医師(61)は、勤続約20年のベテランで、不妊治療では、これまでに体外受精を約1千例も手掛けてきた専門家だという。本来の受精卵と別の受精卵を同じ作業台に置いていたことから、取り違えが起こったらしい。ちょっとした気の緩みから、深刻な問題が発生してしまった。
 
 私はこの場合、どうしても妊娠中絶しか方法はなかったのかと考える。現在の状況では、多分そうだろう。が、「代理母」の制度が認められた後には、関係している母親2人が互いの代理母になることによって、せっかく得られた2つの受精卵を殺さずに、2人の子供を得る方法があるかもしれない、と想像する。もちろん私は、本欄などで代理母の制度には反対してきた。その大きな理由は、これは自分の「子を得る」という幸福目的のために、他人の心身を利用する制度だからだ。そして大抵、「子を得る」側は経済的に豊かであり、「子宮を提供する」側はそうでない。つまり、「経済的に豊かな人間がそうでない人間の心身を利用して子を得る」という構図になりがちだ。大げさに聞こえるかもしれないが、これは一種の“奴隷制度”のようだ。
 
 これに対して、今回のようなケースでは、2組のカップルは同じ病院で同じ治療を受けている人たちだから、経済的にはほぼ同等ではないか、と想像する。そして、自分の子をもうけるためには、心身の負担を喜んで受け入れるという決意をした人たちだ。そうして得た貴重な受精卵は、まぎれもなくカップルの命の結晶である。ただ問題なのは、本来移植すべき子宮にではなく、別の子宮に移植されたということである。しかし、その後、9~10カ月たてば、それぞれのカップルの遺伝子をきちんと引き継いだ子が産まれるはずである。もちろん、「別の人の腹から産まれる」というのが問題である。しかしこの場合は、代理母と違って、一方のカップルが他方のカップルを一方的に利用する関係ではなく、むしろ相互が対等の関係で、互いの子を子宮の中で育て合う。だから、双方の合意さえ成立すれば、受精卵を犠牲にせずに子をもつことは、少なくとも理論的には可能だと思う。
 
 この案は、「受精卵の命を最大限尊重する」という立場から考えたものだ。現在の法制度はそういう立場から作られていないから、この案の実施は実際には無理だろう。戸籍上の問題もある。が、今後、不妊治療への国の援助が増えるならば、体外受精の件数も増えるだろうから、今回のような事故が再び起こる可能性もある。そんな時、受精卵の声なき声として記憶に留めておいてもらえたら、幸いである。
 
 谷口 雅宣
 

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2009年2月19日

宗教は暴力抑制の源泉か?

 アメリカ人の政治コラムニスト、トーマス・フリードマン氏(Thomas L. Friedman)が19日付の『ヘラルド・トリビューン』の論説の中で、「宗教と文化は、ひとつの社会における最も重要な抑制の源泉である」と書いていた。この文章は、それだけ読めば、宗教に好意的な評価をしていると受け取られる。しかし、フリードマン氏がここで書いているのは、昨年11月にインドのムンバイで起こった無差別殺戮事件の犯人のことなのである。もっと具体的に言えば、この事件で軍や警察と撃ち合って射殺された9人のテロリストの死体が、埋葬の引き受け手がないまま、病院の死体安置所に放置されていることを書き、その話の続きに「宗教は……重要な抑制の源泉である」と述べているのである。そして、彼はこの9人のことを「パキスタン人のイスラーム・テロリストたち」(Pakistani Muslim terrorists)と呼んでいるから、彼らテロリストが宗教的動機によって残忍な無差別殺戮をしたことを同氏は認めている。政治分析には明晰な論理を展開する同氏だが、宗教の問題では何か混乱していると感じた。

 フリードマン氏の言いたいことは、こういうことだ--宗教信者による自殺的テロは、開かれた社会の中ではほとんど防ぐことができない。なぜなら、公道や公共の場ですべての人の身体検査をすることはできないからだ。これを防ぐ唯一の方法は、社会そのものの中にある。ある文化や信仰コミュニティーが自殺的テロ行動を堂々と、明確に、首尾一貫して否定するようになれば、金属探知機や警官の増員よりも有力な抑止力になる--というのである。そして、この後に、最初に引用した言葉を書いている。同氏はここで、テロリストの遺体の引き取りを「堂々と、明確に、首尾一貫して」拒否したインドのイスラーム・コミュニティーのことを誉めているのだが、その同じイスラーム信者の中にテロリストがいるという矛盾については、なぜか口を閉ざしている。
 
 私は、フリードマン氏が宗教や文化に与える評価に反対するつもりはないが、宗教が内部に抱える矛盾についても、もう少し書いてほしかった。この矛盾の背後には、宗教で最も重要な「教義の解釈」の問題が横たわっている。インドのイスラーム社会では、無差別自爆テロは教義に反するとして明確に否定されているが、アラブの主流であるスンニ派のイスラーム解釈とメディアの間では、それが容認されるだけでなく、一部では“殉教者”として称賛される。このようなまちまちの解釈が行われるのは、イスラームという宗教が伝統的に柔軟な、幅広い解釈を許してきたからであり、また、アラブのスンニ派の解釈が過激になりやすい原因の1つには、イスラエルとの長期にわたる武力紛争があり、この紛争の一方の当事者を西洋社会が支援してきたという事実もある。だから、宗教や文化そのものが、暴力の抑制の源泉であるのではない。このことは、日本人ならばオウム真理教の活動を振り返ってみればよく分かるだろう。

 宗教の教えの中には、暴力の発動を抑制するものもあれば、それを正当化するものを含む場合もある。大体においては、前者が後者を上回っているのが普通の宗教だ。しかし、宗教が国家権力や社会から圧迫を受け、あるいは独自の教義解釈が一人歩きをして社会から遊離していくと、“窮鼠猫を噛む”式の教義解釈が成立して、暴力的行動が現れることがある。私はそのことを『心でつくる世界』(1997年)の中で、アメリカとフランスでの実例を挙げて詳しく書いている。そういう理由で、私は宗教の教義を「すべてよし」とするのではなく、その中の重要なもの(中心部分)とそうでないもの(周縁部分)とを分離する試みを提案しているのである。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月18日

ブラジルの子供たち

 かつて私が学んだコロンビア大学の『SIPA NEWS』の今年1月号がラテン・アメリカ特集を組んでいたので、興味深く読んだ。生長の家では今夏、ブラジルで「世界平和のための国際教修会」が予定されていて、そこにはラテン・アメリカ諸国から大勢の人が集まる予定になっているからだ。また昨今は、ブラジルを筆頭としたラテン・アメリカ諸国の経済発展が話題になっているからでもある。そんな中で、私はこの出版物を読んで、自分が日本とも関係の深いこの新興大国に何回か行っているにもかかわらず、その実情をあまり知らないことに気がついた。
 
 この出版物は、同大学の国際公共学校(School of International and Public Affairs)が年2回出す、ニュースレターのようなものだ。その中のマッシモ・アルピアン氏(Massimo Alpian)の記事には、リオ・デジャネイロの貧民街の子供たちの様子が描かれている。そこでは、11歳そこそこの男の子が、首からAK-47型ライフル銃を下げて歩いているのに出会うそうだ。彼の表現によると、リオは今、世界で最も暴力が多く、かつ最も自然が美しい街の1つである。その理由は、風光明媚の自然の中で貧困が蔓延しているかららしい。ブラジルは、急速な経済成長にもかかわらず、社会的不平等が世界で最も顕著な国の1つという。具体的には、全人口の10%を占める富裕層が国の富の50%を稼ぎ出す一方で、約34%の国民が貧困層に属するという。「ファヴェーラ」という貧民街に住む人の数は、正確には不明だが、政府の概算によると全人口の20%にも及ぶらしい。
 
 貧民街の生活は、麻薬と暴力から自分を守る日々だという。そして、頼みの綱であるはずの警察官の行動は、人権侵害も起こるほど無秩序で、予測困難なのだという。最近、イギリスの人類学者、ルーク・ドウドニー氏(Luke Dowdney)が行った研究によると、18歳未満の少年少女が1年間に銃によって殺される数は、世界で正式に“戦闘地域”に指定されているどの場所よりも、リオの街が多いそうだ。貧民街は、麻薬密売組織によって運営され、子供たちはそういう組織の縄張りを守るために武装させられるのである。そのため、1988年から2002年までの14年間で、リオ市内で銃によって殺された若者の数は、ほとんど4千人に達するという。現在、武装した子供は、リオ市内だけで5千人から6千人もいるというから驚きだ。
 
 そんな中で、「ヴィヴァ、リオ!」などのNGOが行っている対策は“平和教育”と呼ばれている。これは、子供が暴力にさらされている地域で、教育や紛争の仲裁活動を行うことで、子供たちのものの見方を変える活動らしい。また、上記のドウドニー氏が始めたプロジェクトでは、教育に加えて、子供たちの生活スタイルの転換をねらっている。これは、子供たちにスポーツをさせたり、職業訓練、指導者になる訓練、紛争仲裁のための訓練をするものだ。そのために、F1レーサーやスポーツ界の有名人を招いたりもする。それをメディアが報道することで、貧民街の子供たちは、ギャングの世界とは別に、もっと目標にすべき生き方があることを知って、ライフルの代りに本を取るようになるというのだ。
 
 リオ・デジャネイロは、世界の都市の中でも相当大きな大都市だ。だから、この街の子供たちが置かれた状況が、ブラジル全土に当てはまるわけではあるまい。もっと静かで、麻薬や暴力のない地域も多いに違いない。また、生長の家のような宗教の活動が、子供たちの教育の向上に大きく貢献しているはずだ。しかし、今回知った上記の数字を見ると、ブラジル社会の発展のために我々のやるべき仕事は、まだ数多くあることが分かるのである。
 
 生長の家は、雑誌や本で教えを伝える“文書伝道”で発展してきた。これは、「文章が読める人」を中心に教えが広まったことを意味する。だから時々、生長の家のことを“インテリ宗教”と呼ぶ人もいる。日本のように識字率が高い社会では、“文書伝道”は必ずしもインテリだけを教化しない。しかし、そうでない社会では、多くの人々に教えを伝えるためには、文書伝道の方法が必ずしも有効でないこともあるだろう。ブラジルの場合はどうか? ブラジルの識字率はラテン・アメリカの中でも高い方だ、と私は思っていた。が、そうでもないらしいことを今回の出版物で初めて知った。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月17日

古い記録 (9)

 1月13日の本欄で、私は大学に入学した1970年に、最初の海外旅行をしたことに触れた。そして、この旅行で撮った写真について「いずれ、まとまった形でご覧に入れることができるかもしれない」と書いた。このほど、その写真39枚を本欄読者に公開することにした。このブログのサイドバーで絵封筒を小さく表示しているが、そこをクリックしても見ることができるが、その場合は少し複雑な手続きが必要なので、39枚を一覧できるサイトのリンクを下に掲げた。これらは「First overseas trip」(初めての海外旅行)という題のアルバムに収められている。すべてモノクロ写真で、当時の私や父母の写真もある。

 初めての海外旅行のアルバム

 谷口 雅宣

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2009年2月16日

バイテクで子供に投資する

 ニューヨーク在住の安藤比叡・本部講師が、最近の子供の遺伝子解析に関する興味あるニュース記事を送ってくださった。昨年11月30日付の『ニューヨークタイムズ』に載った記事で、昨今のアメリカの“教育ママ”の中には、子供が小さい頃に遺伝子解析をしてその子の運動能力についての“適性”を知り、適性があると思われるスポーツを習わせる人がいるらしいのである。その方が、早期から練習に取り組め、どのスポーツをすべきかと迷うロスを防げ、一点集中による効率化がはかれるというわけである。

 これは、コロラド州ボールドーからのレポートである。この町は特にスポーツ熱が盛んらしく、それに目をつけた企業が、遺伝子解析によるスポーツの適性診断サービスを始めたのだ。やり方は簡単で、8歳までの小さい子の口の裏側の粘膜からDNAを採取し、それをラボに送って「ACTN3」と呼ばれる遺伝子を解析するだけである。1回の診断が「149ドル」(約1万3千円)である。この遺伝子は、2003年に行われた1つの研究で、体の「瞬発力」と「持久力」に関係があるとされたそうだ。この企業は、「ACTN3」の解析によって、子供が陸上の短距離走やアメフットのような筋肉の瞬発力を必要とするものか、長距離走のような持久力を要するものか、あるいは双方を組み合わせた種目を顧客に“推薦”するらしい。
 
 しかし、専門家の中にはこの種の診断の確実性を疑問視する人もいる。例えば、カリフォルニア大学サンディエゴ校医療センターのセオドール・フリードマン博士(Theodore Friedmann)に言わせると、「ACTN3」の研究はまだ緒についたばかりだから、これを診断の材料にする商売は「いかがわしい薬を売る」ようなものだという。また、「ACTN3」を研究したメリーランド大学のスティーブン・ロス博士(Stephen M. Roth)は、「マイケル・フェルプスのような世界的選手の成功を生んだのが1つや2つの遺伝子だと考えるのは短見である」と言う。そして、人間の運動能力に影響を与えることが分かっている遺伝子は、少なくとも200はあるとしている。ロス博士によると、この遺伝子が意味をもつのは、一流のスポーツ選手が自分のトレーニングの方法を考えるなど、限られた特定の場合であり、普通の小学生が学校でするスポーツの成績にはほとんど影響がないという。
 
 同紙の記事によると、この遺伝子解析は、ジェネティック・テクノロジー社によって2004年からオーストラリアで始まり、その後、ヨーロッパや日本でも提供されているという。
 
 こういう話を聞くと、私は近未来を描いた短編小説集『神を演じる人々』(日本教文社、2003年刊)に出てくる「本川瑛美」の話を思い出す。この人物は「飛翔」という作品の主人公で、並はずれた跳躍力をもっているために一流のバレリーナとしての将来が約束されていた。だが、この跳躍力は遺伝子改変によって人為的にもたらされたものだったため、両親は娘が世間から差別を受けることを恐れ、秘密の練習に娘を通わせていたのである。そのことが一つの原因となり、主人公は練習中、取り返しのつかない事故に遭う--そういう筋書きである。今回の技術は遺伝子の「解析」だけであり、「改変」のレベルにはまだ達していないが、自分の子供をスポーツの分野で成功させるために、親がどれほどの“熱意”を示すかを、小説ではなく、実例によって示している。

 我々は今、1回の遺伝子解析が1万円ちょっとでできる時代にいるのだ。それに加えて遺伝子の「改変」もできることになれば、安全性の問題さえ解決すれば、出費を惜しまない親は案外多いのではないかと思う。が、その場合の親の気持は、本当の「親」というよりは「投資家」の気持に近いと思う。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月15日

信仰は健康によい

Time090223  アメリカの時事週刊誌『TIME』が、2月23日号で「信仰はどう癒すか」(How Faith Can Heal)と題し、健康をめぐる心と体の相互関係について特集記事を載せている。簡単に言ってしまえば「信仰をもつことは健康にいい」というのが、その記事の結論だ。この種の“心身相関”の話を、私はここ数年、本欄に書く機会がなかった。目立った発表に遭遇しなかったからだ。しかし、この特集記事は最近の医学的知見をまとめているので、大いに参考になる。

 私が前回この問題に触れたのは2006年4月3日の本欄で、その時は「祈りには治病効果がない」という研究結果を紹介した。この研究は、プラシーボ効果について詳しい心臓外科医、ハーバート・ベンソン博士(Herbert Benson)が主任となって行われた信頼性のあるものだったので、その結論に私は少なからずショックを受けた。が、今回の記事で紹介されているコロンビア大学のリチャード・スローン博士(Rchard Sloan)の見解では、祈りの効果を科学的に立証することは“愚者の夢”(fool's errand)だといい、ベンソン氏の研究方法そのものに疑問を呈している。その理由は、祈りの受け手がどれだけ祈られたかは知ることができないし、それが分からなければ祈りの効果は測定できないからだという。
 
 ベンソン氏の研究の詳しい内容は上記の本欄を参照してほしいが、スローン博士のポイントは、患者にとって重要なのは、その人が実際に祈りの対象になったかならなかったではなく、患者本人が、自分が祈りの対象にされたと「思う」か「思わない」かだというのである。もし自分が祈られていると思うならば、そこからプラシーボ効果を起こすメカニズムが患者の心身で働き出し、ある時には“奇蹟的”と思われる効果も発揮するというのである。
 
 プラシーボ効果とは「偽薬効果」とも訳されるが、医学的には1780年代から知られている現象で、砂糖の丸薬など、医学的には全く治療効果のないものでも、それを服用する人が「効果がある」と信じて飲めば、実際に効果が生じることをいう。このことは拙著『心でつくる世界』(1997年)にもやや詳しく書いたが、「信仰によって病気が治る」という場合でも、相当数はこのプラシーボ効果によると思われるのである。が、このことからは、「だから宗教はインチキだ」という結論へ向かうべきではなく、「だから、人間の自然治癒力は驚嘆に値する」とか「人間の心の力は偉大だ」という方向に進むべきだろう。

 この特集記事も、その方向に論を進めている。もし、“砂糖の丸薬”によっても奇蹟的治癒が起こるならば、神への信仰や宗教の教義のように、人々の心を深く動かすものに治病効果がないと考える方が不自然なのだ。こうなると、定期的に教会へ通う人々とそうでない人々との健康状態を統計的に比較する研究が意味をもってくる。テキサス大学の社会人口統計学者、ロバート・ハマー氏(Robert Hummer)が1992年から続けているこの分野の研究成果には、動かし難いものがある。それをまとめると、次の2つに集約される--
 
 ①教会など宗教行事にまったく行かない人は、毎週教会へ行く人に比べて、8年後までに死ぬ確率は2倍である。
 ②まったく教会へ行かない人と毎週行く人との中間段階にある人々の寿命は、両者の中間的位置にある。
 
 このような統計結果が出る理由には、様々なものが考えられる。例えば、教会は一種の社交場であり、コミュニティーを形成するから、そこに集まる人々の間には親しく近い関係が生じるだろう。すると、普段の互いのコミュニケーションも密接になるだろうから、心臓発作や脳梗塞で倒れたときも、教会メンバーの方がそうでない人よりも速く病院に連れて行ってもらえるかもしれない。そうなれば、医学的理由ではなく、社会的理由でも平均寿命は長くなる--という具合にだ。しかし、その一方で、宗教が肉体の一部である脳に影響を与えることで、ストレスに対する心身の反応自体が、宗教を信じる人とそうでない人との間で違ってくることも考えられるのである。
 
 神経科学の発達により、宗教的体験や感性が脳の頭頂葉や前頭葉でのニューロンの活動に関係していることが明らかになってきた。これに、脳の可塑性(変形する性質)を加味して考えると、祈りや瞑想を定期的に行う人と、そうでない人との間には、長い間のうちに脳に構造的な差異が生れるとしても、不思議でない。そして、この記事によると、実際にその通りになるらしいのだ。
 
 ペンシルバニア大学のアンドリュー・ニューバーグ博士(Andrew Newberg)の研究では、100人以上の人が様々な方法の瞑想や祈りを行う中で脳をスキャンして調べたところ、前頭葉が主体となって活動していることが分かったという。そして、祈りや瞑想が深まってくると、頭頂葉がしだいに静かになる--この状態のときに、人は地上的なことから解放された気分になるという。また、称名を唱え続けたり、誦行をしていると前頭葉の活動が静まり、自分が唱えている言葉が、自分とは別の力によって発せられているような気持になるという。そして、このような瞑想を15年以上続けている人の前頭葉は、そうでない人よりも分厚くなっていることが分かったそうだ。また、自分は宗教性が高いと考える人の脳の視床は、非対称的である傾向があるが、対称的な視床をもつ普通の人も、瞑想を8週間実修すると、視床に非対称性が現れることがあるという。
 
 このような研究と、ここには書かなかった様々な研究や発見により、「信仰は健康によい」というのが、今や医学者と宗教者の1つの合意点であるらしい。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月14日

バレンタインデー

 今朝、6時前のNHKのラジオ放送を聞くともなく聞いていたら、女性の気象予報士が「今日の天気は昨日と同じように荒れて、強い風も吹くでしょう」と言ったあとで、
「チョコレートを届けに行くかたは、十分気をつけてください」
 と言った。
「えっ、何に気をつけるの?」
 と私が言うと、妻が何か答えたが私には聞きとれなかった。だから、「風に飛ばされないように」ってことだろうと思って、私は大声で笑った。
 発言したご本人がユーモアのつもりで言ったならば、なかなかセンスがある。が、そうでなかった場合は、相当やせ型の人なのかと思ってしまう。

 この不況の中でも、チョコレートは売れ続けていると聞いた。最近は“逆チョコ”というのがあるそうで、男から目当ての女性に渡すのがはやっているらしい。女性の経済力がつき、相対的に男性の立場が弱くなってきたことと関係があるに違いない。が、バレンタインデーには「女性から男性に贈る」という決まりは日本だけのようだし、私たち夫婦のように商業主義に懐疑的な人間は、チョコレートの授受にこだわらずに、ゆっくりと2人の時間をもつことにした。何をしたかは、今回は言わないことにしておく。
 
Mtimg090214  仕事場でもらったチョコレートを眺めながら発想したイメージを、絵に描いた。今日の世界同時不況は、人間の期待や欲望を実際の価値以上にどんどん膨らませてきたことから起こった。それらがいつかは崩れると知りながらも、目の前の短期的利益を得ることで満足し、期待が外れ、無理な想定が破綻することから目を背けてきた我々の心は、きっとこんな感じの“肥大した心臓”で表すことができる。日没は近い。こんな生き方を変えなければ、我々に明日は来ないかもしれない。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月13日

生命は伸びる

 列島に春一番が吹き荒れた今日、妻がダイニング・テーブルの上に飾っていたフキノトウが伸びあがっているを見つけた。今月6日、東京・赤坂の末一稲荷神社で初午祭があったときに、境内に出ていた“芽”を何本もお土産にもらった。妻はそれを天婦羅と蕗味噌に加工し、残りの2~3本をガラス器に挿して飾っていたのだ。
 
Mtimg090213  フキノトウは食べるだけでなく、眺めていてもいい。生命力が旺盛だから、1週間やそこらは目に見えて伸び続ける。今では採ったときの倍ほどの高さに伸びて、両手足をひろげた子供のような恰好をしている。その成長ぶりを見ていると、子育て時代の記憶がよみがえってくる。
 
 そう言えば最近、庭を歩き回るノラネコたちの動きがとみに盛んだ。早歩きを急に止めたかと思うと、耳を立て、鼻で空気をさぐって、誰か相手を探す風情である。1匹が姿を消すと、次の1匹がどこからか現れる。彼らは、人間などまったく眼中にないようだ。また、池の中には、ヒキガエルが残した細長い寒天状の卵が、ヘビのように這っている。玄関脇のサザンカはピンクの花を盛り上げて、惜しげもなく花弁を周囲に振り落としている。スイセンも咲いたし、白玉ツバキも可憐な花をつけている。こうして、息苦しいほどに生命が動き出す季節を「春」という。人間だって進歩し、伸びるほかはないのだ。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月12日

カキフライを食べる

 今日は木曜日で休日だったので、妻と連れ立って絵の展覧会を見に京橋へ行った。妻が単行本の製作で世話になったデザイナーの作品が展示してあるというのである。その展示をしっかりと見てから会場を出ると、同じビルの階下では水彩画展をやっているというので、せっかくなのでそれも見た。水彩用紙の白い地肌を存分に生かした、明るく、透明感のある風景画が数多く展示されていて、妻と2人で「ああ、いいなぁ~」と言いながら鑑賞した。気がついてみると、私は近ごろきちんとした風景画を描いていない。これらの絵を見ていると、そのことが、何か大切なものを粗末に扱ってきたような反省の気持を、私に起させるのだった。

Img_3335s  画廊を出た時は、まだ11時半になっていなかった。昼食をどこで食べるかの見当はつけてあったが、時間がまだ早いので近所を散歩するともなく2人で歩いていたら、1軒の店の前に15~16人ほどの人の列ができている。どうやらレストランらしい。こんな時間に人が並ぶほどの店があるのかと思いながら、私はどんなメニューがあるのか、入口のディスプレイを覗いてみた。ミンチカツ・ランチ、ハンバーグ・ランチ、カキフライ、鶏肉のコンフィ……など、それほど珍しいものではない。いわゆる“日本の洋食”かと思って妻の方を振り返ると、彼女は人の列の中にいて、その後ろにもう4人ほど若い女性が並んでいるのである。「そうか、ここで食べるつもりか」と私は思い、彼女のそばへ行くと、妻は自分もメニューを見たいと言うのだった。
 
 最初は、2人とも冗談半分で列に入ったのである。ところが、我々の後にも次々と人が来て列が延びていくのを見ると、当初の計画を変更して、この店で食べるのも面白いかもしれない、と考えが変わってきた。で、結局、11時半の開店まで5分以上待って、他の客とともにゾロゾロと店へ入っていった。入口脇のカウンターには、その店のことを記事にした雑誌が数冊、カラーグラビアを見せて広げてある。「そうか、雑誌で有名な店なんだ……」と了解して、期待に胸を膨らませた。しばらくして席へ案内され、私は予定通りカキフライを注文した。
 
Mtimg090212  最初に、コーヒーカップのような容器に入った、キャベツのスープが出された。外で待っていて冷えた体を、それを飲んで温める。次に、白い大皿に盛ったカキフライが出てきた。トンカツに添えられるような、付け合わせの千切りキャベツが山盛りになっている。その脇に、丸々と太ったカキのフライが4個並んでいる。フライの下にはタルタルソースが敷かれ、そのほか半切りのトマト、ポテトサラダ、レモン2切れが、同じ皿に盛りつけてあった。妻の料理が来るのを待って、私はレモンを絞ってフライにかけ、食べはじめた。カキフライは、1口で食べられないほど大きかった。そんな場合、安い店では“衣”を分厚くしてあるのだが、この店の“衣”は薄く、ジューシーなカキの味が口の中に広がった。「なるほど、人が並ぶはずだ」と私は思った。
 
 旬の食材を使ったボリュームのある昼食をいただいて、2人は満足して店を出た。難を言えば、店の混雑と忙しさが気になった。また、我々の年齢では、昼食としてはボリュームがありすぎる。しかし、若いビジネスマンや女性にはピッタリの内容なのだろう。「もう一度来るか?」と訊かれたら、多分、昼にはもう来ないだろう。休日のアドベンチャーとしては、味だけでなく、スリルも十分楽しめた。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月11日

“建国の理想”を虚心で読む

 今日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「建国記念の日祝賀式」が開催され、国歌斉唱、伊勢皇大神宮・橿原神宮遥拝などの後、私は概略次のようなスピーチを行った:

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 皆さん、本日は日本国の誕生日を祝う建国記念の日です。誠におめでとうございます。
 すでにご存じの通り、この日は、日本の古典である『日本書紀』などにこの国の始まりとして記されている日を、太陽暦になおして定めたものであります。日本の場合は、世界でも珍しく、国の始まりが“神話の世界”にまで遡らねばならないほど、永い歴史をもっています。このため一時期には、この2月11日を“日本の誕生日”として祝うことに、「歴史的事実でない」などという理由で反対する人々もいたのですが、最近ではそういうことを言う人は大部少なくなっています。この日が“日本の誕生日”である理由は、『日本書紀』などに、初代の天皇である神武天皇が、橿原の地に都を定めたのがこの日だと書いてあるからです。何千年も前のことは、そのことが正確な歴史的事実であるかどうかよりも、それが象徴する意味の方が重要なのであります。
 
 これは、日本だけに当てはまることではない。例えば、イエス・キリストが誕生した日がいつであるかは、歴史学的には特定できていません。もちろん、12月25日がその日だと考える人は世界中に多いのでありますが、そんなことは聖書にも書いてないし、歴史家の間では否定されています。さらに言えば、その日は、古代ローマで崇められていた太陽神のお祭りの日に合わせて、当時のローマ教皇が作為的に定めた日だという説さえあります。しかし、現代を生きる我々は、キリスト教徒はもちろん、そうでない多くの日本人も、クリスマスには“愛の教え”を説いたイエスという聖人がかつてこの世に誕生したということに思いを馳せ、我々の愛する人々と会ったり、プレゼントの交換をしたり、また知らない人にも愛を与えたりして、人間のもつ愛の素晴らしさ、ひいては神の愛のありがたさを実感する時をもとうとするのです。イエスの誕生日が考古学的にも、歴史学的にも定まっていなかったとしても、多くの人類は12月25日にクリスマスを祝うのです。それで何も問題はない。
 
 イエスは約2000年前に活躍した人です。古典に記された日本の建国は紀元前662年になっていますから、神武天皇はイエスより昔の“神話の世界”に生きた人です。だから、日本の建国の日が歴史学や考古学によって特定できなくても、それを祝う行事を日本人が古典に記された日にもつことに何も不思議はないし、クリスマスを祝うよりもっと自然であり、本当は何もやましいところはないのであります。
 
 しかし、日本の誕生日の場合は、一つ不幸な特殊事情があり、それが「建国記念の日」を全国民がこぞって祝うに至っていない理由になっています。それは、かつて行われた日中戦争と大東亜戦争において--この日は当時「紀元節」と呼ばれていましたが--この2月11日の国の誕生日が、隣国である朝鮮や中国を武力で支配しようとする試みに、大いに利用されたということです。もっと具体的に言えば、『日本書紀』巻第三に書かれている神武天皇の「橿原奠(けん)都の詔」の中に書かれた「六合を兼ねて都を開き、八紘をおおいて宇(いえ)となさん」という言葉が、日本による異民族支配の口実に使われたのであります。これも皆さんがよくご存じの通りです。だから戦後は、このことを嫌う大勢の人が、神武天皇のこの詔勅に、あるいは神武天皇という人物そのものに拒否感を抱きつづけてきました。これは、誠に不幸なことだと言わねばなりません。なぜなら、古典に記された自国の誕生の意義を否定することは、自分を否定することにつながるからです。
 
 生長の家はもちろん、そのような立場ではありません。生長の家は、いわゆる「八紘一宇」や「八紘為宇」という言葉が、政治的スローガンとして戦前の日本の侵略行為に利用されたことは認めますが、神武天皇の詔勅そのものは少しも侵略的でないと考えます。これは、詔勅の文章をよく読んでみれば分かります。また、神武建国を記した古典の内容をきちんと読めば分かります。この2つのことの違いを、もうはっきりと言うべきときに来ていると私は思います。かつての政治スローガンは、古典が記していることとは意味が違うのです。当時の軍部と政治家が、古典の記述を拡大解釈し、さらには曲解して政治目的に利用したということです。
 
 しかし、もうそういう時代は半世紀以上も昔に過ぎ去りました。だから、この21世紀初頭の我々は、偏見や先入観のないスッキリとした頭で古典の文章を読んで、そこから建国の理想や理念を汲み取るべきなのです。どのような理想を汲み取るかということについては、私は数年前からこの建国記念日で申し上げている通りです。これはすでに3年前の『小閑雑感』(Part 6)に書きましたが、思い出していただくために繰り返して申し上げましょう:
 
 (2006年2月11日の文章から引用する。同書、pp.246-247)
 
 このように、「背に日の神の御心を負いたてまつる」ということと「刃に血ぬらずして」というのが日本建国の理想であると、ここには書いてあります。また、「八紘為宇」という言葉に関しては、『日本書紀』巻の第三にこうあります。これは神武天皇の「橿原奠都の詔」の中にある文言です:
 
「上は乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳(みうつくしび)に答え、下は皇孫(すめみま)の正しき道を養いたまいし御心を弘めむ。しかうして後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)にせんこと、また可(よ)からずや」

 この文章は、明らかに2つの部分に分かれています。つまり、「まずAをして、その後にBをすることが良い」と書いてあります。そして、Aとは、「我々の先祖や神々が日本という国を徳によって打ち立てたことを確認して感謝し、我々の子孫には、その御先祖からいただいた正しい道を実現していくという精神を、しっかりと人々に弘め伝える」ということです。そして、その後に初めてBをする--すなわち「国の天地と四方を統合して都を開き、八紘--国の隅々までを覆って家にする」のです。AとBとの間に「しかうして後に」という接続詞がきちんと入っていることを見落としてはいけません。Aとは、「神の御心に聴いて、その徳を人々に広める」ことです。これは建国の理想の周知徹底であり、一種の道徳教育と言えるかもしれない。それをした後に、初めて周囲を統合して都をつくり、統一的な政治を国内のすみずみまで及ぼす--それが理想であると書かれている。この順序を間違ってはいけないのに、かつての日本はAもBも同時にやろうとし、しかも天皇の意志を軽視して、刃に血を塗ることを先行させて中国大陸で泥沼の戦争をしたわけです。

 我々はその間違いを再び犯してはいけない。日本建国の理想とは、あくまでも平和裡に諸民族の共存を進めることです。そして、それに当たっては「背に日の神の御心を負いたてまつる」--つまり「神の御心に沿う」ということが絶対条件なのです。そういう高邁な理想が日本の古典に書いてあるということを、私たちは忘れてはいけない。生長の家は、この「神の御心に従う」生き方を推し進めていく運動です。だから、日本建国の理想を実現する運動でもあるのです。軍隊や政治が先行するのではいけない。神の御心が先行して初めて「刃に血ぬらずして」物事が決着する。そういう意味で、今日の建国記念の日に当って、あらためて生長の家の国際平和運動の重要性と、その使命の大きさを感じるしだいであります。
 
 ご清聴、ありがとうございました。
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 谷口 雅宣

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2009年2月 9日

ラブロック博士は語る

 オーストラリアのビクトリア州での山火事は、東京都の1.5倍の面積を焼きつくし、死者は160人を超え、さらに燃え続けている。同国での史上最悪の山火事らしいが、山火事自体はこの夏の乾燥した時季のオーストラリアでは珍しくないそうだ。ただ、長期にわたる旱魃と猛暑続きは例年にない現象のようだ。メルボルンでは7日、観測史上最高の46.4℃を記録したという。この地はコアラの好物であるユーカリの森が多く、この幹や葉には油分が多いために、乾燥状態で引火すれば燃え広がるらしい。地球温暖化にともなう気候変動が影響しているならば、今回の山火事の犠牲者は、自然災害によるのでなく“人災”によるとも考えられるのだ。

 私がこんな言い方をするのは、地球温暖化によって大勢の人が死ぬという予想を、最近読んだからだ。イギリスの科学誌『New Scientist』の1月24日号に、「ガイア理論」で有名なイギリス人、ジェームズ・ラブロック博士(James Lovelock)のインタビュー記事が載っていた。今年90歳になるという同博士が、今の地球環境についてどう考えているか知ろうと思い、私はそれを読んだ。が、同博士は相当悲観的で、地球の温度が今世紀中に2℃上昇すれば、世界人口は現在の6分の1以下の10億人に減ってしまうという。
 
 ラブロック博士によると、現在行われている環境対策のほとんどは、巨大な詐欺すれすれのものだという。排出権取引は、政府から巨額の補助金を得られるから、金融会社や産業側がまさに望むところだろうが、気候変動に対してはほとんど効果がない。そのかわりに、多くの人々に多くの金を分配していい気分にさせるから、人々が真剣に考える時期が来るのを遅らせるだけだという。また、風力発電にも手厳しい。風力で1ギガワットの電力を得るには、2千5百平方キロもの土地が必要だから、風車はイギリスの美しい田園風景を破壊してしまう、と嘆いている。さらに、二酸化炭素を地中や海中へ固定することについては、「時間のムダだ」という。「気違いじみた」考えで、「危険だ」ともいう。時間がかかりすぎるし、エネルギーを浪費すると指摘する。
 
 原子力発電については、イギリス国内のエネルギー問題を解決する方法の1つではあるが、これによって地球全体の気候変動の問題は解決しないという。また、排出削減の方法としては、時間がかかりすぎるという。
 
 それなら、人類は破滅に向かっているのかと訊くと、博士は「我々を救う方法が1つある」と言う。それは「炭を大量に土中に埋める」ことだという。これは、例えば、農業から出る廃棄物には、植物が夏季に吸収した炭素が含まれるから、これを土中で分解しないタイプの炭に変えて、土に埋める方法を提案している。こうすることで、地球の物質循環システムの中からまとまった量の炭素を抜き取ることができるという。
 
 こんなことで、本当に効果があるのだろうか? 博士は言う--

「地球上のバイオスフェアー(生物圏)からは毎年、550ギガトンの炭素が出る。我々人間が出すのは、そのうちたった30ギガトンにすぎない。植物によって固定された炭素の99%は、バクテリアや線虫や昆虫などによって1年ぐらいで大気中に排出されてしまう。我々にできることは、そういう炭素の“消費者”をごまかして、農業廃棄物を低酸素状態で燃やし、炭に変えて、畑の中にスキ込んでしまうことだ。これで、CO2は少しだけ出るが、ほとんどの炭は炭素に変換される。また、この酸化過程の副産物としてバイオ燃料が作られるから、農民はこれを販売して利益を得られる」。

 ラブロック博士は、自分のことを「楽観的な悲観論者」(optimistic pessimist)と呼ぶ。その理由は、人類は結局は死滅しないと思うからだという。しかし、犠牲者の数は想像をはるかにしのぐ。地球の平均気温が今世紀中に2℃上昇すれば、大量の人間が死んで、10億人かそれ以下の数しか残らないという。現在の世界人口は約65億人だから、6分の1以下に減ってしまうというのだ。4℃の上昇では、現在の10分の1以下に減少するという。この主な理由は、食糧不足だそうだ。が、今回のような山火事や洪水、それに伴う伝染病による死もあるに違いない。このような人類の大量死は、過去の氷河期と氷河期の間にもあって、そのときの地上の人口はわずか2千人ほどだったという。21世紀においても最悪の場合、こういう状態が再来すると博士は警鐘を鳴らすのである。

 谷口 雅宣

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2009年2月 8日

2つの新聞記事

 静岡市での生長の家講習会を終え、東京へ向う新幹線の中でこれを書き始めた。今日の静岡県地方は、快晴の空に富士山の全貌がきれいに浮き上がる穏やかな天気で、講習会には5千人を超える受講者が集まってくださったことは誠にありがたい。会場の「ツインメッセ静岡」は、ほぼ正方形の形をした展示場で、1箇所に多くの人々を収容できる点はいいが、演壇と受講席との間にやや距離があって、講演者の側からは受講者の“反応”がやや受け取りにくかった。とはいっても、演壇が広いことにはメリットもあり、聖歌隊の合唱の時間には、大勢の子供が壇上に上がって歌を歌うことができ、会場の雰囲気を和やかに盛り立ててくれた。
 
 今日の『朝日新聞』の社会面に東京・日野市にある多摩テックの閉鎖が報じられていた。この遊園地は、私の子供がまだ小さい頃、当時の住居から近かったこともあって、何回も遊びに行ったことがある。そこが9月30日で閉鎖されるという知らせには、寂しさを感じずにいられない。「時代の変遷」を強く感じさせる出来事である。ご存じの読者も多いと思うが、ここは自動車メーカーのホンダが100%出資する経営体によって1961年に開園した。乗り物ファン--特に、自動車の運転が好きな親が、子連れで来て一緒に遊べる場所として、当時は珍しかった子供用のゴーカートなどが人気だった。ブルンブルンとエンジン音を立て、車体を震わせて走るゴーカートは、レーサーのようなスタイルをしていて、大人の私も心が躍ったことを覚えている。そんな施設でも近年は、少子化と自動車を運転しない若い世代の増加で入場者が減少したため、「時代が変化する中、役割を終えたと判断した」のだそうだ。国内の自動車の登録台数の減少や親会社のホンダが、F1レースから撤退したことと合わせて考えると、「自動車」というものに対する人々の考え方に変化が起こりつつあることを示しているように思う。

 都会では、自動車は必需品でなく、費用のかかる生活オプションになりつつある。そのこと自体は、CO2排出削減や渋滞緩和という側面からは好ましいかもしれない。しかし、この変化をもたらしたものが、複雑な地下鉄網や鉄道の整備であり、それにともなう商業ビル、巨大モール、地下街などの増設だから、大都市・東京全体から排出されるCO2の総量が減ることにはならないだろう。こうして利便性が増していく大都会ではあるが、整備されたインフラや社会資本が、人口減少時代にどのような状態になるのか、私は気になっている。多くの地方都市では、昔からあった商店街が“シャッター通り”化していることが問題になっているが、それを大規模化したような“シャッター・ビル街”や“シャッター・モール群”が出現する可能性はないだろうか。
 
 上に書いた「多摩テック閉鎖」の記事の隣には、JR東海が進めているリニア中央新幹線建設に反対して市民団体が結成されたことが報じられていた。全国自然保護連合の呼びかけで、東京、神奈川、山梨、長野などの沿線市民や地方議員など約20人が山梨県内に集まり、「リニア問題を考えるネットワーク」という市民団体を結成したというのだ。私はこれを複雑な気持で読んだ。というのは、生長の家が考えている“森の中のオフィス”を設置する候補地の1つが山梨県内にあり、そこへの交通アクセスが他の候補地より不便であることが指摘されていたからだ。リニア新幹線が開通すれば、この問題は一気に解消する。が、こうして「自然保護」を掲げる団体の主導で反対運動が始まることになれば、生長の家の“森の中のオフィス”構想が微妙な立場に置かれる可能性が生まれるかもしれない……などと考えたのである。

 この構想を実現する場所としては、山梨県だけでなく、静岡県内でも2カ所の候補地が検討された。こちらは近くまで東海道新幹線が走っているから、交通アクセスは山梨県より上である。が、その代り、海岸沿いの観光地にオフィスを置くことになる。それが“森の中のオフィス”の考え方に合致するかどうかも検討課題だった。とにかく、現代人にとって“便利な生活”と自然環境保護の要請とは、基本的に矛盾することは否めない。その中にあっても、双方の要請をある程度満たし、ある程度犠牲にする“中間点”を見出すことの難しさを、私は2つの記事を読みながら感じたのだった。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月 6日

八つ子の誕生が教えるもの

 バラク・オバマ氏が米大統領に就任した直後(1月24日)の本欄で、私は新大統領が生命倫理の分野でも、前任者のブッシュ氏から方針を転換し、ES細胞の研究に連邦政府の援助をひろげる決定を「来週にも表明する」らしいと書いた。これは、ABCニュースが「早ければ」という言葉を添えてそう伝えたからだ。しかし、あれから2週間たった今、まだその発表はない。恐らく、もっと緊急性のある経済対策の方に時間を取られているからだろう。しかし、オバマ政権下では、人の幹細胞を使った再生医療の研究が今後、加速度的に進むとの期待感が広がっていて、アメリカの時事週刊誌『TIME』は2月9日号で、幹細胞研究を特集として大きく取り上げている。
 
 それを読んで印象に残ったのは、現在の再生医療研究では、ES細胞(胚性幹細胞)の研究とiPS細胞(人工多能性細胞)の研究が併行して行われているということだ。ES細胞の万能性をiPS細胞で実現するためには、ES細胞を研究して、それが体の各組織や臓器に分化していく仕組みをよく理解する一方で、iPS細胞を使ってそれとの違いを確認することが重要だと考えているようだ。つまり、ES細胞は実際の受精卵から得た細胞だから、再生医療や発達医療に必要な“本当の”または“自然の”情報をもっているが、倫理的、技術的、社会的な問題を抱えているので、その代用として、人工的に得られるiPS細胞を使っていく--そんな意図が感じられるのである。
 
 しかし、技術というものは、人間の意図とは無関係に発達するという側面がある。だから、強力な技術の開発は、強力な“善”の効果を発揮し得ると同時に、その逆の効果も発揮し得ることを忘れてはいけない。特に、ES細胞のような(生物学的な意味での)「人間の発生」に深く関わる重大な技術は、誤用や悪用の道を開かないように、できるだけ早期から倫理規定を整えておく必要がある。が、その一方で、このような強力な技術は、正しく使えば人道的にも経済的にも大きな利益をもたらすから、早期に倫理規定を整えることに抵抗を感じる人も出る。特にアメリカのような自由と自己決定を重んじる社会では、このような倫理規定への抵抗が強い。両者のバランスをとることは容易でないから、技術の乱用から“犠牲者”が出ることで、初めて倫理的配慮の重大さを思い知るというパターンが繰り返される傾向がある。
 
 最近、報道されたアメリカにおける「八つ子」の誕生も、このパターンに一致している。これは今年の1月26日に、ロサンゼルス郊外で不妊治療によって八つ子が生れたという話だ。が、さらに世間を驚かせたのは、八つ子を生んだ母親にはすでに6人の子供がいて、その子らの誕生にも不妊治療が用いられたということだ。5日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えるところによると、この八つ子を生んだ女性は、33歳のナディア・スールマンさん(Nadya Suleman)で、すでに2~7歳の子6人(男4人、女2人)がいる。新たに生まれた八つ子は、男6人と女2人だ。ナディアさんの母親の話によると、ナディアさんの最初の6人の子は人工受精で生まれたといい、その時に作られた凍結受精卵から八つ子が生まれたらしい。

 この母親の言では、ナディアさんは十代の頃から子をもつことに執着していて、子育ては上手であるけれども、今回は「明らかにやりすぎた」(obviously she overdid herself)という。ナディアさんは昨年1月に離婚しているが、彼女の14人の子供はどれも前夫の子ではないというのだから、夫婦間には複雑な問題があったのだろう。ナディアさん自身は、カリフォルニア州立大学で青少年向けカウンセリングの学位をとり、昨年春までは大学院に通っていたという。最近はある病院で精神科の技師をしていたが、出産を控えて退職した。母親は100万ドルの負債を抱えて破産手続きを申請中というから、この家庭には14人の子供育てる経済力はないと考えていいだろう。
 
 そんな中で八つ子を生んだことが、社会的な批判を浴びているようだ。「八つ子」という珍しさから、いくつかのメディアから仕事の話が来ていて、そういう経済的報酬を目的に“子だくさん”を選んだという疑いがかけられているらしい。ペンシルバニア大学の生命倫理学者、アーサー・カプラン氏(Arthur Caplan)は、すでに6人の子がいるにもかかわらず、本人の経済力を考えても、そもそも医師が彼女に不妊治療をする必要があったかどうかなど、このケースは倫理的に大きな疑問があると指摘している。
 
『TIME』誌は上掲号に続く2月16日号でこれを取り上げ、アメリカでの生命倫理規定との関係を説明している。それによると、昨年の6月、ちょうどスールマンさんの胎内で受精卵が成長を始めたころ、アメリカ生殖医療協会(ASRM, American Society for Reproductive Medicine)は、不妊治療の目的で子宮に移植する受精卵の数に関するガイドラインを改訂した。そして、34歳以下の女性の場合は、1998年に定めた「3個以内」という数を「2個以内」に減らしたところだったという。もちろん、今回の「8個」の受精卵は、いずれの規定からも大きく外れている。が、この規定はあくまでも「ガイドライン」だから、法的拘束力も罰則もない。また、八つ子が生まれたのは、受精卵の移植数が8だったからか、あるいは8以下の受精卵から同一遺伝子情報をもつ受精卵が分離した結果、8になったのかは、現段階では不明である。
 
 私がこの八つ子の件をやや詳しく書いたのは、多様な価値観が認められる自由な社会においては、強力な技術の誕生は、当初まったく予想できなかった用途にも、その技術が使われる可能性があるという点を実例をもって示すためである。しかし、それでは法規制によって問題は解決するだろうか? 同誌の記事の中で、南カリフォルニア大学の不妊治療専門家、リチャード・ポールソン教授(Richard Paulson)は、こんな疑問を提示している:
 
 ①我々は、1家族のメンバーを(例えば)6人に限定する法律を制定するのか?
 ②我々は、多胎妊娠時に子を選択する義務を法律に規定すべきなのか?

 谷口 雅宣

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2009年2月 5日

百目鬼の伝説

 2月3日の本欄でハズカシイ動画を公開してしまったが、予想外の反響で恐れ入っている。読者からのコメントの中に、私が被ったお面について「鬼なのか? 日本の鬼なのか?」との質問があったので、きちんと調べてみた。このお面は、妻の誕生祝いに栃木県の信徒の方が送ってくださったもの。これを前回、「カンピョウの実で作った」などといい加減なことを言ったが、「カンピョウ」という植物は存在せず、正しくはユウガオの実をテープ状に細長くむいて乾燥させたものをカンピョウと呼ぶのだそうだ。カンピョウは栃木県の名産で、全国の生産量の9割を占めているという。

 鬼のお面は、このユウガオの実の外皮を乾燥させて作る。ちょうどヒョウタンを作るときMtimg090205 と同じように、果肉を取り除いて乾燥させたものを「ふくべ」と呼び、これを使った民芸品が「ふくべ細工」だ。ふくべ細工の歴史は古く、戦国時代には、茶道用の炭入れとして、また昭和30年頃まで一般庶民の間でも炭入れとして、日常的に使われていたという。現在は、宇都宮市内の職人により、炭入れ、花器、小物入れなどのほか、絵付けに凝った人形や魔除けの面が作られている。栃木県の伝統工芸品に指定されている。ふくべ細工のうち、宇都宮市に伝わる「百目鬼の伝説」をもとにして作られたお面を「百目鬼(どうめき)面」と呼び、魔除けとして使われたらしい。
  
 「百目鬼の伝説」とは、「藤原秀郷の鬼退治」とも言われ、近江において大ムカデを退治したという藤原秀郷(ひでさと)の英雄譚の1つである。彼が下野国(現在の宇都宮市)を通りかかった時、身の丈3メートルを超し、手に百も目がついている「百目鬼」が現れたので、秀郷は弓を引いて鬼の心臓を射抜いたところ、百目鬼は断末魔の力を振り絞って体から火を吹き、あたり一面が火の海になったという。すると、そこへ本願寺の智徳也上人がやってきて呪文を唱えたところ、鬼から燃え広がっていた炎は消え、黒焦げとなった人の姿が残っていたそうだ。ナムアミダブツ、ナムアミダブツ……。そして、その地を人々は「百目鬼」と呼ぶようになったのである。
 
 藤原秀郷は、平安中期の関東の武将で、平将門の乱(940年)で超人将門を討ったところから数々の英雄伝説が生まれた人物だ。大ムカデ退治の話も将門討伐と関係している。この大ムカデは三上山に巣くっていたが、秀郷はこれを退治したお礼に黄金の太刀と鎧をもらったうえ、これらを身につけて朝敵を討てば将軍になれると予言され、その予言通りに平将門軍を破ったという。
 
 昨今は“韓流”など、美しい柳のような男に人気があり、秀郷のような勇猛な武将はテンデ人気がないためか、ふくべ細工の百目鬼面もあまり買う人がいないそうだ。“韓流”に魔除けの必要がなければ、その北側に位置する国にも“魔除け”はいらない--そんな錯覚を抱く人も多いのだろう。そんな状況下では、節分に“鬼”が大暴れして見せるのは、ひょっとしていいことなのかもしれない。だから、日本人はハローウィンよりも、この節分の“鬼”を盛り立てていくのはどうだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2009年2月 4日

牛は名前で呼ぼう

 ロンドンに住む生長の家の信徒、ジョン・フラッドさん(John Flood)から興味ある情報が舞い込んだ。乳牛についての研究結果で、「牛は名前で呼ぶ方が、そうでない場合より乳の出が多い」のだそうだ。ニューキャッスル大学の農業食糧地域開発学部(School of Agriculture, Food and Rural Development)がイギリス各地の農業者516人を対象にして行った研究で、人間と動物との関係を研究する専門誌『アンスロズース』(Anthrozoos)誌に発表された。

 それによると、牛に名前をつけて呼んでいる農家(46%)では、名前をつけていない54%の農家よりも1頭当たりの牛乳の収量が相当多いという。この研究の中心となったキャサリン・ダグラス博士(Catherine Douglas)に言わせると、その増加量は「250リットル」になり、平均的な大きさの牛では1日「2パイント」(1.14リットル)の増量になるらしい。同博士は、「この研究によって、牛に優しくて面倒見のいい多くの農家の人たちが昔から信じていたことが、証明された」という。さらに同博士は、「この研究で分かったことは、牛という動物は、複雑な感情を体験できる知性をもった存在だと、イギリスの農業者は大体において考えているということ。また、個々の牛をよく理解し、それぞれに名前をつけて呼ぶだけで、牛乳の生産量を相当増やすことができるということです」と言っている。
 
 ところで、なぜそうなるかという理由だが、BBCのニュースの説明では、名前をつけて飼われている牛は、飼い主から愛され、自分の価値を認められていると感じるから、そうでない牛よりもストレス・ホルモンであるコーチゾルの分泌が少ない。これによって安心して牛乳を生成することができる--というのである。このニュースに登場する牧畜家、デニス・ギッブ氏(Dennis Gibb)は、個々の牛を“個性をもった存在”として扱うことが非常に大切だと言い、自分の飼っている牛たちを「娘たち(girls)」とか「レディーたち(ladys)」と呼ぶだけでなく、個々の牛に「サラ」とか「ウェンディー」「ハイライト」などと名前をつけて呼んでいる。

 私にこの研究を教えてくれたフラッド氏は、「この話は、牛乳生産にとどまらず、あらゆる生物にとって調和が大切であることを教えてくれます。ロンドンの生長の家では、生長の家の哲学と環境を敬うことの大切さについて語ることが多いので、このニュースについて皆に伝えました」と報告してくださった。彼の妻であるソニアさんも、「このニュースを見たとき、これは生長の家の教えと同じことを言っていると思いました。つまり、“コトバの力=愛”ということです。こういう方法で、もしイギリス中の農家の人々や乳牛生産者が動物愛護を実践すれば、人工的な方法で、例えば、牛乳生産のためにだけに妊娠を強要したりする必要はなくなります」と感想を述べている。
 
 家畜と飼い主との心の交流については、日本でもいろいろ美しい話を聞くことがある。だから、今回の話にはそれほど驚かないが、科学的な研究成果としてイギリスで認められたということは評価したい。というのは、イギリスの人々は牛肉をたくさん消費するからだ。かつて狂牛病がイギリス全土に不安を引き起こしたことで、イギリスの食肉消費量は一時下がった。その後、また上向いているだろう。乳牛に愛を与える人は、肉牛にも愛を与えるに違いないから、肉食の減少に結びつくことを私は願っている。
 
 谷口 雅宣

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2009年2月 3日

早くも節分

 このあいだ新年になったばかりと思っていたら、もう節分だそうだ。日本の伝統を重んじる妻には、「忙しいから…」という理由で節分を省略することは許してもらえない。夕方に帰宅したら、食堂のテーブルの上にはきちんと料理が整えられている。それを見て、私は思わず、
「わぁー、きれい!」
 と言ってしまった。
Setsushi  関西方面では、節分に豆まきをするだけでなく、お寿司を食べるのだという。ごらんのように、太巻きに酢蓮根、金目鯛の澄まし汁、菜花の白和えの並んだ食卓を、妻は用意しておいてくれた。ここまでしてもらったので、私は豆まきで“鬼役”を演じようと心に決めたのである。
 
 食事の話題は、季節のめぐりの速さである。妻は、庭の紅梅の花のついた枝を、隣家の母宅へ持っていったことを話し、私は今日、街でフキノトウを見つけたことと、庭の池の周りにまたヒキガエルが出て、コロコロと鳴いていたこと、門を入った暗がりで1匹を踏んでしまったことなどを話した。
 
 夕食の後は、古式にのっとり豆まきの儀式--ということになるところ。しかし、何せものの本によると、豆まきの起源である宮中の追難式(ついなしき)では、殿上人が鬼に扮した舎人(とねり)を追い回し、桃の弓に蘆(あし)の矢をつがえて射るという大がかりなもの。とてもそこまでできない我々は、妻が殿上人、私が鬼になって、ごくごく簡単に、奇妙な豆まき遊びをしたのだった。

 節分や豆から逃れ蟇を踏む

 谷口 雅宣

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