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2009年1月28日

生長の家ブッククラブ (4)

 さて、ここまでの説明で、読者は『創世記』第1章と第2章には2つの異なる天地創造の話が書いてあること、そして、第2章の冒頭には「神が天地創造の7日目に休んだ」と書いてあることを理解されたと思う。また生長の家では、第1章の話を“実相世界の創造”、第2章の話を“現象世界の成立”だと解釈することも、前回書いた。そういう解釈ができたとしても、しかし「神が7日目に休んだ」のはなぜかという理由は、判然としていない。マレリー講師の説明でも、その点は明確でない。
 
 そこで私は、私自身の解釈をまとめてみようと考えた。そのためには、マレリー講師も引用した『生命の實相』第11巻52ページの記述--「天地創造の大音楽は、その一音符から次の音符にいたる間の旋律(リズム)の変化に、いうにいわれぬ平和と安息と調和とがある」--と、同講師のこれについての解釈--「一つの楽譜の中には休符を入れることができ、この無音の時があることによって、音を一定の時間味わえ、クレッシェンドの効果を際立たせることができる」--とが有効だと思った。これらに書いてあることは、「音楽は“休み”がなければ音楽にならない」ということである。言い換えると、音楽を楽譜に表せば、最初の音符がずっと長く続くことはなく、第1音符、第2音符、第3音符……というように、次々に異なる音が続いて表記されることになる。そうすることで、リズムが刻まれ、メロディーが生まれるのだ。このためには、第1音符が休み、次に第2音符に移ったあと、第2音符が休み、その次に第3音符に移る……というように、時間軸に沿って「発音」と「無音(休み)」とが繰り返されなければならない。つまり、無音(休み)は、それに先立つ発音を受け止めて、味わうために、なくてはならないものなのである。

 これをさらに言い換えれば、こうなる。音を使って表現するためには、音をあえて止める時間が必要である。ということは、音を発する表現は、無音が伴って初めて可能となるということだ。これはデルガードさんが指摘したように、文章は句点(。)を打って終ることで表現され、人間の生は死によって表現されるのと似ている。逆説的で、複雑な言い方かもしれない。が、マレリー講師も、このことを『真理の吟唱』の中にある「有限そのままに無限を悟る祈り」の一部を引用することで指摘していた。それは、次のような箇所である--
 
「画家は方尺の画布の上に無限をあらわす。無限そのままに無限になるときには、何ものも表現されないのである。無限がみずからを局限して有限ならしめることによって表現は行なわれる。完全なる自由を享受して何らの抵抗もなき空中には絵を描くこともできないのである。画家が、自己の絵筆の自由なる運行に摩擦して抵抗し、絵筆の無限の自由を制限するところに、美しき絵が描かれるのである」。(p.184)

 「有限によって無限が表現される」--これは音楽や絵画に限らず、表現芸術すべてに共通する原則である。しかし、この原則は“現象世界”におけるものであることを忘れてはいけない。現象の表現は、すべて時間と空間によって限定された不自由の中で展開されなければならない。が、それは神によって行われるのではなく、人間の頭の中で起こることである。つまり、神は現象を創造されたのではなく、初めから完全で自由な実相を創造されているのである。それは、表現される前の音楽にも似ている。例えば、モーツァルトの『春』という楽曲は、演奏家が演奏をしなくても、楽譜上に完全な形で存在する。いや、楽譜が存在しなくても、作曲家、モーツァルトの心中に完全な形で存在するのである。が、作曲家の心の中にあるだけでは、彼/彼女には聞こえていても、その他の大勢の人々には聞こえない。聞こえない音楽など、存在しないに等しいのだ。だから、作曲家はそれを楽譜に表し、演奏家は実際に演奏しなければならない。それによって初めて、作曲家も演奏家も音楽と一体となり、聴衆もそれを味わうことができる。聴衆の感動は演奏家に伝わり、さらに作曲家に満足を与える。
 
 この関係が、『創世記』の第1章と第2章の関係にもある。第1章において、神は完全な世界(実相)を創り給うたが、それだけでは、実相の素晴らしさを自ら体現するものも、それを体験する(味わう)ものもいない。そこで、自分のイメージに即して創造した人間に、神の創造を現象として再現し、また味わう役割を与えられたのである。神を作曲家に喩えれば、人間は演奏家であり、かつ聴衆である。作曲家が満足するためには、完璧な音楽ができ上がるだけでは不十分だ。それを誰かが演奏し、誰かが味わうことで作曲家の喜びは本物となる。『創世記』では、神が“6日間”で天地を創造され、完成されたことと、「7日目に休まれた」(創造が止まった)こととは切り離すことができない。神の創造を味わうためには、神の創造が止まらなければならないからだ。そして、この“休止”期間は、人間が神の創造を体験し、味わうための時間と空間(認識の形式)だと解釈できるのである。そうすると、人類の歴史全体が、神の創造を体験し、理解し、その素晴らしさを味わう過程だという結論に達することになる。

 --こんな意味のことを、私はブッククラブのディスカッションに書き込んだのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣総裁代行先生
合掌 ありがとうございます
さてと、まず疑問を感じましたのではじめて投稿致しました。今回の記述の中でW.A.モーツアルトの『四季』とありますが、A.ヴィヴァルディの『四季』の間違いではありませんか。もしモーツアルトの楽曲でありましたらK番号をご教示していただけたらありがたく存じます。私も毎日先生のブログを楽しみにしています。これからもよろしくお願い申しあげます。拝

投稿: 直井誠 | 2009年1月30日 00:28

「明快」です!
『そして、この“休止”期間は、人間が神の創造を体験し、味わうための時間と空間(認識の形式)だと解釈できるのである。』 
このご文章が、私の中にあった謎めいたものをスッキリさせてくれました。(投稿せずにいられませんでした)
 聖経「甘露の法雨」の中の「実在」や「空即是色」、「技能や芸術的感覚を生かした誌友会」の解釈が、もっとしっかり理解出来そうです。
 地方講師1年目ですが、いつも拝読しております。
これからも楽しみにしてます。
ありがとうございます。

投稿: 浦尾 道夫 | 2009年1月30日 07:34

例え第2番目の天地創造(物質世界、現象世界)が偽りであったとしても我々人類の目的は神の創造を体験し、理解し、その素晴らしさを味わう事で無限なる神は喜ばれ、満足されると言うことになる訳ですね、、、了解致しました。

投稿: 尾窪勝磨 | 2009年1月30日 10:47

直井さん、

 モーツァルトの『四季』は誤りでした。『春』に変えておきました。どうもありがとう。

投稿: 谷口 | 2009年1月30日 12:35

谷口雅宣先生,合掌,ありがとうございます。
久しぶりにコメントさせていただきます。
このような,教えや聖典解釈に関する議論は私も好きです。もっと手軽に誌友,信徒の間で教えについて語り合える“フォーラム”のようなサイトがウェブ上にあれば・・・,などと思うこともあります。
生長の家の公式サイトの中に,そうした機能があって,会員制で情報交換ができたら・・・。そんな少々荒唐無稽なことを考えたりもしました。
                       再拝

投稿: 佐々木勇治 | 2009年1月30日 21:21

佐々木さん、

 お久し振りです。

>>生長の家の公式サイトの中に,そうした機能があって,会員制で情報交換ができたら・・・。そんな少々荒唐無稽なことを考えたりもしました。<<

 荒唐無稽などとは全然思いません。

 実際、だいぶ前ですが、「生長の家オンライン・フォーラム」というのがウェッブ上に存在していました。そこでは、本部の人間だけでなく、教区の五者や事務局長クラスの人たちが参加して、いろいろな意見交換を行っていました。

 このような仕組みは、だから技術的には全く問題なくできます。あとは、それを行うという“政治的意思”があるかどうか……ですネ!

投稿: 谷口 | 2009年1月30日 23:39

谷口雅宣先生 
合掌 ありがとうございます。
「生命の実相」をより詳しく
直々に雅宣先生からご指導いただけて、感激です
有料会員制でもけっこうですから、
“『生命の實相』輪読会”のオンライン版ができると
とてもありがたいです。
本部講師の先生数名が、“『生命の實相』輪読会”ブログを
開設し、分からないところ、疑問に感じるところなど
をコメントとして、会員が書き込み、雅宣先生が
時々補足として監修してくださるというのは、どうでしょうか?
教区の五者や事務局長クラスの人たちではなく
私のようなものでも参加できるよう、宜しくお願いします。

>>“政治的意思”があるかどうか……
良く意味がわからないのですが、それほど難しいこと
なのですか?

投稿: k.k | 2009年2月 2日 21:34

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