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2009年2月23日

受精卵の声 (2)

 2月20日の本欄に書いた香川県立中央病院の受精卵取り違えミスは、時間の経過とともに、大きな問題がその背後にあることを浮き彫りにさせている。それは、「受精卵に対する価値感」の問題である。これまでの報道による限り、ミスを犯した産婦人科のK医師(61)は、受精卵を人間の命と同等のものとして評価しているとはとても思えないのである。

 20日付の『日本経済新聞』夕刊の記事では、K医師は昨年9月、受精卵が入った複数の容器を作業台に並べて発育状況を確認した際、台上にあった別の女性患者の容器と取り違えたとし、別の患者の容器が台上にあったことは「たまたま1個だけ置いてあった」と釈明した。ところが同じ『日経』の22日の記事では、この時、台上にあった受精卵は、「廃棄しようと作業台に放置されていたものだった」と記述が変わっている。この記事は、さらに次のように当時の状況を説明している。(括弧付きのA・Bの表現は、私がつけた)--
 
「9月18日、別の患者(B)の受精卵が入った複数のシャーレを台上に出して作業。うち1つは不要と判断し、ふたを捨て、台の上に置いたままにしていた。次に女性(A)の受精卵が入った複数のシャーレを出し、作業するうちに混在し、すべてを女性(A)のシャーレとして保管した」。

 この記述が事実だとすると、K医師の当初の「たまたま1個だけあった」という釈明はウソである。また、この記述からは、複数の人間の受精卵を厳密に区別するという配慮--言い換えると、複数の家庭の間に子の取り違えが起こらないようにする配慮--が、まったく感じられない。このことは、23日付の『朝日新聞』がK医師の作業について「受精卵の廃棄数を記録していなかった」と伝えていることからも分かる。この記事の状況説明は、こうである--
 
「別の患者Bさんの廃棄用の受精卵を入れたシャーレを作業台に置き忘れたまま、女性患者Aさんの受精卵の入ったシャーレを並べて生育状況をチェックした。当時、患者を識別するシールは、シャーレのふただけに貼られていたが、先に置いてあったBさんのふたは廃棄されていたため、BさんのシャーレをAさんのものと思いこんだという」。

 こちらの記事の方が、『日経』より具体的で分かりやすい。が、いずれの記事でも、K医師が複数の受精卵をズサンに扱っていることが分かる。『朝日』はさらに23日の夕刊で、作業台には当時、「Bさんのシャーレを含む4つ以上のシャーレが置かれていたことが分かった」と伝えている。記事には、それらをどう扱ったかも詳しく書いているが、ここでは省略する。

 それよりも、私が読者の注意を喚起したいのは、ここにあるような受精卵へのズサンな扱いがなぜ起こるか、ということである。私は、K医師は例外的にズサンであり、その他の産婦人科医は受精卵を「人間の命」と同等に扱ってくれていると信じたい。が、受精卵については、どんな人間にも否定しがたい事実が一つある。それは、受精卵が大変小さいということだ。成長を観察するにも、顕微鏡なしでは不可能である。「それは当り前」といえばその通りだが、私はこの「小さい」という事実が、「価値を小さく見る」ことにつながっていると思うのだ。

 サイズが小さいものは大きいものより価値が低いと考えるのは、我々人間が一般にもっている心理的傾向だろう。「小さい人間(小人)」「小さい心(小心)」という言葉は、そういう価値判断を含んでいる。また、野菜や果物、車や土地、人や国家でも、大きいものは小さいものより価値があると考える。「大は小を兼ねる」という言葉も、同じ価値感を表している。この判断は、我々の無意識の領域にまで忍び込んでいるだろう。進化心理学的に考えても、このことには合理性がある。もっと別な言い方をすれば、受精卵を顕微鏡で眺めながら、「こんな小さな命にも自分と同じ価値がある」と感じるに至るまでには、相当程度の理性の働きが必要だと思うのである。

 いや、理性は本当に「小も大も等価」と認めるだろうか? 私には一抹の不安が残る。では、何があれば「受精卵も人も等価」という認識に至るのだろう? 私は、それは「神への信仰」だと思う。創造主(つくりぬし)としての神が、すべての生命を価値あるものとして創造されたと考える時、その神を介して、「大」なる命も、「小」なる命も等価であるとの認識が生まれるのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

詳しく新聞を読んでいませんのでこの記事での判断しか出来ませんが何故これが発覚したのでしょうか?(内部告発?と致しますとそれが無ければ分からない!大変鎮痛な事です、、、、)K医師は「ふたがない為にAさんのものと思った」と言う事ですが何故ふたがないのか?を考えなかったのでしょうか?それはBさんの廃棄用の受精卵と言う事ですからAさんはその受精卵で妊娠したと言う事になります、K医師の仕事に対する姿勢の責任も勿論有りますがその様な間違いが起こり得ない様なシステムを作っていなかった病院のトップにも重大な責任は免れない!と考えます、私はどんなに社会的地位が高かろうとどんな職業人であれ、どんなに各分野で専門的な知識があれ、宗教心が根底にキチッと備わった上での活動でない限り、それは理性的ではない!と思っているのですがどうなのでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2009年2月24日 11:09

谷口雅宣先生
合掌、ありがとうございます。
 顕微鏡の中で、受精卵が人間らしい何かの反応があれば、「受精卵も人も等価」と分かると思いますが、受精した段階で、もう魂がそこに宿っているという認識は、確かに難しいことですね。 ただ、自分の体内に子供が宿り、出産を経験から、お腹の赤ちゃんは、話かけに反応したり、動いたり、又、生まれてからも、お腹にいた時からの個性を持ったかのような印象のまま育っていく子供達を見て、きっと前世からの個性をもった魂が、受精した段階で、その受精卵に肉体が宿るのだろうな。。。というぐらいの印象はあります。
 前世を記憶した人がいるくらいですから、受精卵の段階でも記憶してる人がいたり、証言する人が出てくると、伝わりやすいかもしれませんね
 ちなみに、私は、母の胎内にいた時の記憶がおぼろげですが、覚えています。うとうとした意識の中で、話掛けに答えてたり、お腹の外の様子を意識の世界で見てたような記憶があります。
 回りの人たちは、そんなの嘘だというけれど、私の記憶と事実が一致するので、驚いてました。
 先生が、どのように私達に伝えて下さるのか、楽しみにしています。  再拝

投稿: k.k | 2009年2月24日 22:35

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