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2008年12月 7日

モラエス館を訪ねる

 徳島市で行われた生長の家講習会の終了後、同市のシンボル的存在である眉山まで行った。標高290メートルの山頂からの景色がいいというのだが、快晴の空の下に広がる市街地、吉野川、新町川、助任川、その向こうに紀伊水道が一望できる広大な風景は、私の予想を上回っていた。眉山は、下から見ると北海道の函館山にどこか似ているから、函館山からの風景を頭に描いていたのだが、函館の風景は“奥への広がり”が見事なのに対し、眉山から望む風景は“横の広がり”が秀逸だった。麓から山頂までは、35分から2時間かかるものまで10通りもの登山コースがあり、市民がそれぞれ好みのルートで歩いたり、走ったりするという。私たちが車で山頂を目指す途中でも、トレーナー姿の何組もの人々と会った。その山頂へ向かう主たる道路の開始点近くに、わが生長の家の徳島県教化部会館が建っているのを知って、何だかうれしくなった。そこは、市民に愛される場所に違いない。
 
 前日に初雪が降り、その晩は氷点下になったというだけあって、眉山山頂はとても寒かった。展望台で絶景を前に何枚か写真を撮ったあとは、私たちは室内に逃げ込みたくなった。ちょうど「モラエス館」という建物があって、展示が見られるというので中に入った。徳島を愛したポルトガル人の業績について展示した施設である。
 
Mtimg081208  ウェンセスラウ・デ・モラエス(Wenceslau de Moraes, 1854-1929)について、私は予備知識がなかった。が、展示によると、なかなかの日本びいきで、日本に31年間住み、前半は神戸で領事・総領事を歴任したあと、最後の17年間を徳島で過ごした。その間、日本人妻をもち、『極東遊記』『茶の湯』『徳島の盆踊り』『日本精神』などの作品を書いて「徳島の小泉八雲」と称されたという。モラエス館には、徳島市内の伊賀町3丁目にあった、彼が暮らした長屋の居間兼書斎を再現した空間があり、それを見ると、畳に置かれた背の低い机や脇息、本棚、小さな火鉢など、昔の庶民の居間と変わらない。終生、母国のポルトガルには帰らなかったというから、何が彼を日本に留めおいたのか不思議に思う。
 
 日本は、江戸時代も長崎を通じてポルトガルとの交流を保った。ポルトガルは、植民地としてはブラジルが最大のものだろう。そのブラジルへ遙々出かけた日本人によって同国に生長の家が伝えられ、そこで大いに発展したことを考えると、日本びいきのモラエスが半生を日本で過ごしたことが、妙に納得されるのである。このように有名、無名の数多くの人々が異国の地、異国の文化との“懸け橋”となることで、今日の国際社会は成立してきたのだと改めて感じた。
 
 谷口 雅宣

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コメント

(≧∇≦)先生は函館山から函館の景色をご覧になられたことがおありなのですね。函館に住む者としてとても嬉しく思います。

投稿: 奥田健介 | 2008年12月10日 16:15

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