谷口清超先生を偲んで
今日は午後1時から、東京・調布市にある生長の家本部練成道場で「故 生長の家総裁谷口清超先生追善供養祭」が執り行われた。私は斎主(いつきぬし)として祭文を奏上し、続いて「帰幽の神示」を拝読し、玉串を奉奠した。その後さらに、谷口清超先生を偲ぶ言葉を述べさせていただいた。以下は、その話の概略である。
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皆さん、本日は故生長の家総裁、谷口清超先生の追善供養祭にこのように大勢お集まりいくださいまして、誠にありがとうございます。谷口清超先生は、お亡くなりになったのが10月28日ですから、今日はちょうど50日目に当たります。こうして大きな祭壇に美しい白い花を一面に飾り、先生の大きな写真を掲げて祝詞を誦げますと、「ああ、先生は肉体をもった人間としては本当にお亡くなりになったのだなぁ~」と実感しますが、しかし、今日に至る49日間は、私は先生が亡くなられたという気がしなかったのであります。
私と妻は、朝晩に神想観をしますが、その時に基本的神想観と如意宝珠観をよくします。如意宝珠観では、ご存じのように、家族の名前を一人ずつ呼んで、「○○さんは、身健やかに、心美しく、姿形麗しく、和顔愛語讃嘆に満たされたり」と唱えます。それと同時に、名前を呼んだ人の顔を心に思い描いて、その人がニコニコと笑っている姿をイメージします。ちょうどここにあるお写真のように、私は谷口清超先生のニコニコ顔をこの時に思い描く習慣ができているのです。ところがこの祈りの言葉をよく吟味してみると、「肉体が健やかであり」「姿形が麗しい」ということですから、霊界へ行かれて姿形がこの世にはない人に対しては、あまり適当ではないのです。そこで私は、先生がお亡くなりになってから後、先生のお名前を呼ぶのを省略して、「谷口恵美子先生」から始めるように努めているのです。しかし、私はもう何十年も、家族の筆頭として「谷口清超先生」とお名前を呼んできたわけですから、その際の違和感といいますか、喪失感といいますか、欠落感といいますか、そういう感じがとても強いのです。そして、気がついてみると、私は先生の名前をお呼びして、先生のニコニコ顔をイメージしているのでした。
今後は少し工夫して、霊界の清超先生をお呼びするようにしたいと思っています。
さて、谷口清超先生の諡(おくりな)は「実相無想光明宮弘誓通達大慈意大聖師」と申し上げます。この中にある「弘誓」という言葉は『法華経』の観世音菩薩普門品にある言葉で、「弘大な誓い」「大いなる誓い」という意味です。人々を救わずにはおかないという強い意志を込めた誓願のことです。『法華経』には「弘誓の深きこと海の如し」と書かれていて、これは観世音菩薩の御徳の1つであります。「通達」とは「徹底している」という意味です。「大慈意」という言葉も、同じく普門品からいただきました。「慈悲にあふれた心」という意味です。普門品には「慈意の妙大雲のごとく、甘露の法雨をそそぎ、煩悩の炎を滅除す」とあります。谷口清超先生は、このように徹底して伝道活動に身を捧げられ、煩悩の多い人も少ない人も決して差別されず、すべての人の実相を観て、大いなる慈悲の心をもって導かれた--そういうご生涯であったと思います。
また、祭文の中にもありましたが、谷口清超先生は私たち生長の家の信徒のために、聖歌を数多く作詞・作曲してくださいました。先生は、音楽との出会いについて昭和58年ごろにインタビューを受けていられますが、その中で最初に楽器を触れたのは小学4年生の頃で、やがて家にあったオルガンを触るようになったといいます。また、小学生の頃は歌が上手で美しいボーイ・ソプラノを出したともおっしゃっています。楽器は、最初はバイオリンを独学で始められ、やがてギターに替えて弾かれたといいます。そして、後年はピアノや電子オルガンへと移っていかれましたた。
こうやって弾く楽器が変わっていったことについて、インタビューアーが理由を訊いていますが、それに対して先生はこう答えておられます--
谷口 やっぱり、あの和音の美しさが、ああいう弦楽器ではなかなか出せないでしょう。それに僕はギターをいじくっていた頃に、ギターの和音というのがね、非常に不自由だということを痛感しましてね。それでギターの和音には無理があるし、それにギターというのは調子がやっぱり片寄るんですね。弾きやすい調子と、弾きにくい調子があって……。その点、ピアノやオルガンは、和音の作り方はどんな調子でも自由自在でしょう。おまけにオルガンときたら足まで使うから、非常に複雑な和音がでるんで……
このように、清超先生は単独の音色や旋律の美しさから入って、和音のもつ複雑で荘重なハーモニーの妙を重視されるようになったのです。この違いについて、先生は次のようにおっしゃっています--
「つまり、私小説を書くとすると、それはいわば1人の人のメロディーだね? それに、いろんな人が加わって、いろんな旋律やら和音ができてきて、それが一つの全体の発展や展開へと向っていく--そういったことに、やっぱり関心が向いてきたんですね」。
このインタビューは先生が副総裁の時代に行われたものですから、そういう組織の上に立ってものごとを考え、全体を動かしていかれる中で、いろいろの人々の和、考え方や性格の違いなどをそのまま生かして運動を進めていくということの中に、価値を見出されていることが分かります。こういう考え方は、生長の家の組織である相愛会・白鳩会・青年会の三者推進や三者協力の考え方に表れているし、そこへさらに「栄える会」や「生教会」を含めた幅広く、多様な運動の展開を図られたことに反映していると思います。
とにかく、先生は「多様性」と多様なものの間の「調和と協力」を重視された方でした。
このインタビューの中で大変興味深いのは、インタビューアーが「生長の家的な音楽がありますか?」と訊いたときの先生のお答えです。そのお答えには、この「多様性の調和」というテーマ―が、実は先生の個人的な嗜好の問題ではなく、生長の家の教えに深く根ざしているということが語られています--
谷口 「生長の家」というのは、要するにすべてがそこに入ってないと本当の「生長の家」って言えないんじゃないかな。一部分だけ取り出して「生長の家はこれだ」ってわけにいかんと思うんですね、大抵の人はそう思ってるけどね……。宗教の中でも“右翼的宗教”だなんて思ってたりして……。そんなもんじゃないんだな。そこにすべてがあるところの“霊的大宇宙”が生長の家だからね、だからそういう点で、チャイコフスキーも、ストラビンスキーもいいですね。それから僕は、ポップスやジャズの中にもとてもいいのがあると思うんですねぇ。ことに最近の音楽はね、一つの可能性があるのは、アドリブが多いでしょう。あれがいいと思うんですね。非常に自由でしょう。そういう所にちょっと魅力を感じてますね。
谷口清超先生のこのようなお考えは、もちろん音楽のことだけを指しているのではありません。このインタビューから数年後に、生長の家創始者、谷口雅春先生がお亡くなりになりましたが、その際の追善供養祭で清超先生が述べられた言葉の中にも、「生長の家は霊的大宇宙である」という信念が明確に表現されているのであります。清超先生は、雅春先生のことを次のように語っていられます--
「皆さん、(雅春)先生は周知の如く空前絶後の愛国者でいらっしゃいました。しかしそれと同時に、天皇陛下のあの無私の御愛念を、そのまま宣布し且つ実践なさいまして、凡ての人と物を生かす運動を展開せられたお方であります。勿論日本も生かし、それと同時に人類をも生かし、人類ばかりじゃなく、凡ゆる生きとし生けるもの、山川草木国土ことごとくを仏として礼拝し、その実相を顕わし出そうと精進せられたお方であります。それ故、私達はこの生長の家の大真理を、全人類に向かって宣布する使命を戴いたことを、誠に幸せであると思うものであります」
このように、生長の家とは霊的大宇宙のすべてであるから、生長の家の運動も、実相世界の真存在のすべてを表現するための運動であるというご信念をもって、清超先生は私たちの運動を引っ張って来られたということを、ぜひここで再確認していただきたいのであります。実相世界の真存在をすべて表現するためには、「自由」ということが必須の条件になります。そのことは、自然界を観察すればよく分かることです。実に多様な生命が、それぞれ自由な生き方をしながら共存している。何か一定の“型”を作って、それにはめむというのが宗教のやり方だと考えている人がいるようですが、少なくとも生長の家はそういう宗教ではないし、谷口清超先生もそれを希求されては来なかった。このことは、先ほどの先生の言葉の中に「アドリブがいい、非常に自由だから」ということがあったことから明らかなのであります。
私は、清超先生のこの「自由尊重」のご精神、「自由の中に実相あり」の教えに心から感謝している1人であります。御存じのように、私は清超先生の息子としてこの世に誕生し、物心がついた頃から「生長の家の三代目」として見られ、母を含めた周囲の人々から「あなたは三代目だから」と繰り返し言われてきただけでなく、私自身「そうなるのだ」と考えていました。しかし、父である清超先生から「三代目にならなくてはいけない」と言われたことは一度もないのであります。学校も自由の精神を尊重する青山学院へ入れてもらい、そこの大学を出てから㈱日本教文社へ入りましたが、3年足らずでやめてしまい、アメリカへ留学しました。これは勿論、父が賛成してくれたからです。コロンビア大学という、これまた自由を尊重するリベラルな私立の大学の大学院へ入りましたから、学費も生活費も多くかかりました。それを父が快く出してくれたことで、私は日本国内では得られないであろう数々の貴重な経験をすることができました。そして、そのことが、今日の生長の家の運動を進める上で大いに役立っている--というより、もっと正確に言えば、それらの経験がなければ、今日の生長の家は「国際平和信仰運動」とは別の方向に進んでいたに違いないのであります。
谷口清超先生に感謝しなければならないことは、公私にわたりこのほかにも数限りなくありますが、今日は特に、先生から教えていただいた「自由から生まれる多様性の調和」について、皆様とともに確認したいのであります。なぜなら、この考え方こそ、実相世界の真存在を表しており、これからの世界の平和と発展に不可欠なものだからです。それを私たちの運動を通して23年間にわたって、強力に推し進めてこられた谷口清超先生を、ここで深く切実にお偲び申し上げるとともに、これからも先生の教えを守り、この実相顕現のための運動を愛と誠を込めて、世界に大きく発展させるために邁進いたしましょう。
本日は、かくも大勢の方々にお集まりいただきまして、誠にありがとうございました。
谷口 雅宣
【参考文献】
○世界聖典普及協会編、“音楽を愛する人のために”、『追憶--合唱曲と器楽曲』添付冊子(1983年、世界聖典普及協会刊)
○生長の家編『生長の火をかざして--永遠の谷口雅春先生』(1985年、世界聖典普及協会刊)
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コメント
今日は7者の方しか参加できない飛田給に 中に入れなくてもいいと妹と愛知県からお参りさせていただきました。清超先生ありがとうございました。雅宣先生のご挨拶に感動いたしました。これからも雅宣先生のご指導のもと光明化運動に邁進いたします。本日はありがとうございました。
投稿: 前田香代 | 2008年12月18日 00:36
合掌ありがとうございます。昨日の清超先生追善供養祭は、衛星中継にて参列させて頂きました。
段々にこんもりと飾られた祭壇の美しさと恵美子先生がお撮りになられたご遺影のお優しい微笑みが深く心に残ります。
清超先生ありがとうございます。
また、雅宣先生は清超先生を偲ぶお言葉と共に「自由から生まれる多様性の調和」という事をお話し下さいました。
私は、今までの人生では経験しえなかった、ある不自由な環境下で受けた精神的・肉体的苦痛を冷静に思い起こしました。
そんな時、何故か苦行林に入ったブッダの心を思いました。
「苦行(タバス)」とは「熱」という意味もあります。炎熱下に身をさらし、四方からも焚き火をする苦行「五熱」は、現在の地球温暖化にさらされている人類の様でもあると思いました。欲望から心を放ち、本来の清らかな心を取り戻す為の苦行だそうです…。
今、最も必要とされている「国際平和信仰運動」に邁進して行きたいと、強く心に誓わせて頂いた昨日でもありました。
ありがとうございます。
投稿: Y.S | 2008年12月18日 08:58
合掌
ありがとうございます。
昨日の生長の家総裁谷口清超先生追善供養祭しめやかに荘厳に行われました。素晴らしい生長の家総裁谷口清超先生追善供養祭に出席させていただきましたこと心より嬉しく思っています。
先生の昨日の話を今日は文章で直接お示しいただき、より一層私たちにはっきりご教授くださいますこと心よりお礼申し上げます。
生長の家総裁谷口清超先生と谷口雅宣先生の純粋なお関係をお聞きし素晴らしい今日の谷口雅宣先生がおられることを嬉しく思いました。
生長の家は「生長の家は霊的大宇宙である」「自由から生まれる多様性の調和」
を教えていただきました。私たち信徒として素晴らしい生長の家の御教えを多くの人に伝道すると共に、私たち自身が真理の実践者にならないといけないと覚悟を新たにさせていただきました。生長の家が「国際平和信仰運動」として大きく羽ばたいていかなければならない先生のお考えがよく理解できました。ありがとうございました。再拝 生教会副会長 河内 千明
投稿: 河内 千明 | 2008年12月18日 09:31
「総裁谷口雅宣先生ありがとうございます」
昨日は教区の追善供養祭に参列させて頂きました
深い感動を頂き胸がいっぱいになりました
感謝の気持ちが溢れてきます
また、このように先生の御言葉をご紹介下さり、ありがとうございます。またまた涙が溢れます。
先生の御言葉をいつも胸に愛と誠を込めて日常を過ごしていきます。
「総裁谷口雅宣先生ありがとうございます」
投稿: 宮本 京子 | 2008年12月18日 11:15
YSさん、
宮本さん、
教化部でのお祭りに参加されたのですね? 中継の映像や音楽のクオリティは満足いくものだったでしょうか?
投稿: 谷口 | 2008年12月18日 23:17
合掌有難うございます。谷口清超先生の追善供養祭に教化部で参加させていただきました。浄まりて を皆様と一緒に歌って総裁先生をお見送りする事ができました。本当に有難かったです。雅宣先生あのような機会をお与えくださいまして有難うございました。万感の思いを込めて 甘露の法雨を読じゅしました。多様性の調和 うそを言わない 信仰は無茶苦茶楽しい 事をこれからの信仰の指針として参ります。感謝再拝
投稿: 桝谷栄子 | 2008年12月18日 23:49
生長の家本部練成道場にて参列させていただきました。
谷口雅宣先生の言われた「自由から生まれる多様性の調和」という御言葉に、大変感動致しました。
少しでも先生の御言葉を記録したいと思い、手帳に「多様性の調和が生長の家」「自由から生まれた多様性」と書かせていただいておりました。
追善供養祭での先生の御言葉をもっとよく勉強したいと思っていたところ、まさかこんなに早く公開していただけるとは、大変嬉しく思います。
本当にありがとうございます。
投稿: 里園貴道 | 2008年12月19日 00:21
合掌有難うございます。教化部で参加しました。中継の映像は見事なものでした。全体を写され祭壇の白と紫を基調にされた格調高い素晴らしいお花に囲まれた総裁先生を遠くから又アップで。祝詞を上げてらっしゃる先生を後から又横から お別れの言葉を述べられた黒河内潤先生 勅使河原淑子先生も同じ様に お顔の表情まで分るようでした。初めの頃神官の方の動きや玉串奉奠の時歩いてある時一部スムーズな流れでなくコマ送りのような映像がほんの少し見られましたが たいした事ではありません。それよりも臨場感溢れるというようなとうりいっぺんの言葉では言い表せない映像で 手に取るように分るというか まるで本当にその場にいるような感じを何度も受けました。先生が清超先生を偲んで のお言葉を述べられた時 本当に心情がそのまま映像を通してびんびん伝わってきました。技術の素晴らしさに加えハートがある、心そのものでした。音楽は全く問題なし。参列させて頂いているような錯覚に陥りました。凄いプロデュースでした。感動でした。
魂のいきとおしを知っている生長の家ならではのしめやかな中にも三代目三代目のお話や わたくしよりも目覚まし時計が大事のお話や 加齢に引っ掛けられてカレイやヒラメのお話など 温かくおやさしかった 品のいいユーモアにあふれた総裁先生をお偲びさせて頂きました。こよなく音楽を愛していらっしゃった先生 音楽葬のようでした。 みんなみんな喜んでおります。有難うございました。
投稿: 桝谷栄子 | 2008年12月19日 01:21
合掌、ありがとうございます。
雅宣先生のご文章を読んでいると、生前のニコニコ笑顔の清超先生のことが思い出されて、感謝の気持ちでいっぱいになり、涙が溢れ出てきます。
「谷口清超先生は、このように徹底して伝道活動に身を捧げられ、煩悩の多い人も少ない人も決して差別されず、すべての人の実相を観て、大いなる慈悲の心をもって導かれた--そういうご生涯であったと思います。」
の言葉どうりの清超先生。
ただただ、感謝の気持ちでいっぱいです。
清超先生は、私にとっては、雲の上の存在の方でしたが、何故がいつもそばにいてくれて、常にニコニコ笑顔で励ましてくださっているような、そんなイメージがありました。
まだ子供達が幼い頃、おとなしく講話が聞けるように、ミニカーや絵本を持たせて、講習会に参加していました。
講話を聞いてないようで、私より良く聞いていて、息子達が、「清超先生もたいへんだねぇ」と、ねぎらっていたことを思い出します。(o^-^o)
清超先生が、全国大会で、最後にご講話くださったとき、
常にニコニコ笑顔で、髪も黒々としていて声もお若いのに、退席されるときに、歩きずらそうに出て行かれたことが目に焼きつきました。
私達のために全身全霊で、講話してくださっているのだと思いました。
また、体調を崩されて静養されているにもかかわらず、機関紙にご文章を書いてくださったりと、ただただありがたくてありがたくて、感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。
投稿: k.k | 2008年12月19日 13:35
合掌ありがとございます。大阪教区の白谷陽子と申します。私も教化部にて参列させて頂きました。
桝谷栄子さんのご感想、そうです、そうなんです!!本当に素晴らしくて温かさに包まれた御祭でした。“飛田給の様子がしっかり伝わってきた”、というより、“空間を越えて一つの御祭の中にいさせて頂いた”という感覚です。
この感動と感謝を言葉に表したくても適当な言葉が見つからず困っていたのですが、桝谷さんが見事に表現して下さいました。ありがとうございます。
谷口清超先生、ありがとうございます。
谷口雅宣先生、ありがとうございます。
感謝合掌 大阪教区 大学生 白谷陽子拝
投稿: 白谷陽子 | 2008年12月19日 19:01
合掌ありがとうございます。 初めて投稿させて頂きます。
私も地元教化部での衛星中継を通して追善供養祭に参列させていただきました。
その中で本当にこの場では言い尽くせない様々なことを感じる尊い時間となりました。
特に自由から生まれる多様性という部分のお話、実相世界の真存在をすべて表現するためには「自由」ということが必須条件という「自由の中に実相あり」のお話が一番心に響きました!!
地球という様々な個性美の生命が融合し共存する世界で、その根底においては一つであるからこそ「自由」な中で個々を尊重しあい、又調和して生きる事が真の国際平和と発展に繋がる大切なことなんだと感じました。
そんな思いを胸に生長の家の運動に関連させながら、「衝撃から理解へ」を何度も読みたいと思えました。
私は毎日PCをしますが「小閑雑感」の更新とこのブログで書かれている先生の記事を読むのが一番の楽しみです。
あらゆる分野、あらゆる角度からの見解と、先生の表現をリアルに感じられる場所なので、様々な事を深く学ばせて頂きながら、先生が放たれるメッセージを正しく自分にインストールしたいと思っています。
やはりブログ表現での魅力の一つに通信手段ならではのリアルタイムさがあるので、ここでも無限大POWERを頂いています! このパワーを頑張るエネルギーに変えて、実相顕現のための運動に貢献出来る一人になりたいと思います。
再拝
投稿: 幸田有里子 | 2008年12月19日 22:01
合掌ありがとうございます。
教化部での、追善供養際に参列させて頂きました。
お写真の谷口清超先生を見上げては、こんなにも愛を頂いているありがたさに、うれし涙でございました。
リアルタイムに、信徒皆で、お話しを伺い、聖経をあげ、聖歌を歌ううちに、映像ながら、実際に飛田給にいらっしゃる七者の方々より、近い所で参列させて頂いているような思いにならせて頂きました。
ありがとうございます。
投稿: 内田千里 | 2008年12月20日 08:20
読者の皆さん、
清超先生の追善供養祭の映像・音楽について、各地からご報告くださり、有難うございました。インターネット経由の映像がそれほどいいとは知りませんでした。運動への活用の可能性が開けたと思います。
投稿: 谷口 | 2008年12月20日 10:45
総裁 谷口雅宣先生
合掌 ありがとうございます
先生からのご質問に気付かずに大変失礼致しました。
同教区の桝谷先生のご報告を始め他の教区の皆様のご感想の通り、とても充分なものでした。
一緒にご参加された皆様もとても感動しておられました。
これからの運動にご活用頂けます事は大変有難く思います。ありがとうございます。
投稿: 宮本京子 | 2008年12月22日 15:39