« 絵封筒、届きました。(2) | トップページ | 理性と教典解釈 (2) »

2008年11月 9日

理性と教典解釈

 今日は、生長の家講習会が横浜市の横浜アリーナで開催された。さすが首都圏だけあり、寒い曇天の中ではあったが、1万人を上回る受講者の方々が集まってくださった。私はいつものように、午前1時間、午後1時間強の講話と世界平和の祈りを担当したが、信徒の方々の体験談が多彩で、内容が深く、また午前中の講話への質問も数多く(30以上)提出され、また中身の濃いものが出たことはよかった。そんな質問の中で、宗教の教典の解釈についてのものが2つ出た。
 
 1つは、52歳の茅ヶ崎市の男性のもので、次のようなものだ--
 
「教典の解釈は時代に依って変わる、変らなければならないと先生はお話下さいました。しかし、真理の解釈は時代によってコロコロ変わるものではないと思います。また雅春先生はそのように説かれたのでしょうか?」
 
 2つめは、厚木市の女性(年齢不詳)からで、こういうものだ--

「合掌 ありがとうございます。本当のよい教えの神髄は一つと思っています。教典の解釈は時代によって変えていかなくてはいけない、と仰っていたように思ったのですが、必要なことだとは思います。ですが、その解釈が正しいかどうかはどのようにしてわかりますか?」

 私は午前中の講話で、「宗教の神髄は一つ」ということと「宗教はみな同じことを説く」というのは、意味が違うと述べたのだった。前者が生長の家のいう「万教帰一」の考え方だが、後者はそれを誤解したものである。ここでのキーワードは「神髄」という言葉で、その意味は「その道の奥義。薀奥」(『新潮国語辞典』)である。「薀奥(うんおう)」とは難しい言葉だが、「学問・技芸などの奥深いところ」を意味する。宗教では、「教えの奥深いところが共通している」というのが万教帰一の意味である。「浅い」ところも「中間」のところも同じである、という意味では決してない。私が“宗教目玉焼論”などと称して、宗教を“白身”の部分と“黄身”の部分に分けることを訴えているのも、この「奥深いところ」(黄身に該当)の共通性を強調するためである。“白身”とは、“黄身”に含まれている教えの神髄を、宗教指導者がその時代の、その土地の人々に、できるだけ効果的に伝えようと様々に工夫した用語であり、様式であり、方法であり、制度などである。この2つを混同したり、2つではなく1つであると見なすところから「原理主義」の様々な弊害が出てくるのである。
 
 この辺の話は、私はすでに『信仰による平和の道』(2003年、生長の家刊)の第1章で詳しく述べたので、ここでは繰り返さない。上記の質問をした茅ヶ崎市の男性は、恐らくこの本を読んでおられないに違いない。だから、谷口雅春先生が『生命の實相』頭注版第39巻仏教篇の「はしがき」で、同様のことを書かれていることもご存じないのだろう。

 それに「教典の解釈」と「真理の解釈」とは意味が異なるのに、それを言い換えていることも気になる。前者の意味は、教典の中に書かれた文字の意味を明らかにすることであり、後者は、真理そのものの意味を明らかにすることである。前者は教典が存在しなければできないが、後者は教典がなくてもできることである。そして、私が午前中の講話で「万教帰一」を説明した時には、前者のことを言ったのであり、後者のことは言わなかった。しかし、まあ、話し言葉は書き言葉よりも誤解される余地が大きいので、この男性の誤解は許容範囲内だろう。
 
 それにしても、誤解してほしくないのは、「真理は時代によってコロコロ変わる」などと私は言ったことも書いたこともないという点だ。だいたい「真理」というものは、時代の変遷によっても、位置の移動によっても変わらないから真理なのである。すると残る問題は、「真理の解釈」は時代によって変わるか変わらないか、である。この際、「コロコロ」という修飾語は排除して考えよう。なぜなら、これは使う人の主観によって意味が変動するからだ。「毎年変わる」のがコロコロなのか、「10年に1回」がそうなのか、それとも「1世紀ごと」でもそうなのか……など、不毛な議論だろう。

 『新潮国語辞典』によると、解釈とは「意味を解き、明らかにすること」である。とすると、私は、真理の意味を解き、明らかにすることが時代によって変わることは、十分あり得ると思う。これは、自然科学の世界では少しも珍しいことではない。かつての“真理”だった天動説が地動説に変わり、現代では、それがさらに変わって相対性理論が“真理”とされていることを思い出せば、多くの読者も納得されるに違いない。

 谷口 雅宣

|

« 絵封筒、届きました。(2) | トップページ | 理性と教典解釈 (2) »

コメント

イエスも真理については何ひとつ言葉を書き記しませんでしたものね。言葉で真理が啓示されるものではなく、言葉は真理についてただある考えを与えるに過ぎないのです。
でも真理は数学のようなものであって厳正です2+2がなぜ4であって5でないのか、その理由は説明できるものではないし、我々は真理を調べることができない、それと同じで、数学自体を調べることができない。真理は数学と同様に永遠に正しくかつ常在であって変化したりするものでなく、したがって誤りが生ずることはないんです

数学の法則の存在を否定するのは愚かなことで、真理の法則の存在を否定することもまた然りです
人は真理の法則を理解することはできるけど、しかし真理が何であるかを語ることができない。
真理が存在することを語るのみです

投稿: 原田大介 | 2008年11月10日 18:48

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 絵封筒、届きました。(2) | トップページ | 理性と教典解釈 (2) »