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2008年12月31日

2008年を振り返って

 29日の本欄で今年の“世界情勢”を簡単に振り返ったので、ここではその他のことについて書こう。

 生長の家は2007年度から「“自然と共に伸びる運動”実現のための第1次5カ年計画」を開始したが、それにもとづき、教団の活動に伴う温暖化ガスの排出をなくすという“炭素ゼロ”運動が本格的に始まったのは、今年からだ。まず1月には生長の家の本部が、国連によるクリーン開発メカニズムを利用した温室効果ガスの排出権の信託商品を5千トン分、三菱UFJ信託銀行から購入した。(1月10日)これにより、東京の同本部事務所、長崎県西海市の生長の家総本山、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山から出る温室効果ガスの4年分が相殺された--つまり、排出されなかった--ことになる。これに続き、本部は玄関前に小型風力発電システム1基が実験的に導入された。(2月15日)このシステムは、現実の排出削減効果は大きくないが、使用しながら実際の発電でーたーを収集することで、将来の本格利用の参考にするという意味がある。
 
“炭素ゼロ”に向けた努力は、全国の信徒レベルからも始まった。長崎県西海市の生長の家総本山は、交通アクセスが不便な場所にあるため、九州以外から行く場合は航空機の利用も多く、空港からも自動車の利用が不可欠である。しかし、この過程で排出される温室効果ガスを削減するために、旅行会社が始めた“炭素ゼロ旅行”というのを採用する幹部・信徒が増えてきた。まず、埼玉県の信徒139人が、2月の団体参拝練成会に参加するためにこれを行った(2月17日)のに続き、他県からの参加者もこれを採用するようになってきている。また、同総本山にはすでに2000年に大型の太陽光発電装置が設置されたが、このほど新たに総出力50kWの新型光発電装置が練成道場屋上に設置されることが決まり、来年2月の完成を目指して工事が進んでいる。この装置は、同本山で使用される電力総量の約5%を供給することになり、稼働後は、従来の装置と併せると、同本山が使う電力総量の約2割が自然エネルギーで賄われる予定だ。

“炭素ゼロ”を目指す動きは、運動の具体的内容にも反映されている。生長の家では、全国59教区にある教化部会館や地方道場に信徒を集めて行事をすることに主眼が置かれてきたが、この方法だと、交通機関の便がよくない場所だと、どうしても自動車を使うことになる。しかし、これらの行事を地元で、自動車を使わずに行ける場所で行えば、温室効果ガスの削減が可能となる。また、信徒の住居に近い地元で行事を行うことで、参加者の増加も見込める。そういう行事の“地元シフト”がしだいに進んでいるようだ。そして、これを側面からサポートするために日時計主義の生き方を前面に出した“新しいタイプの誌友会”の開催も進んでいる。これについて詳しくは、今年2月29日の本欄や拙著『太陽はいつも輝いている』(副題:私の日時計主義実験録)などを参照されたい。

 生長の家は、すべての宗教の神髄は共通するという「万教帰一」の教えを掲げている。しかし、世界のメジャーな宗教であるイスラームについては、その“共通点”等の詳しい知識はなかった。が、昨年から今年にかけて行われた2回の生長の家教修会で、イスラームについて集中的に学ぶことができた。7月12~13日に東京で行われた生長の家教修会を経て、その結果の一部が2冊の単行本としてまとめられたことは、特筆に値する。なぜなら、イスラームは、まもなくキリスト教を超えて、信者数では世界最大の宗教となることが明らかだからだ。この2冊の本とは、エジプト人イスラーム法学者、カリード・アブ・エルファドル著『イスラームへの誤解を超えて--世界の平和と融和のために』(米谷啓一訳/日本教文社刊)と拙著『衝撃から理解へ--イスラームとの接点をさぐる』(生長の家刊)である。後者の拙著は、前者を含めたエルファドル氏の著書からの引用が多くあるが、日本人の視点から、また万教帰一の立場からイスラームへの理解を試みたものである。生長の家の“イスラーム解釈”としては最初の本と言えるだろう。

 この『衝撃から理解へ』の校正を終え、最後に「はしがき」の文章を編集部へ送ったのは10月17日だった。この頃から父の容態があまりよくなくなった。「急変した」というわけではないが、肉体の機能の面では長い下降線が続いてきた中で、これまでとは違った兆候が見られるようになり、約10日後に、父は蝋燭が燃えつきるように息を引き取られた。「故 生長の家総裁谷口清超先生追善供養祭」は12月17日に行われた。私は追悼の言葉の中で、清超先生が尊重された「自由」の精神によって私のアメリカ留学が叶ったということに触れた。それがなければ、私の人生においては、エルファドル氏の英文著書との出会いも、同氏を生長の家の教修会に招くこともなく、したがって『衝撃から理解へ』という本はこの世に誕生していなかったのである。だから、この書は、ぜひ父に読んでいただきたかった1冊であるが、今生でその願いがかなわなかったのは残念である。
 
 しかし、生長の家は「生命の不滅」を掲げる人類光明化運動であり、具体的には世界の平和を目指す国際平和信仰運動である。その方向に向かって、私たちは今年も確実な一歩を進めたことは誠にありがたいと思う。これからも更に前進するだろう。これは谷口雅春先生、谷口清超先生の数々の偉大なご業績によるものであり、また、世界中の信徒の方々の篤い信仰心とご支援、ご鞭撻のおかげである。変化に満ちた2008年の最終日に当たり、皆々さまに心から感謝申し上げます。ありがとうございます。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月29日

“明日への飛躍”を仕込む時

 今年は、ジェットコースターのような1年ではなかったか、と思う。年の初めは景気がよく、「まだまだよくなる」と思っていたところへ、アメリカ発の金融危機が到来して、あれよあれよという間に株安、円高となり、これが新たな株安と円高を生む……という悪循環が回転して、1ドルの価格が一時80円台をつけた。“史上最高”とも思われた石油の値段も、これまたアッというまに下降していった。円高によるだけでなく、欧米での消費が縮小し、生産も縮小したから、エネルギー需要が大幅に減退したのだ。

 円高になれば、日本では輸入がほとんどの原材料が安くなるから、石油も天然ガスも鉄鉱石も農産物も安くなり、消費者にとっては“万々歳”ということになりそうだ。が、現状はそういってない。アメリカでは金融機関の信用力が急速に失墜して、貸し借りがうまく動かなくなった。“貸し渋り”によって新規事業は困難となり、経済の停滞が始まった。無理な借金をして住宅を購入した人々が家を失い、路頭に迷う。家を失わなくとも、自動車などの高額製品をローンで買っていた人は、そちらを手放す。つまり、アメリカ市場が急激に縮小したのだ。このため、アメリカ人向けに製品やサービスを提供していたほとんどすべての企業が--日本や中国の企業を含めて--在庫を抱え、生産を縮小せざるを得なくなった。こうして、多くの企業は余剰人員を抱えることになったため、日本でも中国でも人員整理が容赦なく始まっている。

 こういう経済の状況を、かつて日本が経験した“昭和恐慌”に比べる人も現れている。昭和恐慌とは、1930年(昭和5年)から始まった“世界恐慌”と同時並行的に起こった国内の経済的大混乱で、物の値段が急激に下がり、巷には250万人もの失業者が溢れて、日本経済は3割ほど縮小した。そして、世界各国はやがて第二次世界大戦へ進んでいくのである。生長の家の運動は、しかしこの“昭和恐慌”のさなかに始まったのだ。このことは、拙著『信仰による平和の道--新世紀の宗教が目指すもの』(2003年、生長の家刊)にも書いたが、谷口雅春先生が輝子先生とともに『生長の家』誌を創刊されたのが昭和5年で、同誌の創刊号には「朗らかに笑って生きよ」という題で「日時計主義」が高らかに宣言されているのである。
 
 だから、こういう時代であるからこそ、生長の家は日時計主義を推進していく必要がある。すなわち、「下がっていくもの」に注目して落胆するのではなく、「上がっていくもの」を世の中に見つけ、見つからない場合は、「上がるべきもの」を新たに自分で創造するのである。これは、短期的な投資や投機に走れという意味ではなく、もっと長期的視点から「あるべきものをあらしめる」ために行動を起こすということだ。そういう理由で、私はすでに「上を向いて歩こう」という文章を10月7日11日の本欄に書いた。そこから2箇所を引用する--
 
「短期的には、今回の金融危機とその後に訪れる実体経済の縮小で、多くの企業が廃業に追い込まれるかもしれない。しかし、世界の人口は増え続けており、世界全体のエネルギー使用量が減ることは考えられない。ということは、自然エネルギーの開発を急げば、低炭素社会への切り換え--つまり、産業の新旧交替がこれによって加速化し、長期的には、社会の需要に正しく応えられる企業や産業が栄え、経済はやがて上昇していくに違いない。少しつらい時期があっても結局、上を向いて歩き続きける者が勝利するのである。」(10月7日)

「実際には生産されていない“価値”に値段をつけ、これをさらに『期待』や『希望』や『儲け心』で膨らませて売買するのが金融取引であり、株式売買である。その値段のつけ方は、おおむね人間至上主義的であり、化石燃料優先であり、自然破壊的であることは、本欄で何回も書いてきた通りである。このような誤謬と欲望で膨れ上がった地球大のバブル(風船)に、アメリカのどこかで穴が開いたのである。だから、日本発の誤謬や欲望も同時にしぼんでいくことは当然だろう。その誤謬や欲望に加担していた資金が消えていくことに、なぜ苦悶し、悲しむのか。『悪業は悪果として現れたとき消滅する』と考えれば、バブルがしぼんだ時こそ、新たに善業を積む機会の到来である」(10月11日)

 『ウェッブ進化論』を世に出した米ミュズ・アソシエイツ社長の梅田望夫氏も、今日の『産経新聞』紙上で“不況の効用”について、次のように書いている--
 
「不況期には投資が絞られる。投資基準も厳しくなる。でも逆にそれが、優秀な人材を分散させることなく、選り抜きの有望プロジェクトに才能を集中させる効果を生む。しかも、近視眼的な投資家が短期のリターンを求めようにも株式市場が低迷していて無理だから、ベンチャーは好況時よりもじっくりと技術開発に取り組むことができる。冬の時代にしっかりとした熟成期間があったほうが、春になったときにその営みが目を出し、いずれ大きく花開く可能性が高いのである」。

 企業経営も宗教運動も、“低迷している”と思われるこの時期に、不要なものは削り、有望なものに資源を集中させることで、“明日への飛躍”がしっかりと用意されるのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月28日

本欄が書籍に (7)

Part12_bm  本欄の文章を集めた単行本シリーズ『小閑雑感』の第12巻目(=写真)が、来年1月1日付で世界聖典普及協会から発行される。カバーしている期間は、2007年11月から2008年2月までで、86篇のブログの文章が収録されている。だが事態は、特に世界経済の動きは、本書の文章が書かれた約1年前と現在との間に、大きな違いが生じている。当時は、石油の高騰からバイオエタノールの生産が利益を生むようになり、それが逆に食糧価格の高騰を招いていた。が、今日は、これらすべての値段は下がり、世界不況が深刻化している。仏教で言う「諸行無常」をこれほど鮮明に感じさせる時を、私は過去に知らない。だから、種々の経済指標の上がったり下がったりは結局、人間の心しだいであり、それらに振り回される生活から解放されない限り、我々は心の安寧を得られないということが分かるのである。

 しかし、こういう短期的な経済の浮沈の背後には、もっと重要な問題が隠されていることを忘れてはいけないだろう。それは、人類が今後「自然」とどうつき合っていくかということだ。これを「技術」の問題として捉える人々がいる。つまり、化石燃料の利用の上に立った現在の文明を、自然エネルギーや水素、原子力を基礎とした文明に転換することで、自然との共存は十分可能だと考えるのである。しかし、私はもっと深い「世界観」の問題としてとらえるべきだと感じている。そして、そういう意図で書かれた文章が、本書にはいくつか収録されている。それは、「人間と自然」という3回シリーズであり、「“欲望の街”と“霊的緑地”」「人間と動物の共存」「外来魚とのつき合い方」などである。しかし、これらの文章での考察はまだまだ不十分だ。まだ、入口をウロウロしている状態だ。そこからもっと先へ進むことが、今後の私の課題である。

 既刊の同シリーズともども、読者のご愛顧と忌憚のないご鞭撻をお願い申し上げます。

 谷口 雅宣

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2008年12月26日

古い記録 (5)

 前回の本欄では、私が高校時代の1969年に大学構内で撮った写真をご披露した。当時の私が学校の新聞を作るクラブに所属していたことはすでに書いたが、高校の新聞が大学の学生運動を記事にすることはないだろうから、私はクラブ活動とは離れた所で、自ら選んでそういう写真を撮っていたのである。しかも、自分が“谷口一派”の御曹司だと知られたら危険であろう環境の中で、高校生の身でありながら大学生の写真を撮っていた。こんな向こう見ずで好奇心の強い性格が、私には高校生の頃からあったのである。現場へ行って取材をし、帰って来て記事を書くというのは、ジャーナリストの仕事そのものである。だから、私は“ジャーナリストの卵”ではあったかもしれないが、その時点ではそんな仕事につきたいなどと思っていなかった。
 
 この頃、高校の新聞や生高連の機関誌以外にも、私の文章を掲載してもらえる媒体があった。それは、今は生長の家から分かれた財団法人「新教育者連盟」が発行していた『新教育者通信』という月刊小冊子だった。私はそこに高校2年の時から見開き2頁の文章を書くことを許された。教育者の立場からではなく、教育される側の立場からの“現場報告”といった感じの文章である。その雑誌の1969年3月号に、私は「大学紛争の背景」という題の文章を書いている。高校2年生のくせに、いかにも物知り顔のタイトルだ。だから、そこに書かれていることは、事実に即しているかどうかよりも、当時の私が大学紛争をどのように見ていたかを示す文章として、意味があるだろう。そこには、こうある--
 
「大学紛争が現在の大学制度、ひいては教育制度全体の矛盾を示していることは事実であり、その矛盾に反対するために学生が立ち上っているという見方は間違っていないが、この素朴な学生の感情を利用しているものがいるということも事実であり、戦後の価値感(ママ)の崩壊によって心の支えのなくなった学生が、共産主義によってもたらされるであろう理想社会を信じ、その実現のために戦っているという見方をしてはいけないだろうか。
 来年の七〇年を目当てに、左翼学生運動はいよいよその暴力革命的色彩を濃くしていくであろう。もはや傍観や利己主義的発言は許されない。各人は国家的視野に立って、真剣にこれらの問題を考えるべきである」。
 
 これは、全国の学校の教師が読む小冊子に高校2年生が書くべき言葉ではない。当時の私は、雑誌に文章を書くということの意味をよく分かっていなかったから、まるで高校生を相手にしたような文章を大人に向かって書いてしまっている。が、そういう知ったかぶりで未熟な点を黙認して読んでみれば、この文章の背後にある高校2年生の考え方の“大筋”が見えてくる。それは、当時の教育制度には問題があり、その解決に努力する学生運動には意味を認めるが、その反面、こういう学生の純粋でナイーブな感情を利用する政治勢力があり、左翼の学生運動はそれによって暴力革命の方向に誘導されている。この危機に際してもはや傍観できないから、もっと真剣に解決策を考えよう--そういうことを訴えている。

 つまり、左翼の暴力革命の可能性が高まっているという危機感が、当時の私の日常生活にも影を落としていたのである。「何を大袈裟な……」と思う読者がいるかもしれないが、各地の大学がヘルメット姿の学生に占拠され、授業は行われず、紺色の防護服を着た機動隊員と放水車が町角の風景となった異様に緊迫した社会状況は、今日の平穏な社会からは想像が難しい。そして、この緊迫感は安保改定の節目となる1970年に入ってからは、さらに募っていくのである。同年の2月号に書いた私の文章は、社会を“右側”から見た紋切型で矛盾に満ちたものでありながら、そんな緊迫感だけはよく伝えていると思う--
 
「ここで我々がはっきりと認識しなければならないのは、現在に於てもこの占領政策の遺恨が種々の定着した形で日本の精神を隠蔽しているということである。それは占領軍に与えられたままのこの現行教育体制とそれに便乗した日共・進歩的文化人の亡国教育であり、乱闘国会であり、日教組教育であり、青年層の祖国喪失であり、国防意識の消滅であり、性道徳の退廃である。実際、現代日本の精神的荒廃は極限に達した感がある。朝夕の新聞の三面記事はそのほんの一例であるが、三億円事件のようなサスペンスに富んだヒロイックな事件の不安定な周期の合間に、(…中略…)親殺し、小児殺し、祖父殺しなどの記事が濃縮されて掲載され、それが余りに頻繁であるが為に読者を道徳的不感症に陥れている。そしてこのような戦後的情況の集大成として押しつけられた日本国憲法と称する占領憲法が未だに温存され、一部の人々から平和憲法などとして崇められている現状を見るにつけ、私は日本の危機を叫ばずにはいられない」。

 社会の“悪”に注目して憤りの念に燃え、その原因を特定の政治体制に帰して危機を叫ぶ--典型的なデマゴギーの論理が、悲しいかな、高校3年の私の心中に忍び込んでいるのが分かる。

 谷口 雅宣

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2008年12月25日

古い記録(4)

 跳び石の休日のおかげで、自宅に保管されていた昔の写真を整理する時間がもてたため、私の高校時代の記録を“発掘”した。本題でこの欄を書くのは、今年の8月以来(7月31日8月1日同4日)だが、読者にもこの発掘作業の続編をお届けする。8月までに書いたのは、私の高校時代のことだった。その頃私は青山学院高等部の出版部に所属していて、「日本国憲法無効論」などで論陣を張っていた。私は当時、生高連(生長の家高校生連盟)にも参加していて、そこの東京の機関誌に文章を書いたりもした。その内容については、前回までにお伝えした通りである。当時の日本社会の状況は今とはまったく異なり、警察の機動隊と学生を中心とした若者との対立が全国で常態化しており、一部では“革命前夜”の様相を呈していたのである。

 当時の若者の多くは、ベトナム戦争をアメリカの帝国主義侵略戦争と考え、その国と安全保障条約を結んで基地を提供している日本は、侵略戦争の片棒をかつぐ“悪政”を敷いているとして、1970年に改定の節目を迎える日米安保条約を“粉砕”すると息まき、警察と激しく衝突していた。私の通っていた青山学院のある青山通りでは、歩道の敷石がほとんどはがされ、機動隊との対立に備えて学校内に持ち込まれた。これを砕いて投石に使うのである。清涼飲料の瓶は“火炎瓶”に使われ、工事現場からは鉄パイプが盗まれて“槍”に加工された。これらの武器は学生会館のどこかに隠され、会館周囲には、教室から持ち込んだ机や椅子やべニア板でバリケードが組み上げられた。つまり、「戦争反対」を叫びながら、彼らは国の治安機関との間では戦争に近い暴力的対立を深めていた。
 
 生長の家はこの中で、「生長の家学生会全国総連合」(生学連)という組織をつくって、各大学の学生会を単位とした伝道と啓蒙活動を行っていたが、日本の大学では上のような“左翼”の側からの言論が大勢を占めることに危機感を覚え、反共、反暴力、安保擁護の立場を鮮明にして“民族派”の運動に参加したのだった。私が高校の新聞紙上に書いた政治的な論説は、この“右側”からの言論の受け売りと焼き直しにすぎない。別の言い方をすれば、大学や社会での“左右の対立”が、高校の新聞紙上にも反映していたということだ。
 
Bw001s  青山学院に限って言えば、ここでは神学部の学生を中心とした反安保の“左側”の運動が盛んだったが、そこへ生長の家の学生による“民族派”の反対運動が起こったことで、厳しい学内対立になったようである。「ようである」と推量して書いたのは、当時高校生だった私には、その様子が詳しく分からないからだ。が、姉2人が青山学院に籍を置いていた関係もあり、高校と同じ敷地内にある大学には出入りすることも多く、私は実際にそこへ行って写真を何枚も撮っている。その写真のうち2枚をここに掲げる。1枚は、青学大構内で集会をする安保反対の学生運動参加者たちだ。ヘルメットをかぶった学生のアジ演説を聴いている。

Bw004s  もう1枚は、大学の建物の柱に書かれた落書きの写真だ。「落書き」ではあるが、内容はかなり“脅し”に近い。文字が一部光っていて読みにくいが、「青学大に巣食う 右翼肉体派 ○○○○ 谷口一家(生長の家天皇万才派 谷口雅春の孫)」と書いてある。実際には固有名詞がきちんと書かれているが、ご本人の名誉のために写真ではボカした。このほかにも「天皇万才派 ○○○○の早セ田大学右翼と結びついた暴力を許さないぞ」「右翼 ○○○○ 谷口(生長の家)一派を殺せ」などという物騒なものもあった。これらの伏せ字の所には、当時の青学大の生長の家学生会の代表者の名前が入っていた。いずれの写真も1969年に撮った。3枚目のBw010s 写真は、これより1年後のもの。生長の家青年会の街頭行進の様子である。日本の国論が二分して対立していた時代には、使われる言葉もずいぶん大変なものだ。それにしても、「右翼肉体派」とか「天皇万才派」というような呼称はオカシナ見当違いである。

 私は、こういう騒然とした雰囲気の中で高校から大学へ進学したのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月23日

パリの記憶

 前日、映画の中でパリの雰囲気に浸ったことに影響されて、休日の今日は、昔行ったこの地のことを思い返そうとした。しかし、記憶とは頼りないもので、何もかもウロ憶えである。写真を何枚も撮ったような気がするので、それを探した。すると、カラーネガと一緒にアルバムは見つかったが、構図などから見て、どうも私が撮った写真ではない。一緒に行った家族の誰かが撮ったものに違いない。

 そこで、パソコンの中のデジカメの画像を探したが、今使っているノートパソコンには1枚も残っていない。それもそのはず、パリへ行った当時は、2世代前ぐらいの機械を使っていたからだ。また、記録用の外付けハードディスクの中を探してみたが、ここにもない。そこでさらに思いを巡らしてみた。ゆきついた結論は--恐らく、昔のデジカメのファイルが残っているとしたら、それらはCD-ROMに書き込んである--ということだった。しかし残念なことに、自宅にある外付けCD/DVDドライブは故障中である。
 
 結局、デジカメの記録を見るのは諦めて、昔のスケッチブックに当たった。不思議なことに、デジカメの写真のことはよく憶えていなくても、スケッチを描いた記憶はかなり鮮明に残っている。3~4枚はスケッチを描き、そのうちの2枚を材料にして、後から油絵を描いたことはすぐ思Nigtparisい出した。が、どのスケッチブックにその絵があるかなど、憶えていなかった。だから、保管されている何冊ものスケッチブックをいちいち調べて、ここに掲げた3枚を見つけた。スケッチブックに記入された日付によると、私が家族とともにパリへ行ったのは1999年のクリスマス--つまり、9年前のちょうど今ごろだった。

 夜の絵は、有名な凱旋門である。パリに着いたのは確か夕方で、時差ボケの頭にカツを入れて、私たちは暮れていく大通りを歩いたのだ。その時、デジカメで撮った写真をもとにして、後で水彩で描いたのがこの絵だ。昼間の建物の絵も2枚あるが、引きつけて描いた方はVendomes「ヴァンドーム広場」である。ここはカトリーヌ・ドヌーヴ主演の同名の映画の舞台となったところで、私はそのことを知らなかったが、ドヌーヴ・ファンである妻が知っていて教えてくれた。また、ロングショットで建物と道路を描いた絵は、ヴァンドーム広場から出てすぐの、通りの一角である。左右のバランスが少し悪いが、街の雰囲気が出ていて気に入っている。このほか、有名なノートルダム寺院やサクレクール寺院もスケッチしたが、それらの絵はどこかに紛れ込んでいて発見できなかった。
 
Streetpariss_2  私たちが9年前に初めて訪れたパリは、強風が吹き、寒くて、観光客以外はあまり見かけない静かな街だった。その時聞いた話では、パリの人々は、東京の我々とは違い、クリスマス前後は自宅で静かにイエスの誕生を祝うということだ。昨日見た映画の『PARIS』では、そんな信仰的な人々はどこにも出て来なかったが、映画とはそんなものかもしれない。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月22日

映画『PARIS』

 今日は夕方、渋谷の Bunkamura のル・シネマで封切りとなった『PARIS』という映画を見に行った。フランスの首都・パリを舞台とした現代のいくつもの人間模様を、同時並行的に描いていくセドリック・クラピッシュ監督(Cedric Klapisch)の作品である。私はこの監督のことをよく知らなかったが、クラピッシュ氏は「群像ドラマに長けた映像作家」ということで、『百貨店大百科』『猫が行方不明』『スパニッシュ・アパートメント』などの作品が日本でも人気だそうだ。ところが、これらの作品はパリを舞台としていても、「パリ」という街そのものを描いていなかった。また、都市を描いている作品は、同氏の母国・フランスではなく、ロンドンやバルセロナ、サンクトペテルブルクなどの外国の都市だったという。が、今回の作品で、同氏は初めてパリ自体を描いた。同氏自身の言葉によれば、この作品は「僕の過去の全作品と響き合っている」し、「今までやってきたことを総括したかった」のだという。
 
 映画に出てくる“人間模様”とは--①ソーシャルワーカーの姉とダンサーの弟、②ファッション業界にいる姉妹、③歴史学者の兄と建築家の弟、④市場の商人たち、⑤パン屋の女主人とエジプト人の使用人、⑥アフリカにいるカメルーン人、⑦魅力的女学生、などだ。映画の導入部では、これらの人々がパリを舞台に無関係に描かれていくが、やがて一部が重なり合い始める--ファッションモデルはカメルーン人に声をかけ、ソーシャルワーカーは市場に買い物に行き、ダンサーはパン屋でパンを買うために並ぶ。そして歴史学者は、教え子である美しい女学生に惹かれていく……。クラピッシュ監督に言わせると、「パリのポートレイトを創りたいなら画一化してはダメだ。複雑なパリの街並みを認めること」が大切だという。この言葉の通り、映画の前半はなかなか複雑である。
 
 主人公は、上の①の関係にいる「ダンサー」で、彼は致命的な心臓病が発見されて、移植手術を待つ身となる。すると、彼の中に人生に対する“新しい視点”が生まれる。それは、一種の“旅人の視点”だ。まもなくこの人生の全てを置いて旅立つかもしれない彼にとっては、人生の出来事のすべてが、美しく楽しいものはもちろん、生きていくための人々の不満も、いさかいも、心配も、苦しみも……すべてが愛おしく、貴重なものに感じられるのである。そして、ダンサーは、エッフェル塔の見えるアパートの高層の部屋からバルコニーへ出て、パリ全都で行われている人々の営みを見るともなく、想像する作業に身を委ねる。

 クラピッシュ監督は、この手法によって描きたかったことを、こう表現する--「孤独な人々にも互いに交差する道はあるものだ。多くの映画はひとりの人生を描くが、この映画では様々な人の生活の断片を追うことで、たくさんの道があることを描きたかった。個々の道が集合的な感情を創り上げているんだ」。私は、この意図は本作品において見事に実現されていると思う。映画の最終部では、主人公が移植手術のためにタクシーで病院へ向うシーンがあるが、その時、彼が車窓から見るパリの風景の中に、①から⑦までの登場人物すべてがあり、それぞれが独自の人生を生きつつあることが巧みに表現されていく。そして、困難な手術に直面して「死」を覚悟しているはずの主人公が、人生のすべてを容認する心境を得て幸せな顔をしていることに、映画鑑賞者は気づくのである。

 私は、パリには一度しか行ったことがないが、本作品を見てまた行きたくなった。フランス映画は、憂鬱で暗い作品が多いと言われるが、この作品は人へのニヒルな愛情に溢れていて好感がもてる。個々の登場人物の生き方にはいろいろ問題があるが、それら人間相互の様々な営みのすべてを受け入れ、愛しむ視線がある。それは日時計主義にも通じる所があると思うのだ。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月21日

柿とハエ

 最近、自宅1階の北側のトイレの窓に、ハエが2匹いるのを見かける。正確に言うと、窓ガラスの内側に張った網戸にとまっているのだ。体長1センチほどで、イエバエやキンバエのように胴は丸くなく、全体がほっそりしているので、「スマートなハエだな」と何となく好感がもてる。冬のハエらしく、飛び回らないで静かにそこにいるだけである。トイレで見つける前に、実は居間にも数匹が飛んでいるのを妻が見つけ、「どうしてこんな所にいるの!」と言いながら追いかける姿を私は見ていた。だから、そのときのハエがトイレに避難してきたのだと解釈する。ハエは、「うるさい」という言葉の漢字表記に「五月蠅」を使うくらいだから、春は人間の迷惑になるが、静かにしていればどうということはない。それに、食堂や居間ではなく、トイレにいるのだから「所を得ている」ように思われ、そっと放置している。
 
 私がこの2匹のハエに妙な慈悲心を向けるのには、もう一つ理由がある。それは、わが家の軒先に下がっている干し柿と関係がある。この干し柿は、数カ月前、皮を剥いてまだ干してない“ナマ”の状態のものを信徒の人からいただき、それを干しているところだ。当初、美しい橙色をして丸かった実は、もうしぼんでシワも深くなり、黒っぽくなっている。つまり、干し柿は完成間近なのだ。が、送ってくださった人には申し訳ないのだが、吊るしている間にいくつかにカビが発生し、またハエが来てなめていた。それを見て私も妻も恐れをなしたが、まだ吊るしている。途中で投げ出したくないからだ。ハエが半ナマの柿にとまってしばらくたってから、家の中にハエがいくつか侵入したのである。わが家の窓にはすべて網戸がしてあるから、普通はハエは入らず、入っても1~2匹だから、すぐ追い出されるか退治される。が、侵入バエは少し小型で、なかなかつかまらない。私の想像は、侵入バエは柿から生まれた“柿太郎”ではないかというものだ。
 
 歌人の小池光さんが、今日の『日本経済新聞』に「蠅--立ち向かう世の悪意の象徴」という題で一文を書いている。その中で、ハエの“二面性”を鮮やかに対比しているのが面白い--①人間にとって撲滅するよりない運命を負わされている生き物の典型にして永遠の代表、②動物の遺骸をすみやかに処理、消滅せしめる……途方もない生命力、繁殖力そして飛行能力も、きわめて優秀な昆虫マシーン。私は、この中間の見方をすることもできると思うのだ。それは、一茶の「やれ打つな……」の句にあるような見方である。小池さんは歌人だから、もちろんそれを知っているのだが、あえて言葉にしないのだろう。
 
 8月11日の本欄でも触れたが、私は庭で生ゴミからコンポストを作っている関係から、ハエ(の幼虫)にはずいぶん世話になっている。そんなわけで、冬のハエからも静かに立ち去る気持になれるのかもしれない。因みに、「冬の蠅」は冬の季語である。
 
 少し動きおのれ確かむ冬の蠅 (川端麟太)
 冬の蠅網戸に映る柿黒し
 
 谷口 雅宣

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2008年12月20日

「破れ窓理論」は正しいか?

 生長の家で「親和の法則」と呼んでいるものがある。「同類親和の法則」ともいい、簡単に言えば「互いに似た心の人が集まって物事を成就する」ということだ。例えば、日曜日に生長の家の講習会に来る人々は、パチンコやゴルフよりも神仏に関心があるという点で“互いに似た心”をもっている。そういう人々が集まることで、講習会は成就すると言える。また、競馬や宝くじが行われるのも、そういう「一発で儲けよう」という“似た心”をもった人々が馬券売場や宝くじ売場に集まるからである。さらには、戦争が起こるのも、「相手をやっつけよう」という心をもった人々(軍隊)が国境線近くに集まるからである、と言える。(ただし、戦争の場合は、もっと複雑で数多くの要因が関係している。)

 日本の諺にも、「泣きっ面に蜂」とか「笑う門には福来たる」というのがあるし、英語の諺にも、Like attracts the like. というのがある。これらは皆、「親和の法則」を表現していると言えるから、人類は昔からこの現象に気づいていたのである。では、科学はこの法則を認めているかどうかといえば、この方面の研究は比較的新しい。
 
 この法則は、科学的には「破れ窓理論」(The Broken Window Theory)と呼ばれているものに相当すると考えられる。この理論は、1982年に政治学者のジェームズ・ウィルソン氏(James Q. Wilson)と犯罪学者のジョージ・ケリング氏(George L. Kelling)がアメリカの雑誌『アトランティック』(The Atlantic)に発表したもので、大ざっぱに要約すると「人々を取り巻く環境は、その人々が反社会的行動に走るかどうかに影響を与える」とするものである。何かずいぶん難しい表現だが、要するに「悪い環境では、人は悪い行動に走りやすい」ということ。逆に言えば、「環境をよくすれば、犯罪は起こりにくくなる」ということだろう。
 
 この「破れ窓理論」については、谷口清超先生が『コトバが人生をつくる』(2004年、日本教文社刊)の中で言及されているが、詳しい解説はない。同書の28ページには、茨城県の大学生が2003年7月の『産経新聞』への投書の中でこの理論を紹介していたものを、“孫引き”の形で引用されているだけだ。そこでの説明は、こうだ--「犯罪増加に悩む米国で1982年に採用されたという。平成14年版警察白書によると、落書き、酔っ払いなどの軽犯罪でも徹底的に駆逐することで、犯罪全体を減少させようという取り組みである」。投書氏はさらに言う--「破れた窓が放置されていれば、管理が行き届いていないことが明らかとなり、いたずらや犯罪の格好の餌食となり、瞬く間にビル全体に及ぶ」。「瞬く間」というのはいかにも大袈裟だが、まあ言いたいことは分かる。同じ2つの空家でも、一方の窓ガラスだけが割れていれば、そちらの空家の方が早く壊されるということだろう。

 しかし、「本当にそうなるのか?」というと、この理論を具体的に検証する研究はつい最近まで行われていなかったらしい。その最近の研究とは、オランダのグロニンゲン大学(University of Groningen)で行われたもので、アメリカの科学誌『Science』のオンライン版に掲載された。また、この研究をまとめて紹介した文章が、同誌の今年11月21日号(vol 322 21 November 2008)に載っている。それによると、「破れ窓理論」の正しさは証明されたという。
 
 同記事によると、オランダの研究では、「一つの規範や規則が守られていないところでは、別の規範や規則も破られやすい」ことが分かったという。もっと具体的に言えば、違法な落書きや駐車違反がある場所では、ゴミの不法投棄や窃盗も起こりやすいということだ。
 
 この研究では、落書きが描かれた路地に停められている何台もの自転車のハンドルに、ダミーの広告チラシを巻きつけて、持ち主がそのチラシをどう処理するかを調べたという。その路地の壁には「落書き禁止」の表示があり、ゴミ箱は置かれていなかった。研究者は人々から見えないところにいて、広告チラシが路上に捨てられるか、それとも持ち帰られるかを調べたという。これに対比するために、研究者は別の日に、「落書き」以外はこれと全く同じ状況を作って人々の行動を調べたという。その結果、両者の違いは歴然としていた。落書きのない環境では、自転車に乗る77人中の3分の1がチラシを路上に捨てたのに対し、落書きを加えたところでは、3分の2以上がチラシを捨てたという。
 
 また、こういう実験もした--路上にある公共の郵便箱を1つ選び、その投函口から5ユーロ紙幣を一部はみ出させておく。そして、そこへ郵便を入れに来る人や、付近を通る人の行動を分からないように観察するのである。この実験を、郵便箱の周囲が散らかっている場合と、きれいに掃除されている場合とでやり、両者を比べてみたという。すると、きれいな環境では13%の人が紙幣を取ったのに対し、汚れた環境では23%が紙幣を持っていったそうだ。
 
 生長の家の男性組織である相愛会では今、“クリーンウォーカー”を増やす運動をしている。クリーンウォーカーとは、町を歩くときに落ちているゴミなどを拾って町を美化する人々のことだ。谷口清超先生はご生前、自宅から仕事場まで歩いて通われる途中で、落ちている空き缶などを掃除されたから、クリーンウォーカーのさきがけと言える。この一見“小さな善行”が、より大きな善を導き悪を防ぐことを、科学は証明してくれたのである。がんばれクリーンウォーカー諸君!

 谷口 雅宣 

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2008年12月19日

3色サンドイッチ

 今日は午後1時半から東京の多磨霊園で納骨があるため、妻と私は早昼を食べることになった。諸準備が混むこんな日には、妻はよくサンドイッチを作ってくれる。朝食時に作ってしまい、タッパウェアに詰めて冷蔵庫に入れておく。あとは時間が許すかぎり2人とも仕事や準備をして、食べるときには皿に盛りつけるだけ。すこぶる簡単だ。食後も、洗いものは最小限ですむ。私は、料理は妻にまかせ、時間ぎりぎりまで机の前にすわっていたが、妻が中皿に盛りつけたサンドイッチを見て、その配色のよさに感心した。
 
 普通の白い食パンのほかに、カボチャを練り込んだ黄色い四角いパンと、ゴマやナッツ、穀類の入った黒っぽい楕円形のパンをそれぞれ薄切りにしたものの間に、いろいろの具が挟んである。レタス、マッシュポテト、トマト、キウリ、サーモン、コエビなどだ。パンも“耳”を切り落とさずに使ってあるので、その茶色がアクセントになっている。サンドイッチはもちろん食べるためにあるのだが、食べてしまえばせっかくの“配色”もなくなる。何かすごく惜しい気がしたので、3個を残しておいた。妻が「どうするの?」と訊くので、「いいことを思いついた」と答えた。これで多分、妻も察したと思う。
 
Mtimg081219s  納骨を終り帰宅した夕方、食べ残した3個のサンドイッチを絵に描いた。初号にも満たない小さい正方形のカンバスを使おうと思っていたので、妻が普及誌のために原稿を書いている間に、さっさと完成させるつもりだった。が、予想外に時間がかかった。暖房した部屋で描くから、サンドイッチはしだいに乾燥してパンが反り返ってくる。まあ、それでもいいと思いながら、夜の10時ごろに完成した。妙な趣味と思われるかもしれないが、見るためのサンドイッチがあってもいいと思うのだ。

 谷口 雅宣

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2008年12月18日

ホンダの戦略転換を歓迎する

 アメリカの自動車産業の窮状については、13日の本欄ですでに触れたが、今やビッグ3を凌駕しようとしている日本の自動車業界も大きな転換期を経験しているようだ。ホンダは17日に記者会見して、昨今の世界的な経済不況や大幅な円高に伴い、国内での投資戦略を大幅に変更することを発表した。F1(フォーミュラー1)の世界選手権からの撤退はすでに報道されているが、これに加えてスーパーカー「NSX」の後継者の開発を中止し、アメリカでの高級車ブランド「アキュラ」の国内導入を白紙にもどし、日米での販売を予定していた次世代ディーゼル車の来年投入を延期し、国内で大幅減産するなど、化石燃料を多く消費する車種の開発を抑えるという方向転換が明らかである。今日付の新聞各紙が伝えている。

 旧型のオデッセイに乗り続けている私は、ホンダのハイブリッド版小型SUVを待ち望んできた。だから私は、この決定を大いに歓迎する。しかしこれは、私個人の問題である以上に、地球環境全体にとって“脱化石燃料”が緊急に要求されているからである。私は、ハイブリッドの技術で一歩先を行くトヨタが、プリウスの次に、大型のレクサスを出すと発表した時、失望のあまり「拝啓 トヨタ自動車殿」と題する一文を本欄に書いた。あれから3年5カ月ほどたつが、私の望む車種は、まだどこのメーカーからも出ていない。今回のホンダの方針変更に際し、同社の福井威夫社長は「今後は、中大型車へもハイブリッドを導入する」と宣言したそうだから、私は2000ccクラスのものが近々出てくれることを望む。しかし、世の中の動きは速いので、別のメーカーから電気自動車(EV)で同等のものが出れば、そちらの方が環境への害が少なくなる可能性はある。
 
 この戦略転換と同時に発表された同社の来年3月期の業績予想では、下半期(10~3月)の営業損益が約1900億円の赤字に転落する。以前に出された同期の営業損益の予想が約1800億円の黒字だったことから比べると、実に3700億円もの下方修正だ。福井社長は、これを「かつて経験したことがない危機」と判断し、世界の自動車市場縮小の中で環境対応車の開発を強化する方向へと戦略転換を決意したようだ。『朝日新聞』(18日付)によると、「ホンダはこの日、リストラ策の一方、環境対応で生き残る施策を発表、ハイブリッド車(HV)開発に投資を重点化する姿勢を鮮明にした」という。そして、F1レースに投入していた技術者約400人も、今後は環境技術開発に投じる予定らしい。
 
 ホンダが他社より環境対応車の分野で遅れていたのは、HVに搭載する電池の分野だ。同社はこれまで、中型車以上の環境対策は“ディーゼル化”で十分と考えていたフシがあるが、今回の方針転換で、ディーゼル車投入が延期された。HVでは次世代のリチウムイオン電池の開発が進んでおり、トヨタはパナソニックと、ニッサンはNECとすでに共同出資会社を立ち上げている。しかし、ホンダは電機メーカー任せだった。それを今回、電池メーカー大手のジーエス・ユアサコーポレーションと共同出資で新会社を設立する決定をした。開発から製造・販売までを新会社で行うというから、同社はEVを開発する可能性も選択肢に入れているのではないだろうか。

 私は、人間の自動車に対する考え方が今後は変わっていく必要があると思う。自動車はこれまで、個人が確保した一定の狭い閉鎖的な空間内で、できるだけ贅沢な装置に囲まれながら、高速で安全に移動できることが“理想”と考えられてきたと思う。ドライバーが、自分を言わば“王様”だと感じられるような閉鎖空間を、高速で快適に移動させることを追究してきたのではないか。しかし、燃料が上がり、都市化が進み、車の台数が幾何級数的に増えてきた今日、さらに「温暖化ガスを出さない」という条件を加えるならば、自動車は、大出力のエンジンと様々な装備をもち、だから重い--というわけにいかなくなる。軽くて頑丈で、閉鎖性が緩い(半ば開放的な)空間が、中距離を中低速度で移動するのでいい--と割り切って考え、長距離を高速で移動したいときは、そのために開発された公共交通機関を利用すべきだと思う。つまり、移動の際は、個人が独占する空間をできるだけ狭くすべきなのだ。そういう意味で、これからは乗用車の小型化、軽量化、装備の簡素化、カーシェアリング等による共有化を進めていくのがいいと思う。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月17日

谷口清超先生を偲んで

 今日は午後1時から、東京・調布市にある生長の家本部練成道場で「故 生長の家総裁谷口清超先生追善供養祭」が執り行われた。私は斎主(いつきぬし)として祭文を奏上し、続いて「帰幽の神示」を拝読し、玉串を奉奠した。その後さらに、谷口清超先生を偲ぶ言葉を述べさせていただいた。以下は、その話の概略である。
 
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 皆さん、本日は故生長の家総裁、谷口清超先生の追善供養祭にこのように大勢お集まりいくださいまして、誠にありがとうございます。谷口清超先生は、お亡くなりになったのが10月28日ですから、今日はちょうど50日目に当たります。こうして大きな祭壇に美しい白い花を一面に飾り、先生の大きな写真を掲げて祝詞を誦げますと、「ああ、先生は肉体をもった人間としては本当にお亡くなりになったのだなぁ~」と実感しますが、しかし、今日に至る49日間は、私は先生が亡くなられたという気がしなかったのであります。

 私と妻は、朝晩に神想観をしますが、その時に基本的神想観と如意宝珠観をよくします。如意宝珠観では、ご存じのように、家族の名前を一人ずつ呼んで、「○○さんは、身健やかに、心美しく、姿形麗しく、和顔愛語讃嘆に満たされたり」と唱えます。それと同時に、名前を呼んだ人の顔を心に思い描いて、その人がニコニコと笑っている姿をイメージします。ちょうどここにあるお写真のように、私は谷口清超先生のニコニコ顔をこの時に思い描く習慣ができているのです。ところがこの祈りの言葉をよく吟味してみると、「肉体が健やかであり」「姿形が麗しい」ということですから、霊界へ行かれて姿形がこの世にはない人に対しては、あまり適当ではないのです。そこで私は、先生がお亡くなりになってから後、先生のお名前を呼ぶのを省略して、「谷口恵美子先生」から始めるように努めているのです。しかし、私はもう何十年も、家族の筆頭として「谷口清超先生」とお名前を呼んできたわけですから、その際の違和感といいますか、喪失感といいますか、欠落感といいますか、そういう感じがとても強いのです。そして、気がついてみると、私は先生の名前をお呼びして、先生のニコニコ顔をイメージしているのでした。

 今後は少し工夫して、霊界の清超先生をお呼びするようにしたいと思っています。

 さて、谷口清超先生の諡(おくりな)は「実相無想光明宮弘誓通達大慈意大聖師」と申し上げます。この中にある「弘誓」という言葉は『法華経』の観世音菩薩普門品にある言葉で、「弘大な誓い」「大いなる誓い」という意味です。人々を救わずにはおかないという強い意志を込めた誓願のことです。『法華経』には「弘誓の深きこと海の如し」と書かれていて、これは観世音菩薩の御徳の1つであります。「通達」とは「徹底している」という意味です。「大慈意」という言葉も、同じく普門品からいただきました。「慈悲にあふれた心」という意味です。普門品には「慈意の妙大雲のごとく、甘露の法雨をそそぎ、煩悩の炎を滅除す」とあります。谷口清超先生は、このように徹底して伝道活動に身を捧げられ、煩悩の多い人も少ない人も決して差別されず、すべての人の実相を観て、大いなる慈悲の心をもって導かれた--そういうご生涯であったと思います。
 
 また、祭文の中にもありましたが、谷口清超先生は私たち生長の家の信徒のために、聖歌を数多く作詞・作曲してくださいました。先生は、音楽との出会いについて昭和58年ごろにインタビューを受けていられますが、その中で最初に楽器を触れたのは小学4年生の頃で、やがて家にあったオルガンを触るようになったといいます。また、小学生の頃は歌が上手で美しいボーイ・ソプラノを出したともおっしゃっています。楽器は、最初はバイオリンを独学で始められ、やがてギターに替えて弾かれたといいます。そして、後年はピアノや電子オルガンへと移っていかれましたた。
 
 こうやって弾く楽器が変わっていったことについて、インタビューアーが理由を訊いていますが、それに対して先生はこう答えておられます--
 
谷口 やっぱり、あの和音の美しさが、ああいう弦楽器ではなかなか出せないでしょう。それに僕はギターをいじくっていた頃に、ギターの和音というのがね、非常に不自由だということを痛感しましてね。それでギターの和音には無理があるし、それにギターというのは調子がやっぱり片寄るんですね。弾きやすい調子と、弾きにくい調子があって……。その点、ピアノやオルガンは、和音の作り方はどんな調子でも自由自在でしょう。おまけにオルガンときたら足まで使うから、非常に複雑な和音がでるんで……

 このように、清超先生は単独の音色や旋律の美しさから入って、和音のもつ複雑で荘重なハーモニーの妙を重視されるようになったのです。この違いについて、先生は次のようにおっしゃっています--
 
「つまり、私小説を書くとすると、それはいわば1人の人のメロディーだね? それに、いろんな人が加わって、いろんな旋律やら和音ができてきて、それが一つの全体の発展や展開へと向っていく--そういったことに、やっぱり関心が向いてきたんですね」。

 このインタビューは先生が副総裁の時代に行われたものですから、そういう組織の上に立ってものごとを考え、全体を動かしていかれる中で、いろいろの人々の和、考え方や性格の違いなどをそのまま生かして運動を進めていくということの中に、価値を見出されていることが分かります。こういう考え方は、生長の家の組織である相愛会・白鳩会・青年会の三者推進や三者協力の考え方に表れているし、そこへさらに「栄える会」や「生教会」を含めた幅広く、多様な運動の展開を図られたことに反映していると思います。

 とにかく、先生は「多様性」と多様なものの間の「調和と協力」を重視された方でした。
 このインタビューの中で大変興味深いのは、インタビューアーが「生長の家的な音楽がありますか?」と訊いたときの先生のお答えです。そのお答えには、この「多様性の調和」というテーマ―が、実は先生の個人的な嗜好の問題ではなく、生長の家の教えに深く根ざしているということが語られています--
 
谷口 「生長の家」というのは、要するにすべてがそこに入ってないと本当の「生長の家」って言えないんじゃないかな。一部分だけ取り出して「生長の家はこれだ」ってわけにいかんと思うんですね、大抵の人はそう思ってるけどね……。宗教の中でも“右翼的宗教”だなんて思ってたりして……。そんなもんじゃないんだな。そこにすべてがあるところの“霊的大宇宙”が生長の家だからね、だからそういう点で、チャイコフスキーも、ストラビンスキーもいいですね。それから僕は、ポップスやジャズの中にもとてもいいのがあると思うんですねぇ。ことに最近の音楽はね、一つの可能性があるのは、アドリブが多いでしょう。あれがいいと思うんですね。非常に自由でしょう。そういう所にちょっと魅力を感じてますね。

 谷口清超先生のこのようなお考えは、もちろん音楽のことだけを指しているのではありません。このインタビューから数年後に、生長の家創始者、谷口雅春先生がお亡くなりになりましたが、その際の追善供養祭で清超先生が述べられた言葉の中にも、「生長の家は霊的大宇宙である」という信念が明確に表現されているのであります。清超先生は、雅春先生のことを次のように語っていられます--
 
「皆さん、(雅春)先生は周知の如く空前絶後の愛国者でいらっしゃいました。しかしそれと同時に、天皇陛下のあの無私の御愛念を、そのまま宣布し且つ実践なさいまして、凡ての人と物を生かす運動を展開せられたお方であります。勿論日本も生かし、それと同時に人類をも生かし、人類ばかりじゃなく、凡ゆる生きとし生けるもの、山川草木国土ことごとくを仏として礼拝し、その実相を顕わし出そうと精進せられたお方であります。それ故、私達はこの生長の家の大真理を、全人類に向かって宣布する使命を戴いたことを、誠に幸せであると思うものであります」

 このように、生長の家とは霊的大宇宙のすべてであるから、生長の家の運動も、実相世界の真存在のすべてを表現するための運動であるというご信念をもって、清超先生は私たちの運動を引っ張って来られたということを、ぜひここで再確認していただきたいのであります。実相世界の真存在をすべて表現するためには、「自由」ということが必須の条件になります。そのことは、自然界を観察すればよく分かることです。実に多様な生命が、それぞれ自由な生き方をしながら共存している。何か一定の“型”を作って、それにはめむというのが宗教のやり方だと考えている人がいるようですが、少なくとも生長の家はそういう宗教ではないし、谷口清超先生もそれを希求されては来なかった。このことは、先ほどの先生の言葉の中に「アドリブがいい、非常に自由だから」ということがあったことから明らかなのであります。
 
 私は、清超先生のこの「自由尊重」のご精神、「自由の中に実相あり」の教えに心から感謝している1人であります。御存じのように、私は清超先生の息子としてこの世に誕生し、物心がついた頃から「生長の家の三代目」として見られ、母を含めた周囲の人々から「あなたは三代目だから」と繰り返し言われてきただけでなく、私自身「そうなるのだ」と考えていました。しかし、父である清超先生から「三代目にならなくてはいけない」と言われたことは一度もないのであります。学校も自由の精神を尊重する青山学院へ入れてもらい、そこの大学を出てから㈱日本教文社へ入りましたが、3年足らずでやめてしまい、アメリカへ留学しました。これは勿論、父が賛成してくれたからです。コロンビア大学という、これまた自由を尊重するリベラルな私立の大学の大学院へ入りましたから、学費も生活費も多くかかりました。それを父が快く出してくれたことで、私は日本国内では得られないであろう数々の貴重な経験をすることができました。そして、そのことが、今日の生長の家の運動を進める上で大いに役立っている--というより、もっと正確に言えば、それらの経験がなければ、今日の生長の家は「国際平和信仰運動」とは別の方向に進んでいたに違いないのであります。
 
 谷口清超先生に感謝しなければならないことは、公私にわたりこのほかにも数限りなくありますが、今日は特に、先生から教えていただいた「自由から生まれる多様性の調和」について、皆様とともに確認したいのであります。なぜなら、この考え方こそ、実相世界の真存在を表しており、これからの世界の平和と発展に不可欠なものだからです。それを私たちの運動を通して23年間にわたって、強力に推し進めてこられた谷口清超先生を、ここで深く切実にお偲び申し上げるとともに、これからも先生の教えを守り、この実相顕現のための運動を愛と誠を込めて、世界に大きく発展させるために邁進いたしましょう。

 本日は、かくも大勢の方々にお集まりいただきまして、誠にありがとうございました。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○世界聖典普及協会編、“音楽を愛する人のために”、『追憶--合唱曲と器楽曲』添付冊子(1983年、世界聖典普及協会刊)
○生長の家編『生長の火をかざして--永遠の谷口雅春先生』(1985年、世界聖典普及協会刊)

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2008年12月15日

靴のサイズは10

 今朝のニュースで一斉に報道されたのが、記者会見の席上、靴を投げつけられた米ブッシュ大統領の映像だった。大統領としては最後となるイラク訪問で、マリキ首相とともに報道陣の前に立って話し始めたところで、イラク人記者がやにわに立ち上がり、大統領めがけて自分の靴を1足、また1足と、何か叫びながら投げつけた様子が、克明な映像で世界中に伝わった。この行為は、こういう状況下では、そういう結果になるということを十分計算して行われたに違いない。
 
 私はこれを見ていて、さすがにブッシュ氏だと感心したことが2つある。1つは、常にフィットネスに心がけているというだけあって、至近距離から力いっぱい投げつけられた靴を、2回とも見事にかわした点だ。特に最初の1投は、まったく予測不可能な状況下で胸のあたりに飛んできたものを、全身を使ったダッキングによってよけた。これは、ブッシュ氏の運動神経のよさを示している。私だったら、恐らくよけきれなかっただろう。感心したことの2つめは、そういう深刻な状況下(投げられたものがナイフだったらと考えれば)でも、事後にマイクの場所から逃げ出さずに、記者団に向かって「靴のサイズは10(約28センチ)だった」とジョークを飛ばしたことだ。これもよほど度胸がすわり、かつユーモア精神がなければできないことだ。

 今日の『日本経済新聞』夕刊の記事によると、このイラク人記者はイラク資本の放送局のカイロ駐在員で、靴を投げるときに「これは別れのキスだ。おまえは犬だ」と叫んだという。また今朝、NHKの衛星放送経由で流れた英BBCニュースによると、この記者は一度イラク国内で拉致されて拷問を受けた経験があるという。また、『朝日新聞』の夕刊によると、この記者が叫んでいたアラビア語は「別れのキスだ。犬め」「夫を失った女性、親を失った子どもたちからの贈り物だ」という意味だったらしい。とにかく、イラク戦争を端緒とした永年のアメリカ軍支配に対する人々の不満を、象徴的に表した出来事だったといえる。
 
 ジャーナリストは第一に、“客観的映像”や“客観的記述”で物事の真相を人々に伝える義務がある。また、それを基礎として、自分の考えや意見を述べることも許される。しかし、ジャーナリスト本人が“報道される対象”になることで自分の意見を表明するという方法は、あまり見聞したことがない。これは「グリーンピース」のような環境運動の“過激派”がよく使う方法だ。しかし、一つ間違えば、客観性を無視して事件を捏造することにつながるから、ジャーナリストとしては“禁じ手”である。恐らくこのイラク人記者は、それを承知でこの行為に及んだのだ。我々はそこから、今のイラク人の心境を推し量ることができるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月13日

変化への対応

 今年を象徴する漢字1文字は「変」--と決まったそうだ。これを「変化」という意味にとれば、まさにその通りだと思う。日本の首相がコロコロ変わるのは常としても、この年のうちに石油の値段、穀物の値段、株価が乱高下した。また、13年4カ月ぶりの1ドル=88円台の円高であり、オバマ米大統領の登場だ。そして今、世界が固唾を呑んで見守っているのが、アメリカ経済の“屋台骨”・ビッグ3の行く末……この大きな変化に対応できるかできないかで、人や企業や団体の“命運”が決せられる。私たちは、そんな環境にあることを感じるのである。

 アメリカ上院は、GMとクライスラーに最大で140億ドル(約1兆3千億円)をつなぎ融資する救済法案(下院で合意済み)を事実上否決し、危機感を覚えたホワイトハウスは「金融安定化法を含め、他の選択肢を検討する」と発表して、経済不安の沈静化に躍起となっている。この金融安定化法では、最大で7千億ドル(約63兆円)の公的資金を金融安定化に投入することができるが、原則は金融機関の救済である。それを今後の成長が不透明な自動車産業に投入できるかどうかは、難しい判断だろう。

 13~14日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、今回の救済法案の挫折は、全米自動車労働組合(UAW)との賃金引き下げ交渉が決裂したことが主な原因だ。上院共和党は、下院民主党とホワイトハウスが合意した救済法案では不十分だと考えた。なぜなら、140億ドルもの税金を2社につぎ込んでも、従業員の賃金体系に手を加えなければ本当の改革にはならず、結果的に税金のムダ遣いになると考えたからだ。そこで、賃金体系にまで手をつけなければ守れない条件を、2社側に逆提案した。それは、来年の3月末までに2社の抱える負債を3分の1に減らすという条件だった。GM1社だけでも、現在の負債額は600億ドルあるという。これに対して、そんな急な変化はできないとする労働側に、上院共和党は「2009年中の一定の日」までに減らすところまで譲ったが、民主党とUAWは、現在の労働契約が終了する「2011年中」まで期限を延ばすように主張したため、交渉は決裂したという。

 つまり、この問題の背後には、トヨタやホンダなど在米日本メーカーの労働者よりも賃金や福利厚生面で従業員を優遇しているビッグ3が、思い切った賃金カット等をしないでいて今後の開発・販売競争に勝ち残れるかどうかという、米自動車産業の“将来の展望”が深く関わっている。どうせ勝ち残れないのならば、多額の国民の税金をつぎ込む必要はないというのが上院共和党の考え方であり、それなりの合理性をもっていると思う。結局、アメリカの自動車産業は、地球温暖化時代を前にして、自動車という道具が今後どう使われるべきかという明確なヴィジョンを打ち出せないでいたのである。

 これには、ブッシュ政権下で京都議定書が否定され、「温暖化問題は存在しない」という説がもてはやされ、ビッグ3が燃費の悪い大型車やSUV(スポーツ多目的車)を重視して製作していたことにも責任がある。また、UAWという巨大な労働組合にも“先見の明”がなかったと言わねばならない。しかし、“勝ち組”であるはずの日本メーカーもライバルの崩壊を望んではいない。なぜなら、ビッグ3が倒産すれば、そこに納品していた全米の部品業者も連鎖的に倒産し、米国内で部品を調達することができなくなるからだ。

 地球温暖化時代には、ガソリンがぶ呑みの大型車は不要であるだけでなく、有害である。また、(私を含めた)一部で“石油ピーク”が来ていると言われる時代には、化石燃料を自動車の動力に使おうとする試みは、破綻するほかはない。この変化を的確に読んで先行投資を行い、新しい技術や制度を開発してきた人や会社が、今後の世界の乗り物を製造していくことが許されるだろう。私は、8日の本欄に書いた電気自動車(EV)と自然エネルギーによる発電・蓄電システムの組み合わせが、少なくとも中期的には、最も現実的で、有望な選択肢だと思うのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月12日

木魚文旦

 果物がおいしい季節である。8月22日の本欄でも触れたが、わが家は東京のド真ん中にありながら、案外多くの果物ができる。名前を挙げると--ビワ、イチジク、ブルーベリー、ミカン、ポンカン、ユズ、キーウィーというところだ。この中で今、食べられるのはミカンだが、今年はことのほか実のつき方がよかった。私はグレープフルーツの実がなっているところを見たことはないが、一説によると、この名の由来は、あの大きい実が、ブドウの房のように密集して生るところから来たという。今年の庭のミカンはちょうどそんな感じで、枝の先のところに密集して生った。ところが、同じ柑橘類でもユズとポンカンは、今年はすこぶる実の付きが悪いのである。果物は、豊作と不作の年が交互に来ると聞くが、それが理由かもしれない。

 生長の家の信徒の方からも、カキやリンゴなど、立派でおいしい果物をいただく。誠にありがたい。カキは、少し前、干し柿用に皮を剥いて、白いビニールの紐で結わいたものまでいただいた。それは今、軒先に吊るしてある。ところが、ちょうど季節外れに暖かい時期に吊るし始めたため、中身が固まらずに融け出したり、虫に食われるものが続出した。講習会で徳島へ行ったとき、「吊るした柿は家の中へ入れてはいけない」と言われたが、わが家では雨に濡れるのを恐れて、室内に入れたり出したりしていたら、一部カビが生えてしまった。なかなか難しいものである。

Mtimg081212  美しい果物を見ると、私は絵を描きたくなる。昨日の休日には、緑色のリンゴを描いた。今日は大きな黄色い柑橘類の実を描いた。恐らく文旦かと思うが、縦に潰れたような形が面白く、どこか木魚を思わせる。皮のフトンは厚く、中の実は濃いピンク色で、ルビーのグレープフルーツのようである。私は勝手に“木魚文旦”という名前をつけた。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月11日

タバコ増税は腰くだけ

 タバコ税の引き上げが、見送られるようだ。今日の新聞各紙が一斉に報じているが、私が期待していた“当り前の政治”がまたも挫折した。喫煙が健康に悪いということは、科学的にも常識的にももはや疑う余地はない。駅や空港などの公共の施設が続々と禁煙となり、歩きタバコも他人への危害を及ぼすという理由で“違法”となりつつある中で、先進国の基準では低い税率が維持されてきた日本のタバコを、今後も放置しておくという決定が下されたのだ。さらに不思議なことは、その決定を下したのが「タバコ増税」を唱えてきた麻生首相自身らしいということだ。
 
 健康上の理由だけでも、喫煙を減らす努力をすべきなのに、今回は、高齢化にともなう社会保障費の伸びを2200億円抑えるという小泉時代の閣議決定を反故にしそうなだけでなく、景気後退によって税収が6兆円減ると見込まれている中で、タバコへの増税が見送られたのである。今日の『産経新聞』によると、麻生首相は周囲に「2個パック1000円でいいじゃないか」と漏らし、「1箱500円」を考えていたらしい。また、12月2日には「タバコ税をやればいいじゃないか」と言っていたのに、腰くだけもはなはだしい。

 民主政治の“最悪”の側面が出てきたのではないか。今回の増税見送りの理由について、『産経』は「葉タバコ生産農家や小売業者をバックにした議員の強い抵抗を受け、自民党税調幹部が頑として譲らなかったためだ」と書いている。さらに、「公明党が次期衆院選をにらみ“大衆増税になる”と難色を示した」かららしい。これでは、圧力団体や支持母体の短期的な利益に奉仕する政治でしかない。ほとんど衆愚政治と言っていいだろう。
 
 タバコ増税反対派の反対理由が、またふるっている--「増税しても税収が増えるとは限らない」というのだ。この意味は、タバコ税を値上げすれば、喫煙者が吸う本数を減らすからタバコの消費量が減り、タバコ税トータルで増収につながるとは限らないということだろう。私は、それならそれで益々いいと言いたい。喫煙者が吸う本数を減らし、禁煙に踏み込む人も出ることは、日本の将来にとって大変いいことだ。中・長期的には、これによって気管支系の疾患やガンが減るから、医療費が抑制されるのである。世代間倫理の立場から考えても、高齢化時代の医療費抑制は必要なのである。そういうことを考えるのが、政治家の本来の仕事なのではないか。
 
 今の自民党は、解散・総選挙になったときに如何に票を減らさないかに汲々としているだけで、国の将来など考えていないように見える。が、国民はバカではないから、そういう“票集め”に走る政治家にはますます愛想をつかせるのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月 8日

小国での電気自動車

 前回の本欄でポルトガルのことに触れたが、この国の面積は9万2082平方キロで、北海道(8万3516平方キロ)より少し大きいくらいだ。そんな国がかつての大航海時代の先鞭をつけ、日本に西洋文化を届け、ブラジルのような大国を形成した。だから、国土の大きさは世界における影響力の大きさを必ずしも意味しない。そんなポルトガルで、日本の技術による野心的なグリーンカー戦略が練られているらしい。8日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。

 それによると、ニッサンとルノーは、ポルトガルを1つの拠点として、2010年から電気自動車(EV)を全世界へ普及させるための市場実験を進めている。ポルトガルが選ばれた理由は、比較的コンパクトな国だからで、同国のほかに、デンマークやイスラエルでの実験も検討されているという。EVの普及のためには充電施設の整備が不可欠だが、これはポルトガル政府の監督により来年から始まるという。当初は、20分でフル充電可能の高速充電施設網を首都・リスボンとポルト、それに周辺道路に設置し、家庭では普通の電源を使った充電(6時間)で対応する考えだ。問題は、2011年の本格販売までに、これらのインフラ整備が間に合うかどうかだが、同国政府は、主要な電力会社や小売業者の連合を組織して、同国がこれによって“近代的で環境に配慮した国”と認められることをねらっているという。

 EVの普及に必要な条件は、このインフラ整備(①)に加えて、②電池性能の向上、と③価格の低下だという。インフラの問題では、電力会社が積極的な姿勢で取り組んでいる。というのは、どの電力会社も昼間と夜間との電力需要の差が大きな課題だが、EVが普及すれば、夜間には各家庭でのEVへの充電需要が生まれることで、効率的な電力供給が可能となるからだ。また、ガソリンの値上がりで客足が減った小売業界や、駐車場経営会社も、駐車中の充電によってEVの利便性が向上する点に注目している。というのも、現在のEVでは、連続走行距離がフル充電時で「160キロ」のレベルにあるからだ。これが伸びない限り、現在のガソリン車やハイブリッド車との差は歴然としている。が、ガソリン代よりも電気代の方が安いため、小まめに充電できる環境が整えば、EVの価格競争力は向上することになる。
 
 EVのもう1つの魅力は、自然エネルギーとの組み合わせによって“炭素ゼロ”のドライブが可能になることだ。例えば、工場や大規模小売店などに設置された太陽光発電装置からEVに充電すれば、それは簡単にできる。実際、今年10月に埼玉県越谷市にオープンした「イオンレイクタウン」には、この充電装置がある。また、日照時間が長いイスラエルでは太陽光発電とEVとの組み合わせで、石油から解放された交通システムの構築をねらっているし、風の多いデンマークでは風力発電との連携を目指しているという。
 
 このイスラエルやデンマークの構想に一役買っているのが、米カリフォルニアのベンチャー企業「ベタープレイス」(Better Place)である。もともとソフトウェアー会社をやっていたシャイ・アガッシ氏(Shai Agassi)が創立した企業で、イスラエルやデンマークのような大きさの国であれば、どこでもEVに充電できる環境(ubiquity of charge)を提供すれば、現在の電池の性能のままでも交通需要の95%は満たされると考えて、充電設備等の普及を進めている。彼らの考えでは、残りの5%の需要も、EVから電池を切り離せば十分満たされるという。つまり、EVで使う電池を「車の一部」として考えずに、「インフラの一部」と考えるのである。そして、各所に充電と電池交換ができる“給電所”を整備すれば、EVの連続走行距離は実質的に無限大に延長できるというわけだ。

 世界は、あと数年でEVの普及時代に入る。日本政府はそういう潮流を見定めて、しっかりとした環境政策と技術革新を全力で推進すべきである。あるべき方向を見れば、日本経済は停滞している暇はない、と私は思うのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月 7日

モラエス館を訪ねる

 徳島市で行われた生長の家講習会の終了後、同市のシンボル的存在である眉山まで行った。標高290メートルの山頂からの景色がいいというのだが、快晴の空の下に広がる市街地、吉野川、新町川、助任川、その向こうに紀伊水道が一望できる広大な風景は、私の予想を上回っていた。眉山は、下から見ると北海道の函館山にどこか似ているから、函館山からの風景を頭に描いていたのだが、函館の風景は“奥への広がり”が見事なのに対し、眉山から望む風景は“横の広がり”が秀逸だった。麓から山頂までは、35分から2時間かかるものまで10通りもの登山コースがあり、市民がそれぞれ好みのルートで歩いたり、走ったりするという。私たちが車で山頂を目指す途中でも、トレーナー姿の何組もの人々と会った。その山頂へ向かう主たる道路の開始点近くに、わが生長の家の徳島県教化部会館が建っているのを知って、何だかうれしくなった。そこは、市民に愛される場所に違いない。
 
 前日に初雪が降り、その晩は氷点下になったというだけあって、眉山山頂はとても寒かった。展望台で絶景を前に何枚か写真を撮ったあとは、私たちは室内に逃げ込みたくなった。ちょうど「モラエス館」という建物があって、展示が見られるというので中に入った。徳島を愛したポルトガル人の業績について展示した施設である。
 
Mtimg081208  ウェンセスラウ・デ・モラエス(Wenceslau de Moraes, 1854-1929)について、私は予備知識がなかった。が、展示によると、なかなかの日本びいきで、日本に31年間住み、前半は神戸で領事・総領事を歴任したあと、最後の17年間を徳島で過ごした。その間、日本人妻をもち、『極東遊記』『茶の湯』『徳島の盆踊り』『日本精神』などの作品を書いて「徳島の小泉八雲」と称されたという。モラエス館には、徳島市内の伊賀町3丁目にあった、彼が暮らした長屋の居間兼書斎を再現した空間があり、それを見ると、畳に置かれた背の低い机や脇息、本棚、小さな火鉢など、昔の庶民の居間と変わらない。終生、母国のポルトガルには帰らなかったというから、何が彼を日本に留めおいたのか不思議に思う。
 
 日本は、江戸時代も長崎を通じてポルトガルとの交流を保った。ポルトガルは、植民地としてはブラジルが最大のものだろう。そのブラジルへ遙々出かけた日本人によって同国に生長の家が伝えられ、そこで大いに発展したことを考えると、日本びいきのモラエスが半生を日本で過ごしたことが、妙に納得されるのである。このように有名、無名の数多くの人々が異国の地、異国の文化との“懸け橋”となることで、今日の国際社会は成立してきたのだと改めて感じた。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月 6日

絵封筒を描く (2)

 師走の風が吹くようになると、いろいろの慈善団体から寄付を募る手紙が届く。私は日本赤十字社に寄付したことがあるので、今年も案内が来た。妻にはユニセフやUNHCR(国連高等弁務官事務所)からも来た。そういう慈善団体とは少し違うが、私宛に寄付の依頼が来る団体の中に「インターナショナル・ハウス」(International House)というのがある。ここは、私がニューヨークに留学していたときに住んでいた留学生専用のアパートのような施設で、日本を含めた各国に“支所”もある。こう書くと、何か日本の学生寮のようなものを想像しがちだが、1924年にジョン・ロックフェラー(John D. Rockefeller Jr.)とクリーブランド・ドッジ(Cleveland H. Dodge)の出資で、ハリー・エドモンズ(Harry Edmonds)という人によって設立された非営利団体で、アメリカの大統領経験者が何人も会長を務めたところだから、結構きちんとした団体である。
 
 私はそこへ毎年いくらか寄付してきたが、今年の手紙の文面は何か深刻だった--「昨今の地球規模の金融危機の中で、インターナショナル・ハウスはいくつかの厳しい選択に迫られています。株式市場の低迷により、奨学金その他の必要のための出資が困難になってきています。私たちは出費の縮小や省エネ、業務の効率化に懸命に努力していますが、今後何カ月かのうちに、施設利用者に相当な影響を与える予算上の決定をしなければならないでしょう。私たちは、あなたの助けが必要です。それは、現在の施設利用者が、このハウスでの経験の“核”である国際理解と紛争の平和的解決のために前進を続けるためです」。
 
 アメリカ経済の縮小については、連日の報道でその深刻さが伝わってくる。今日の『日本経済新聞』によると、5日発表の米労働省の雇用統計では、11月の非農業分野の雇用者数が前月に比べて53万人も減少したという。この下落幅は34年ぶりで、これによって失業率(軍人を除く)は「6.7%」になったという。日本経済も楽観できない状態だが、失業率などはアメリカの方が深刻だ。そんなこともあり、今回の要請にはそれなりの対応をすべきと、私は考えた。そして、景気回復には“日時計主義の心”が必要であるから、単に寄付金だけを送るのではなく、それを絵封筒に入れて送ることにした。
 
Efuto0812061  今日は生長の家の講習会で徳島市に来ているが、宿泊したホテルでは自前のパンを山のように飾っていた。その中にあったカニの形のパンがかわいらしくて印象的だったので、それを封筒の絵に描き、ついでに景気のいい「花咲かじいさん」の切手を貼って絵封筒にした。こんなものでアメリカの景気がよくなるとは思わないが、これを受け取った人とその周辺の人の心が明るくなれば、それでいい。明るい心は、独創や親切やユーモアを生み、新しい発想に結びつくことを祈りながら……。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月 4日

都会の紅葉狩り

 今日は木曜日の休日だったので、母を誘って紅葉狩りへ行った。こう書くと、都心から郊Momiji081 外などへ出かけたように聞こえるかもしれないが、都心も都心、明治神宮外苑へ行っただけである。本欄にも書いたことがあるが、ここは私のジョギング・コースに入っているから、決して珍しい場所ではない。実際、2日の火曜日に、私はここを走った。が、今日は親孝行が目的だった。父が亡くなってから、母は原宿の家を離れることが少なくなった。しかし最近、「紅葉が見たい」との希望を漏らす余裕を見せてくれるようになったので、好天の休日を逃す手はないとの妻の提案を、私も二つ返事で受け入れたのである。

 3日前のジョギングの際、有名なイチョウ並木の下を、私は左右に体を跳ばせながら、Momiji082 かろうじて人にぶつからずに走れた。それほど多くの人々が各地からやってくる。観光バスも5~6台いたと思う。多くは中高年の女性だが、長いレンズ付きのカメラを提げた男性も、デート中の若い男女もいた。今日も同様の状況だった。人々は、黄金色の葉が散り敷いた並木道で目を輝かせてカメラを構え、また天の方向を仰ぎ見ている。鉛筆のように上端部を尖らせた銀杏の木々が、頭上に列を作って並んでいる。水平方向に目をやると、どこまでも続く金色のトンネルだ。私たちも人々の仲間に入り、何枚か写真を撮ってから、開いていた門を抜けて並木道から脇へ入った。
 
Momiji084  黄色一色のイチョウ並木とは異なり、ここは人通りも少なく、豊富な色が満ち溢れた空間だった。イチョウのほかケヤキ、カエデ、サクラ、クスノキ、スズカケなどが、それぞれの持ち味のある色を誇らしげに、惜しげもなく、空中に、地上にばら撒いている。私たちは、ここでしばらく時を過すことにした。その際に撮った写真を何枚かここに掲げよう。初冬でありながら、やさしく、豊かな秋をしみじみと感じたよい半日だった。

谷口 雅宣

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2008年12月 2日

ガンの自然治癒

 ガンの自然治癒が案外多いのではないかという論議が、医学者の間で行われている。医学関係の記事を書いてきたニューヨーク・タイムズのジーナ・コラータ記者(Gina Kolata)が11月26日付の『ヘラルド・トリビューン』紙で報じている。それによると、ガンの自然治癒は昔から医学界では知られているが、それは皮膚ガンや腎臓ガン、それから小児ガンのごく一部で起こるとされていた。しかし、自然治癒がどれだけの頻度で起こるかの研究はされていなかったという。その理由は、ガンは早期治療が原則だから、発見されたものは必ずといっていいほど治療の対象にされ、放置したケースはあまりなかったからだ。

 ところが、このほど The Archives of Internal Medicine (内科学紀要)に発表された研究では、ノルウェーでの乳ガンの治療では、自然治癒が起こった頻度は、これまで考えられていた以上に多いらしいというのである。この研究は、50~64歳の女性の2つのグループの乳ガンの罹患率を6年間にわたって比較したもので、1つのグループは10万9784人の女性が対象で、1992年から6年間が調べられた。ノルウェーでマモグラフィー(乳房X線検査)による乳ガン検査が始まったのは1996年からで、これらの女性はほとんどすべてが96~97年にこの検査を受けたという。これに対してもう1つのグループは11万9472人の女性で、1996年から6年間が調べられた。これらの女性はほとんどすべてが定期検査を受けていたという。2つのグループの違いは、前者が6年間に1~2回検査したのに対し、後者はほぼ毎年検査したということだ。
 
 普通に考えれば、この2つのグループの中で6年間で乳癌が発見される比率はほぼ同じであるはすだ。ところが、実際に調べてみると、定期的に乳ガン検査を受けている人の方がそうでない人よりも22%も多くガンが発見されていたのである。具体的にいうと、定期検査を6年間受けていた10万人のうち1909人から進行性の乳ガンが発見されたのに比べ、定期検査を受けなかった人の場合、乳ガンが発見されたのは10万人のうち1564人だったという。この違いがなぜ生まれたかで論争が起こっているのである。
 
 この研究を行った1人のダートマス大学医学校のギルバート・ウェルチ博士(Gilbert Welch)は、「最もありそうな説明は、これらの女性のうちある人は、一度はガンが見つかったが、別の時には見つからなかったということでしょう」と言う。米国立健康研究所(NIH)の疾病予防所所長、バーネット・クレーマー博士(Barnett Kramer)は、「様々なガンの習性について広い知識のある人は、自然治癒があることは知っています。しかし、これほど頻繁だとは衝撃的です」と語る。
 
 自然治癒以外の説明もできるという。その1つは、ガンの定期検査を受けた人は、更年期障害の治療のためにホルモン投与も受けていたと考えた場合だ。が、ホルモン投与がガンの発症に関わる割合は3%以下だという。もう1つ説明は、マモグラフィーの精度が最近向上したためガンを見つけやすくなったとするものだが、ウェルチ博士らの考えでは、そういう事実はないようだ。また、別の説明では、定期検査を受けた人々には、もともとガンに罹りやすい要因があったとするものだが、2つのグループの女性の間にはガンの危険という点で違いはなく、驚くほど似通っているという。さらにもう1つの説明では、マモグラフィーの検査は完璧でないから、1回の検査では発見が漏れるケースがあるとするもの。定期的な検査では、そういう漏れがなくなるから、ガンの発見率も上昇するというのである。しかし、この場合、第1のグループの女性の発症率は、この研究で比較した6年間以降に上昇するはずであるのに、そういう事実はないという。
 
 そんなこんなで論争に決着はついていないのだが、ここから明らかになっているのは、ガンの問題は「早期発見」だけでは解決しないということだ。つまり、機器の精度が向上して早期発見が行われても、発見されたガンのすべてを治療することの“コスト”が正当化されるかということだ。もし、ガンの中に自然治癒が起こるものがもともと相当数あるならば、「様子を見る」だけで治療をしない選択肢の方が、患者にとっては金銭と心理の両面においてコストが小さいと言えるだろう。問題は、現在の医学では“治るガン”と“治らないガン”の区別がまだできないということだ。
 
 谷口 雅宣

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2008年12月 1日

ムンバイのテロ事件

 インドの経済中心地であるムンバイで起こった同時多発テロ事件の様子が分かってくるにつれて、この事件が周到な計画のもとに兵士並みに訓練を受けた武装集団による犯行であることが明らかになってきた。この事件は、29日午前のインド国軍特殊部隊の作戦によって発生から約60時間ぶりに終結したが、この時点での死者は195人、負傷者は約300人にのぼった。死者のうち22人は外国人で、内訳は日本人の津田尚志さん(38)のほか、イスラエル人(3)、ドイツ人(3)、カナダ人(2)、そして、アメリカ人、イギリス人、中国人、イタリア人、オーストラリア人、タイ人、モーリシャス人、シンガポール人が各1人だった。犯行に及んだのは10人で、うちパキスタン人1人は拘束されたが、残りは殺された。拘束された男(21)は、これまでにも大規模なテロ事件に関与したと言われている「ラシュカレトイバ」(Lashkar-e-Taiba)というイスラーム過激派のメンバーらしい。
 
 このラシュカレトイバという組織は、1980年代後半にアフガニスタンで旧ソ連軍と戦うムジャヒディンの一派として結成されたグループで、「高潔な軍隊」という意味らしい。旧ソ連撤退後はカシミール地方での活動に重点を移し、インドの治安部隊へのテロ攻撃などを繰り返してきたという。インドとパキスタンの緊張関係が緩んできた昨今は、パキスタン北西部の部族地域やアフガニスタンに活動の拠点を移し、アルカイーダとの接触もあるという。カシミール地方で活動してきた過激派は、パキスタンの情報機関である「軍統合情報局」(Inter-Services Intelligence Agency, ISI)の支援を受けていたとされる。同国のムシャラフ前政権は、このため米国から強い圧力を受けて2002年に過激派を非合法化し、ラシュカレトイバは福祉団体に衣替えして、パキスタン国内で募金活動や街頭デモなどを始めたという。

 こういう経緯を知ってみると、今回のテロ事件の背後には様々な政治的・軍事的力関係が関与していることが分かる。アメリカは、イラクでの戦闘に一応の目途をつけたが、隣国のアフガニスタンはタリバーンの勢力が巻き返しを見せており、オサマ・ビンラディンが潜んでいると思われるパキスタンとの国境周辺に向けては、無人攻撃機などによる軍事作戦を強化していた。パキスタンもアメリカの強い要望を受けて北西部の部族地帯に軍を展開していた。これによってアフガニスタンやパキスタン国内のイスラーム過激派が圧迫され、危機感を感じていたとするならば、パキスタン軍の攻撃を弱めるためには、印パの対立関係を再燃させ、印パ国境にパキスタン軍を振り向けさせることを考えるかもしれない。その目的ならば、インド国内で最も欧米との関係が深い商業都市の最も高級な--イスラーム過激派から見れば最も悪魔的な--地域をパキスタン人が攻撃し、できるだけ多くの犠牲者を出すのが効果的である……こんな考えにたどりつくかもしれない。
 
 上記は、あくまでも私の憶測である。当っていない可能性はもちろんある。が、当っていた場合を考えると、今、インド政府に必要なのは、激怒する国民の感情に引きずられずに、これまで進めてきた印パの緊張緩和路線を堅持することである。パキスタンもムシャラフ軍事政権が倒れ、文民としてザルダリ新大統領がインドとの融和の舵取りを始めたばかりなのである。印パの協力を通して、両国内の過激派の動きを抑える方向に進んでほしいと私は切に願う。この事件は、宗教の名前が見え隠れしたとしても、内実は完全に軍事的・政治的な対立だと思う。宗教は、政治的対立の道具になり下がってはいけないのである。
 
 谷口 雅宣

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