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2008年11月27日

生長の家大神の姿 (3)

 前回、本欄の最後の方で書いた言葉は重要なので、ここでもう一度繰り返そう--特に生長の家は、「万教帰一」を教義の中心に据える宗教であるから、生長の家大神の姿は具体的には表現しないのである。これと同じことは、昭和6年4月に下された「万教帰一の神示」に明確に書いてあるので、憶えている読者も多いに違いない。この神示は、こんな言葉で始まる--「われに姿かたちあるように言うものあれどわれは姿なきものである」。さらに、神示はこう続く--「信仰深き諸方の霊覚者にわが神姿を示したることあれども、そはわが真の姿に非ず…(中略)…。本来われに一定の神姿はない。如何なる姿も欲(おも)いのままに現ずることが自由である」。

 また、『真理の吟唱』(谷口雅春著、日本教文社刊)に収録された「観世音菩薩を称うる祈り」には、「生長の家の礼拝の本尊は観世音菩薩なのである」と書かれている。このことと、生長の家大神に一定の姿かたちがないことは、密接に関係している。なぜなら、観世音菩薩とは「世の中の一切衆生の心の音(ひびき)を観じ給いて、それを得度せんがために、衆生の心相応の姿を顕じたまう“観自在の原理”であり、…(中略)…三十三身に身を変じてわれわれを救いたまう」(同祈り)存在を指すからである。つまり、「生長の家大神」という呼称は、神道的な表現を使った一種の“仮称”であり、仏教的には「観世音菩薩」と呼ばれているものである。
 
「三十三身に身を変じる」とは、実質的には「無限の形に変化する」ということであり、「千変万化する」という意味だ。そうなると、神道や仏教のみならず、キリスト教の伝統の中にも何らかの形で生長の家大神は現れていることになる。これが「七つの燈台の点燈者」と呼ばれているものだ。昭和6年5月の「新天新地の神示」には、神示の啓示者自らが、そのことをこう表現している--

「もっと兄弟たちに、『生長の家』を伝えよ。神の愛は貰い切りではならぬ。頂いたお蔭を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。『生長の家の神』と仮りに呼ばしてあるが、『七つの燈台の点燈者』と呼んでも好い」。

 ここにある「七つの燈台の点燈者」とは、聖書の『ヨハネの黙示録』に出てくる「七つの金の燭台の間を歩く者」のことである。聖書は、この不思議な存在者を人間としてではなく、一種の“霊人”のような姿形で次のように描いている--

「ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つを星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎが出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった」。(『ヨハネの黙示録』第1章12~16節)

 読者に気がついてほしいのは、ここで描かれている“霊人”は、前回の本欄で図や写真によって描かれた“神姿”と多少異なるということである。「白い衣を裾まで垂れ、ヒゲを胸までたれた」という点では似ているかもしれないが、胸に金の帯をしめてはおらず、右手に七つの星をもたず、口から鋭い剣は出ていない。しかし、神には一定の姿かたちはないということと、観世音菩薩は無限の形に変化するということを理解していれば、聖書にあるこの記述が、無限の表現の中の1つにすぎないという理解に読者は到達するはずである。

 最後に1つ付け加えよう。それは、生長の家で「七つの燈台」と呼んでいるものが、聖書ではなぜ「七つの燭台」なのかということだ。実は、現行の口語訳と新共同訳の聖書ができる前に使われていた文語体の聖書では、この部分は「燈台」となっていたのである。英語版の聖書でも、ここは「candlesticks」(ろうそく台)とか「lampstands」(燭台)となっている。だから、原典であるギリシャ語の聖書では、恐らくここは「燭台」の意味に近いギリシャ語が使われていたと思われる。しかし、谷口雅春先生は、そのことを知りながらもあえて「燈台」という日本語を選ばれた、と私は推測する。
 
 聖書のこの箇所では、この霊人は「あなたが見ていることを書きものにして…(中略)…七つの教会に送りなさい」と命じ、その後に、この「七つの星は七つの教会の御使いであり、七つの燭台は七つの教会である」という奥義を明らかにしている。「教会」は人間の所属する組織であると同時に、建物も意味する。それを「燭台」によって象徴することはもちろんできる。しかし、「燈台」という言葉で表すほうが、島国である日本の文化的環境ではより親しみやすく、また解釈により広がりをもたせることができる--谷口雅春先生は、こう考えられたからではないかと私は思う。
 
 谷口 雅宣

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コメント

やはり、ヨハネの黙示録から来ているのですね!ここでは7つの教会はエペソ、スルミナ、ペルガモ、テアテラ、サルディス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤの7つの教会となっていますから谷口雅春大聖師はヨハネの役割をになっておられるはないか?と考え最初日本に生長の家の7つの教会が有ったのではないか?それは何処だったのかな?と思っただけで大意はありません、有難う御座いました。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年11月28日 20:24

合掌ありがとうございます。

四部経では「久遠生命の神示」となっていますが、「無相円相一切相の神示」にも神の姿形について示されていますね。

「神は本来形無く、空のうちに円満具足して自由自在であるから仮に称して円相と云うのである。」
この神示を拝読させて頂いておりますと、例えば神について男でないといけないとか女でないといけないとかいうことはないのだなと思います。

神の本来相は自由自在なのですね。

玉西邦洋拝

投稿: 玉西 邦洋 | 2008年11月28日 23:34

昔、雅春先生が講習会において、生命の実相第1巻の扉にある「ヨハネの黙示録」についての解説をされたとうかがったことがあります。

うちにある古い生命の実相第1巻の扉に書き込みが残っていて、(部分部分だけしかわかりませんが)

●白き→潔白
●金→真理
●足まで垂るる衣→肉体の否定
●七つの→完成の数字
●両刃の利き剣→コトバの力

と書いてありました。

ああ、生長の家は本当に完成の教えであって、
ヨハネの黙示録に出てくる神様が、
この時代に現れて私達をお導きくださるのだと思うと感動で胸が熱くなりました。

姿形を変えて、
総裁先生・副総裁先生を通して私たちをご指導くださることに、強く喜びを感じました。

「その声は衆くの水の声のごとし。」

と、黙示録に出てくる神様?の声のことが書かれていますが、

生命の実相第20巻の中で

…と、どこからともなく声が、大濤のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。
「物質はない!」とその声は言った。(P134)

と雅春先生が啓示をうけられたときのことが書いてあります。

それを読んで、衆くの水の声=大濤のような…

ああ、同じ神様だぁーーー(T▽T☆

と、勝手に解釈して勝手に感動してました(笑。


投稿: はぴまり☆ | 2008年12月 8日 13:22

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