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2008年11月26日

生長の家大神の姿 (2)

 私は前回の本欄で、生長の家大神の神姿について「谷口雅春先生ご自身は、この神姿をはっきりとご覧にはなっていないようだ」と書いた。が、雅春先生が神姿を拝されたと思われるケースが、1つある。それは、『生長の家』誌の昭和7年3月号の表紙に「白い衣を裾まで垂れ、ヒゲを胸までたれた」神姿が描かれていて、その解説文にこうあるからである--
 
<表紙画の由来
 
Snigod  天を視るに幾万の天使たち身に羽衣の如きものを着け、手に巻物を持ちて打ち振り何事かなすものの如し。第一の天使地上を瞰下(かんか)して宣う--「この地も兵火にかかるべきか」。第二の天使答う--「この地は最も迷いふかき地なれば最も甚だしき十字砲火に晒されん。されど神縁ある人々は悉く救われん。ひとりとして誤りて殺さるるものなけん。時は来た。殺さるるものは殺され、焼かるるものは焼かれん」。地を視るに、火災、砲炎、阿鼻叫喚、日本人あり、支那人あり、あらゆる国の人々あり。天使たちの手に巻せる物には『生命の實相』と書かれたり。と見る、其の巻物より白き霊の糸の如きもの無数蜘蛛の糸の如く下りて光を放つ。霊の糸の先端に黒き書物あり、三方より光を放つ。大涛の如き天使の声聞こえて「生命の実相を握るものは炎の中にあって焼けず、死を超えて永遠に生きん」(1月5日の霊象に基き本号の表紙画をかえました。)>
 
 この時の表紙画をここに掲げるが、その“神の顔”は、現在の本部会館にある神像の顔とはやや異なるのである。また、髪の毛の感じもLordofsni何となく違う。このように、具体的に絵や彫刻として形づくられた神は、どうしても「似ている」とか「似ていない」という問題が出てくるのである。そうすると「似ている」ところに注目して「同じ神だ」と考える人と、「似ていない」箇所に注目して「別の神だ」と感じる人が出てくる。同じ国の人の間でもそういう違いが出てくるのだから、別の国や別の文化圏では、「神を見た」と言っても、それぞれの神はそれぞれの文化の“色メガネ”を通して観たものとなるから、具体的な表現はたいてい異なることになる。こうなると、“同じ神”を信仰しているはずの人々の間で、文化が異なるというだけの 理由で争いが生じることになる。だから、“神姿”や“神像”や“聖者”を具体的な形に表現することは、危険を伴うということを知るべきだろう。
 
 イスラームでは、神を具体的な形に表現してはならないことになっている。預言者のモハンマドの顔を描くことも一般的に禁じられている。それは、こういう危険をよく知っているからだろう。その一方で、イエスの顔や姿は昔から数多くの絵画などに描かれてきた。否、キリスト教文化圏では、神の姿さえ繰り返し描かれてきた。すると、西欧では神やイエスは“白人”の風貌となり、アフリカでは“黒人”のようになり、ラテンアメリカでは“ラテン系”の姿で描かれる傾向が生じるだろう。それは、同一文化圏では人間に「親しみを感じさせる」というメリットを生じるが、異なった文化の間では、同じ神やイエスでありながらも、“外国の神”とか“外人イエス”という印象を深めることになり、差別や争いの原因になっていくのである。
 
 こういう諸々のことを考えると、本来姿形のない神を、具体的な“神像”や“神影”に表現しないということは、大変当を得た、思慮深い方針だと私は考える。特に生長の家は、「万教帰一」を教義の中心に据える宗教であるから、生長の家大神の姿は具体的には表現しないのである。この意味は、生長の家の信仰者が神を絵や彫刻に描くことを禁じるのではない。それは、それぞれの人間の創作であるから「現象」である。そのことをしっかり理解していれば、描くことは自由である。が、教団として、あるいは宗教法人として「これが生長の家大神のお姿である」と示すことはしない。神は本来、1つの像の中に押し込められるものではないから、そうすべきではないのである。ここに掲げた神像は、だからそれぞれの作者の表現物--つまり、心の作品にすぎない。
 
 谷口 雅宣

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